第17話 晴れに入る曇り
流れゆく空の青さは、いつ見ても広大で、麗しい。気づかない速度で変わりゆく景色の曠然さは、俺にある種の憧れを思わせる。“支援者”となり、戦える者に供すれば国の外に出られるようになった今でもそれを抱き続けていた。ルミー・エンゼという男は、弱く、脆く、国を出ては一人で生きることもできない。戦う力を持たないというだけで、弱肉強食を生きる獣の養分になることは火を見るより明らかなのだ。
だから、いつも彼らが羨ましいと思っていた。彼らは――“開拓者”たちは一人で戦うことができ、どんな死地にでも立ち向かうことができるから。力さえあれば、あの広い空の下の全てを冒険することができるから。
――『ルミーにだって、凄い力があるじゃないか』
それはいつか、夢破れた少年にかけられた言葉。見上げた先から、優しく伸ばされた一本の腕と、深緑の髪を伝う温かさ。
――『いつかその力で、俺の“支援者”になってくれよ。そうしたら、俺がお前をどこにだって連れて行ってやる』
“呪術”という特異な力を心の底から信じてくれた存在。その言葉が与えた勇気を、当の本人はすっかり理解していなかっただろう。だけどルミー・エンゼという一人の人間のルーツは、確かにそこなのだ。例えもう果たされることがないかもしれない約束でも、俺はこの空を見上げる度、ずっと――
「おい、ルミー」
広げられた馬車の幕から、よく見知った旧友の顔が飛び出してきた。俺は馬の手綱を引きながら、速度を緩めないようにしてトウマの方を振り向く。
「どうした?」
「そろそろ交代だ。お前、中入って休め」
「あぁ、もうそんなに時間経ってたのか……」
物思いに耽っていたら、いつの間にか御者の当番の時間を過ぎていたらしい。俺は隣に座ったトウマに手綱を預けながら静かに体を反転させ、馬が引く天幕に戻ろうとした。
「お前さ」
「うん?」
「やっぱどっかの専属になる気はねぇの?」
トウマが言っているのは、特定のクランの専属支援者になった方が良いのではないのか、という打診だ。実際その方が安定した収入と名声を手に入れる近道だろう。しかし俺はその道を選ぼうとしたことはない。【アメトランプ】を構える以前から、トウマはそれが不合理だと考えるのと同時に、彼なりに俺の心配をしてくれているのだ。
「俺はどこかに所属する気はないよ。これまでも、多分、これからも」
「……そっか」
彼は答えを予測していたみたいで、やっぱりそれ以上の追及はなかった。俺が支援者という道を選んだ理由を知っているのはトウマとハリエラさんくらいだ。古い付き合いの彼らは、優しい忠告を無視する俺を未だに見放そうとしない。それがとてもありがたく、少しだけ心苦しいことでもある。なぜなら俺もわかっているのだ。その約束が、おそらく叶わないであろうことを。
俺はトウマに「よろしく」と言いながら荷台に戻った。中には支援者二人とマイが居て、さらに大量に積まれた物資の数々がある。荷台の大部分は後者に占領され、全員が縮こまって座ることを余儀なくされていた。これでは御者とどちらが休息かわからないが、周囲にずっと気を張っている必要がない分いくらか楽だろう。先に御者を務めてくれた支援者二人はすっかり眠ってしまっていたため、俺はゆっくりとマイの隣に座った。
「おかえりなさい、店主さん」
「ただいま。俺が外に居た間、問題はなかった?」
「はい。お二人とも寝ていらしたし、トウマさんは気さくに話しかけてくれました」
「変なこと言ってないだろうな、あいつ……」
以前マイとの関係を疑ってきたトウマのことだ。下世話な話の一つや二つ聞き出したがったことだろう。跳ねた茶髪をじとりと見遣ってから、俺たちは他の支援者を起こさないよう小声でやり取りをする。
「いいえ、そんなことは。あ、でも店主さんと二人で獣の巣穴に入り込んでしまった話を聞きました」
「うわ。情けない話聞かせちゃったな」
「そんなことなかったですよ。武勇伝です」
まだトウマと出会って間もない頃、二人揃って開拓者たちとはぐれ、地下に棲む巨大なモグラに襲われたのだ。戦えない者同士が協力して死に物狂いで逃げ続け、命からがらようやく地上へ脱出することができたのである。その後で救出に来てくれたクランメンバーにはこっぴどく叱られ、また推薦してくれた現ギルドマスターのバグファさんの前では正座させられる始末だった。今思い出しても、まさに九死に一生を得た状況だったろう。
「逃げることに必死だった思い出しかないなぁ」
「トウマさん、すごく楽しそうにお話されてましたよ。ルミーさんのことを信頼してるのが、聞いてるこっちにもわかるくらい」
「あいつはリップサービスが得意だから、あんまりアテにしない方が良いよ」
「ふふ、そういうことにしておきますね」
マイに宥められるような含み笑いをされては言い返す言葉もない。近くで誰かがくしゃみをしたような気がしたが、多分風の聞き間違いだろう。俺は咳払いを入れると、話の方向性を変えることにした。
「ゆっくり休めてる? ここ、荷物もぎゅうぎゅうに詰めてるし、ろくに体も崩せないでしょ」
「私は小柄な方ですから。そんなことより、みなさんの方が余程大変です。私は御者もできなくて、何でも任せっきりになっちゃって……」
「まぁ仕方ないよ。そもそもこの遠征に連れてくることも俺の勝手だったんだ。命の危険がある分、マイにはもしもの時に備えて逃げられる体力を残しておいてもらわないとね」
これだけ荷物があるのは、トウマいわく【ソラティア】の開拓者たちの馬車にゆとりを持たせるためらしい。クランの実務を請け負うソラウの指示らしく、こんなところにも彼らの『開拓者至上主義』の考えが浮き彫りになっている。その差別に彼女を巻き込んでしまった形なのだ。申し訳なさはお互い様なのである。
「……」
しかしマイにとっては言い訳にしか聞こえなかったようだ。彼女は以前も迷惑をかけてばかりだと自分を卑下していたし、その生来の責任感がマイ自身を追い詰めてしまっているのだろう。俺としては彼女の頑張りは知るところだし、セアル家秘伝の呪術も実用レベルまで教えてもらっている。支援者という即席の隠れ蓑でできることは少なくても、マイ・セアルという一人の少女は、間違いなくその身その歳以上の働きをしているのだ。
――元気づけてあげたいけど、こういうのは自分で気づかないと、どうしようもないからな。
自己への正当な評価というのは、真面目な人ほど苦手なのではないかと思った。完璧な理想像を追いかけることは悪くないが、どこかで自分の頑張りを認めてあげないと擦り切れてしまう。マイはきっと、己に課す理想がとても高いのだ。だからあれもこれもと追いかけてしまっている。せっかく支援者という他者依存の立場に居るのだから、少しでも心境に変化があれば良いのだが……
ガタン、と馬車が揺れたことで、天幕に訪れていた静寂は打ち破られた。突如として訪れた慣性に引っ張られて荷台の中で前のめりになる。他の支援者たちも目を覚まし、辺りをきょろきょろと確認する素振りを見せた。
「お前ら起きろ、敵襲だ! 獣の群れ!」
手綱を握っていたトウマが俺たちの方を向いて叫んだ。俺はマイを避けて荷台の後方に寄り、来た道の開けた野原を見渡す。するとまだ遠くから、灰色の石ではない何かが向かってくるのが確認できた。下に生えた四足を忙しなく動かして、人よりも速い速度で迫ってくる無数の白い牙。遠巻きに見えた色が体毛だとわかるまでに時間はかからなかった。
「狼か」
「ただの狼じゃねぇ。“群れ狼”のテルフだ。厄介なのに目ぇつけられたぞ」
トウマの言う通り、見えていた野原の地平線から大量の――大量と呼ぶには可愛い過ぎるほどの数をした狼が走ってくる。五十は下らないギラリとした眼光が、小さな地響きを伴って。
テルフ。別名を“群れ狼”と呼ぶ。体躯は一般的な狼に比べて小さく中型犬ほど。一匹だけならば、すばしっこいだけのそう大したことのない獣だ。しかしその二つ名の通り、奴らは必ず群れを形成して行動する。それも季節の変わり目に動物たちが大移動を起こすかのように。そしてその物量と高い知能を持って、どんな狩りも集団で行うのである。多勢に無勢、という言葉を本能に刻んだ肉食動物なのだ。
「馬の速度じゃ逃げられそうにないな。戦闘になるぞ」
一人の支援者が冷静に言った。急迫するテルフの群れの数はこちらの開拓者約三十名を大きく上回る。開拓者クランとしてもかなりの大所帯に入る部類だが、物量の差は圧倒的だった。それでも落ち着いていられるのは、【ソラティア】の戦闘力には絶対の信頼があるからか。
前方にあるいくつかの馬車から開拓者たちが現れる。各々が得物を握り締めて、狼もかくやというくらいギラギラと目を光らせている。筆頭のアレスが細剣を抜き、掲げ、その剣先を迫るテルフの中心に向けた。
「さぁみんな、戦闘よ! 馬車の狭さで溜まった鬱憤を、存分に晴らしなさい!」
愉快。そんな言葉が似合うほど、アレス・ミークレディアは笑っていた。その魅惑的な笑みで、これから引き起こす蹂躙を予感させられる。怒号のような思い思いの気合いが放たれ、開拓者たちは一斉に走り出した。地面に立ってすらいないのに伝わる土の揺れは、彼らの方が余程ケダモノだと思わされるばかりだ。
「【ソラティア】は戦闘狂の集まりなのか……?」
「間違ってねぇな。何せ支援者を気に食わねぇと豪語する連中だ。腕に自慢があること。これがクランに入る最低条件だ」
遠征の多くは、消耗を避けるため無駄な戦いは避けるべきと判断される。しかし【ソラティア】はその当然の枠に当てはまらない。まさに新進気鋭。血の気の多い開拓者の中でも、特別強さを誇示することに意味をもつクランということだ。
「こうなっちまえば、俺たちは基本待機だ。普段いびられてる分、高みの見物と決め込もうぜ」
能天気なトウマの言葉にどうしても不安感が拭えなかった。こんな状況は初めて――そんな単純な戸惑いであって欲しいと願って、ただ口を噤むだけだった。
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