こころに

東山蓮

こひし

きみを ともだちより だいすきに なった

きみを だいすきに なって ぼくは じぶんの ことも だいすきに なって みたいと おもった

「つきのうらのおともだち 著:せと みなみ」



「ですから皆さんも嘘はつかないように、素直な心で...南くん、また居眠りですか」

担任の幡野の言葉に、瀬戸口南は弾かれたように顔を上げた。一番後ろの端の席に視線が集まっている。居眠りするつもりは毛頭なかったが、連日の受験勉強の疲れがどうにも堪えているらしい。

「ごめんなさい」

寝ぼけ眼で適当に謝るとどこからか笑い声が聞こえてきた。出どころは左斜め前の席の、ヒラサワとその一味達だった。南はいつもの調子でヒラサワの一味のひとり、同じ進学塾に通うコマダの目をじっと見つめる。南の視線に気づいた瞬間、コマダは笑うことをやめて気まずそうにメガネのフレームに手を添えた。

ダッサ、度胸なし

そう思いを込め、軽く口角を上げると南は視線を黒板に向け直す。五時間目の道徳の授業は「どうしてうそはいけないのか」という議題だった。

南は道徳がいちばん嫌いだ。

口に出せば少しだけ世の中を良くないものとして見ていると言われることはわかっている。しかし、「いろんな意見を」と言いながら導かんとする答えが初めからひとつだけに決まっていることが嫌だった。どうしてかは分からない。もしかしたら、初めは純粋な疑問だったものが、当たり前の事実として説明なく存在していることが許せないのかもしれない。

この議題についても、「どうしていけないのか」というところから疑問だった。嘘は毒にもなるが、大抵の人間は薬として使う。南自身、人を傷つけないように嘘をつくことはままある。去年の作文模試で同じような課題が出た時は「嘘は必要だと思う」と六百字でまとめて九十点をもらった。

道徳への「嫌い」は沢山浮かぶにもかかわらず、それらを上手く言葉にまとめることも、内申に響きそうな反抗もできない。そうしていつか、道徳の四十五分は適当に過ごそうと開き直っていた。心のノートは、どうせ隣の席の関慧人が写させてくれる。

そう思考をめぐらせたところで、南はその慧人が登校しなくなってちょうど一週間が経つということを思い出した。交通事故に遭ったらしい。以前慧人は病院に行くことを禁止されていると話していた。本来は多少気にかけなければいけないのだろうが、南としてはあの風変わりな隣人のいないひとり席は変な緊張感もなく快適で、少しも心配する気持ちが湧いてこなかった。

慧人を風変わりだと思うのも、彼が新興宗教の信者らしいという点が大きい。「らしい」というのは、本人から聞いたことがないからだ。それでも南の脳には、入学式の国歌斉唱でひとりだけ椅子に座ってじっとしている隣の席の慧人の姿を覚えている。幼いながらに刷り込まれた信仰心が恐ろしくて、そこから目を合わせていない。

五時間目が終わって、六時間目の算数を乗り越えると帰りの会が始まる。明日の日程確認と日直の一分スピーチが終わり、さようならの挨拶を済ますと皆続々と教室を出ていく。

「じゃ瀬戸口、教祖によろしくな」

コマダはニヤニヤと笑い、リュックを背負った南の肩を小突くとほかの一味たちと足早に教室を出ていった。「教祖」は慧人に対する蔑称だ。慧人によろしくとは、一体どういうことだろう。

一人残った教室で首を傾げていると、幡野が「おやすみ通信」と書かれた茶封筒と数枚のプリントを持って教室へ入ってきた。間違いなく南の方に向かって来ている。


しまった


あまり人の話を聞かない南は、コマダによって自分が慧人の家に「おやすみ通信」を届ける係に任命されていたことに気づくことができなかった。今日は塾に直行して勉強しようと思っていて、下校班の班長にも自分を気にせず帰って欲しいと伝えていた。それなのに、よりにもよってものすごく厄介そうな仕事を頼まれてしまった。

丸っこい字で「おやすみ通信」と書かれた茶封筒に保健だよりと献立表、そして宿題の漢字のプリントが入っていた。プリントを入れる作業をする幡野が片手間に渡してきた小さな紙は慧人の家までの地図らしい。自分の地図は分かりにくいからと幡野は身振り手振りで道順を説明していたが、通っている塾の近くにあるようだから大丈夫だろうと軽く聞き流した。ひとり校門を出た南は一度地図を眺め、それから歩き出す。梅雨入りのニュースを二日前に聞いた気がしたが空はからりと晴れている。風は涼しいので及第点としよう。

予想通り、慧人の家は塾から歩いて数分の位置にあった。童話に出てくるような真っ白で立派な家だった。塀の向こうにちらりと見える庭は完璧に手入れされていて、このよくある住宅街からは相当浮いている。圧倒されていると、ちょうど同い年くらいの二人組が慧人の家の前を逃げるように通り過ぎて行った。家の前で足をもぞもぞさせていた南を信者の一人だと勘違いしたのか、「ヤベ、カンユーされる」とこそこそ言い合っている。心外だったが、否定するのも面倒な気がして首の後ろをかいた。少し長い襟足が首筋に張り付いていて気持ちが悪い。

これも内申のためだ。それに、このままうじうじしていたら勉強時間が減ってしまう。意を決してチャイムを鳴らすと、軽快な音が敷地内にこだました。勝手に湧き出てきた緊張のせいで心臓がばくばくと音を立てていた。あと五秒で誰も出なかったら、そしたら帰ろう。

「はぁい」

小さな安心とともにさっと扉に背を向けていた南はその声にびくりと肩を震わせた。関慧人だ。化け物との遭遇に身構えていたら、南が用事のある本人がひょっこりと顔を覗かせた。いや、こいつが化け物かもしれない。とにかく、ビビっているとバカにされないよう、ゆっくりと肩を下ろす。慧人は南が手に持ってるおやすみ通信の封筒を見ると「瀬戸口くんが来てくれたんだ」と明るい調子で言った。背後でキィと扉が鳴る。


その声が、


気がつくと、南は玄関に向き直っていた。つまり今、慧人のほうへ体を向けている状態だ。早く帰りたいという気持ちに反する無意識の体の動きに理解が追いつかない。なにか得体の知れないモノに足をコントロールされているような気がして、おやすみ通信を力いっぱいに握りしめたまま固まった。そんな南を不思議に思ったのか、慧人はドアを掴んでいない右手を南の前で数回振ってみせて「どうしたの」と尋ねてくる。

「なんでもない」

握りしめてシワができた封筒を乱暴に押し付けた。慧人は引っ込めようとしていた右手でもたつきながら受け取ると「わざわざありがと」とわらった。耳が不自然に熱くなっていることがよくわかって、ぐらぐら音を立てる頭が不快だった。

南の不快感と動揺とは裏腹に、おやすみ通信を受け取った慧人は思いついたように「お礼したいからそこで待ってて」と室内に引っ込もうとしている。二人の体がわずかに離れたことで南に余裕が生まれると、そこで慧人が半袖短パン姿であることに気がついた。六年間同じクラスだった南は、慧人がずっと体を覆い隠すような厚い服ばかりを着ていたことをよく知っている。体操服も長袖長ズボンで、水泳の授業に参加している様子も見た事がない。おそらく他の生徒も薄着の慧人を見た事はないだろう。その瞬間、正体不明の動揺が怒りとして爆ぜた。

「いらないよ!どうせ変な聖書とかだろ?!」

力任せに言い終わった瞬間、南ははっとした。信仰上の理由で音読ができずに肩を丸める慧人の、彼の逆鱗に触れたかもしれない。

「ごめ、そん、つもりじゃ...」

おずおずと慧人のほうを向くと、案の定真っ黒な目が大きく開いていた。あたりはこんなに明るいのに、両目に光は差していない。

しまった、そう思った瞬間、慧人は黒々と濡れた瞳をきゅっと閉じ、声を上げて笑い始めた。あまりにも急に激しく笑い出すせいで、ぽかんと呆気に取られてしまった。

「ちが、ちがうよ、お菓子だよ。おやすみ通信届けてくれたお礼。ごめんねえシューキョーの家で」

あはは、慧人の高い笑い声が夕方の静かな住宅街に響き渡る。その時間は五分だったかもしれないし、十秒だったかもしれない。それでも南にとってはやけに長く感じられて、頬は恥ずかしさやら情けなさやらで真っ赤になっていた。

大笑いも徐々に勢いを衰えさせると、ドアチェーンを外して「誰もいないし、帰ってこないから。入りなよ」と南を玄関にあげた。外装に見劣りしない豪奢な玄関には、南より頭一個分ほど小さい慧人の膝までありそうな壺や、神のような人々が描かれた油絵が飾ってあった。白を基調とした西洋風の家に鎮座する不気味な存在感は、完璧な空間をアンバランスに演出していた。学校で縮こまる慧人のようだとぼんやり思った。

「取ってくるから待っててね」

どたどたと体格に見合わない音が響き渡る。

一分ほどして、ソフトクッキーの小袋三つとペットボトルのオレンジジュースを持ってやってきた。腕をこちらに伸ばしてきたことではじめて白い左腕に大量のみみず腫れがあることに気づき、痛々しさのあまりさっと目をそらす。南は軽く礼を言って右手でクッキーとジュースを受け取ると、今度こそ家を出ようとドアノブに手をかけた。

「帰っちゃうの?」

「塾だし」

「いつでも来ていいよ」

「いかない。おじゃましました」

五分ほど歩いて塾に着くと、まっすぐ自習室に向かった。自習室の脇のボードには先月の模試の結果が掲示されている。中学受験特進コースの総合一位は瀬戸口南。この座を入塾してから一度も譲ったことがなかった。コマダがやけに南に突っかかって来る理由も、自分より後に入塾した南があっという間に追い抜いて首位を独走していることへの嫉妬が原因だろう。空調の聞いた静かな自習室のいつもの席に座り、勉強に取り掛かろうとドリルを広げ、買ったばかりのシャープペンを手に取る。

それから少しして、右手で持っていたシャープペンを左手に持ち替えた。右手で目をごしごしと擦り、何度も何度も同じ問題を読み返す。体を伸ばして気持ちを切り替えようとした。

集中出来ていない。

不本意ながら原因ははっきりと分かっていた。一度溜息をつくと、貰ったオレンジジュースを一口飲む。ぬるくて薄い、南の家では絶対に飲まない不健康な味。もう一口飲むとそばで慧人の笑い声が聞こえて跳ね上がる。当然幻聴だ。

南は昔から、切り替えが早い。好きな人にふられようと、机に隠していたチョコレートを弟に食べられようと、五分経てばその出来事への感情が頭から抜け落ちる。それなのに、今回はなぜか、熱くなった耳の感覚が生々しく残ってこびりついている。

南は結局、翌週も慧人の家におやすみ通信を届けに行った。帰りの会で南をチラチラと見ながら「誰か届けてくれる人はいないかな〜」と言う幡野にもイラついて、心の中でため息をついた後に挙手した。コマダが笑って、ヒラサワに何か言っている。ここ一週間の勉強時間が一日平均二時間に落ち、もう最高にイライラしていた。地図を見ずとも覚えてしまった慧人の家に走って向かうと、豪華な家が先週と同じままそこにあった。

チャイムを鳴らすと返事もせずに慧人は勢いよく扉を開ける。今回は、ドアチェーンもかかっていない。

「先週ぶり、瀬戸口くん」

南の苛立ちをつゆ知らずに笑う。無警戒に扉を広く開け、南が家に入るのを待っているようだった。

その間抜け面に、わずかな悪戯心が浮び上がる。先週の一件から南は「慧人に負けた」と何度も反芻してその度に悔しくて恥ずかしい気持ちになっていた。頑張って切り替えようとしても、何かに対して強い感情を抱いたことがなかったせいか、上手く吸収することが出来ずに全身が重かった。さらに勉強時間も減っている。

慧人は何も言わずに立ちつくす南に向かって「おーい」と無邪気に右手を振っている。好意、とまではいかないかもしれないが、南を特別嫌っている訳ではなさそうだ。

考えるより先に賭けに出ていた。勝算は、あるともないとも言える。

「俺、苗字変わった。瀬戸口じゃ誰かわかんないんだけど。」

当然嘘だ。南には両親と弟がいる。当然今日も、そしておそらく明日も瀬戸口のままだろう。

「え?」

「じゃあね」

南は玄関に背を向けて歩き出す。背後から「あっ、え?」と困惑した声とガチャンと扉の閉まる音がした。いつもよりもほんの少しだけ大股に歩くように意識する。梅雨入りしたことが信じられないくらいに空は真っ青だ。今日は涼しい風もない。

「せとっ、あ〜...元瀬戸口くん!....、瀬戸口南くん、もとみな...みなみくんっ!」

南は返事をしない。何、元瀬戸口って。笑い出してしまいそうになるのを何とかこらえた。日差しのせいかつむじが熱い。背後の様子から察するに、賭けにはきっと勝っている。

「南くん、みな、南くん!」

歩く速度をわずかに緩めた。本当は今すぐにでも立ち止まって振り返りたい。これ以上天邪鬼ぶったら、慧人は呆れて家に帰ってしまうかもしれない。それでも湧き出た不安を側溝に投げ入れ、一歩一歩丁寧に歩みを進める。欲しいのはただの勝ちではなく、完全勝利だ。

「みなみく...南!」

ゆるく吹き始めた風と共に振り返る。

南の一、二メートルうしろで慧人は息を切らしていた。裸足だった。それだけ懸命に南を追ったのだろう。

「なに、慧人」

南はいつの間にか笑っていた。ラフではなくスマイルだ。

立ち止まっている南にこれ幸いと駆け寄ってきた慧人が並んでくる。学年でいちばん身長が高い南とおそらく小柄な方の慧人。歩幅は全く違うが、どちらがどちらに合わせたのか、この時だけは同じ速度で歩いていた。西日に全身がゆっくりと焦がされていく。

「せ...南ってさ、どうしてリュックなの?」

沈黙に耐えかねたらしい慧人が尋ねてくる。小学五年生のときから何度聞かれたか分からない質問にはいつの間にかうんざりするようになっていたが、なぜか慧人には知っていて欲しいと思った。

「ランドセルだとキツイんだよ。俺、デカいから」

「へぇ〜かっこいい。ぼくも今度からそうしようかな」

「どう言い訳する気だよおちびちゃん」

「無理かなぁ」

「無理無理」

慧人がリュック背負っても、ランドセルなくしたと思われるだけだと付け足す。少し考えた素振りを見せると、それは困るからいっかとため息をついた。

「じゃあもう一個聞きたいんだけど」

「あぁ、うんいいけど。...てか質問ばっかじゃん。そんなに俺のことスキなの?」

「すきだよ」

「あっそ」

ざわりと木々が音を立てた。らしくも無い質問をしてしまったと小さく反省し、南は脳内の禁止ワード辞典に新たな言葉を追加した。

「ずっと気になってたんだけど、南ってどうして給食食べないの?」

「...ダメって言われてるから」

「そうなんだ、アレルギーってやつ?」

「違うけど、母さんが、良くないものだからダメって、ずっと、」

言い淀む南を気にもとめず、ふぅん、興味をなさげな相槌を打つと慧人は南の一歩前を歩き出す。たった一歩、それだけの距離に追いつくことが出来ない。凍りついた口を上手く動かせず、ただ小さな背中を見つめていた。

「変わってるね」

慧人は揺れる木に目を向けながら思いついたようにつぶやく。独り言だった。


すとん


南のお腹になにか硬いものが落ちてきた。いつの間にか心臓の辺りに絡まっていた岩のようなガラスのようなもの。大きな音を立ててそれが割れると、やわらかい水色の空が少しだけ鮮やかな青になっていた。

からだが軽い。

ずっと、不思議だった。

給食を食べることが出来ないのも、スーパーに連れていってもらったことがないのも、友達の家に行くと何を食べたか根掘り葉掘り聞かれることも。

自分は、自分たちはふつうだと疑問に感じないように押し込み続けていた。

いつの間にか南は笑っていた。慧人がぎょっとした顔で見つめてきても全く収まらない。愉快で、楽しくて、羽でも生えたみたい。風からいいにおいがする。

あんなに遠かった一歩を半歩で超えると、リュックの中に仕舞いこんでいる弁当箱ががらんと音を立てた。

「慧人が言うかよ!」

笑いが収まらないまま低い位置の背中をばしんと叩くと、目を見開いたはずの慧人はほのかに頬を染め「ごめんて」とそっぽ向いた。

南はいつの間にか週に二回は慧人の家に行くようになっていた。経緯はあまり覚えていない。自然とそうなったのだと思う。学校を終えて、今まで塾の自習室に直行していた時間を「慧人の家で勉強する日」と改めただけで、勉強時間は十分に取っている。

「来たよ」とインターホンごしに告げると、慧人はどたどたやってきてドアを開けた。当たり前のように家に入る。いつの間にか「おじゃまします」を言わなくなっていた。慧人も客人をもてなす用の器にお菓子を載せない。

南は大抵、慧人の家に来ると塾の宿題をする。その傍で慧人は様々な図鑑を広げるが、大抵図鑑を読まずに南がペンを走らせる様子を楽しそうに眺めている。何時間も飽きずに同じような作業を見続けるところは少し変わっている。南としては、視線のおかげで緊張感が増してありがたいと思っていたが、拭えない照れくささから「あんま見ないでよ」と悪態をつくこともあった。


ある日、左腕にびっしりこしらえていたみみず腫れが少し薄くなっていることに気がついて、どうしようもなく嬉しくなった。

予習の手を止めちらりと部屋を見渡す。静かで綺麗で、幻のような家だ。本当に「誰もいないし、帰ってこない」のだろうと頭の片隅で思う。「親に捨てられたんじゃない」、「児相に保護してもらいなよ」。とにかく言いたいことは沢山あったが、それを口に出してしまえば慧人の両目が曇るような気がして、いつも言葉が喉を出る直前に飲み込んでいる。同じような理由で学校に行くように言ったこともない。慧人が楽しそうで、自分も楽しいならそれでいいと思っていた。

もちこんだ課題たちを終えると、南が慧人の家を出なければいけない十五分前になっていた。二人は慌てて教材や図鑑を片付け___テーブルの隅に追いやると、ソファーにほぼ同時に座り込んだ。課題というしがらみから開放され、ようやく慧人と話すことが出来る。南は母に隠れて添加物たっぷりのお菓子を食べる時間より、こうして慧人と同じソファに座ることのほうがずっと好きになっていた。

なんでも話すことが出来る。聞いて欲しいことも、そうじゃないことも、慧人にならなんだって言える。そしておそらく、慧人も同じことを考えている。

いちごよりチョコ派だということ。

学校でこっそりと鉛筆型のシャープペンを使っていること。

たばこのようなものを吸うように言われているが、10歳になってから吸わずに隠していること。

ヒラサワに内履きを捨てられた日の放課後、自分も彼の内履きを川に投げ捨てたこと。

好きな人がいること。

神様を信じていないこと。

今日は何を話すのだろうか。そわそわとはやる気持ちを抑えていた南は、何か大切なことを言わんと口を開閉させていた慧人の言葉を待っていた。慧人は「よし」と小さくつぶやくと、なんでもないように口を開いた。

「南、ここで会えるの、今日で最後になるから」

「は、なんで」

「月に行くの」

嘘つけと笑い飛ばしたかった。しかし慧人の顔は真剣そのもので、嘘をついていないことが嫌でも伝わってくる。少しでも油断したら泣き出してしまいそうだった。

いかないでよ。

ぐっと唇をかんで言葉を食い止め、少しだけ下を向いて、それからおどけたように笑ってみせる。今の自分に本音で気持ちを伝える度胸はない。

「...慧人もウチの子だったら良かったのにね」

「よくないよ。ぼく、勉強できないし」

「俺がいくらでも教えるよ」

「だって、そしたらさ」

今度は慧人は言葉をつまらせた。眉をひそめて寂しそうにうつむいている。南は泣き出しそうなことを悟られまいと繕っていたことが、途端にどうでも良くなった。慧人が何を思って両目を歪めているのかは分からない。自分が意図せず傷付けているのかもしれない。それでもその心に絡まった何かが少しでも解けるようにと身を寄せようとした瞬間、部屋中に軽快な音が響いた。チャイムが鳴ったのだ。

「行かなきゃ」

そう呟いて慧人はすっと立ち上がる。先程まで苦しそう歪めていた顔はおそろしいほどにつめたく虚ろになっていた。南は慧人を行かせてはいけないと確信めいた感覚に陥ると、玄関に向かおうとした体ごと捕まえようと両手を広げる。しかしそこで、どういうわけか南の体は動けなくなってしまった。慧人が一歩を踏み出したその瞬間になんとか左腕を掴む。

自分より大きな強い力に引かれるがまま尻もちをついた慧人はのろのろ立ち上がろうとして、ふたたびガンと腰を打った。南が凄まじい力で腕を握っていることに気がつくと、立つことを諦めてそのまま体の向きだけを変えて、向かい合う姿勢になった。座りこんだまま力を緩めない南は、実体のない何かへの恐怖でガタガタと震えている。

尻もちをつかせたことを謝るよりも先に、言わなければならないことがあるような気がして口をもぐもぐと動かした。上手く言葉にできない。特性だと思って受け入れていたはずの口下手が憎くて仕方がない。あんまりくやしくて、両方の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。頼んでもいないのに、ふぐ、うぐ、と情けない声まで漏れ出してきた。その姿を誤魔化そうと慧人の腕をさらに強い力で握り込むと、氷のように冷たかった表情に色が戻り「うっ」と苦しげに唸った。


南は一向に泣き止まない。それどころか涙はだんだんと激しくなっている。慧人は黙って南を見ていた。慧人には、ランドセルが窮屈な南の大きな体が自分よりずっと小さく見えることが何度かあった。今回は一層ちいさく、幼い。十秒、二十秒と止まっている時が再び動き出すのを静かに待っていると、にわか雨のように泣く南の息が浅くなっていることに気がついた。右手だけでその大きな細い体に抱きつき、背中を数回さする。たったそれだけで呼吸はずいぶん落ち着いたようだった。涙を拭おうと南の顔を右手で捕まえると、両目と向かって左側の鼻が濡れていた。

片手で抱きついて背中をさするよりもずっと酷いことをする勇気があったら、南は慧人を、この先ずっと忘れずにいてくれるだろうか。

できない想像はやめておこう

慧人にとって南は自分の欲を満たすための道具ではない。南はこうして泣いているよりも、家では食べることが出来ないらしいものを食べたり、暑い住宅街を笑いながら歩いているほうがずっといい。


「大丈夫」

慧人は空気をたっぷりふくんだ声で告げる。励ましているようで、己に言い聞かせているようで、南の様子を尋ねているような不思議な声色。

南は手が真っ白になるほど強く腕を握りしめている。空調の効いた涼しい部屋で大量の汗をかいていた。慧人は掴まれている左腕を緩く動かすと、決死の力を込めたはずの南の手をのんびりほどく。

「月で見てる」

白んだ手をやわく揉んだ。じんわりと伝わってくる優しい体温に胸がきゅうと締め付けられた。

それからゆったりと立ち上がり、左腕に残った南の手形に右手を重ね合わせ、玄関に向かって歩いていってしまった。一度も振り返らずにしっかりとした足取りで南から離れていく。静かな足音は夜にひっそりと降る雨のようで、南はまた知らない慧人に出会った。


それから少しして、どたどたと足音が聞こえてきた。だんだん大きくなっている。


「南くん!」

気がついた時には、自分より分厚い体に抱きしめられていた。嗅ぎなれない匂いとやわらかさに驚いて思わずその体を突き飛ばしても、手探りで南の体を見つけ、一度目よりずっと強い力で抱きなおす。

幡野だった。

南は全身がぐっしょり濡れていた。時間差でむわっとした熱気を覚える。あたりは真っ暗だった。つい数分前まで明るく、涼しい温度を保っていたはずの部屋は今では殺人級の不快さを放っている。

幡野は暗い部屋の中で手を泳がせながら、額に張り付いた南の前髪をかき分ける。顔に触れられたことに驚いてぎくりと体を震わせると「大丈夫だからね」と涙声で言い聞かせてきた。

「はぁ」

気の抜けた声で返事をすると幡野は我に返ったようにスマートフォンを取り出し、ライトでふたりの顔を照らした。幡野の瞳は、湿った声に違わず真っ赤になって濡れている。

「どうして勝手に家に入ったの?」

「勝手に、って、違いますよ。慧人が...」

南が懸命に説明しようにも、上手く言葉が出てこない。それに幡野は南の話を聞いているようで聞いていない。あらかじめ定められたひとつの答えを導き出す機会を伺っている。そう理解した瞬間、南は弁明を放棄して黙り込んだ。すかさず幡野が口を開く。

「南くん、あのね、慧人くんは、一ヶ月ちょっと前に事故で死んじゃったんだよ。」

「は?」

頭が真っ白になった。乾燥した口を無理に開こうとすると、幡野に頭をポンポンと叩かれる。南が体をよじって手から逃れようとすると、幡野は少し笑ってもう一度南を抱きしめる。互いの汗で濡れた体が冷たい。

「先生、君たちが仲良しなの知らなかったな」

再度後頭部をなでさすると、幡野は生徒が珍しい昆虫を見せつけてきた時と同じ声を出した。空気が抜けるように気が萎えしぼみ、肉厚な両腕に抱かれたまま首をかいた。

「お家に帰ろっか」

状況を呑み込めずにいる南はいつのまにか立ち上がっている。両手を幡野に握られていた。

真っ暗で暑い家からは、いつの間にか慧人のにおいが消えていた。南の課題と一緒に雑にまとめていた図鑑はいつの間にかなくなっている。幡野のスマートフォンに照らされた部屋には無数のほこりと共に大小さまざまな虫が舞う。何かが腐っているような甘い臭いがした。

本当に死んだのだろう

南は諦めたように脱力して、そのまま幡野に手首を引かれながら外に出る。空は塗りつぶされたように真っ黒で、立っていることすら億劫になっていた。

その時、分厚い雲に隠れていた月がひょっこりと顔を覗かせる。一ヶ月半、それよりももっと長く南が求めていたような光だった。


「月ってなんで着いてくるんだろう。ぼくのこと、好きなのかな」


自然図鑑の「うちゅう」のページを見つめながらそうこぼす慧人の横顔が脳裏に浮かぶ。慧人らしい発想だと笑いながら月が着いてくるように見える仕組みを説明しても、納得いかないとでも言うように月のクレーターをなぞっていた。

「好きだったらついて行く?」

「...南は?」

記憶がぶつんと途切れる。その問いにどう答えたかすっかり忘れていた。イエスだったかもしれないし、ノーだったかもしれない。もしかすれば、適当に話を逸らしたかもしれない。

高温に熱されていた脳が急激に冷えていく。脳はたんぱく質の塊だから、芯まで火を通したものを慌てて冷やしても元に戻らないことは分かっているが、今の南にはその苦し紛れの応急処置で十分だった。このままでは胸を張って月の下を歩くことが出来ない。

その瞬間、自分が今何をすべきかはっきりと理解した。

我に返り、ぴたりと涙をとめた南の真横にいる幡野は何から聞き出すか考えているようで、それが嫌だった。南は幡野に悪気がないことは十分すぎるほどに理解している。両親はどうせ「南くんの様子がおかしい」と必死に訴えられても「私たちもそう思います」としか返さない。今こうして手を引かれているのも、幡野が随分と南を気にかけていてくれた証だ。しかし、この一ヶ月半の慧人と南の思い出を誰かが知り、多様性だとか幻覚だとかとおとなに踏み荒らされることだけは、どうしても許せないような気がした。


考えているうちに二人は南の自宅の前に到着していた。幡野はご両親に事情を説明しなければと髪を整えて汗を拭っていたが、南が結構だと一生懸命訴えると、こちらの決心を察したのか「悩み事があったらいつでも聞くよ」と肩を叩き来た道を引き返して行った。

南は家に入る。外からでも物音が聞こえて来たため薄々察してはいたが、両親はリビングでたばこを吸っているようで息子の帰宅に気がつかない。観葉植物の陰に隠れながらそっと階段をあがり、部屋を開けると弟の碧は学校の宿題をしていた。汗だくで目を腫らした、明らかに様子がおかしい南に驚いた顔を見せたが、それもほんの一瞬で碧はまたすぐに机に向かい直す。

静かな空間の中でゆっくりとリュックサックをおろすと、模試の結果を保存している封筒から数本のたばこが入ったジップロックを迷いなく掴みあげた。ポケットに財布と一緒に突っ込む。

「碧、散歩いこうよ」

「は?もう8時じゃん。お母さんに怒られるよ」

「ふたりともたばこ吸ってるから大丈夫」

南はすでに月の下を歩く覚悟を決めていた。わかりやすく言えば「おかしな我が家」を認めて、先に進むことを。

「でも」となにかを言いながら尻込みをやめない碧はえんぴつを握り続けている。南は腕を多少無理に引き上げ、絶対に離れないよう手と手を絡めさせた。観念したと言わんばかりに碧が手を握り返す。

二人は示し合わせたようにそろりと階段を降り、息をひそめて扉を開けた。途中、リビングから「あ〜」「う〜」という唸り声と足音がして一緒に身震いしたが、なんとか計画通りに家を出ることができた。

蒸し暑い熱帯夜は南を引き止めるようにじっとりとした暑さを孕んでいた。むわりとした熱気を切り裂くように二人は走り出す。

南の一歩後ろで一生懸命足を動かす碧が慧人に重なった。切れ始めた呼吸音だけが夜の道路に響いている。ぽつぽつと点在する街灯めがけて二人は何度も何度も加速していたが、目的の灯りが見え始めた頃に「家に帰りたい」と碧が泣き出してしまった。碧に感じた慧人の陰が霧散する。碧をおぶり再び走り出して、南はようやく気がつく。

さっきの半分くらいの速さで走っているはずなのに、二人の両親は追いかけてこない

考え出すと無性に泣きたくなって、忘れるためにがむしゃらに走った。


過呼吸かと思うほど切れた息を整えることもせず交番に駆け込むと、駐在員らしい壮年の男は面倒くさそうに白髪頭をボリボリかいていた。しかし南は、ここで怯んで帰るわけにはいかない。何とかして事の重大さを伝えなくてはと、泣き止まない碧を背負ったままジップロックを駐在員に見せる。次の瞬間、男の目の色が変わった。

「お兄ちゃん、それ、どこで見つけた」

「うち、うちです、家で」

酸素不足でどうにかなりそうな頭を必死に回し訴えかけると、奥からもう一人男が出てきた。今度は白髪頭よりも若い、体格のいい男だ。しばらくすると、パトカーに乗せられ、二人で自宅まで案内した。

それから大きな病院でたくさん検査を受けて、注射をされて、薬を飲まされた。同時進行でたくさんの大人から気が遠くなるほどに質問を受けた。碧が泣いていないかと何度も考えたが、次に会った時には身長が伸び、少しだけがっしりとした体つきになっていた。三ヶ月くらい病院にいた後におとなに連れられ二人で見学した「新しい家」は想像よりも明るかった。南は、一度も泣かなかった。


生活は絶え間ない。

人生は時に楽しく、時に辛く、基本的につまらない。あたりをくるくると回っている真実だとか倫理だとかに体力を削がれつづけながら、体は生きることをやめない。正直に言ってしまえば、幾度となく人生をおしまいにしたいと思ったし、これから先も何度も同じことを考えては汗だくで目を覚ますだろう。ひとりの夜は、南が全てを吹っ切ることが出来ない限り死ぬまでずっと付きまとい続ける。

それでも生きていくと心に決めたから、南は今日も、月を見上げるために息をする。

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