治療施設の庭園にて 前編

 私達は日々の一瞬を積み重ねて生きている。

 毎日の体験は、人それぞれで違うからこそ面白い。


 これまで、図書に囲まれて、懸命に先人の知恵を学んできました。


 たまには気ままに旅に出ることもあるでしょう。

 流行の素敵な場所に出かけて、お買い物をして話に花を咲かせる。

 大自然に触れて、心身共に癒やされる。

 もちろん、屋根の下でのんびりするのも良い。


 友情に恵まれる瞬間もどこかである。

 英雄になる冒険活劇もあれば、誰もが憧れる夢見る恋物語もある。


 個々の日々の幸せや楽しみという物語。

 どの物語にも、人との縁が必ずある、ということ。


 今はこのことが何の意味を成すのかということは、わからなくてもいい。

 時に振り返り、ほんのわずかでも、このような豊かな瞬間があったということを思い出して欲しい。

 そして、こうした心嬉しい出来事が、これから待ち構えているのだということも。




 ※数多くの記録書は、主題に関わった者達の記憶から写し取り、文字に書き起こしたものである。




 今ではもう太古の昔、精霊が世界を統べ、争いを繰り返していた。


 この世界にも、病気や怪我を癒やす施設が各地にあった。

 今宵の物語は、とある山奥に佇む、一軒家の治療施設で紡がれる。




 豊かな森の中に泉が広がり、青く茂る背の高い草道を進んだ先に、治療施設の建物が静かに建っていた。


 部屋には光が差し、爽やかな風がカーテンを揺らしている。豊富な観葉植物が、陽を浴びて生き生きと花を飾っていた。


 まだ働き始めて間もないと思われる若い女性が、慣れない手つきで旅の精霊使いが煎じた薬草入りの薬湯を口に含ませてくれた。病人の自分では飲めないという申し訳無さが胸にしみる。


「本日のお薬は以上です。ゆっくりお休みください」


 緊張してか、不安そうでぎこちない様子であった。


「お嬢さん、ありがとう。ひょっとして新人さんかい?」


 咄嗟にしゃがれ声を絞って聞いてみると、何か失敗した事を指摘されたのかと思われたようで、小さくハイ、と返事して体を縮めてしまった。


「まだまだ若いんだから、そんな緊張せんと、ちゃんと出来とったぞ。なに、それでも食うて、元気出しんさい」


 柳のようになった手で木製の机の上に乗った包み紙を指差す。

 ここに来る前に、この辺りで評判が良いという、枝垂れ桜が植わっている菓子屋で買い物をした。その隣で営業している茶屋でも好評な、食べた瞬間から口いっぱいに自然の甘みが広がるという乾物の果物だ。誰もが食べてみたいと思うような、ワクワクする折り紙を連想する包装。そんな丁寧に和紙で包まれた小さな菓子折りが荷物と共に、机の上に置いてあった。大事にとって、隙を見て食べようと当時は思っていたのだが。

 彼女は固まった後、更に縮こまってしまった。


「贈答品は受け取れない決まりなんです」


「はっは、いやいや、ちゃんとしてる。そないか、決まり破って怒られたらこのじいさんも困るでな。気にしいな、あんたは本当ちゃんと出来とうたから、これから先も安心しいよ」


 縮こまった体が少し緩んだように見え、様子を伺うような顔が見えた。


「また次も頼むでなぁ。今日は帰ったら美味いもん食べて、元気だし」


 不安そうな顔はぱぁっと明るくなり、次に少し申し訳なさそうに、ありがとうございます、とはにかみながら部屋を出ていった。ちゃんと出来ていたという言葉にどうやら少し自信を持ったようだった。



 自分が放った言葉で、その後の彼女が変わるかどうかはわからない。

 小さな背中を見送りながらそう思ったが、未来ある彼女に、自分が少しでも何かしてあげることができたと感じると、バトンを渡せたような、そんな気持ちになった。

 人間は変わる。明日にでも自分は尽きるかもしれない、命が限りある物であると悟ると、大きく変わるものである。



 いつ終わるのだろうか、終わりをよく考えてしまうが、余計に苦しくなるばかりだった。

 ただ、耐えるしかなかった。

 あとは、夢を見るのみだ。


「希望を見る。今から少しでも楽になる。明日にはマシになっているぞ。頑張れ、頑張れ」


 日が暮れ、星が光を地上に届ける様子を窓から見届ける中、何度もそう繰り返した。そして、何故かこれまでの数々の思い出が自然と頭に浮かんできたのだった。

 もしもこの病が治ったなら、これがやりたい、あれが食べたい等、思いを馳せた。しかし、それ以上に、よりによってこれまでの自身の悪い行いや、思い出したくない過去の過ちが繰り返し頭をよぎった。あぁ、あの時に戻り、あんな行いはやめたかった。そんな考えに蝕まれる。

 今すぐこの病床から体を起こし、謝りたい、罪滅ぼしをしたいと星々に強く願った。




 その願いが通じたのだろうか。

 目を開くと、何かがおかしい。いや、完全におかしかった。夜であったはずなのに、夕刻前のような日が昇っており、周囲の様子がよく見えた。かぶっていた薄い質素な寝具が、厚手で大きく、柔らかい布団になっている。部屋の天井は高く、窓も開放的で、高貴な宿のような豪勢な部屋。自分が先程いた部屋ではなく、全く違う部屋にいることは間違いがなかった。恐ろしくなり、布団に潜る。

 ただ、木々の間から淡い橙色の日光が温かく部屋を照らし、風が入ってくる環境は似ており、ふかふかとした手触りの温まった布団の中で、どこか懐かしい気持ちにもなった。


「ここは天国か? とうとう終わりが来たか?」

 ぽつりと放った言葉に、なんと返事があった。


「いいえ、まだあなたは生きておられます」


 心地よい鈴のような声であった。

 驚き、布団を少しずらすと、夕暮れに差し掛かった優しい色の日差しの間から、神聖で煌びやかな衣装に身を包んだ女性がこちらを見ているのわかった。思わず、ハッとして見てしまった。美しい。


「お辛い声を聞いたので、こちらにお連れしました。お身体の具合はいかがでしょうか。ここは休息の場。今この時は、少しばかり動けるはずですよ」


 そう聞いて初めて気が付いた。あれほど重かった体が軽い。胸は苦しくなく、森林の香りに満ちた空気を音無く吸い込んでいる。ゆっくりと起き上がり、立ち上がることができる。思わず笑顔がこぼれた。


「おぉ、本当だ。すごい、まさか自分で立てるなんて、健康そのものじゃないか!」


「良かった」


 彼女も安堵したように笑顔になった。


「貴方の喜びは我々の糧となります。その喜びの気持ちを大切にしてください。さぁ、もしよければ、せっかく来られた事ですし、少しお話しませんか? そちらの庭園で、何かお茶や食べ物でもお出ししましょう」


 あんなに食べる気力が無かったのに、今はお腹が空いているとはっきりわかった。そして、それ以上に聞きたいことが山程あった。訪れて早々にいいのかな? すまないねと話しながら、足取り軽く、長い髪を揺らす彼女についていく。


 丁寧な細工の施された大きな扉は外に繋がっていて、花が満開に咲く庭園に出ることができた。園内の様子を見ると同時に二度見した。


 なんと、精霊達がいる。

 それも人の姿や動物の姿をした者達がどうやらお茶を準備している様子だった。……よく見ると既に楽しんでいる者もいる。

 この世界の精霊は、普段人に姿を見せない。具現化した精霊様があんなにいるなんて、なんと珍しいものを見たと目を丸くした。


「どうぞ、こちらにかけてください」


 精霊から目を離すことができないまま、繊細な装飾を施された机と椅子があり、腰掛けた。


「はー、不思議なもんだ。いったい、ここはどこで、お嬢さんは一体何者なんだい?」


「ここは、あなたの生きる世界にある、人々に希望を与える場。夢に等しい場所です」


「夢? わしは夢を見とるのか」


「正確には夢ではないのですが、わかりやすく言えば、そうです。自由に考え、動くことができる夢のような場所」


 なんだ、夢なのかとほんの少し拍子抜けする。


「ここには部屋が他にもたくさんあるのですが、心身を考えて、これまであなたが利用されていた施設とは異なりますが、この治療施設の作りをしたお部屋に来ていただきました」


 治療施設の部屋。通りで少しばかり馴染みがあるような気持ちになるのかと納得した。


「そして私は、ここにある精霊達、その他の数多くの宝物を守る番人です」


 宝、と思わず呟いていた。聞かれてしまったようで、彼女が微笑む。


「宝は、訪れた皆様が一番に興味を持たれます。この地に眠る財宝。よろしければ、また後でお見せしましょう」


「そんな、宝物なんて大切なもんだろう? 良いのかい?」


「喜んで頂ければ、良いのです」


 頷いた彼女の視線が精霊達に向けられた為、こちらもそちらに視線を向ける。そして本題に入るように話し始めた。


「宝の1つに、精霊達も含まれます。精霊達は、人々の生きる活力、夢、希望、幸せ等、これらをエネルギーとして活動し、生きることができます。あなたには深い心の傷がある。その傷を癒し、精霊達に力を与える。それが私の今の主な勤めです。もちろん、勤めではありますが、訪れる人に希望を与える事は、私の喜びでもあります」


「心の傷、かい? 未練とかやり残している事でも?」


「その通り。その傷が癒えるまで、ここには何度でも来てもらって構いません。その代わり、この地の秘密は守ること。誰かに伝えると、精霊達が記憶を奪いに来ます」


「全部忘れてしまう、ということか」


「そう。そして、ここでの体験は一時のこと。元の場所に戻り、誰にも話さないと約束頂ければ、記憶は残りますが、体の具合はどうあっても再び元に戻ります」


 そうか、身体の病が治ったわけでは無いのか。


 一呼吸置く。


 女性はこちらの目を深く見つめた。


「戻った際は、今より少しでも光が灯る良い方向に進む事。これを約束して下さい」


 良い方向に……。生きることが出来ないかもしれないのに?

 すこし沈黙してしまったが、わかったよ、と微笑んで答えた。


「さぁ、お腹がすいたでしょう。何が食べたいでしょうか? 食べ物も飲み物もどんな物でもご準備できますよ。喜んで頂きましたら、もちろんお代等も必要ございませんので、ご自由にお申し付け下さい」


 本当に良いのか? 何でも? と聞くと、お茶菓子でも、丼でもステーキでも何でもござれですと、明るく返事があった。丼? はて、ステーキとは?


「食べたい物……」

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