第二十三話 妃が可愛過ぎて直視できない 〜sideヒューパート〜
拍子抜けするくらい穏やかな日々が続いていた。
冷戦の幕開けから数ヶ月。ある日突然、緊張状態がほぐれ、今はいわば停戦状態となっている。
仮にも夫婦なのだから、嫌い合う必要はないと考え直した、とジェシカは言っていた。
ピリピリした空気に耐えかねたのだろう。だから私を嫌っていながら、ほどほどに付き合っていこうという妥協案を出した。
これでは何も解決していない。解決していないからこそ、焦燥感が胸を焼く。
どうにかしなければならない。
その漠然とした義務感だけはあるのだ。しかし結局私は何もできていないのだと思うと自己嫌悪は一分一秒ごとに増していっていた。
私のせいで今もジェシカに負担をかけ続けているのだろう。きっと言葉も交わしたくないはずの私と顔を合わせ、食事時間を同じにしなければならないのだから。
こんな状態ではいけないということは当然わかっている。
わかってはいるのだ。わかっているのに――。
どうして自分がこれほどにジェシカの可愛さばかりに目がいってしまっているのか、わけがわからなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ジェシカは美人だ。まごうことなき美人なのは、初めて出会った時から誰よりも知っているつもりだ。
しかしここまで可愛いだなんて思ったことがなかった。
例えば。
「ヒューパート様、今度、視察のご予定がございましたわね」
珍しくそんなことを言われた時があった。
そういえば定期的に氾濫するという川のある村への視察があったなと思い出す。しかしこのようにジェシカから視察についての話をされるのは初めてだったから、驚いた。
そして驚きはこれだけでは済まなかった。
「ああ」
「わ、わたくしも――」
なんと、自分も行きたいと言い出したのだ。
あのジェシカが、である。しかも頬がほんの少し赤く染まっているように見えた。
もちろんこれは何かの考えあってのものだろう。別に私と出かけたいから言い出したなんて考えるほど私も愚かではない。私は彼女に嫌われているのである。
それなのに、不覚にも可愛いと思ってしまった。
ほんの少し言い淀むその姿が。
恥じらっているようにも思えなくもなかったその姿が。
――実は可愛かったのはそれだけではない。
昼間に一度読書をする彼女を目撃してしまい、一体何の本を読んでいるのだろうと思って彼女のいない時にこっそりとその本を探してしまった。そして十冊ほどの恋愛小説を見つけたわけだが。
「もしかしてあのジェシカが読んでいるのか、これを……?」
ジェシカ自身は友人から借りた小説などと言っていたが、それは言い訳だろう。
彼女は恋に飢えているのかも知れない。それはきっと私のせいに他ならず、罪悪感は無性に湧いてくる。けれどもジェシカが恋愛小説を読んでいる姿を思い浮かべるとどうしようもなく可愛く思えてしまった。
私の妃は美しさだけではなく可愛さも兼ね備えるようになったのか。
私は震えた。そして、気づいた。
――ジェシカのことを今までにも増して直視できないでいるということに。
実は、そのあまりの美しさが眩しく、目を背けてしまうことは度々あった。
年月を重ねるごとにどんどん美しくなっていくものだからそれだけで困っていたというのに、これ以上だなんてどうしてくれるのだ、と責めても仕方がないのにジェシカを責める気持ちが湧いて彼女への態度が悪くなる。
本当に嫌だ。これでは関係改善どころか悪くしているばかりではないかと、自分にまた嫌気が差した。
「ヒューパート様、眉間に皺が。やはりお嫌でしたか」
などと考えていると、ジェシカの声が聞こえてきてハッと我に返った。
そうだ、ちょうど今、当のジェシカと話していたところだったのだ。それなのに考え事をしてしまっていたなんて、と自分に苛立ちつつ、何が何だかわからないままに答える。
「……嫌ではないが」
「ご迷惑ですわよね。ではわたくしの方でいただきますわ」
何の話だったろう。そう考えて、「あっ」と声を上げそうになった。
そうだった。ジェシカは今、私に、「友人に勧められて手作り菓子を作ってみたのですが、いかがですか?」と問うていたのだった。
大嫌いなはずの私にも一応、渡そうという確認はしてくれるのだなとその可愛らしさに心震えて、全てが吹き飛んでしまっていた。
「別に私は拒否の意図で言ったのではなく――」
ジェシカの宝石のような翠の瞳がじっと私を見つめている。
拒否の意図でなければ何なのだと。ろくに人の話も聞いていないくせにと言われている気がした。
「警戒して当然ですわ。わたくしの考えが足りませんでしたの。……事実、手作り菓子と言っても味がしない大したことのない失敗作ですのよ」
しかしここで黙り込み、せっかくのジェシカの気遣いを無駄にしたくはない。してはならなかった。
誤解を解かなければと、私は慌てて声を上げた。
「待て。すぐ答えを出すな。ただその、お前が菓子作りをするというのがあまりに意外だっただけだ。私が食べて味見してやるから安心しろ!」
ジェシカは昔から貴族女性の鑑という風だったので、たとえ包丁を握るようなものではなかったとしても、料理を作るなんて思ってもみなかったのである。
だが、食べてやりたくないという気持ちがあるわけではない。いや、むしろ味が気になるのでぜひとも食べてみたい。
「味見ならば侍女のクロエにすでにさせておりますが」
「構わない。……さっさと寄越してくれ」
「そうおっしゃるのなら」
ジェシカはそう言いながら小包を私に手渡してくる。
包装紙の中には甘い香りのするクッキーが入っていた。
特別な食材を使ったわけでも、デコレーションがされているわけでもない、手のひらに乗ってしまうほど小さなクッキー。
しかしきっとこれを作るのにジェシカは苦労し、手を尽くしたのだろう。そう思うとなんだか愛しくてたまらなくなってしまった。
――何を馬鹿なことを考えているんだ私は。これは単なる味見に過ぎないというのに。
だがどうしようもなく頬が熱を帯び始め、それに勘づかれぬよう顔を俯けてクッキーを口の中へ放り込んで誤魔化した。
「ふん、悪くはないな」
「そうですのね。ヒューパート様の気分を害するものではなかったようで安心いたしましたわ」
気分を害する? そんなことがあるわけない。だって今、私はこの薄味ながらも柔らかな甘味のあるクッキーに打ち震えているのだから。
こんなにも素朴でありきたりな見た目と味でありながら、涙が出そうなくらいに喜ばしいのだ。
だというのに、わかりやすく褒めることのできない――それどころか上から目線の嫌味に聞こえる言葉を吐いてしまう私は馬鹿だ。
不快にさせてしまったかも知れない。
そう思って、ビクビクしながらも顔を上げてみた。しかしジェシカの表情は予想外のもので。
控えめながらも、笑みを浮かべていた。
ただの私の勝手な勘違いかも知れないが、それはいつもの人形めいた笑みとはどこか違って見えた。
「え……」
「どうなさいましたか? クッキーの中に何か妙なものでも混入しておりましたでしょうか」
そうではない。ただ、彼女の美しさと可憐さを併せ持った微笑みに脳みそと目を焼かれただけだ。
正気を取り戻すのに数秒ほどかかるほどの破壊力であった。
「クッキーの味は悪くないと先ほど言ったばかりだろう。いちいち気にするな」
声を振り絞るなり、逃げるようにその場を後にしてしまったのは仕方がないと思う。
あれ以上ジェシカの傍にいたらどうにかなっていただろうから。
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