第十七話 迎えた結婚一年目、さらに深まる溝

「一年目になるな」


 ある夜、唐突にヒューパート様が言った。


 冷戦状態は継続中で、わたくしたちの関係はあの夫婦喧嘩の日から全く変わっていない。

 夜なのでさっさと眠ろうとしていた時、何の脈絡もなく放たれた言葉に、わたくしは何のことやらわからず黙ってしまう。


 ――どうせろくでもないことなのでしょうね、とは思ったけれど。


「あの、あれだ。婚姻した時からそろそろ一年だろう。お前はそんなことも覚えていないのか」


 吐き捨てるように言われてから、ああそうでしたわね、と思い出す。

 彼とほとんど言葉を交わさないうちに四ヶ月ほどの月日が過ぎており、日付を見ればもうすぐ丸一年。時が経つのは本当に早い。


「失念しておりましたわ。それがいかがなさいましたの」


「いや……何でもない」


 何でもないなら話しかけてきてくださらなくて結構ですのに。

 どうせこうして険悪な空気になるのだから、言葉を交わそうなどという試みを最初からしなければいいのだ。しかも今は夫婦の寝室におり、聞き耳を立てるような者がいない限り、誰にもこの会話は聞かれていない。


 ――もし万が一立ち聞きするような愚か者がいれば、ヒューパート様がすぐに追い出すだろうというのはもはや共通認識となっているから、無謀なことをする者はこの城には誰も存在しないのだった。

 それはさておき。


 もうじき結婚一年目。つまり離縁まで、あと残り一年となったわけである。

 ヒューパート様と部屋を共にしなければならない期間も折り返し地点までやって来たのかと思うと、少し感慨深い。きっと彼も同じ気持ちに違いなく、だからこそ「一年目になるな」などと言い出したのだろう。


 まあもちろん、一年を過ぎるからと言って何があるわけでもない。

 わたくしたちは今まで通りに過ごす、それだけなのだから。


 そう思っていた。否、思い込んでいた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「これは一体どういうことなのでしょう……?」


 いつもにも増して豪華な食事に祝いの花の数々、そして向かい合うヒューパート様は、わたくしのドレスと同じ孔雀色。

 わたくし自身、朝一番からいつになく気合いを入れたクロエにおめかしされた。


 今日は一体何の祝日だというのだろうか。

 答えは簡単、結婚記念日である。それ以外の何者でもなかった。


 だが祝う意味がわからない。

 わたくしは愛されない妃。そしてもはや取り繕う意味は何もなくなっている。それだというのに今更、どうしてこのようなことをするというのだろう。


 ヒューパート様とて不満でいっぱいのはずだ。

 しかしなぜか彼は、当たり前のように食事に手をつけようとする。


「――お待ちくださいませ」


 声をかけるべきかどうか迷ったが、わたくしはたまらなくなり、ヒューパート様を制止した。


「これは一体何の企みですの」


「何の話だ。私は別に何も企んでなどいないぞ」


 白々しい、とわたくしは呆れた。

 ちらりとその表情を伺うだけで彼の内心の動揺具合はバレバレである。だが、本人にはその自覚がどうやらないらしい。


 つい数日前に何でもないと言っていたばかりのくせに、これは一体何なのだ。

 何でもないと言ったから、安心していたのに。


「まだ体裁をお気になさいますのね。それとも何か裏がおありですか?」


 例えば、くだらない意地が理由なのかも知れない。

 結婚一周年を祝わないとなれば、そのことはサラ嬢の耳にも届くはず。彼女に知られたくはないと見栄を張ったという可能性も充分に考えられた。


 だってそうでもなくては、このような催しをする理由がないのだから。

 使用人たちの目を嘯く? そんなのはもう遅い。わたくしたちが冷戦状態にあるのはもはや周知の事実だ。

 それともなんらかの事情でわたくしのご機嫌取りをする必要ができ、このようなことをしているとも考えられるけれど、そこまで愚かな人物ではないとわたくしはヒューパート様を評価している。


 わたくしに対して向ける態度や罵倒の言葉の数々を除けば、ヒューパート様は非の打ちどころがないほどに立派な皇太子殿下であるのだ。


「裏などない。ただ、婚姻一年目を迎えたのは事実。それを祝うのは当然の振る舞いだろう。何を咎められる必要がある」


「ええ、そうですわね、通常は。……ですがわたくしたちは通常ではないでしょう」


 周囲の使用人に聞かれぬよう、最大限声は潜めた。

 しかしテーブルを挟んで向かい合わせで座る彼の耳にはしっかり届き、彼は不愉快げに眉を顰める。


「そんなにもお前は私のことが」


「お気遣いなく、と以前に申しましたはずですけれど」


 にっこりと微笑みながらのわたくしの言葉に、眉間の間に皺を寄せるヒューパート様。

 どうやらわたくしの言い分をわかってはくれないようだった。


 こんなことをしても虚しいだけだと、どうしてわかってくれないのだろう。

 言葉にならない憤りとやるせなさ。しかし使用人たちの目がある故にそれを明確に口に出すことは叶わない。

 ため息を喉の奥で飲み込んだ。


「ジェシカ。お前は、私に、機会すら与えてくれないというのか」


「……何のことでございましょう?」


「いや、お前がその気なら、もういい」


 ヒューパート様はガバッと音を立てて席を立った。


「お前とこのようなことをしようとした私が馬鹿だった。お前は私からの好意も受け取れないような女だったのだな!」


 ――私からの好意も受け取れないような、だなんて、笑わせてくださいますこと。

 好意があるのなら、そもそもこのような事態になっているわけがない。使用人たちの前だからということはわかっているが、それならば尚更もう少し言葉を選んでほしかった。


 これではまるで、わたくしが悪いみたいではないか。


 結局食事を口にすることなく、皿に残したままで食堂を歩き去っていくヒューパート様。

 使用人たちがざわつき、困惑顔でわたくしと彼を見た。控えていたクロエが慌ててやって来る。


「ジェシカ様……」


 しかしなんと言葉をかけて良いのやら悩んでいる様子だった。


「大丈夫ですわ。わたくしが少し礼を欠いておりまして、ヒューパート様をご不快にさせてしまいましたの。妃としてまだまだ力が足りないようです」


 わたくしが皇太子妃に相応しくなる日は、きっと来ないだろうけれど。

 心の中で呟いて、わたくしはほんの少しだけ苦笑する。


 食事を終えるとわたくしはすぐに部屋へ引き上げた。

 ヒューパート様とその日中出会すことはなかった。




 この事件があって以降、それまではかろうじてぽつりぽつりと交わされることのあったヒューパート様とわたくしの会話は、めっきりなくなった。

 ヒューパート様はもしかすると、何か作戦があって結婚一年目を祝うようなことをしたのかも知れない。それをあんな形で跳ね除けて溝を深めたのは良くなかったのではないかと、冷静に考えば思う。


 でもその時はああするのが最適解だと考えて行動したのだから悔やんだりはしない。

 そんなことを思いながら、ついにこちらを顔を向けることすらしなくなったヒューパート様の背中を見つめた。

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