第十三話 初めての夫婦喧嘩と冷戦開幕
アンナ嬢とお茶を飲みながら話せたことはとても楽しかった。
楽しかったのだ。……なのに後半、ヒューパート様がこちらを覗いていることにうっかり気がついてしまってからは、全てが台無しだった。
そんなにわたくしのことを監視したいのか。
そんなにわたくしのことが気に入らないのか。
そんなにわたくしを、信用してくださらないのか。
湧き上がる憤りと嫌悪感を、貴族の娘として培ってきた能力でどうにか心の内に隠す。
アンナ嬢には言わなかった。覗かれているなんて言ってしまっては気持ち悪がってもう来てくれなくなるかも知れない。それだけは嫌だったから。
「楽しかったわ。また呼んでちょうだいね」
「ええ。近いうちにお会いできたらと思いますわ」
そう言ってアンナ嬢と別れた後、わたくしは王宮の西棟、二階にある一室に向かう。
そこはヒューパート様の執務室だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「どうだ、楽しんできたか」
わたくしに覗きを気づかれていたことを全く知らないらしいヒューパート様は、なんでもないような顔で言った。
それに苛立ちがより一層強まる。
――そんなことで隠し通せると思ったら大間違いですわ。
「ええ、とても。ヒューパート様も久々の執務室でのお仕事は捗りまして?」
「……ああ。そこそこな」
「まあ、そうですのね。ところでお仕事というのはわたくしを監視なさることなのでございましょうか?」
わたくしは包み隠すことなく、ヒューパート様に問いかけた。
彼がひゅっと喉を鳴らし、紅の瞳を見開く。
「まさか。お前は、ヴェストリス侯爵令嬢との話に夢中だったはずじゃあ」
「申し訳ございません。偶然ヒューパート様のお姿を視界に捉えてしまいましたのよ。驚きましたわ」
わたくしが静かに微笑むと、気まずそうに視線を逸らしたヒューパート様は言う。
「お前のことが気になった。ただそれだけだ。他意はない」
「わたくしが何か不審な行動をとると思っていらっしゃいまして? 少なくとも今までヒューパート様の不利益になるような行動はしてこなかったと自負しておりますけれど」
少なくとも監視される謂れはないはずだ。
確かにアンナ嬢には白い結婚のことは話した。疑われても仕方がないのかも知れない。けれど事実、彼女を信頼しているからこそ話したことであり、事実としてあの話は広がっていない。
それくらいは弁えている。そんなこともわからない女だと思われていることが嫌で仕方なかった。
「別にお前を疑っていたわけじゃない。私は……」
「――わたくしのことなど気遣ってくださらなくて結構ですわ」
わたくしはピシャリと彼の言葉を遮った。
謝罪の一つもなく、真っ先に言い訳。そのことにますますヒューパート様への嫌悪感が募る。
「仲良さげな振る舞いも、ほどほどで構いませんのよ。確かに使用人の目を嘯くことはできたでしょう。しかしそれ以外に利になることがございまして?
これは白い結婚。お互いへの束縛は、もうやめにいたしましょう」
ここ数ヶ月、本当に息苦しくてたまらなかった。
胸が潰れそうだったくらいに。
息抜きにアンナ嬢へ愚痴を漏らしてスッキリするつもりが、結果これだ。
心の広い
いい加減不満を言わずにはいられない。
たとえ、相手が皇太子殿下であったとしても。
「妃を蔑ろにしたとなれば悪評が立つだろう。そうなれば私にもお前にも不利益となる。私の行動はごく正当なものだ。お前のことを気にかけているのだって、夫として振る舞うなら当然のことで」
「それは確かにそうですけれど、別に無理をなさらなくてよろしいのですよ」
だって――。
「ヒューパート様はわたくしの顔など見ていたくないのでしょう?」
その、はずなのに。
どうしてわたくしを見張るような真似をするのかわからなくて、溺愛のふりをしている間に少しは信頼されたかと思ったけれど、そんなこともなかった。
わけがわからない。だからとてつもなく気持ち悪かったのだ。
クロエは愛されているのですねと言う。アンナ嬢は本当はわたくしたちの仲が良好なのではないかと疑っているのが窺えた。
でも、そんなわけない。彼の行動の一つ一つを見ているわたくしにはわかる。現に今だってそうだ。
ヒューパート様は顔を歪め、わたくしを軽蔑するような目で見つめてくる。
「お前は、幼少の頃の言葉なんかを持ち出すのか」
「狭量な女ですので、記憶してございましたわ」
だからわたくしは嫌われるのだろう。
わかっている。こんなことを言うのは、可愛げがないと。
もしもサラ嬢なら、たとえあんなひどい言葉を投げつけられても許せるのだろうか。わたくしだから、今もあの言葉たちを忘れられないでいるのだろうか。
――幼少の頃の言葉なんか。
そんな風に言うが、あれにわたくしがどれほど傷つけられたか、彼はわかっていない。
たとえ美しいドレスや宝石を贈られようとも、たくさんのスイーツを食べさせてもらおうとも、そう簡単に帳消しにできるようなことではないのだ。
それくらい心の傷は深かった。
「ともかく、わたくしへ余計な配慮をなさらないでくださいませ。己の身くらい守れますわ。危険があればお伝えいたしましょう。ヒューパート様のご迷惑になるようなことは今後はいたしませんので」
直接な言葉で告げなかったが、それはわたくしからの紛れもない拒絶。
それを感じ取ったのであろうヒューパート様は、わたくしをギロリと睨みつけ、言った。
「……わかった。お前の好きにしろ」
「ありがとう存じます。それでは」
ドレスの裾を摘んで頭を下げると、わたくし踵を返し、ヒューパート様の執務室を静かに後にした。
少し言い過ぎたかも知れませんわね、と思ったけれど、決して今述べた言葉の数々について撤回はしなかった。
言いたいことが言えてせいせいする。
ヒューパート様はきっと謝ってくださらないだろう。所詮わたくしの戯言に過ぎないと笑うかも知れない。
それでも良かった。
初めての夫婦喧嘩とでも呼ぶべきもの終えて心が軽くなり、わたくしは思わず微笑んだ。
「所詮、わたくしたちに溺愛夫婦を、公衆の面前だけではなく城の中でまで演じるなど到底無理でしたのね」
無理をするくらいなら使用人に陰口を叩かれる方がよほどマシというもの。
なのにどうしてこんなに心が空っぽと思えるほどに軽くなってしまったのかはわからなかった。
――これがわたくしとヒューパート様の冷戦とも言える日々の幕開けとなったのである。
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