第十回「制服」
今週は慌ただしかった。社外での会議や打ち合わせが月、火、水と立て続けに入っており、オフィスでひと息つく暇もないほどの忙しなさ。木曜日になってようやく落ち着いたと思ったら、今度は書類の山が押し寄せてきた。現在の立場になって二年。緊張感は未だ胸の中にある。
ただでさえ億劫な会議だが、その日はスーツを着ていかねばならないというから更に厄介だ。意外と思われるかもしれないが、私はフォーマルスタイルが苦手。窮屈で、動きづらくて、何より着ている間は四六時中背筋を正していなければならない。これが面倒で仕方ない。
現代社会において、スーツはビジネスでのプロフェッショナリズムを表現する手段として使用されている。ブラウスを着てジャケットを羽織ることは、他の人に対して自分の真剣さや信頼性を示す手段なのだと入社時の研修では教わった。曰く、そうでなくてはビジネスの場においては信用を得られないのだという。
誰もが同じ服を着ている――。
これを徹底することで、社会は一定の秩序を保っているのだろう。逆にそこからはみ出す行為は異端とみなされて誹りを受ける。「着ない」という選択が許されないのが社会のルールだ。
人々が服装に統一基準を設けるようになったのは、果たして何時の頃からか?日本では飛鳥時代から公の場での服制が定められた。やがて大陸に倣って律令ができると、それはさらに徹底化され、身分や家柄によって着られる装束が事細かに定められてゆく。
平安王朝の時代、男性は束帯、女性は
そうした縛りの中でも、平安貴族たちは最大限のおしゃれを楽しんだ。装束の紋様であったり、女性の場合は重ね着で表現されるグラデーションなどで美を追求した。このような「制約の中で楽しむ」という服飾の文化は現代にも受け継がれている。
組織ごとに規則は違えど、スーツの色は自由。ジャケットやシャツ、ブラウスをどう選ぶかによって組み合わせは多様で、中にはそれで個性を表現する人もいる。
高校時代は制服を着崩すことが一種の流行りともなっていた。私の居た学校は身だしなみについての校則が緩く、基本的に「制服さえ着ていればOK」という緩慢さ。おかげでスカートの丈は短く、派手な髪染めや化粧も許容されていた。きっと、学校付近で暮らす一般の人々には不良の巣窟と思われていたに違いない。
スーツや制服には「着崩し」の文化が存在する。この文化は、着るべき服装の規則やスタイルに対する一定の自由度を認め、個人のアイデンティティや快適さを尊重するという点で、とても大切な事だと私は考えている。
逆に、こうした縛りの中で工夫をして自らの個性を表現する行為は独創性や発想の豊かさを養うのに効果的。社会に出るまでに、一度は体験しておくべきだろう。
しかしながら、近頃は何処の中学・高等学校も校則がシビアになり、ほんのわずかな着崩しさえ許されなくなってきていると聞く。あるいは校則が大幅に見直され、私服での通学を認めるところが増えているとか。どうにも両極端だ。
これも時代の流れなのか……。
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