第九回「先例」
九月に入った。世間でいえば夏休みが終わり、学生諸君は二学期の始まりを嘆いていることだろう。働く大人たちは夏バテに苦しんでいるかもしれない。
まだまだ残暑は続きそうだ。猛暑日が和らぐのが何時になるかは不明だが、熱中症を防ぐために油断はできない。
この連載を書いた昨晩、私は己の過去について振り返ってみた。全てが輝かしい思い出とは言えない。今年の夏でさえ、「こんなはずでは…」と悔しい結果に終わった回数の方が多かったくらいだ。それでも自分なりに過去にはケリをつけ、前を向いて行かねばならないだろう。
だが、それでも私はは過去から逃れられない気がする。過去という時間の広がりは、私のみならず全人類の生活に深い影響を与える要素のひとつであり、それを理解することは私たちの自己認識や未来への洞察に不可欠だ。私たちのルーツ、経験、そして教訓の宝庫であり、誰もが過去の出来事を基に人生を作り上げている。むしろ、完全に過去を忘れて生きている人などいないのではないか? 誰にでも必ず、生き方の指針となり得た出来事が善し悪しに関わらず存在すると私は思っている。
断言してしまえば、過去は私たちのアイデンティティの一部である。私たちは過去の出来事や経験から学び、成長する。過去の成功や失敗、喜びや苦しみは、私たちが今日の自分たちである理由の一部だ。過去を振り返り、その中から肯定的な要素を抽出して実践し、逆に負の要素から教訓を得て同じ轍を踏まぬように努める。それこそが自己啓発の本質であり、事実、書店には偉人たちの教訓本がたくさん並んでいる。私たちは過去から学び、過去の自分を受け入れることで、自己受容と成長を実現するのだ。
冒頭では「思い出」と形容したが、やはり個人的な記憶と感情とは切り離せないだろう。幼少期の思い出、家族との経験、友情、愛情、喪失など、これらの出来事は私たちの感情的な豊かさを形作る。過去の思い出は私たちの心に残り、喜びや哀しみを感じるきっかけとなる。
しかし、過去に囚われることは危険だ。過去の過ちやトラウマが邪魔をして先へ進めないことが私にもたびたび起こっている。過去の出来事に執着することは、新しい機会や経験を逃す原因になる。過去を振り返ることは重要だが、それに捉われすぎず、過去の負担から解放されることも必要だ。過去を受け入れつつも、未来への希望と可能性に焦点を当てることが、健康な心のあり方だ。尤も、私には出来ていないのだけど。
近頃は何をするにも昔の嫌な記憶が蘇る。その多くは学生時代、思い描いていた青春を過ごせなかった悔しさに由来するものだ。あるいはいま、こうして時を紡いでいる現実が辛すぎるから逃避の先として過去を選んでいるのかもしれない。「あの頃は良かった…」などと。当時は当時を愛してなどいなかったというのに。
私の問題は過去に囚われすぎることだ。過去に囚われることは、個人的な成長を阻害する。過去の過ちや失敗にこだわることで、新しい挑戦を受け入れる勇気を失い、自己効力感を損ねてしまう。また、自己肯定感を低くし、自信という自信が一切失われる。成長は新しい経験と学びからしか生まれない。過去への囚われはそれを妨げる。
成功例に依存しすぎるのも悪い癖だ。本来ならば、良き成功例は他の人々に成功へのアプローチを示す確実なの証拠であり、誇っても良い代物。成功例を研究し、その要因やプロセスを理解することで、個人や組織は失敗を回避し、より効果的な方法を見つけることができます。他の成功例から学び、それを自分の状況に適用することで、個人的なスキルや知識を向上させ、成長の機会を活かすことができる。
誰かが見つけ出したベストプラクティスを成功への方程式、いわばテンプレートとして扱い、組織の中で共有する。それによって組織全体のパフォーマンスを向上させるのに役立つのは間違いない。失敗のリスクを最小限に抑えられて、尚且つリソースを最適に活用できるという点でも、成功例をなぞることは重要だ。
しかし、過度に成功例に囚われすぎることは、創造性や革新性を抑え、発展の可能性を制約する恐れがあるからいけない。
過去の事例が上手くいったとしても、自分の状況や環境とは大方異なっている。それに、成功例をなぞることは、競争市場においては限定だ。他者が同じ方法を採用していたら差別化が難しくなるし、個性が埋もれてしまう。独創性だって失われてゆく。
ビジネスや社会は常に変化し続けている。過去の成功例に固執することは、新しい課題や機会に適応するのを難しくする。柔軟性と適応力が求められる状況では、ベストプラクティスの堅実な実行だけでは対応できない。
では、私を含めた少なからぬ人々が、過去に固執し、その成功例をひたすらになぞることを是とするのは一体、何故か?
それはある種の強迫観念、不安からくる恐怖感だと思う。失敗を恐れる気持ちが、依存へと向かわせるのだ。
「〇〇したら必ず成功する」というジンクスは束の間の安心感を提供してくれる。不確実性や不安の高い状況では、何かしらの信念やルーチンが、予測可能性を持たらし、安心感をもたらすことがある。たとえそれが科学的に説明できないものであっても、人々は安心感を求める生き物であり、それを得るためには非科学的な空想に頼ることも仕方なしというわけだ。
ジンクスを信じることで、人々は状況をコントロールできるという錯覚にとらわれている。成功や幸運を特定の行動に結びつけることで、自分が物事を操作できると感じることができる。これは、不確実性や予測不能な出来事に対する不安を軽減するのに役立つ要因だ。
『初めのうちはとにかく前任者や先輩の先例をなぞり、独自色を出すのは立場が板についてきた後で』
これは私が編み出した規範である。
しかし、なぞりすぎてはいないか? “成功させること”よりも“なぞること”の方に意識をとられすぎているのではないか?
そうなっては本末転倒だ。
私は過去と向き合うのが不得手。それは親しい人に良く苦言を呈されるし、自分でも認める所。いつになったら克服できるかは分からないが、ひとまず現在の自分の生き方を「これで大丈夫だ」と肯定してあげる所から初めてみよう。
余談だが、昨日は八月三十一日。天文学的には「スーパームーン」と呼ばれる現象が起きた日で、一年の中で月が最も綺麗に見える日らしい。かくいう私もホームグラウンドたる東京の空を見上げた。月には様々な言い伝えがある。一説によると、月夜の晩に菊の花を浮かべた酒を飲んだ者は不老長寿を得られるとか、得られないとか。私自身、月に願掛けをした翌日には良い事が起きたような……?
おっと、いけない。またしてもジンクスにとらわれるところだった。危ない危ない。
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