第三回「料理」

 子供の頃から台所に立たされてきた私にとって、料理は生まれて初めて体験したクリエイティブな行為だったのかもしれない。食べ物を調理するだけの単純な作業に留まらず、料理という名の作品を「つくりあげる」ことができるからだ。


 食材や調味料を自由に組み合わせることさえできれば、料理の可能性は無限の広がりを見せるもの。


 シェフや料理研究家は、自分自身のアイデアや感性を存分に盛り込み、日夜食卓に素晴らしい芸術を生み出し続けている。書店に行けば少し前には無かったレシピを記した本が続々と新刊で売られていることからも分かる通り、料理とは絶えず進化していく芸術と考えて良いだろう。


 私は超ド田舎育ち。専業農家の規模には遠く及ばないが、地元の実家も畑を所有していて、そこで獲れた野菜が食卓に並ぶのが雨宮家では当たり前だった。夏から秋にかけて、収穫の時期になると近所の人が続々とやって来て、各々の家庭菜園で獲れた野菜を持ち寄っては合同食事会を開く習わしもあった。尤も、そこで作られる献立は専らマニアックな郷土料理が中心で、食べ盛りの子供の舌には少し合わなかったのだが。


 そんな子供が食べたい料理の代表格と言えばカレーライス。野菜を嫌いになりがちな少年少女たちも、この時期のカレーに使われているトマト、ズッキーニ、キュウリ、ピーマン、エリンギなどは喜んで口に運ぶ。


 野菜特有の苦みを消してくれるのは料理の魔法。多くの子供が嫌う癖の悪味わいがスパイスの香りに中和され、軽やかな口当たりへと変わる。むしろ、調理の結果によって引き立てられた野菜の甘みは子供の味覚を良い意味で刺激する。


 夏野菜のカレーこそ、まさしく料理の醍醐味といえる「手の加え方次第で食材が如何様にも化ける」ことの典型例なのだ。


 あの頃はカレーを作るのが好きだった。炒めた野菜にルーを加えて、そのまま煮込む。一連の肯定は私に無上なる興奮を与えた。きっとそれはカレーだから。香辛料の匂いが期待感を高めていたのだろう。


 子供の頃はコンビニが近所に無かった。スーパーマーケットや飲食店なども離れた所にしかなく、出前を取ろうにも「範囲外だ」と言われて断られてしまう。


 それゆえ我が家では上述の家庭菜園で収穫した野菜に加え、月に何階かの買い出しで調達した食品を少しずつ費やして料理してゆくこと、これが食生活の基本だった。


 よって幼い時分より料理の基本を教え込まれ、中学生に上がる頃にはいっぱしの料理が作れるようになっていたというわけだ。ただ、皮肉にもその時代になると我が地元もようやく開発が進んでスーパーが建ち、我が家も外食の機会が増え始めたことで、私が自炊する機会は少しずつ失われてゆく……。


 私が上京し、まず驚いたのはコンビニの多さだ。「犬も歩けば棒に当たる」ならぬ「都民は歩けばコンビニに当たる」と言っても大袈裟でない程、あちらこちらにコンビニが建っている。


 腹が空けばコンビニへ入り、弁当やお菓子や軽食、ホットスナックなどを手軽に買って食べられる。腹が空けばまず料理をしなければならなかった地元時代の苦労は最早無い。


 近頃の食生活は、専ら出来合いのものを買ってレンジでチンして食べている。一昨年から現在にかけ、台所に立つのは週に一回程度。何かを「買って食べる」ことが本当に珍しかったあの頃とはまったくもって真逆だ。仕事の多忙さを言い訳に、料理をすること自体がひとつのイベントともいえる生活スタイルになってしまった。


 しかしながら、私を含めたほとんどの人類が、古い意味での“料理”あるいは“調理”から遠ざかっているのもまた事実。現代のレトルト食品は非常に幅が広く、電子レンジさえあれば大抵の料理は食べられる便利な時代だ。そもそも現代人は多忙すぎる。料理にかかる手間を他のことに費やせるなら、その方が良いに決まっているし、その方が体が休まるというもの。


 また、昨今の技術革新により、料理を作ることそのものにも変化の波が及ぼうとしている。イギリスの全自動調理システム「モーレイ・ロボット・キッチン」が世界に衝撃を与えてから、およそ八年。


 AIによる料理および調理技術の学習も進み、当時は一種類しか作れなかったレシピ数も、現在では三十にまで増え、最終的には五千種類にまで増える予定だというから驚きだ。


 将来、人が完全に台所に立たなくとも良い時代が、必ずやってくる。個人的には製品の低価格化と普及まであと二十年くらいと見込んでいるが、もっと早まるかもしれない。


 栄養のバランスも栄養学を知り尽くしたAIが考えてくれるから、人間は何も考えなくて良い。食べ合わせの善し悪しも当人の過去のデータを把握しきったAIが判断してくれるから、人間はただ、ロボットによって調理された食品を腹に詰め込むだけで済んでしまう。


 そんな時代になったとき、果たして人が台所に立つ意味と価値は残るのだろうか?


 先ほども書いたように、近未来において、人が自らの手で料理をするのは特別な出来事があった場合に限られてくる。生活で必要な行為から一種のエンターテイメントへと、料理の役割は変化してゆく。そう私は確信している。


 大切な人のために台所に立ち、包丁を握る――。


 調理の全自動化の波が及んでゆくであろう今後の時代にて、その行為はますます特別味を帯びてゆくはず。もしかすれば、人の手による料理そのものが神聖視される風潮が広まるかもしれない。ただし、きっとその頃には人々はシステムに依存するようになり、大方が料理の作法を忘れてしまっていたりして。


 かくいう私も料理が下手になった。大抵は自分の舌を満足させられる程度に作れるが、小学生の頃に比べれば確実に腕が落ちている。


 敢えて稚拙な言い訳をさせてもらえば、それは環境のせいだ。何かを食べるのにわざわざ料理をする必要が無い環境での生活が、私を変えてしまったのだ。今さら昔に戻れといわれても便利さが体に染みついてしまっているので、おそらく不可能。時折、家に遊びに来る部下のために台所に立つ時間が、本当の意味で特別なものになってしまった。それでも「美味しい」と言ってくれる彼女のために毎週土曜日の夜だけ台所に立つ暮らしも、それはそれで悪くは無いと思っているけれど。


 と、そんなことをしみじみと考えながらこの原稿を書いているのは職場の昼休み。ああ、そうだ。久々に昼は何かしら作ってみようかしらと立ち上がって、オフィス内の給湯室を覗いてみたところ、少し前まで小規模ながらに存在していたキッチンスペースは撤去されていた。


 理由は『業務の効率化のため(意訳 : 昼休みに料理をしている暇があったら業務のことを考えろ)』。


 会社の方針で今年の春に台所が閉鎖されていた事実をすっかり忘れていた。悲しいかな、ここでも時代の流れを感じずにはいられない。


 明日は土曜日。私が週の中で自ら包丁を握る、唯一の日だ。料理をする機会が減っているからこそ、それを行う時間を少しでも楽しみ、創作活動に携わる身としてクリエイティブな発想を大切にしていきたい。


 なお、ここだけに書いておくが、考えている明日のメニューは『バター焼き夏野菜のハーブ添え』。何のことは無い、酒に合うことだけを考えてつくり上げた私のオリジナル料理である。


 敢えておすすめはしないでおこう。

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