第2話
誰かに勢いよく後ろに引っ張られた私は、受け身もとれず屋上の床に転がった。
頬にチリリと痛みが走る。
痛む身体を起こして誰に引っ張られたのかを確かめた。
するとそこには見知らぬ女子生徒がいた。
叫び声から相手が女であることは分かっていた。
それなら主要人物であるウェンディかと思っていた私の予想は、見事に裏切られた。
女子生徒は小さく呻きながら自身の身体をさすっている。
「大丈夫? 怪我はない?」
自分の自殺を止めようとした相手のケガを心配するのは何だか妙な気もしたが、目の前で痛がっている相手を放置するのもどうかと思ったのだ。
「あ、はい。大丈夫です」
女子生徒は身体をさすりながらも、へらりと笑ってみせた。
おやと思った。最初は見知らぬ女子生徒と思ったが、この顔はどこかで見たことがあるような気がする。
どこかと言っても絶対にゲームの中なのだが、どの場面でだったか。
茶色の髪にそばかすに下がり気味の眉。
「あーーーっ!!」
私の思考は彼女の大声で途切れた。
「あなた、怪我をしてるじゃないですか!? 私のせい? 私のせいですよね!?」
目の前の女子生徒は、今にも失神しそうな勢いで狼狽えだした。
「このくらい唾を付けておけば平気よ」
「え? 唾?」
貴族の令嬢は怪我をしても唾はつけないのだろう。女子生徒は目をパチパチとさせつつ首を傾げている。
「あー、つまり平気ってこと。こんな傷なんでもないわ」
「なんでもないことはありません! 綺麗なお顔に傷をつけてしまうなんて! 私は、私は!」
我に返ったらしい彼女が再び狼狽えだした。
余計なお世話とはいえ自殺者を助けたというのに、腰が低いというかなんというか。
「こんな傷は数日もすれば治るわ。気にしないで」
「でも! 私はなんてことを!」
「あなたのせいじゃないってば。気に病む必要はないわ」
自殺するはずだったのに、どうして私は彼女を慰めているのだろう。
数日もすれば治るだなんて、今まさに飛び降りようとしていたのに。
「お優しいのですね」
「事実を言ったまでよ」
彼女は何やら私に言いたいことがあるようで、ちらちらと私の顔を見てきた。
「言いたいことがあるならどうぞ」
私が促すと、彼女は戸惑いつつも口を開いた。
「あの、死なないでください。お願いします」
「あなたには関係のないことだと思うけど」
「それでも、自殺をされると、困るんです」
彼女が困ったように下がり気味の眉をさらに下げた。
その顔を見て、私は彼女が誰であるかをはっきりと思い出した。
「第一の被害者……」
「へ?」
「いいえ。なんでもないわ」
間違いない。彼女は『死花事件』の第一の被害者だ。
* * *
彼女がハーマナス学園の入学式の夜に被害者となってしまう人物だと気付いてからは、彼女を蔑ろにすることは出来なかった。
せめて最期を迎えるまでは安らかに暮らしてほしいと思ったのだ。
そのため私は彼女に連れられるまま、医務室へと足を運んだ。
「私が薬の用意をしている間に傷口を洗ってくださいね」
そして言われるままに水道で傷口を洗った。少し熱を持った頬に水がひんやりとして気持ちがいい。
「勝手に薬を使ってもいいの?」
「寮に保険医の先生は常駐していないので、基本的には自分で処置するんです。使った薬品と怪我の記録さえ残せば自由に処置をしていいんですよ。もちろん大怪我の場合は保険医の先生を呼ばないとですが」
ふと気になり尋ねると、彼女は当然のようにそう答えた。
「あなた、寮のことに詳しいのね。上級生かしら?」
彼女が自分と同学年なことはゲームをプレイしたため知っているが、白々しくそう尋ねてみると、彼女は嫌な素振りも見せずに私の質問に答えてくれた。
「いいえ、新入生です。ただ私は中等部からこの学園に通っていますので。寮が使えるのは高等部からですが、姉に寮に入れてもらったことがあるんです」
そう言ってから彼女は自分の失言に気付き、人差し指を口元に当てつつ「中等部のときに寮に入ったことは秘密ですよ」と囁いた。
ゲームでは彼女が主人公たちと同じ新入生だったということは描かれていたが、彼女のパーソナルなことは一切描かれてはいなかった。
なにせ入学式の日の夜に死ぬ第一の被害者だから、詳細を描く必要が無かったのだろう。
「中等部、ね」
このハーマナス学園には高等部だけではなく中等部も存在する。
ローズもウェンディも高等部からの入学だが、エスカレーター式で中等部から高等部に上がる生徒も多い。
攻略対象では、ウェンディの幼馴染であるルドガーが中等部からのエスカレーター組だ。
彼女の話からすると、寮暮らしをさせるのは高等部かららしい。
そして寮には寮生以外はむやみに入ってはいけないルールがありそうだ。
「お待たせしました。用意が出来たのでこちらへ。少し染みるかもしれませんが、我慢してくださいね」
ハンカチで軽く顔を拭いてから、彼女の正面の椅子に座った。
彼女は消毒薬を染み込ませたガーゼを、水で洗ったばかりの私の頬に当てた。
「痛くはないですか?」
「大丈夫よ、このくらい」
彼女は心配そうに私の顔を見ているが、私は掠り傷程度で嘆くような人生を送ってきてはいない。
我ながら生傷の絶えない人生だった。
「お強いんですね。えっと……」
「ローズよ」
彼女が尋ねるよりも早く察した私が名乗った。
「ローズ様ですね。申し遅れました。私はジェーン・クレモンと申します」
「様って。同級生なのに」
私が不思議そうな顔をすると、彼女、ジェーンは、バツが悪そうに自身の頭をかいた。
「今まで動揺していて気付きませんでしたが、溢れ出る気品があまりにも高貴な方でしたので。私、ローズ様に失礼をしてしまいましたよね」
今のローズは中身が庶民の『私』なので気品に溢れているかは怪しいが、きっとジェーンはローズの手入れの行き届いた長い髪や、実用性皆無の芸術品のような指先を見て言ったのだろう。
ローズは身の回りの世話の全てを侍女に任せているからこその美しさを持っている。
ちなみにハーマナス学園では自立した生徒を育てることを理念としており、そのために侍女を寮に連れてくることのできなかったローズは入学初期から苦労をしていた描写がある。
そしてその八つ当たりもあって、ウェンディに強く当たっていた。
ウェンディからしたら、たまったものではない。
「別に失礼なことなんて何もしていないわ。手当をしてくれてありがとう」
ジェーンの目を見てお礼を言うと、ジェーンの顔がぱあっと明るくなった。
「ありがとうだなんて久しぶりに言われました。感動で涙が出そうです。こちらこそ手当てをさせてくださってありがとうございました」
お礼を言う立場なのは私の方なのに、ジェーンからもわけの分からないお礼を言われてしまった。
この子は少し変わっているのかもしれない。
それともこのくらいの年齢の子はみんなこうなのだろうか。
元いた世界では高校なんてはるか昔に卒業してしまっていたから思い出せない。
はるか昔とは言っても私はまだ二十代だったが、会社に就職をしてしまうと、高校時代が遠い昔のことのような気がしてしまう。
そんなことを考えている間にも、ジェーンは本当に流した涙をハンカチで拭っていた。
「別に泣くようなことではないのに」
「ローズ様は高貴な方なのに、私のような者にもお礼を言ってくださるのですね。高貴な方はみなさん意地悪なのだと思っていたので驚きました」
「意地悪を、されたのね」
ジェーンは私のことを褒めようとして言ったのだろうが、どうにも聞き流せなかった。
「あっ、えっと、そんなことは」
ジェーンは急いで首を横に振ったが、その必死な仕草さえも私の予想を肯定してしまうだけだった。
だってあの仕草は、昔家に児童相談所の人が来たときの私と同じだから。
肯定したらこの後にどんな仕返しが待っているかと怯えて、虐待は無かったと宣言する私と同じ。
そう思った途端、私の口から勝手に言葉が飛び出ていた。
「……私が守ってあげるから安心なさい」
無意識に口をついて出た言葉に自分でも驚いたが、しかし取り消すつもりはなかった。
誰も彼女を守ってくれないのなら、そのまま第一の被害者になってしまうというのなら、私が他の誰からでも、ゲームのシステムからでも、彼女を守ってあげないと。
私が誰かにそうして欲しかったことを、やってあげないと。
「どうして私なんかを? 私はただの商人の娘なので、高貴なローズ様にとって利益は一つもありません」
「利益なんかいらないわ。それでも守りたいの」
だって、過去の自分を見ているかのような彼女を救えるのは、私しかいないのだから。
彼女を救えば、ほんの少しだけでも過去の自分を救える気がしてしまったから。
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