第10話 少女の幸福終焉(ハッピーエンド)


 僕――大倉 京介――は深呼吸した。

 長いピンクブロンドの髪の毛、一本。――本当に自分が自分でないものに変質してしまったという事実を受け止めつつ、一糸まとわぬ姿の僕は目の前に描かれた魔法陣にそれを置く。

 横目に映る姿見には、少女の姿。ウェーブのかかった腰までかかる髪を、結ばず伸ばしっぱなしにした、しかし肌の白さと雰囲気が、触れたら壊れてしまいそうな儚さを醸し出す、一言で表すとすれば「美少女」。

 これがいまの自分の姿だというのだから、驚きだ。

 そんなはかなげな美少女は、右の掌に小さな赤い石を握りしめ、深呼吸する。

 覚悟、決めなきゃ。

 深呼吸。蝉しぐれ。滴る汗。――あるいは、涙。

「さよなら、僕の世界――――我、崇め奉る」

 こうして、一言一言、噛みしめるように唱える呪文。

「――目覚め、我が願い、叶えたまえ」

 言い切ると、僕は目をつぶった。


 風が、ごう、と吹いた。

 眩暈。吐き気。倦怠感。――現れた奴の、存在感。

「でたな、邪神――こっくりクトゥルフ大納言ハスター」

 薄目を開けると、いやでも目に飛び込んでくる圧倒的な怪物。

 狐耳が生え、十二単を着た、緑色のタコのような名状しがたきバケモノ。

 僕はひるむことなく、呪文を唱えるそれに向かって叫んだ。


「僕を、男に戻して――!」


 瞬間、パカっと縦に割れる能面。現れる口。伸ばされる触手――しかし、瞬間右手に握りしめたものを胸元にかざした。

 バン、とはじかれる触手。僕は呪文を唱えだす。

「にゃる、しゅたん。にゃる、がしゃんな」

 呼応するように、輝きだす赤い石。

 ――輝くトラペゾヘドロンのかけら、であっていたんだ。図書館で調べた甲斐があった。


 輝くトラペゾヘドロン。星の智慧派なる宗教団体が崇拝する神体。異星で作られたとされる、黒光りして赤い線の走る多面結晶体形の宝石。

 そして、その正体と効果として――星の智慧派が崇拝する神「闇をさまようもの」、すなわちニャルラトホテプという「神」の召喚があるという。

 ニャルラトホテプ。日本の娯楽作品などでもたまに耳にすると思う。

 這い寄る混沌、無貌の神、闇をさまようものなど、様々な呼び名や姿を持ち、その正体や行動原理はもはや不明。

 そんな奇々怪々な神は、僕にも接触していた。

 ヒロイン面していつの間にか僕のすぐそばにいた「彼女」の銀髪を思い出しながら。

「くとぅるふ・ふたぐん、にゃるらとてっぷ・つがー、しゃめっしゅ、しゃめっしゅ、にゃるらとてっぷ・つがー、くとぅるふ・ふたぐん」

 まるでパソコンのパスワードを入力するかのように恐る恐る唱え。

 一度深呼吸して、眩く光っている右手の石を一度だけ見て――叫ぶように、一息で唱え切る。


「来たれ――ニャルラトホテプ!」


 ぱん、と砕け散る赤い石。役割を終えたそれは姿を消して――。


「待ってましたよ、京介さん☆」

 瞬間、顕現したのは――少女。

 僕のよく知った、銀髪の少女だった。

 白いキャミワンピをふわりと揺らし、僕を一瞥して。

「……なんで裸なんですか。風邪ひきますよ☆」

 なんて言ってくる。

 その少女こそ、ニャルラトホテプだった。


「ま、そんなのはどうでもいいんです。……待ってましたよ、邪神。いや、神モドキ」

 ニャルラトホテプはばっとその神モドキ――こっくりクトゥルフ大納言ハスターへと顔を向ける。

「神の名を騙って、人間を食い散らかして。なにがやりたかったんですか、あんた」

 一瞬見えた横顔は、まさしく本気の怒りを湛えたもので。

「そのふざけ切った名前も、知り合いの姿をパロったその姿も、やってることも、なにもかも――気に食わないですね」

 本物の神から突き放されるように告げられたその怪生物は、怯えるかのように触手を引っ込めて――。

「おっと、美少女のお尻を狙うとは。なかなかやりますね☆」

 こっそり彼女の背後を襲おうとしていた触手を掴み、「くたばれ」と握りつぶした。

「モノホンの神様にはかなわないんですよ、所詮。諦めて消え去って下さい☆」

 そんな風に告げた「本物の神」。けれど――僕は「待って」と声をかけた。


「なんですか、一体」

「ただ消えてもらうだけじゃ――――そうだ、面白くない。だから――取引をしよう」

「結構言葉を選びましたね。安心してください。取って食ったりはしませんから☆ すくなくとも、あなたは」

 ない金玉が縮むような感覚に陥りつつ、しかし僕は勇気をもって告げた。


「契約だ。あの神モドキを殺してほしい。そして――僕の妹と、親友を、取り戻してくれ」


「ほう――契約というからには、なにかそれに見合った対価が必要です。アナタはなにを差し出しますか?」

 やはり聞かれた質問に対して、僕は震える腕を押さえつつ、息を吸って、告げた。


「僕の――――京介の存在を、くれてやる」


「なるほど。美しい自己犠牲。お涙ちょうだいのハッピーエンド☆ けれど――あなたが死んでも、誰も特はしませんよ」

「僕が死ぬわけじゃない。――消えるのは『京介』だ」

「言葉足らず過ぎますねぇ。つまりは『京介』としての存在情報――アナタの男として生きた十八年間の記録や記憶その他もろもろ全てを捧げて、アナタ自身は小学六年生の少女『りん』として生き永らえると。考えましたね☆」

「そうしないと――僕が味わったのと同じ辛さを、蘭やアヤちゃんに味わわせることになるから」

「……いいんですか? それは、あなたが絶対取り戻したかったもののはずでしょう?」

「いいんだよ。悲しいけど――彼女たちの存在には、かないはしないから」

「そうですか――なら、契約成立としましょう」

 彼女は微笑んで、僕の手を取った。


「ただ、とどめを刺す――殺すのは、あなたがやって下さい」

「……なんでか聞いていいか?」

 そう聞くと、彼女はいままで見せた仲でも一番きれいな笑顔で、こう告げたのである。

「そのほうが面白いでしょう☆」

 実に彼女らしい答えな気がして、僕は少し笑ってしまった。


「さ、舞台は整いました。やっちゃってください☆」

「ああ、わかったよ」


 さあ、『僕』の最期の仕事だ。


 僕はにらみつける。先ほどから硬直していた邪神を。

 ――不思議と、僕は理解する。

 邪神は、恐れている。目の前に迫りくる、死の気配を。

 故に――触手が伸びる。僕を殺すような勢いで。

 ごう、という風切り音と共に鞭のように放たれた触手を、僕は全身を使って回避した。

 少女の身体の弱々しい筋肉が悲鳴を上げる。けど――諦めるわけにはいかない!

「っ、あああ!!」

 回避した勢いのまま、僕は叫び――助走、一歩、二歩――そして、跳び出した。

 まるでバスケのダンクシュートのように、空中、振りかぶった右手。

 歯を食いしばって――固い能面に、拳を当てた。

 がん、と固い衝撃。その直後。

 ぴしぴしっと、卵の殻が割れるように、能面にひびが走って――――ぱきん。


 その邪神の最期はあっけなかった。

 ぴしぴしと能面からその怪生物の全身に走ったひび。そして、まるでガラス細工のように、ぱりんと粉々に砕け散ったのである。


 降り注ぐ、かつて邪神だったもの。それはまるで舞い落ちる雪のようで――無駄にきれいに見えて。

 なんだか、すべてが終わったような気さえした。


「こんぐらっちゅれーしょん☆ 見事な幕引きでした☆」

 ぱちぱちぱち。銀髪の少女――ニャルラトホテプは拍手して、息を切らした僕に笑いかける。

「ここでエンドロールでも流れれば幾分おしゃれにもなるんでしょうけども……あなたの目的、なんでしたっけ?」

 そう言われて、ハッと思い出す。

 ――邪神を倒すのはあくまで手段。本当の目的は――。

「大倉 蘭さんと、日吉 綾香さんの救出。叶わなくなっちゃいましたね☆」

 軽々しい口調で、目の前の神は告げた。

 唖然とする僕に、銀髪の女神は「もしかして怒ってます?」なんて当然のことを聞いてくる。煽ってんだろお前。

「まあ、そう怒らないでください。――邪神が倒されたことで、あなたの大事な人たちがどうにかなる布石が打たれたのは、確かなことなんですから」

「……どういう、こと?」

「突然ですけど、あなたにはタイムリープしてもらいます」

「は?」


 視界がブラックアウトした。

 そこから先は、よく覚えていない。

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