第10話 「平和とは」始まり指定
平和とはじめて感じることができた。
子どもを産んでから、はじめて。
出産前の準備として、長年保ってきたロングヘアをショートボブにした。
私なりの、母親になる決意だった。
自分のビジュアルには全面的に自信がなかったけど、唯一髪質だけは違った。「髪が綺麗だね」と褒められることもうれしくて、ヘアケアにはお金と時間をかけていた。
出産後は、自分のことは後回し。メンテナンスする余裕はない。
2~3時間ごとの授乳、小間切れの睡眠……身体はボロボロで、心も疲れ切っていた。
カラスの行水的入浴では、頭皮の皮脂を流すのがメインで、トリートメントなんてもってのほか。ドライヤーで乾かす時間はなく、タオルを頭に巻いたまま赤ちゃんの世話に追われた。
結果として、髪をバッサリ切った選択は間違っていなかったのだけど……産後一か月健診で久々に外出の支度をする段になり、鏡も久々に見た。
ヘアスタイルの「スタイル」の片鱗もない、ちんちくりんっぷりに泣けてきた。
ロングならまとめ髪にしてしまえば格好がつくけど、放置したショートボブには丁寧なブローが欠かせない。
赤子の名のごとく、顔を真っ赤にして泣く我が子に呼ばれて授乳を終えると、予約時間が迫っている。慌てて帽子を被って車に乗り込んだけど……。
病院内で被り続けていると変人に見られるので帽子を脱いで、撫でつけるように必死でおさめる。
待合室の隣のベンチには、同じ産後一か月なのにへこんだお腹で身綺麗にしている方がいる。
その時、猛烈に惨めさに襲われた。
「体調どうですか?」
診察室で、分娩を担当してくれた女医に聞かれた。
「母乳も良く飲んでくれますし、体重も順調に増えています」
用意してきた回答を口にした。
「いいえ、お母さんご自身のことですよ」
そうか、今日は経産婦である私の産後一か月健診だった……。
「あら、あら。マタニティブルーズかしらね。これ、どうぞ」
看護師さんがガーゼを差し出してくれた。
「泣いていいのよ」
女医にも優しく微笑まれ、涙が後から後から溢れてきて、止まらなくなってしまった。
気分が落ち込むとか、情緒不安定な様を見せたら、産後うつを疑われる。
そう身構えていた健診前の私。
だけど……もう、そんな緊張の糸は緩み切っていた。
この一か月間、まず第一に赤ちゃん優先。それは、強迫観念に近いものがあった。
やっと眠ってくれて私自身ウトウトしても、ハッと目が覚めて起き上がり、呼吸をしているか胸の動きを凝視する。乳幼児突然死症候群の恐怖に怯えていたから。
自分より大切に思える存在に出逢えたことに感謝して、幸せを噛みしめる日々だったことには違いないけど、うっかり死なせてしまう可能性がある小さな命を守り続ける重圧に圧し潰されそうだった……。
だから、まず、私のことを聞いてくれた。私の身体のことや精神面を心配して、気遣ってくれた。……その事実に、涙腺が緩んだ。
それが彼女達の仕事だということはわかっているけど、単純にうれしかった。
「人にシャンプーしてもらうのって、こんなに気持ちいいものだったんですね」
実感がこもりまくった言葉に、担当美容師は苦笑した。
産後四か月が経過し、やっと来れた美容院。
ただ伸びきっただけのミディアムボブは、私が赤子の命を必死に守った証のような気がして、再びショートボブにするのは躊躇われた。
それに、本来ならショートスタイルの方が、スタイルを維持するためにこまめに美容院へカットに通う必要がある。
「無造作に一つ結びすることが基本になってしまうと思うので、長さは揃える程度にしてください」
私には、まだまだ自分自身に時間をかける余裕がない。
そして、それをよしと思える自分がいる。
平和とはじめて感じることができた。子どもを産んでから、はじめて。
たった一時間ちょっとでも一人になれる時間ができたから……ではないな、きっと。
この四か月間で、実は何度かそんな息抜きの時間を設けてもらえていた。夫と実母の協力には、感謝している。
だけど、離れている間も赤ちゃんの様子が気になって気になって、ソワソワした。
「母親失格」と誰かに責められているようで、息抜きにならなかった。
それはたぶん、内なる自分自身の声。
今日は責める声は聞こえない。
子どもが第一なことには変わりがない。でも、私が私自身を大切にしたっていい。
時に自分の内なる心の平和ってやつを意識的に感じた方が、きっと子育てにもいい影響を及ぼすと思うから。
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