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わたしは徒歩通学だ。実家は東武東上線の朝霞駅に近いマンションだ。
けど、栗須の家は新座市にあるらしい。
朝霞東高校は朝霞駅から徒歩二十分ほどで、電車通学の生徒はたいていバスを利用する。
そこで、わたしと栗須は朝霞駅に近い中央公民館で落ちあうことにした。
朝霞駅から市役所通りをいくと、大きな自然公園に出る。自然公園の向かいに市役所の庁舎がある。屋上から「2020年東京オリンピック・パラリンピック射撃競技会場に陸上自衛隊朝霞訓練場が選ばれました」と書かれた垂れ幕が下がっている。
自然公園の手前には、広い駐車場があるフランチャイズのレストランが並ぶ。自然公園のほうに折れる道路も幅広で、両側の歩道も、それぞれ歩行者用と自転車用に分かれている。自然公園の樹木があるから、まるで林道だ。
その道をいくと、「朝霞市立朝霞図書館」と白地にゴシック体で書かれた看板がある。
看板の前にある建物は、じつは中央公民館だ。図書館はその奥にある。
栗須は中央公民館の門の前に立っていた。校外で会うと、栗須は高校生には見えない。せいぜい中学一年生だ。制服は特注だろうけど、成長を期待していたらしく、肩のところがぶかぶかだ。
栗須はガラス張りの玄関を見た。
「裏に図書館があるのに、なかにも図書室があるんだ。看板だけ見たらまちがえそう」
公民館の玄関ホールは吹き抜けになっている。正面から階段が伸びて、二階の回廊につながっている。玄関ホールは椅子とテーブルが並べられていて、談話できるようになっている。とはいえ、明かりは外光だけで薄暗く、長居したくなる場所じゃない。
「学校にいく?」
「さきにお昼ごはんにしたい」
わたしの質問に栗須はそう答えた。
市役所の正面にある喫茶店に入る。褪色した電飾看板が突きでている。ガラスケースに日に当たった食品サンプルが並ぶ。扉のガラスには、白地に緑で「営業中」と書かれた札がかかっていた。
店内は空いている。わたしはサンドイッチ、栗須はナポリタンを注文した。
ナポリタンは太い麺にケチャップソースがかかり、ソーセージの薄切りがのった古典的なものだ。
栗須は小さな口をケチャップソースで汚しながら言った。
「日曜日に調査のために学校にいくなんて、どうかしてるよ」
「ぜんぜん普通だよ。これは〈日常の謎〉なんだから」
わたしは分厚いサンドイッチにかぶりついた。栗須は不思議そうな顔をした。
「〈日常の謎〉って、なに」
「推理小説で殺人事件が起こるのが普通の謎。それより些細な事件が起こるのが〈日常の謎〉」
「基準がおかしい…」
栗須はフォークをもったままつぶやいた。
「じゃ、本木さんは〈日常の謎〉が好きなんだ」
「ぜんぜん」
「えッ」
わたしの答えに、栗須は目を見開いた。それから眉を寄せた。もっとも、顔が幼いから妙な表情になっているだけだったけど。
「ひとを日曜日に連れだしておいて、それはないんじゃない」
さすがに弁解しなければまずそうだ。わたしはサンドイッチを皿に置くと、ポケットから丸めたノートを取りだした。
不審そうにする栗須の前で、目当てのページを探す。
自分の乱暴な字による書きこみを辿る。ようやく目的のメモを見つけ、そのページを開き、背表紙を合わせるように片手で持った。
椅子から立ちあがり、舞台で俳優が台本を読みあげるように、ノートを掲げる。わたしが店内で立ちあがったことに、栗須はギョッとしていた。
「新本格推理小説の嚆矢、綾辻行人の『十角館の殺人』は推理小説研究会のメンバー、エラリイのこういうセリフで幕を開ける。
〈僕にとって推理小説、ミステリとは、あくまで知的な遊びの一つなんだ。小説という形式を使った読者対名探偵の、あるいは読者対作者の、刺激的な論理の遊び、ゲーム。それ以上でもそれ以下でもない。だから、一時期日本でもてはやされた“社会派”式のリアリズム云々は、もうまっぴらなわけさ。1DKのマンションでOLが殺されて、靴底をすりへらした刑事が苦心の末、愛人だった上司を捕まえる。――やめてほしいね。汚職だの政界の内幕だの、現代社会のひずみが産んだ悲劇だの、その辺も願い下げだ。ミステリにふさわしいのは、時代遅れと言われようが何だろうがやっぱりね、名探偵、大邸宅、怪しげな住人たち、血みどろの惨劇、不可能犯罪、破天荒な大トリック……絵空事で大いにけっこう。要はその世界の中で楽しめればいいのさ〉
わたしも同じ意見だよ。八〇年代の流行りが〈社会派〉だったのに対して、いまの流行りが〈日常の謎〉だって違いはあるけどね」
エプロンをつけたウェイトレスがポカンとしてわたしを見ていた。
わたしは急いで椅子に座った。さすがに気恥ずかしく、顔が熱くなっている。
唖然としている栗須に、わたしは続けた。
「高校を舞台にした〈日常の謎〉の推理小説を見てみなよ。青春ミステリってやつ。主人公は性格のいじけた男子で、インドア派。たいてい無趣味だけど、オタク趣味であることだけは絶対にない。おおかた帰宅部で、まれに運動部に所属していても、陸上部か弓道部。探偵役は同じ高校の美少女で、世間知らずで自由奔放。現れるたびに他の登場人物たちが口々に美少女だって称賛するのに、自分が魅惑的なことには絶対に気づかない。あとはかわいいけど探偵役の美少女ほどはかわいくなくて、タイプは正反対の女子と、主人公より社交的だけど、なぜか探偵役の美少女にだけはアプローチしない男子がいれば、登場人物は完璧。
不思議な出来事の真相は、たいていは仲間内のだれかの悪意が原因で、コンプレックスなりトラウマなりに関わってる。真相を暴いたあとは、隠されていたコンプレックスなりトラウマなりにひと通り共感してみせて、青春の痛みだって言ってまとめる。わたしは、そんなのはごめんだね」
栗須はフォークでナポリタンを巻きつけた。
「じゃ、本木さんの好きな推理小説はどんななの?」
「黄金時代の推理小説だね。〈日常の謎〉とはぜんぜんちがう。舞台は豪華な屋敷で、被害者はその主の大富豪。登場人物は高慢な妻。控えめな若い秘書。被害者の親友かライバルの、地位のある男。重要なのが若い美人で、大体は被害者の娘か姪。もうひとり、屋敷の外に誠実な青年がいて、若い美人と恋仲になりそうでならない。たまたま事件に関わり合いになった、鈍いけど感じのいい休暇中の男がナレーターで、その奇矯な友人が名探偵。
名探偵が意外な犯人を指摘するけど、それが若い美人か誠実な青年であることはない。事件が解決したあと、二人は婚約する。物語はただのパズルに留まらなくて、中産階級の平和やありふれた家庭生活に潜む不安を暴くものになってる。これが黄金時代の推理小説だよ」
「それなら〈日常の謎〉でもいい気がするけど」
「だってわたし、ひとが死ぬ話が大好きだから」
わたしはサンドイッチに噛みついた。ハムとレタス、バターを塗ったパンが、歯応えよく切れる。
栗須はフォークを皿に置いた。ガチャンという高い音が鳴る。テーブルに肘をついて、頭を抱えている。
「悪く言えば、それはクズだよ」
「よく言えば?」
「共感性に欠けた精神異常者」
わたしはテーブルの下で栗須の足を蹴った。思ったとおり、栗須の足は床についていなかった。
栗須は不満そうにわたしを見た。
「だって、殺人事件を娯楽としてとらえるだなんて、よく言っても、パズルとしてとらえるだなんて、不謹慎だよ」
「それについてはポワロが『ABC殺人事件』で言ってるよ。〈たかが三人死んだだけだ。毎週、交通事故で百四十人が死んでるじゃないか〉ってね」
わたしは気になって尋ねた。
「栗須は推理小説を読まないの?」
「小学生のとき『かいけつゾロリのめいたんていとうじょう』を読んだのが最後かな」
栗須は記憶を探るようにして答えた。
「『かいけつゾロリつかまる!!』のほうが伏線の手際で優れてるよ」
重たい前髪の下からわたしを睨む。
「本木さんは推理小説以外の小説は読まないの? ドストエフスキーとか…」
「『罪と罰』は読んだよ。倒叙モノでしょ。捜査官が心理的な証拠に頼るのが欠点だね。ドストエフスキーは鮎川哲也から学ぶべきだと思う」
「『カラマーゾフの兄弟』は?」
「プロットが酷い。殺人事件が起こるのが、ようやく三分の二になってからなんだから。わたしが編集者だったら前半はカットさせるよ。ドストエフスキーは横溝正史を見習ったほうがいい」
栗須はガッカリと肩を落とした。
サンドイッチを食べ終わる。わたしは椅子に背中を傾けた。腕を背もたれにかける。
「でも、わたしも現実に殺人事件がほとんど起こらないことはわかってるんだ。法務省の統計では、殺人事件は年間四百件。人口十万人当たり〇・三件しかないんだ。しかも、そのほとんどは計画犯罪なんかじゃなくて、金も学もない、情緒不安定な人間の衝動的な犯行なんだ。未遂を数えれば年間九百件になるけどね。体重六十キロの大型動物を殺すって考えれば、殺人がどれだけ難しいかわかる」
わたしの例えに、栗須が顔をしかめる。わたしは続けた。
「朝霞市の人口は十四万人。これじゃ、何年たっても殺人事件なんか起こらない。おまけにもし起こっても、警察が科学捜査と防犯カメラの解析ですぐ解決する。密室で首無し死体が発見されたら捜査に乗りだすのはわかる。だれもいない部室に鍵がかけられていたところで普通は気にしない。けど現実では、密室殺人どころか殺人すら起こらない。だから、わたしたちは〈日常の謎〉を捜査しようってわけ」
栗須は小首を傾けた。量のある髪が揺れる。
「それで小さなズルやごまかしを暴いて、いちいち罪だって告発するの? なんか、独裁国家の秘密警察みたいだけど…」
「ソ連の全体主義体制下の推理小説! 『チャイルド44』だ! 『ゴーリキー・パーク』だ!」
わたしが叫ぶと、栗須はため息をついた。
「やっぱり、ついてこないほうがよかった」
わたしは唇を尖らせた。
「みんなしてわたしのことを精神異常者みたいに言うんだから。『迷走パズル』のピーター・ダルースじゃあるまいし」
「誰それ」
「パトリック・クェンティンの〈パズル〉シリーズの主人公。『迷走パズル』はシリーズ第一作。精神病院が舞台で、邦訳の旧題は『癲狂院殺人事件』なんだ」
自分の言葉で、わたしは薬の服用を忘れてきたことに気づいた。鞄に目をやる。コンサータは入れっぱなしにしてある。
わたしは言った。
「学校まで歩くし、店のトイレを借りておいたら?」
「いいよ。公園があるし」
「自然は雄大だからね」
「野外じゃない」
立腹したように言って、栗須は席を立った。小さな背中がトイレの扉の向こうに消えるのを待つ。それから鞄を開ける。
内ポケットに、輪ゴムで束ねた薬のパッケージがある。
コンサータのものを取りだす。金色のパッケージにカプセルが並ぶ。カプセルを収める透明の梱包は、いくつか押しつぶされていた。パッケージの銀紙が破れ、空になっている。
金色のパッケージを見ているうち、自分がバカげたことをしているような気がしてきた。
校庭に机が並べられていた。そんなことはどうでもいい。翔子も土屋も、ただのイタズラだって言っていた。そんなことに注目して、調査するのはまともじゃない。胸に嫌な感覚が広がる。
トイレの扉が開く。わたしは急いで薬を鞄にしまい、床に置いた。
栗須は席に戻ると、体を持ちあげるようにして椅子に座った。
「そういえば、その〈パズル〉シリーズってずっと精神病院が舞台なの?」
「ううん。第二作は『俳優パズル』で、劇場が舞台」
「じゃ、主人公は退院するんだ」
その言葉で、わたしは大丈夫だ、と思うことができた。
高校までの途中に「朝霞消防署第一訓練所」という札のかかった一画がある。訓練所といっても、ほぼ空き地だ。ただし二階ほどの高さの、ジャングルジムのような鉄パイプで出来た骨組みがある。
「こんなのがあったんだ」
それを見て栗須は言った。
「嘘でしょ!?」
わたしは叫んだ。
「学校のすぐそこじゃん。二年間通ってて気がつかなかったの?」
「いつもバスで通りすぎるから」
「二年間、一度も歩いてみようと思わなかったの?」
「ルーチンを破らないようにしてるから」
わたしは前に栗須が言っていたことを思いだした。
「ストレスを受けないようにするため?」
「そう」
歩きながら、両手を頭の後ろで組む。
「信じられないな。なにがそんなに怖いの?」
栗須は俯き気味に歩き、両手で鞄の肩掛けを握っていた。
「イヌ、子供、それに自転車置き場…」
「自転車置き場!?」
声が裏返ったわたしに、栗須は続けた。
「子供は避けようがないけど、保育園とか児童公園とかは、町を歩かなければ避けられる」
「ああ…」わたしは適当にあいづちを打った。「ミステリにも無邪気で残酷な子供ってジャンルはあるよ。コクトーの『恐るべき子供たち』とか、サキの『スレドニ・ヴァシュター』とか。そんな子供たちが集まってる保育園なんか、それは怖いよね」
「そんな保育園があったら、『蠅の王』みたいに一ヶ月で全滅しそうだけど…」
栗須はわたしを睨むように見上げた。
「つまり、うるさいものが苦手なの。自転車のベルとか」
「そんなに神経質でよく学校にこれるね。イジメは怖くないの?」
「まったく怖くない」
栗須は顎をあげた。軽蔑した表情を作っているようだったけど、子供が大人の真似をしているようにしか見えなかった。
「世間のイジメのイメージは、バケツで水をかけられたり、私物を壊されたり、暴行されたり恐喝されたりでしょ。イジメは全国で五十万件ほど報告されてるけど、そういう事件は三百件ほどしかない。さっき本木さんが殺人の統計を挙げたけど、殺人くらいまれな出来事ってことになる」
面食らうわたしにかまわず、栗須は続けた。
「だけど、世間はそのごくまれな出来事を、高いリスクとして評価してる。認知科学の利用可能性ヒューリスティックのせいだよ。一般のひとにアンケートをとると、死因として病死と事故死はおよそ同数だって回答する。でも、実際には病死は事故死の十八倍ある。脳卒中と事故死のどちらが多いか尋ねると、事故死って答えるひとが多いけど、実際は脳卒中が全部の事故死の倍ある。
メディアはこの利用可能性ヒューリスティックを倍加させる。リンゴに散布する化学物質の〈エイラー〉の発癌性が指摘されたことがある。報道は過熱して、最終的に食品医薬品局が販売禁止にした。けど、実際には発癌性は人体に影響があるほどじゃなかった。法学者のキャス・サンティーンはパニックの最中に、〈リンゴジュースは下水に流しても安全か、有害物質の集積所に持っていくべきか〉って問いあわせを受けた、って言ってる。いま日本でイジメがパニックになってるのもそれと同じ。認知科学的に言って、ほとんどの人間は統計的思考ができないってことの証拠だよ」
「で、きみは自分が統計的思考ができるって思ってるんだ」
「平均に比べれば」
栗須があっさり認めたから、わたしはちょっと驚いた。
気になったことを言う。
「でも、イジメの全体は五十万件あるんでしょ?」
「一般的なイジメは、仲間外れ、無視、陰口だよ。わたしはむしろ… 仲間に入れられたり、話しかけられたりするのが怖い」
その言葉に、わたしは気づいた。
「でも、わたしにはこうやって付きあってくれてるじゃん。わたしは栗須がこんなにしゃべるなんて知らなかったし」
「だって、本木さんは仲間外れにされたり、無視されたりするほうでしょ。あした本木さんが教室で、わたしがうぬぼれが強くておしゃべりだって言っても、だれも信じない」
わたしは小声で笑った。たしかにそのとおりだ。
「仲間外れに無視はいいとしても、陰口は?」
「わたしが言われる陰口は決まってる。チビ、ネクラ、鈍くさい。みんな事実だよ。言われても気にならない」
「たしかにわたしも、栗須はいつもビクビクしてすこしの物音にも反応するし、頭蓋骨のなかは空っぽでクルミみたいな脳ミソしかはいってなくて、頭を振ったらからから音が鳴るんだろうな、って思ってた」
高校につくまで、栗須はずっと黙っていた。
朝霞東高校の校庭はだだっ広い。緑のフェンスが囲み、その内側に高い鉄柱が立ち、ボールよけのネットがめぐらせてある。
赤褐色のタイル張りの門塀がある。日曜日だけどスライド式の門扉は開けてある。鉄骨コンクリート造の無機質な校舎が建っている。
わたしたちは正面玄関から校舎に入った。校庭の前に、別棟も見ておこうというはなしになったのだ。
運動部が休日に練習することもなく、校舎内は静まりかえっていた。照明は消灯されていて、昼間の日差しが廊下に射していた。タイル張りの床に光が歪んで反射していた。
わたしは自分が透明人間になった気がした。校舎は無人だったけど、逆に、平日で校舎に生徒が満ちていて、そこに自分だけがいない気がした。
足を止めたわたしに、栗須がふり返る。
「本木さん?」
「さきにいってて」
涙声になっているのが気づかれないように、わたしは低い声で言った。
栗須は不審そうにしたけど、廊下をいった。
眼球の奥が熱くなっている。わたしは目と目のあいだを押さえた。鞄からデパスのパッケージを取りだす。蛇口の水で、円形の錠剤を飲みこむ。しばらくすると気分は落ちついた。
長い廊下の奥に、白光そのもののような出口が見えた。ガラス戸が嵌っている。その右手には通用口があって、台車が通るための斜路もついている。
ガラス戸の向こう、本棟と別棟のあいだは短い渡り廊下でつながっている。渡り廊下は雨除けの庇がかかり、両側に風除けがついている。腰の高さまである、波形の青いトタン板だ。
別棟に入り、美術室の前で栗須を見つけた。外扉は施錠されていた。サムターン錠を回して出る。
薄暗い廊下に慣れた目に、屋外はまばゆく見えた。陽光が地面を白く照らしている。
こうして校舎内を見たけど、とくに発見はなかった。教室机が並べられていた校庭にいく。
栗須は背中を丸め、砂地の地面を見ていた。太いポニーテールがリスの尻尾のように持ちあがっている。
「なにやってんの?」
「よくシャーロック・ホームズが虫メガネで犯罪現場を調べてるでしょ。だから、虫メガネがないか探してるの」
栗須は皮肉っぽく言った。まだすこし怒っているらしい。
「ホームズはそんなに虫メガネを使わないよ。虫メガネを使うのはセイヤーズのピーター・ウィムジイ卿。なんとこれが、虫メガネを片眼鏡みたいにはめてるんだ。つまり、ウィムジイ卿にはホームズのパロディっぽいところがある」
栗須はサッとふり向いた。顔がやや赤くなっている。
わたしはニヤニヤして言った。
「自慢の頭の良さを傷つけちゃったかな」
「そんなんじゃない」
気分は明るくなっていた。わたしは栗須の肩に手をおいた。肩は小さく骨ばっていた。
「な、なに」
栗須の声は震えていた。
「べつに」
わたしはあたりを見回した。ポケットからノートを取りだし、机の配置を図解したページを開く。
「ちょっと一年生の教室から机を借りて、事件を再現しようか」
栗須はわたしの上履きを蹴った。
「盗人に蔵の番って言葉、知ってる?」
「〈意外な犯人〉の類型?」
わたしが首を傾げると、栗須は頭を抱えた。わたしは聞き込みでわかったことを伝えた。
「ふうん」栗須は指の背を唇に当てた。
校庭はただの砂地だ。わたしはすることがなくなり、両手を広げてバレリーナみたいにその場をくるくると回った。
意外にも、栗須は真面目にあたりを調べた。校庭に出る教室の引戸をガタガタ鳴らしたり、窓から室内を覗いたりした。そのあいだ、わたしは靴の爪先で砂を蹴っていた。
栗須がわたしをふり返る。
「通用口の車寄せに、業者の車が停まってたんだよね。犯人が一年生の教室に出入りしたなら目撃されたんじゃない?」
「それはないと思う。通用口があるのは廊下の端でしょ。車は模試のテスト用紙を運んだみたいだったけど、それなら用があるのは二階から上じゃん。階段は通用口の横だから、廊下は見なかったと思う」わたしはニヤついて言った。「あの日も、職員室の前で配達員を見かけたよ。配達員って鍛えた体をしてるひとが多いよね」
「イケメンだった?」
栗須は冷ややかな声で言った。わたしは慌ててゆるんだ口元を引きしめた。
「もしかしたら、校庭に机を並べたのはカンニングするためのトリックかも」
模試とはいえ、試験の監視は厳重だ。受験番号に従って座席が定められ、予備校の監督員が教室を巡回する。
「模試でいい成績をとっても意味ないでしょ」
「それはそうだけど」わたしは反論した。
栗須は首を傾けた。重たそうなポニーテールが垂れる。
「もし犯人を見つけたらどうするの? いましてるのは、警察官の真似みたいだけど」
「〈日常の謎〉だと、小悪党は見なかったことにして、大きな事件や、犯人が知り合いの場合は、動機に共感してみせることが多いね。そうやって他人の苦しみを理解して、一歩、大人になるわけ。青春の痛みってやつだね。見なかったことにするかは、そのときどきで決まる」
「じゃ、警察官だけじゃなくて裁判官でもあるんだ」
わたしはバッと四五口径の拳銃を構える真似をした。
「〈裁くのは俺だ〉! マイク・ハマーだ! おれが判事で陪審員で死刑執行人だ!」
「本当に大人になってほしい」
栗須は真顔で言った。
結局、それからも成果は出ず、わたしたちは家路についた。
歩道を並んで歩く。夕方が近づき、日差しは弱まっていた。
「そういえば、本木さんの好きな推理小説は?」
わたしは考えた。
「ミス・マープルが…」
「アガサ・クリスティ?」
栗須がわたしを見上げる。
「バラバラ死体になって殺される…」
「なにそれ!?」
「犯罪現場は密室で、その謎をホームズが解く『ステイトリー・ホームズの冒険』かな」
「ああ。パロディなんだ」
ついでに「次の被害者はフレンチ警部」と言ってもよかったけど、伝わらないだろうから黙っていた。
「本当は、本家のホームズ」
栗須は意外そうな顔をした。
「本木さん、推理小説のマニアでしょ。マニアはもっと通好みの作品を挙げるんだと思ってた」
「わたしは名探偵が好きなんだ。だからひとが死ぬ話も好き。名探偵って言ったらシャーロック・ホームズでしょ。次点のポワロも、クリスティはホームズを参考にして創造してる。ホームズとワトソンの関係を、ポワロとヘイスティングズの関係の参考にしてね。ノックスは『探偵小説十戒』で、推理小説の否定的な条件を挙げてるけど、じつは肯定的な要素も挙げてる。〈時代の趨勢とはいえ、現代の推理小説に偉大な名探偵が登場しないのは残念だ〉ってね。わたしも同感。やっぱり推理小説は名探偵が登場してこそだよ」
栗須がピンとこない様子だったので、わたしは続けた。
「そもそも、日本では児童書のホームズの翻案があるのが変なんだよ。イギリスかアメリカでは、だいたい小学生のときにホームズを読んで子供時代のヒーローになるんだから。カズオ・イシグロだって、ノーベル文学賞を受賞したときに言ってたじゃん。〈ホームズで英語をおぼえたから、小学校では変人だって思われてた〉って」
栗須は言った。
「なら、本木さんは日本でイギリスの日本人みたいに思われてるってことになるね」
その表現は悪くなかった。日本にいるイギリスの日本人。
「翔子も、わたしがホームズを押しつけたら気に入ってたよ。BBCの『シャーロック』のおかげでホームズには興味をもってたからね」
「そうなんだ。佐藤さんが」
栗須は納得したようにうなずいた。翔子の信用はわたしより高いらしい。
わたしは両手を頭の後ろで組んだ。
「ま、そうはいっても現代に名探偵があらわれるのが難しいことはわかってるんだけどね。世界で最初の犯罪捜査の手引き書である『治安判事および警察官、憲兵のための手引き』が出版されたのが一八九二年。それまでスコットランドヤードの刑事たちは我流で捜査してた。『緋色の研究』が雑誌に掲載されるのが一八八七年。だから、シャーロック・ホームズがスコットランドヤードより頼りになるのは理由があった。逆に、それからは名探偵が警察をさしおくのは難しい。ポワロだってベルギー警察の本職だしね。ホームズは最後の名探偵だったのかも」
「でも、本屋の新刊でも名探偵とか殺人事件とかがある推理小説を見かけるけど」
栗須が言うのは、イラストが表紙になっているポップな推理小説のことだろう。ああいうのは好きじゃない。推理小説の出来事なんか絵空事で、けっして現実とは関係がないと主張されているような気がする。
けど、その気持ちは他人に説明するには複雑すぎた。だから代わりに、簡単に「まあね」と言った。
「とにかく、殺人事件にめぐり合うなんて難しいから、こうやって〈日常の謎〉を調べてる。ネタ集めにもなるしね」
栗須が下からわたしを見る。
「本木さんは推理小説家になりたいの?」
「なりたいけど、なれるかわからない」
言ってから、思っていることを素直に言えたことに、自分でおどろいた。
深く問いつめられたくなくて、わたしはポケットから丸めたノートを取りだした。ページをめくり、去年の事件のメモを見つける。
「わたしが実際に遭遇した〈日常の謎〉はこれで二件目。最初は去年。わたしは吹奏楽部で、夏は地区大会があるんだけど、市の文化センターが会場だったんだ。大型楽器は玄関に置いて、わたしたち部員はなかで涼んでた。そうしたら大会の係員がきてね。朝霞東高校吹奏楽部に誕生日ケーキが届いてるっていうの。で、見てみたら実際に大きな誕生日ケーキがあった。でも、だれもそんなの頼んでないって言うんだ。べつにその日はだれの誕生日でもなかったしね。イタズラにしては意味不明だし、まさに〈日常の謎〉だったよ」
ノートを閉じ、また丸めてポケットに突っこむ。
「そのときもこうやって調査した。結局、謎を解いたのはわたしじゃなくて翔子だったんだけどね」
「佐藤さんにそんな特技があったんだ」
「ホントにね。地区大会の課題曲に隠された意味が明かされたときは、わたしも涙が止まらなかったよ。〈うちの裏のせんざいに、雀が三匹とまって、一羽の雀が言うことにゃ、おらの在所の庄屋の甚兵衛〉」
わたしは鬼首村手毬唄を熱唱した。
「その事件、絶対にひとが何人が死んでるでしょ」栗須はわたしを睨みあげた。「佐藤さんが犯人を捕まえたの?」
「そんなとこ」
わたしは説明を避けた。
朝霞駅前のロータリーで、わたしたちは別れた。わたしは家に帰り、ベッドに倒れこんだ。それから、休日にひとと話すのが久々だったことに気づいた。
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