第1話 わたしたちの日常の謎
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推理小説は最初がいちばん面白い。
最初に事件がおこる。殺人事件なら誰でも興味をもつ。それが不可能犯罪ならなおさらだ。次に雑多な登場人物があらわれて、複雑な人間関係が説明される。ここで読者は退屈しはじめる。
変人の探偵が登場して、奇行をするとちょっと興味を回復する。
けど、それから長くてだらだらした捜査がはじまる。探偵は登場人物のひとりに目をつけて、その人物が隠していたことを暴くけど、犯人であることはまずない。
最後に解決編があるけど、長すぎる捜査の大半は、推理に関係ない。関係ある場合、読者は長すぎる推理を読み飛ばす。
結局のところ、ひとは変わったもの、日常から外れたものが好きなのだ。ひとが推理小説を読むのはそのためだ。
だから予備校の全国模試の日、高校の校庭に机が並べられていたとき、わたしは非日常の出現に興奮した。
予備校の全国模試があったのは五月初めの日曜日だった。だから、わたしは翌日に教室で翔子に相談した。
わたしの通う埼玉県立朝霞東高等学校は進学校で、大手予備校の全国模試も校内受験する。とくに三年生は出席が義務付けられている。同じ三年生で、同級生の翔子も、机のことは知っているはずだった。
朝のホームルーム前の教室は、独特の浮きたつような雰囲気がある。わたしは雑談する生徒たちのあいだを縫って、翔子をつかまえた。
「ね、翔子。校庭の机を見た?」
翔子は机に通学鞄を下ろしたところだった。わたしに顔を向ける。
「ああ。並べられてるやつね。なんか理由があって外に出してるのかと思った」
「そんなわけないじゃん。これって『密閉教室』だよ!」
怪訝な顔をする翔子にわたしは説明した。
「法月綸太郎の処女作の推理小説だよ。朝、登校すると教室から机と椅子がなくなってて、密室状態の教室で生徒の死体が発見されるんだ」
「机がなくなってるんなら逆でしょ。ただのイタズラじゃないの?」
わたしは上履きの爪先を見つめながら言った。
「だからさ、それをわたしと翔子で調査しない?」
翔子は教室に向かって叫んだ。
「誰か保険医を連れてきて! 中二病の急患がいるの! 高校じゃなくて中学の保険医ね!」
生徒たちはわたしたちを見ると笑った。
「まーたキリンか」
誰かがわざとらしく言う。
わたしの名前は本木倫子で、キリンはそこからついたあだ名だ。わたしは身長が一七五センチあり、大抵の男子より高い。ただ体格は悪くヒョロガリだ。自分のことながらキリンは的確だと思う。
わたしはざわめきがおさまると言った。
「でさ、返事はどう?」
「なんでわたしなの?」
「わたし、翔子しか友達いないし。それに去年の地区大会のとき、推理力を見せたしさ…」
「その話はやめて」
翔子は鋭く遮った。
わたしと翔子は吹奏楽部に所属している。翔子はクラリネット、わたしはバカ高い身長のとおりチューバだ。
翔子は物静かで、でもたまに口を開くと面白いことを言う。そのため男女ともに人気があった。もっとも、翔子が美人だという前提があってのことだろうけど。顎がしっかりし、眉がくっきりした中性的な顔立ちをしている。
誰とも距離を保っていたけど、なぜかわたしとは気が合い、ときどき個人的な話をしていた。一方、わたしは翔子しか友達ができなかった。
それも二年生のときまでで、吹奏楽部の地区大会の一件以来、わたしと翔子はしっくりいかないことが多くなっていた。
翔子はうさんくさそうにわたしを見た。
「あんたはわたしに探偵役をやらせて、自分はワトソンをやりたいわけ?」
わたしは自分の頭をトントンと叩きながら言った。
「残念だけど、〈ノックスの十戒〉は〈ワトソンは読者より頭が悪くなくてはならない〉って定めてるから。わたしはワトソンをつとめるには頭が良すぎるんだよね。でも、最近の学園モノの推理小説は、探偵役が語り手をつとめることも多いから。
わたしがどのくらい頭がいいかっていうと、このあいだも知能テストで天才オラウータンのハナコに勝ったくらいだからね。天井にバナナが吊り下げられた奇妙な部屋に連れていかれてさ。これは密室を作れって課題だと思って、部屋に置かれていた棒でハナコを…」
翔子がふたたび教室に向かって叫んだ。
「やっぱり保険医は呼ばなくていい! 専門医じゃないと手に負えない! 精神科に通報して!」
わたしは翔子を誘うことを諦めた。
昼休み、わたしは自習室にいった。正確にはその前にある休憩スペースだ。
校舎は最奥の別棟に特別教室が集中している。三階は図書室の他に、進学校らしく自習室がある。自習室は学習机が列にして並べられ、机同士はパーテーションで遮られている。
自習室の前のスペースには、楕円形のテーブルと、可動式のイスが置かれていて、飲食できるようになっている。
わたしは自習室を使うことはほとんどないけど、その奥にある図書室はよく利用するから、自然とこの休憩スペースに馴染んでいた。
わたしみたいな友達のいない人間に、長い昼休みは教室も食堂も居心地が悪い。だから、いつもここで昼食をとっていた。
昼食の前に自習室に入る。放課後は半分ほどの席が埋まっているけど、いまはほぼ空席だ。椅子がしまわれている机の列の後ろを通り、窓までいく。
窓から裏を見下ろす。普通教室の入る本棟と、特別教室の入る別棟はL字に並んでいる。別棟は敷地の端に近く、その狭間は細長い空き地になっている。
本棟は校庭に面している。本棟と別棟に挟まれた中庭は、通用口の車寄せや駐輪場がある。校庭で校舎の近くに、教室机が六脚、円形に並べられていた。
わたしはいつもポケットに丸めて突っこんでいるノートを取りだした。気づいたことをメモする。このノートは高校に入学したときに買ったもので、表紙はけずれ、四隅が丸くなっている。鉛筆も一緒にポケットに入れている。
ノートを丸めてポケットにしまうと、昼食のために休憩スペースに出た。
数人の生徒たちが離れて昼食をとっている。何人かは、わざとらしく雑誌や参考書を広げていた。
そのなかに、わたしと同じく、教室にも食堂にもいづらいらしい同級生が二人いた。
ひとりは栗須だ。わたしが学校一背の高い女子生徒なら、栗須は学校一背の低い女子生徒だ。身長は一四〇センチほどだ。新入生でも、栗須より背が低い生徒はほぼいないだろう。
背が低いだけでなく、体格も小柄だ。おまけに背を丸め、肩を縮めて歩く。いつも緊張したような表情をしていて、少しの物音にもビクつく。まるで小動物だ。
顔も幼く、平たい鼻に、黒目がちの眼をしている。量のある髪をポニーテールにしていて、それがまさにリスの尻尾に見えた。わたしは内心で栗須を小リスと呼んでいた。
一年生のときから、休み時間は理科準備室や非常階段とか、人気のないところをちょろちょろしていたけど、結局はここに落ちついたらしい。
もうひとりは男子の土屋だ。書店のブックカバーをつけた文庫本を読んでいる。
昨日の日曜日、わたしは試験の開始前に自習室にきた。わたしは毎朝、始業時間の前に図書室で推理小説を読むのを日課にしている。日曜日で図書室は閉まっていたけど、自習室はきっちり開放されていた。わたしは自習室の机で推理小説を読もうと思い、いつものように窓際の席に陣どった。図書室が開いているときも、ときどきそうして自習室で読書していた。窓から外をぼんやり眺められるからだ。
犯人はこの別棟から、狭小な空き地を通って、校庭まで教室机を運んだらしい。わたしは読んでいる推理小説に没頭して、犯人を目撃できなかった。そのとき読んでいるのがP・D・ジェイムズとか、ジョン・ル・カレとかだったら、目が疲れて外を見ることもあっただろうけど、残念だ。
わたしがくる前、自習室には三人の利用者がいて、そのひとりが土屋だった。
わたしは背もたれを前にして、可動式のイスに座った。車輪をガーッと転がし、土屋の真横に密着する。土屋はビクッとして顔を上げた。
「なに読んでんの?」
手を伸ばし、文庫本の紙面を傾ける。ページの最初のほうにカラーの口絵が付いている。ライトノベルだ。
「うわッ」
土屋は悲鳴をあげた。一瞬、言いよどんでから「本木か」と言う。キリンと言いかけたのだろう。
「で、なに読んでんの」
土屋は長いタイトルを言った。
「どんな話?」
「あー…」すこし考えてから答える。「ダンジョン、要はモンスターの出てくる地下迷宮があって、それを冒険者たちが攻略してる。けど競争みたいになってて、冒険者たちはパーティーを組んで分派対立してる。主人公はどのパーティーにも入れてもらえないんだけど、特別に力を貸してくれる女神がいて、どうにか戦ってく、って話かな」
「〈マイク・ハマー〉シリーズのスピレーンの短編みたいな話だね」
不審な表情をする土屋に、わたしは説明した。
「米ソ対立を背景にしてて、主人公は特殊な装置を狙うソ連のスパイとかFBIとかに追われるんだ。装置の秘密に関わる妻とね。で、拳銃で大立ち回りする」
「ぜんぜん似てないだろ」
「その妻が、緑色の肌をした宇宙人なんだ」
土屋はガックリと肩を落とした。
「最高だよ」
と、わたしはつけ加えた。ノートと鉛筆を取りだす。
「きのう自習室にいたでしょ。校庭の机についてなにか知らない?」
土屋の顔を見る。厚ぼったい瞼をしていて、唇がやや突きだしている。縁の赤いメガネをかけている。
「いや、おれはおまえが騒ぐまで気づかなかったから」
わたしは鉛筆の尻を唇に当てた。
「じゃ、なんで校庭に机を並べたりしたんだかわかる?」
「ただのイタズラだろ」
「それじゃ理由になってないよ」
わたしは鉛筆の尻で頭を掻いた。けど、土屋は落ちついて言った。
「だからさ、理由なんてないんだよ。机が並べられたのは全国模試の日だろ? 学歴社会、競争社会への反抗の表明なんだよ。子供は思春期に社会と直面して、不条理を経験する。その行きどころのない怒りが、意味のない行動をとらせるんだよ」
「反体制のメッセージとしては、校庭に机を並べるのはちょっと地味だね」
「手間とか考えればそんなもんだろ」
「なんで円形なの?」
「合格発表」
わたしはうなった。
土屋の推測はもっともらしい。けど、納得するには物足りなかった。
「わたし、奇行の原因を奇行で説明するのは好きじゃないんだよね。彼はある不可解な行動をとっていました、それにはこんな個人的な背景があったのです、ってやつ。文学性とか心理主義っていうのかな。そういうのは、不可能犯罪を不可能な方法で説明するのと変わらない気がする」
「〈日常の謎〉って、そういうもんだろ」
わたしは土屋の口から「日常の謎」という専門用語が出てきたことに、びっくりした。
土屋は苦笑して「おれもミステリは読むよ」と言った。
本格推理小説に比べれば「日常の謎」はあまり好きじゃない。でも、対岸の火事よりは自宅の全焼だ。火災保険でまる儲け。コンチネンタル探偵社のオプが調査をはじめるまでは。だから、わたしはこの事件を調査していた。
翔子には付きあいを断られた。あまり話したことはないけど、土屋を連れて謎解きするのもいいかもしれない。
「〈日常の謎〉の青春ミステリって、たいてい男女コンビだけど、恋人未満のまま話が終わるよな」
土屋の言葉で、わたしの幻想は醒めた。
「そのメガネ、似合ってないから変えたほうがいいよ」
そう言って、ノートを丸めてポケットに突っこんだ。
家で用意してきたホットドックをパクつきながら、栗須に近づく。ホットドックは藤原伊織の『テロリストのパラソル』に登場したのと同じ、味付けした千切りキャベツとソーセージを挟み、ケチャップとマスタードを塗ったものだ。
栗須は肩を丸め、両手で乾パンを抱えていた。銀紙を剥いて、前歯で削るようにすこしずつ食べている。げっ歯類そのものの姿だ。
わたしが背もたれに手をおくと、栗須はビクッと震えて顔を上げた。
「毎日、乾パンを食べてるよね。節約のため?」
わたしはホットドックを持った片手を机にのせた。もう片手は椅子の背もたれにおいていて、栗須の小柄な体を挟みこむようにしている。
「そうじゃない。決まったルーチンを守れば、それだけストレスを受けることがなくなるから」
栗須はビクビクしながら答えた。
「きみは背が低いから、それに比例して栄養も少なくて済むしね」
「比例じゃない」
重たそうな前髪の下から睨む。けど、まったく迫力がない。
「なんで?」
「体積の比率は高さの三乗だから」
「たしかに」
わたしはホットドックを机に置いた。ノートにいまの話をメモする。
「な、なんなの?」
栗須は怯えたようにわたしを見上げた。
「校庭に机が並べられた件を調べてるんだ。翔子はわたしのことを中二病だって言ったけど、栗須はどう思う?」
「AEDが必要かな…」
「中二病ったって、死ぬ病気じゃないでしょ」
「頭に」
「電気ショック療法!?」
わたしが叫ぶと、栗須はまたちびちびと乾パンを食べだした。
「校庭の机について調べてるなら、いまのうちに現場にいっておいたほうがいいと思うよ」
「なんで?」
「わたしが先生なら、この昼休みに片づけさせる」
自習室の窓に駆けよると、たしかに二人の生徒が机を校舎に運びこんでいる。
『密閉教室』では机がどこに消失したのかが問題になったけど、この場合は机がどこから出現したかを調べなければならない。
わたしは備え付けのAEDを外してから、栗須のところに戻った。
「ついてきて。でなきゃこれを使って、『虚無への供物』の被害者の氷沼紅司みたいに、風呂場で心停止を起こして死んでやる!」
栗須はなんとも言いがたい表情でわたしを見上げた。
校舎裏に面する一階には、美術室と美術準備室がある。
扉がドアストッパーで開け放されていて、二人の男子生徒がそれぞれ教室机を抱えて校舎内に運びこんでいる。顔付きが若々しい。たぶん一年生だ。
事情を聞くと、やっぱり一年生で、担任に机を片づけるように言われたらしい。美術準備室にしまうそうだ。
「大変だね。でも、二人で六脚ならそれほどでもないか」
わたしはホットドックを食べながら言った。校舎裏への扉から美術準備室は近い。
一年生は不快そうな表情をした。
「冗談じゃないよ。またイタズラされないように、廊下に出てる机も全部しまえって言われてる…」途中で敬語に言いかえる。「んですから」
一年生の目線の高さはわたしの胸元にある。
「手伝ったほうがいいと思うけど…」
わたしの背後で栗須が言う。栗須の目線の高さは一年生の胸元にある。
残りの机は階段下にあった。地階だから、階段の下がデッドスペースになっている。予備の机と椅子はここに置かれていた。
美術室にくるときに気づくから、朝霞東高校の生徒ならだれでもここに机があることを知っている。教室からここまで机を運んだ経験があるものもいるはずだ。
机はごく普通の教室机だ。鉄パイプの脚部に、木目調の天板で、鉄製の棚が付いている。幅六十センチ、奥行四十センチ、高さ七十センチほどの寸法だ。
階段下の机と椅子も合わせて、美術準備室に運びこむ。手狭な部屋に、机を重ねて強引に収納した。先生から渡されたらしい鍵で美術準備室を施錠すると、一年生たちは帰っていった。
わたしは片づけられた階段下の空間を見た。タイル張りの床にうっすらと埃が積もっている。
「ここから校庭まで… 百メートルくらいか。机を重ねれば三往復で運べるけど、それでも十分はかかるな。それに机を並べるのにも時間がかかる」
「三角形の二辺の和は、残る一辺より大きい。中庭を突っきっていったら?」栗須が口を挟む。
「それはない。模試のあった日、中庭にはテスト用紙を搬入する業者の車が停まってたから」
わたしがそう言うと、栗須はうつむいて、爪先で床を踏みにじった。わたしは続けた。
「ここに机があったことは、生徒ならだれでも知ってる。これじゃ犯人をしぼることはできないな」
校舎裏に通じる扉は、鍵がサムターン錠だ。だれでも開けられる。
栗須はわたしを見上げた。
「机が並べられたのは日曜日でしょ? 部活動の朝練もない。だから、校門が開いてすぐ登校した生徒は少ないと思うけど」
それは説得力がある。実際、わたしが自習室にいったとき、すでにきていた生徒は三人だった。土屋と、生徒会長の田中、それから顔を知らない下級生だ。
一年生、二年生は模試の参加は任意で、事前に届けなければいけない。一年生、二年生の春季に模試を受けたところであまり役に立たないし、参加者は少ない。
朝霞東高校は学年ごとに、AからHの普通科七クラスに、理数科一クラスがある。わたしたちはG組で、生徒会長の田中怜二はD組だ。
生徒数が多くても、三年生ともなれば同学年の顔くらいは知っている。田中は生徒代表として人望があるというより、学校との連絡役に適任だという理由で生徒会長に選ばれた。頭が固く、面白みがない。わたしは内心で「レーニン」と呼んでいた。
田中はよく自習室で勉強しているところを見かける。成績優秀で、模試にも二年生のときから参加している。ある日、気になって、どうして生徒会室を使わないのか尋ねた。
すると、田中は口元で笑って「学校の設備だから、私用では使わない」と言った。そのとき、こいつとは気が合わないな、と思った。
自習室にいた下級生は女子だった。見たことのない顔だったから、一年生だろう。
わたしはそのことを栗須に話した。
栗須は小さな手を顎に当てて考えた。頼りになるとは思えなかったけど、考えてくれるのが嬉しかった。
そのことに勇気づけられ、わたしは栗須に言った。
「これから職員室で過去に似た事件がなかったか聞こうと思うんだけど、一緒にこない?」
「絶対にやだ」
栗須は頭をぶんぶんと振った。重そうなポニーテールが左右に揺れる。
「なんで?」
「目立ちたくないから」
影で調査するのはいいけど、人前に立つのは嫌ということらしい。
仕方なく、わたしはひとりで職員室にいった。それから、あちこちのクラスに顔を出して、不審な行動をしたものがいないか聞いたりした。
そこでちょっとしたことがわかった。校庭に並べられていた教室机は、別棟ではなく、一年生の教室から持ちだされていた。教室ごとに一脚ずつだ。机を持ちだされた生徒たちは、後難を恐れて、別棟から予備の机を持ってきていたらしい。
一年生の教室からはじかに校庭に出られるから、所要時間もわずかで済む。
なら本当の目的は、一年生が使っていた机にあるんじゃないかと思った。けど、聞き込みをしても、だれも心当たりはないらしかった。
数日たち、放課後に吹奏楽部の練習をしているとき、翔子がわたしを呼びとめた。
翔子はクラリネットのマウスピースを布巾で拭いていた。
二年を過ごしてきたけど、わたしにとって吹奏楽部といえばツバだ。おびただしくツバが出る。吹奏楽部はいろいろなイメージがあるけど、汗臭くならない柔道部や剣道部、消しカスの出ない美術部と同じように、ツバの出ない吹奏楽部というのは嘘だと思う。
けど、どうあれバカデカいチューバを吹くのは楽しかった。
翔子は椅子に座ったまま、上目でわたしを見た。
「あんた、まだ探偵ゴッコをやってるの? 恥ずかしくないの?」
「〈探偵ゴッコ〉なんて言葉を使えるくらいにはね」
わたしがそう言うと、翔子は視線を落として、唇を噛んだ。こういうところがあるから、疎遠になっても、翔子のことは嫌いになれない。
気をとり直したらしく、翔子は話題を変えた。
「模試の志望校判定、どこに申請した?」
「京都大学法学部」
「嘘ッ」翔子は声をあげた。「でも、なんで東大じゃなく京大なの?」
わたしはニヤついて言った。
「京都大学の法学部に進学して、京大推理小説研究会に入るのが、推理小説家の登竜門だからね」
「国立大学の法学部は国家公務員の登竜門でしょ」翔子は冷ややかに言った。「志望校判定は必要なかったね」
「翔子はどこに申請したの?」
わたしはすこしイラついて質問を返した。
翔子が挙げたのは、地元の国立大学である埼玉大学と、都内の私立大学の教育学部だった。
「推理小説家って、入学したときから目標は変わらないんだ。でも、作家志望なら困ることはないか。倫子、国語と英語はできるからね。どこでも創作コースのある大学を受験すればいいんだから」
「うん…」
わたしは歯切れの悪い返事をした。
「もう受験生なんだからバカな真似はやめなよ」
話題は変わっていなかったらしい。わたしは落ちつかない気分のまま、チューバを片づけた。
金曜日、授業が終わって帰り支度している栗須に、わたしは背後から忍びよった。両肩に掴みかかる。
栗須は悲鳴をあげて床から飛びあがり、かえってわたしのほうが驚いた。
机が並べられていた件を調べるには、同じ状況を再現するしかない。
わたしは栗須に言った。「日曜日、調査に付きあって」
「断ったら?」
「AEDの出番だね。海野十三の『電気風呂の怪死事件』みたいに死ぬから」
「はいはい」
「池のコイが」
「電気ショック漁法!?」
栗須が叫ぶ。ちなみに、『電気風呂の怪死事件』の死因は感電死じゃない。
怯える栗須に、わたしは強引に約束を取りつけて、連絡先を交換させた。
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