失恋にはいい日

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第1話

 私の初恋は、多分、7歳のころ。


 ◇


 お母さんの妹、つまり叔母様の真紀ちゃんのうちに遊びに行ったとき。

 その時に会った大人の女の人。


 その日お母さんは夕方出かけていて、多分二時間くらいで帰ってきたと思う。

 真紀ちゃんとその間遊んでもらっていた私は、帰ってきたお母さんを迎えに玄関へと走っていった。真紀ちゃんと一緒に見ていた動画の中のハリネズミがかわいくて、欲しいってねだろうとしていたのをとてもよく覚えている。

 でも、玄関を開けたら、立っていたのはお母さんだけじゃなくて。

 人見知りだった私は、すぐに真紀ちゃんのうしろに隠れた。


 ……誰?


 そのひとは今まで自分の周りにいた大人のひとと、明らかに違う感じだった。

 でも、何が違うんだろう?

 それがわからなくて、真紀ちゃんの陰からじっと見上げていた。

 お母さんとも知り合いで、真紀ちゃんととても仲良しなひと。

 新幹線に乗って家に帰ってからも、その「いお」っていうひとのことが頭から離れなかった。

 しゃがんで、目線を合わせて話しかけてくれた笑顔がとても心に残った。

「たてがみいおっていいます」と自己紹介してくれた時の、声も。


 当時小学生だった私も中学生になった。

 学校は楽しかった。友達と遊んで、部活にも打ち込んで、毎日充実していた。

 でも、困ることがひとつ。

 中学生活の三年間で、何度か男の子に告白されたけれど、どうしても首を縦に振れなかった。

 誰か好きな人がいるのかと聞かれて、浮かんでくる顔がひとつ。

 よくわからない、そんなことないよね、と自分の中ではぐらかしてきたけれど、好きな人、と言われて顔が浮かぶんだから、きっともう、「そう」なんだろう。

 でもあのひとは私よりもずっと年上で、更にもっと言えば、多分真紀ちゃんと好き合ってる。七歳のときはわからなかったけど、そういうことなんだろうなとわかるくらいには私も成長していた。

 あの二人の間に私が入り込む隙間なんてないし、入り込んでひびを入れるようなこともしたくなかった。

 だけど困ったことに、あのひと以上に好きになれる人に出会えず、そのまま高校生になってしまっていた。


 ◇


「真紀のところに遊びに行きたいの?」


 お母さんに相談したら、そう返ってきた。

 表に出さないようにしているけれど、困ってるみたいだ。


「だめ?もちろん、真紀ちゃんがだめって言ったら、無理には行かないけど」


 高校一年生の夏休み、お盆の前の一週間、私は真紀ちゃんのところにお泊りに行きたい、とお母さんに訴えていた。

 年末年始やお盆に顔を合わせる真紀ちゃんは、結婚していないこともあって私のことをそれはもう目に入れても痛くなさそうなくらい可愛がってくれている。私が小さいころからずっと、月に数回はテレビ電話やメッセージで他愛のないことを話したり、かわいい動物の動画を共有したり、仲の良いお姉さんとしてずっと寄り添ってくれている。


「真紀には、聞いてみるけど。お友達と一緒に住んでるから、難しいかもしれないわよ?」

「伊緒さんでしょ? わかってるよ」


 もしかして、伊緒さんは私が行ったら嫌がるかな。好きな人と一緒に住んでるのを邪魔する闖入者として、私はうるさがられてしまうんだろうか。

 でも、このままだと、私きっと、ずっと宙ぶらりんのままだ。

 ふと気づいたら、お母さんがじっと私の顔を見ていて戸惑った。


「な、なに?」

「ううん、わかったわ。一週間ね」


 お母さんは何故かとても優しい顔をしていて、何故そんな表情を向けられるのかわからずに戸惑う。

 でも、お母さんから頼んでくれれば真紀ちゃんも駄目とは言わないはずだ。

 生まれた時から私のことを可愛がってくれている叔母の攻略方法を、私はちゃっかり掴んでいるのだった。


 ◇


「ええー、真紀ちゃん次長さんなんだ! すごいね!」

「ありがと、なりたてだけどね。仕事好きだから、ってやってきて、気付いたら勝手になってた感じだけどね」


 真紀ちゃんは今年40歳だけど、すごく綺麗でかっこいい。

 昨日の夕方、真紀ちゃんのところに到着して、今日はふたりでスーパー銭湯に来ている。

 真紀ちゃんは夏季休暇を取ってくれて、私が泊まりに来てる間は全力で構ってくれるみたい。

 さすがにちょっと申し訳ない。

 嬉しいけど。

 平日の昼間、人がまばらなお風呂で二人並んで手足を伸ばして座って、開放的な気分に浸る。


「でもごめんね、真紀ちゃんにわざわざ休みまで取ってもらっちゃって……」

「いーのいーの、上がばんばん休まないと下の子たちだって休めないんだから!」

「……ありがと」


 真紀ちゃんのこういうところもかっこいいと思う。


「こっちこそ、スーパー銭湯に付き合わせちゃってごめんね。希にはつまらなくない?」

「ううん、広いお風呂がこんなに気持ちいいって知らなかった! また来よ?」

「ん~、希はいい子ね……」


 しみじみと噛みしめるように言われてちょっと照れる。この叔母、姪のことが好きすぎなのでは?

 知ってたけど。


「伊緒さんと、よく来るの?」

「んー、伊緒はこういうところ苦手だから滅多に来ないわね。送り迎え専用みたいになってる」

「そう、なんだ」


 昨夜久しぶりに会った伊緒さんは、私の記憶の中の伊緒さんと殆ど変わっていなくて驚いた。八年の歳月はどこに行ったんだろう。

 伊緒さんはお仕事がサービス業で忙しく、夜は遅くにしか帰ってこない。朝はちょっとだけゆっくりで、九時にお仕事に出かけていった。


「ね、迷惑じゃなかった?」

「なに? 遠慮してるの?」

「ううん、真紀ちゃんが嫌がるとは思ってないけど、伊緒さん疲れて帰ってきてるのに、私邪魔じゃないかな、って」

「ああ、そういうこと? 気にしなくて大丈夫、喜んでたよ? もう高校生なの、こわい、って」

「それ、喜んでるの?」

「大きくなったね、ってことよ」


 そう言う真紀ちゃんは屈託のない笑顔を向けてくれて、私に安心していいよ、というメッセージをくれる。

 真紀ちゃんと伊緒さんの間にある絆を垣間見て、私は嬉しいような、苦しいような気持になった。

 夜は真紀ちゃんのベッドで、真紀ちゃんと一緒に寝る。伊緒さんはリビングのソファーベッドで寝てるみたい。

 ベッドがひとつしかないことを私はあえて聞かなかったし、ふたりともいつものこと、みたいな顔をしてる。

 けど。

 ソファーベッドを毎日ベッドとして使ってたら、もうちょっとくたびれてると思うよ?

 きっと伊緒さんをベッドから追い出しちゃった形になったんだろう。ごめんなさい、と心の中でそっと謝罪しておいた。


 三日目の夜は伊緒さんが早く帰ってこれることになって、夜ごはんを三人で食べに行った。

 どこ行きたい? と聞かれたから、いつもふたりが行ってるところに行ってみたい、と言ったら、連れて行ってくれたのはお蕎麦屋さんだった。


「えっ! 真紀さんと伊緒さん、こんなにおっきな子供いたの!?」


 注文を取りに来たイケメンの男の人が、私の姿を見るなりびっくりしてそんなことを言い出した。


「大ちゃん、それはさすがに大きすぎない? 高校生だよ? 私の姪っ子。かわいいでしょ」


 真紀ちゃんが慣れた様子であしらいついでに、私の自慢をしている。ちょっと恥ずかしい。


「毎度ご贔屓にしてもらってます! あー、びっくりした」


『大ちゃん』はここの若旦那さんだと教えてもらった。

 三人の、気心が知れた雰囲気から察するに随分長い付き合いなんだろう。それに「二人の子供」的発言が出てくるっていうことは、真紀ちゃんと伊緒さんの仲も知ってるってことだよね?

 伊緒さんは気にした風もなくいつもの、って注文してる。常連ぽくてかっこいい。

 私は真紀ちゃんイチ押しの海老天蕎麦をたのんだら、想像以上に大きい海老天が乗っていて本当にびっくりした。

 真紀ちゃんは鴨せいろをたのんだ後、大ちゃんに「今日は飲まなくていいんですか?」って聞かれてた。多分私がいるから我慢してくれてるんだろう。

 料理が運ばれてくる前に、伊緒さんがひょいひょいと塩と小皿を置いてあげていて、真紀ちゃんも当然のようにセッティングを待っている。

 一緒にたのんだ野菜天盛り合わせは、私にいろいろ食べさせてくれつつ、ふたりで何を食べるのか決まっているらしく、特に言葉を交わさないまま消費されていく。

 私と真紀ちゃんが隣合わせで座ったから、伊緒さんは向かいになって表情がよく見える。

 改めてこうやって見ると、つい考えてしまう。

 私、伊緒さんのどこが好きなんだろう、って。

 顔はもちろん好きだ。綺麗な顔立ちだし、きりっとした雰囲気は人目を引く。

 姿勢がきちんとしてるのも、所作が流れるように美しいのにも心惹かれる。

 でも七歳だった私が、どうして伊緒さんに魅かれたのか。

 どうしてあの頃からずっと、私の心を捕らえて離さないのか。


「希ちゃん大丈夫? エアコン、効きすぎてない?」


 口数が少なくなってしまった私に、伊緒さんが声をかけてくれてあわてて顔を上げる。

 そこには優しくこちらを見ている伊緒さんの瞳が私を映していて、心臓が小さく飛びあがった。


「あ、大丈夫です!こんな大きな海老食べちゃったら、これからどんな海老見ても小さく感じちゃうな、と思って」

「たしかにそれはあるね」


 伊緒さんが笑う。

 笑ってくれると嬉しくて、胸が躍る。

 んん、私これ、やっぱり伊緒さんのこと、好きだよね。


「わかる。私も初めてここの海老見たとき、そう思った」

「え、真紀さんも? あ、ちょっと待って」

「ん?」

「つゆ、跳ねてるよ、顎のとこ」

「本当?」

「うん、じっとして」


 伊緒さんが手を伸ばして、真紀ちゃんの口のそばにそっと紙ナプキンを滑らせる。


「子供みたいで恥ずかしい」

「そんなことないよ」


 あ。

 伊緒さんの声が、ちょっと甘くなったのに気付く。

 そっと表情を伺うと、私の視線にも気付かずに真紀ちゃんを見つめている。

 笑顔みたいな、でももっと優しくて、穏やかで、柔らかい表情。

 それはきっと世界でひとりだけ、真紀ちゃんだけに向けられるものなんだろうな、と、何故かすとんと心に落ちてくる。

 伊緒さんが私を見る時ももちろん優しいんだけど、それはお母さんが私を見るときとよく似ている。

 でも、真紀ちゃんに向ける瞳はもっとこう……熱っていうか。

 まるで瞳だけで想いの丈を伝えるような、そんな熱感が籠っている。

 その瞳の中の熱に、七歳の私がどうしようもなく魅せられたんだと、やっと理解した。

 そして同時に、私の中でひとつの事実が急速に焦点を合わせていく。


 そっか、そうだよね。


 その瞳が私に向けられても、私はきっと嬉しくない。

 ううん、嬉しいかもしれないけど、私よりも真紀ちゃんに向けられているのが、私の中では一番望ましい、とでも言うべきかな。

 ふたりがずっと並んで歩いていく姿を、私はこれからも見ていたい、だから。


 ああ、私、失恋したんだ。


 じわりと湧き上がってくる実感を、心の中でぎゅっと抱きしめる。

 ちゃんと失恋、できた。

 大好きな真紀ちゃんと、ちょっと違う好きな伊緒さんがいて。

 ふたりが心を許して通ってるお店で、まるで家族の一員みたいにふたりの間に入れてもらって、温かく受け入れてもらって。

 優しい空間で、優しい時間に包まれて。

 私は自分が一番納得のいく状況で、今までずっと引きずっていた淡い恋心に、ちゃんと終止符を打つことができた。

 失恋したっていうのに、びっくりするくらい心は穏やかだった。


 ◇


 4日目の朝。

 いつもは真紀ちゃんに起こしてもらうまでベッドにいるんだけど、今日はたまたますっきり目が覚めて、トイレに行きたいのもあってベッドから自主的に滑り下りた。

 途中、ダイニングテーブルの上に小さな包みが置いてあるのを見つけた。もしかしなくてもお弁当かな?と察して、真紀ちゃんがきっと休みの日は毎日伊緒さんに作ってあげてたんだと今更気付いた。

 でもこれがここに置いてあるってことは忘れものなのでは?

 まだ伊緒さん、いるかな。

 慌てて玄関の方に行こうとして、ちょっとだけ開いたドアの隙間から、伊緒さんが靴を履き終わるのがちらりと見えた。

 よかった、まだ間に合う。

 急いでドアを開けようとして、伊緒さんが真紀ちゃんを抱き寄せたのが見えて危うく踏みとどまる。


「行ってくるね」

「うん、今日もがんばって」


 真紀ちゃんの手が、ごく自然に伊緒さんの頬に伸ばされて、ふたりの顔が近づいて軽くキスが交わされる。

 わぁ、行ってらっしゃいのちゅーだ……!

 思いがけずふたりのそういうところを見てしまって、慌てて真紀ちゃんの部屋にもどってベッドに潜りこんだ。

 そうだよね、私がいるからふたりでそういうことできないもんね。

 私が知ってるだけでもふたりはもう八年以上も付き合ってるはずなのに、まだあんなに仲良しなんだ……。

 ふたりの間の甘い空気を思い出して一人赤面する。普段、他人のキスなんてお目にかかる機会なんてないし。

 ダイニングでは、無事お見送りを済ませたらしい真紀ちゃんが、忘れ物を発見して悲痛な声を上げるのが聞こえてきた。




「伊緒さんて、偉いひとだったんだね……」

「あ、言ってなかった?」


 忘れていったお弁当を届けてから、私は真紀ちゃんに喫茶店に連れてきてもらっていた。

 流行りのカフェ、とかじゃなくて、白い髭のかっこいいマスターがいる、喫茶店!っていう感じのお店だ。

 そこでいい香りのするコーヒーを、カフェオレにして頂いている。

 真紀ちゃんについて一緒に行った伊緒さんの勤務先は、複合商業施設の中でもひときわ広いスペースを占めているリラクゼーションのお店だった。

 受付のスタッフさんに「立守に渡したいものがあるんですが」と声を掛けたら、エリアマネージャーの名札を付けた男の人が出てきて、「あ、統括の……」とすぐに事情を察してくれてとても丁寧に対応してくれた。


「統括をお呼びしますか?」

「ううん、今、フロアに出てるんでしょう?これ、渡してくれるかな」

「はい、承りました。間違いなく統括にお渡しいたします。何かお言伝などありましたらお伺いしますが……」

「ありがとう、大丈夫。あ、がんばって、って伝えてもらえるかな」


 真紀ちゃんの言葉に、エリアマネージャーさんは「はい、確かに」と、とてもいい笑顔で答えてくれた。

 『統括』って、多分統括本部長のことだよね……? それって確か、すごく偉かったはずだ。

 どれくらい偉いかって言われると、よくわからないけど。


「統括、ってどのくらい偉いの?」

「うーん、そうね……伊緒の場合は、副社長の右腕っていう感じかな」

「なんかすごそう」


 副社長さんに信頼されてる、ってことだよね?

 すごくない?

 そしてふと、真紀ちゃんと伊緒さんて、年齢も職業も違うのにどうやって出会ったんだろう、と気になった。


「真紀ちゃんはどうやって伊緒さんとつ……知り合ったの?」


 一応、私はふたりのことはとぼけるスタンスを取ることにしている。ので「付き合ったの?」と言いかけて、すんでのところで「知り合ったの?」と言葉をすり替えた。


「え? どう、って、え? ん?」

「えっと、真紀ちゃんと伊緒さん、とっても気が合うでしょ? そんな人とどうやって出会ったのかなって」


 真紀ちゃんがわかりやすく動揺したので、あわててふたりのことは気付いてませんよ、とフォローを入れる。


「あ、ああ、気が合う、ね、うん、そうね、気が合う人と、どうやって、かー」


 見るからにほっとする姿を見て、ちょっと申し訳なく思う。真紀ちゃんは考える素振りを見せながら、思い出すようにゆっくりと話しだした。


「うーん……一緒にごはん食べに行ったりしてるうちに……たくさん話して……居心地がいいなーって思うようになって……悩みとか話して、ウマが合った感じかな」


 真紀ちゃんにしては珍しく、歯切れの悪い言い方だった。


「初めて会ってからすぐ、この人と気が合う!ってわかったの?」

「ううん、初めて会った時は、あまり私はいい印象じゃなかったんじゃないかな。私は……伊緒に絡むみたいになっちゃったし」


 そういう真紀ちゃんの表情はちょっと苦し気で、私は触れてはいけないところに触れてしまった気がして、それ以上聞くことができなかった。

 タイミングよく注文していたオムライスが運ばれてきて、私と真紀ちゃんはスマホで思う存分写真を撮って、ソースが違うオムライスを少しずつ分け合いっこしながら、残りのランチの時間を楽しく過ごした。


 ◇


 5日目。

 私がダイニングで紅茶を飲みつつスマホをいじっていると、アラームが鳴りだした。

 後ろのソファーベッドを振り向くと、かけ布団から長い腕がにゅ、と伸びて、ソファーテーブルの上の目覚まし時計の息の根を止めるところだった。

 のそり、とその伊緒さんがソファーベッドの上で上半身を起こす。起きたてで目が開いていないのと、寝癖がかわいくてつい笑ってしまいそうになるのを懸命にこらえる。

 今日真紀ちゃんは本当はお休みだったんだけど、急遽出勤になってしまった。

 15時頃には帰ってくるとは言ってたけど。


「伊緒が休みの日でよかった。朝弱いけど、十時になったら起こしてあげてくれる? ごめんね」と言い残して七時過ぎに出勤していく真紀ちゃんは、スーツが似合っていてかっこよかった。

 やっぱり次長さんが一週間まるまる夏休み取るのって、難しいよね。

 お父さんだって、そんなに休めてないもん。

 伊緒さんに至っては連休すらなさそうだし。恐るべし、サービス業。

 その伊緒さんは寝起きのちょっと覚束ない足取りでキッチンまで来ると、電気ケトルでお湯を沸かし始めた。手際よくカップを準備している。その後ろ姿は細い。

 沸騰する前に電気ケトルを手に取って、コーヒーカップに注ぐといい香りが漂ってくる。


「希ちゃん、朝ごはん食べた?」

「はい、トースト、いただきました」

「足りる?」


 シンクに寄りかかってコーヒーを飲みながら、伊緒さんが心配してくれる。


「えーと……」

「後でなんか軽いもの、食べに行こうか」


 言い淀んだ私に、察してくれた伊緒さんがとても優しい笑顔になる。

 真紀ちゃんには言えなかったけど、伊緒さんになら言っても大丈夫かな。


「あの、真紀ちゃんと伊緒さんって」

「ん?」

「好き合ってるんですよね?」


 ふぐっ、ていう音がした。

 何の音だろう。


「あー、知ってたんだ……」

「ええと、はい、何となくは」


 驚いてるみたいだけど、やっぱり真紀ちゃんよりは動揺してないみたいだ。

 よかった。


「お母さん、なんか言ってた?」

「いえ、母は特に、何も」


 ということは、お母さんは真紀ちゃんと伊緒さんのこと、知ってるんだ。

 それは……そうだよね。

 泊まりに行きたい、と言ったときのお母さんの困惑を思い出して納得した。


「そっか。いや、なんかごめんね?隠すつもりじゃなかったんだけど、いつ希ちゃんに言うべきか真紀さんともまだ結論が出てなくて」

「えっ、謝らないでください、こちらこそ、私がいるせいで、伊緒さんたちえっちできないですよね!?」


 まさかそんな風に悩ませているなんて思ってもみなくて、思わず本心を口走ってしまったのに気付いたのは、伊緒さんが横を向いて思いっきりコーヒーを吹き出した直後だった。


 ◇


「いや、本当、ごめんね……」

「伊緒さんは悪くないです、すみません、とんでもないこと口走って」


 伊緒さんの運転で連れてきてもらったのは、おしゃれなケーキ屋さんだった。販売スペースの奥の、二席しかない喫茶スペースで向かい合って座っている。


「こっちこそコーヒーぶちまけちゃってごめん、汚かったよね」

「そんなことないです」


 伊緒さんが吹き出したコーヒーは、幸いなことにほとんどがシンクに命中して大した被害はなかった。

 けど、人間てあんな冷静な顔したままコーヒー吹けるんだなぁ。

 真紀ちゃんより動揺してないと思ってたけど、伊緒さんも充分動揺してたみたい、ごめんなさい。

 でもそれって、ふたりにとって私が大事なんだって、思っていいんですよね……?

 そう思うと、とても嬉しいし、幸せだなぁと思う。


「伊緒さんは、真紀ちゃんとどんな風に出会って、付き合うようになったんですか?」

「お、恋バナか」


 もちろん、そういう話は好きだけど。

 真紀ちゃんがちょっと気に病んでる様子だったのを思い出して、つい聞いてしまった。

 運ばれてきたかわいいベリーのケーキにフォークを落とす。

 もったいないから、ちょっとずつ食べよう。


「出会いはね……」


 そう言って、伊緒さんはおかしそうにちょっと笑った。

 あれ?

 真紀ちゃんと随分違う。


「真紀さんが私のこと心配して、あれこれ気にしてくれたんだけど。真紀さん不器用だから、最初全然それがわからなくて、振り回されたなぁ」


 真紀ちゃんが不器用?

 意外な一面だった。

 私にとってはいつだって、何でも知ってる優しいお姉さんだったから。


「だから初めのうちは何だこの人、って思ってたんだけど。心配してくれてるんだって気付いたら、何だろ、もうすごく可愛くて」


 伊緒さんが、手元の生クリーム抜きのガトーショコラをひとかけ、フォークにさして口に運ぶ。

 その口元は楽しそうに笑っていて、とても優しい表情になる。

 ああ、真紀ちゃんのこと、大好きなんだなって、すごく伝わってくる。


「それで、私の方が夢中になって、付き合ったって感じかなぁ」


 コーヒーをぐい、と飲んで、店員さんにおかわりをたのむ伊緒さんの耳は赤くなっている。


「伊緒さん、ひょっとして、照れてます?」

「うん、まぁ、照れるよね?」


 そう言って笑う伊緒さんは、とっても幸せそうで、私はますます幸せな気持ちになった。

 ちなみに昼過ぎに真紀ちゃんの会社まで車で二人で迎えに行って「真紀さん、なんかとっくに色々バレてたよ」と言われた真紀ちゃんの悶絶っぷりは、ちょっとかわいそうなくらいだったので三人だけの秘密にしておく。

 ただ、すごく可愛い、という伊緒さんの言葉に全面的に同意せざるを得なかったことは特筆しておきたい。

 その日は真紀ちゃんと伊緒さんの間に入って腕を組んで、たくさんお買い物に連れて行ってもらった。

 夜ごはんはお肉食べたい、と訴えたらしゃぶしゃぶに連れて行ってもらって、そこでもふたりの仲の良さに当てられることになった。

 けど、ふたりがとっても想い合ってるのを見るのは悪い気分じゃなかった。

 夜、部屋に帰ってから、今日はふたりでベッドで寝たら? と勧めたら、伊緒さんが真顔で「我慢できなくなるからやめとく」って言っちゃって真紀ちゃんに怒られてた。

 でもあれ、きっと本心なんだろうなぁ。

 私にふたりの関係がバレてるって発覚してからは、伊緒さんからの真紀ちゃん好きビームはわかりやすくなったけど、私がいるから節度を守ろうとしてくれているのは伝わってきた。


 お泊り最後の日は、真紀ちゃんに散々、伊緒さんのどこが好きー? と絡んでたくさん赤くなってもらった。でもいっぱい教えてくれたから結局このふたりはお互いが大好きなんだなー、と再確認した。

 真紀ちゃんからも、いつから気づいてたの、とか、なんで気づいたの、ととても恥ずかしそうにいくつか質問されたので、懇切丁寧に説明しておいた。

 テレビ電話でやりとりをしている時に伊緒さんの話題になると、真紀ちゃんがどんなにかわいい表情になるか、どんなふうに声が弾むかとかそんなことを話すと、でも真紀ちゃんはとても聞いていられなかったみたいで時折耳を塞いでいた。

 普段はしっかりしている真紀ちゃんのそんな可愛い一面を見たら、伊緒さんがあんなに真紀ちゃんのことを好きな理由が、わざわざ聞かなくてもしっかり理解できた。

 うん、納得の可愛さ。

 七日目は、出勤する伊緒さんと一緒に、真紀ちゃんと私も部屋を出る。

 お盆だから真紀ちゃんの実家、つまり私にとってはおばあちゃんの家に向かって、そこでお母さんたちと合流することになっている。


「伊緒さん、たくさんお世話になりました」


 別れ際に頭を下げると、あの優しい顔で「どういたしまして」と返してくれた。


「また遊びに来てね。待ってるから」

「ええと、はい、今度はもうちょっと短い滞在にします!」


 そう言ったら、声をあげて楽し気に笑ってくれた。真紀ちゃんは赤くなってたけど。


 こうして、私は長患いしていた初恋に決着をつけ、きちんと失恋し、そしておまけに真紀ちゃんと伊緒さんに多分本当の意味で受け入れられた一週間が幕を下ろしたのだった。

 後で振り返って、もしかしたらお母さんは私の気持ちを知ってたのかもしれない、とふと考えることがある。だからちゃんと失恋できるように、私を送り出してくれたのかな、って。

 いつか私にちゃんと好きな人ができて、真紀ちゃんに紹介できる時がきたら、その時は。

 私の初恋のひとは伊緒さんだよ、って言ってみようかな。

 そしたら真紀ちゃんはどんな顔するんだろう。

 怒るかな?慌てるかな?

 でも案外「あげられないけど、伊緒のこと好きになっちゃう気持ちは分かるわ」なんてのろけられるのかも知れない。

 早く、その時が来ればいいな。


 抜けるような青空を見上げて、私は目を細めた。

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