スリーピース・コミュニケーション

鹿田甘太郎

プロローグ

#1 生産なき日々

 小雨が聞こえる夕暮れの部室で、雨が止むのを待っていた。六月に入り、朝のニュースでは降水確率四〇パーセントだったはずだ。野球の四割と聞くと可能性が高いようにも感じるけど、たとえばゲームの必殺技の命中率が四〇パーセントであれば、頼りなく見えるだろう。僕は一体、降りしきる雨に対してどちらの期待値を持つべきだったのだろうか。

 そういうことを級友に問いかけたつもりだったのだけど、返事がない。見ると、福井陽稀ふくいはるきは生返事もなく忙しそうにしている。手元にはどうあがいても見覚えのある英単語帳。頭をガシガシと掻くクラスメイトに対して、ひとつ咳払いをした。

「一夜漬けって、効率悪いらしいよ」

「だったらもう少し早く、定期テストのことを教えてくれても良かっただろ」

 開いたままの英単語帳を顔に乗せ、陽稀は天井を仰ぐ。

「なんでまた、こう、毎月毎月テストをやるんだ。一ヶ月足らずの間に蓄積できる知識がどれだけ僅かなものだと思ってる。嫌になるぜ」

「学校の授業はずっと行われているわけで。それに、範囲が不明瞭な模試と違って到達度理解テストって位置づけだから、やるべきことが絞られる分、対策もやりやすいんじゃないかな」

「お前はそうだろうよ、一年六組副委員長」

 嫌な肩書きを持ち出された。なりたくてなったわけではない。

 それに学級委員だなんて、高校生にもなると大した役割はない。授業開始と終了時の挨拶の任があるくらいで、それ以外だと生徒総会に意見書を提出するくらいのことしかなかった。夏休みになったらボランティアに参加させられたりするのだろうか?

「言っておくけど、学級委員なんてなりたくてなったわけではないよ」

「そうなのか」

「そうなのかって、福井も投票に参加しただろう。英語の小テストの余り用紙使った適当なやつで」

「ああ。あれがそうだったのか?」

「多分想像しているやつで合ってる」

「じゃあ、そうか。おめでとう」

 さては波多野透はたのとおるの名前を書いたな、とは言わなかった。ため息でキャッチボールを終わらせて、窓の外に視線を戻す。

 うっすらと映り込むのは、ボストン型の黒縁メガネをかけた男子生徒の姿。髪はもちろん染めていない肩ほどはない一般的な長さの黒髪で、学ランも含め着飾ったところはゼロである。ついたあだ名は、ない。メガネくんと呼ばれるほどクラスに馴染んだこともない。それはイジメを受けていたということでもなく、シンプルに教室によくいる男子生徒Aだったというだけの話だ。広辞苑の「地味」の項目に図解として掲載される日も近い。

 雨は落ち着く。地味だからではない。大きな音を立てるわけでもなく降りしきる雨は、心地よいリズムとなって眠気を呼び起こす。ここが軽音部の部室でなければ枕の準備をしていたかもしれない。ここに至って、僕は残り一名の登場人物を思い出した。

山口やまぐちさん、見かけた?」

「今日は見てないな。水曜日は……なんかあったっけか」

「わからない。僕も見てない」

 福井は返事をしなかった。軽音部の部員にはもうひとり、山口史織しおりという同級生がいる。あとは先輩が二人いて、それだけだ。山口さんは高頻度に部室に出没するのだけど、雨の日に限って居ないものだから、賑やかな部室は雨のカーテンでしっとりと包まれてしまう。

 まあ、人には人の事情がある。僕だって理由があって部室にたむろしているわけではなく、福井も特別な理由でここに来ているわけではないだろう。入部して二ヶ月弱も経てば、部室は遠慮のない空間に変化する。

 加えて軽音部の部室では、あろうことか楽器の演奏が許可されていない。文化棟の西端――察しやすく言えば住宅地が窓から見えるような立地であり、防音設備もないと来ている。騒音問題で取り上げられるのは御免被りたい、という気持ちが文化的活動に勝ってしまったと考えると、世間の圧はなかなか厳しいものに感じる。とにかく、軽音部員が楽器の練習をしたいなら、軽音部室に来ることはないという悲しい事実は、先輩二名が部室にいない理由にも繋がってくる。そういうわけで櫛田くしだ高校軽音部室は、校内でも指折りの非生産的な空間になっているのだった。

 僕は、それで構わなかった。

「雨、止むかな」

「降水確率四〇パーセントなら、ギリギリ勝てるんじゃないか」

 降水確率は単に雨が降る確率じゃないらしいよ――と返したくなったけど、僕も詳しいことは知らなかったので、肩をすくめるに留めた。

 ギターの旋律が鳴ることも、流行りのスイーツの話で盛り上がることもなく、六月の空が太陽に照らされる可能性も見えず、何かを生み出すこともないキルタイムは続いていく。一般男子高校生・波多野透が過ごす高校生活とはかくあるものだと、疑いようもなく信じ切っていた。

 思い返せば、このとき既には進行していた。

 小ぶりの雨が長い時を経て、頑強な鉄パイプを錆びつかせていくように。

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