第7話 異臭の正体

「あの人が整形していたなんて……、山下さん、気付いていましたか?」

 と訊かれた山下女史は、

「いいえ、まさかそんなことは知りませんでした」

 という話を訊いて、また涼音が少し反応した。

「ということは、知っていたとすれば、それは死んだお父さんだけだったということなのかしら?」

 というと、

「そうかも知れませんね。秘書という立場上、まったく知らないというのは、その方が却っておかしい気がするんですよ。それを思うと、今度の事件も、あの時の事件と何か繋がっているのではないかと思いますよね」

 と河合刑事はいった。

「少なくとも、被害者と加倉井氏が同一人物だったということになれば、まったく無県警ということはありえないでしょうが、どこまでどのように結びついてくるか、そこが問題ですね。もっというと、今回の事件がなければ、もっと長い間、あっちの事件の被害者が分からずじまいになって、どんどん、事件の解決の可能性が限りなくゼロになってしまうんですよ。だから今回の事件は、どちらの事件に対しても大きな意味を持っているということであり、桜井刑事の意見も聞いてみたい気がするんですよ」

 と、浅川刑事は言った。

「この事件が本当に偶然ではないんでしょうか?」

 という涼音に、

「何とも言えませんね。ただ、限りなくグレーであるとは思いますが」

 と、浅川刑事這は言った。

 それを聞くと、先ほどよりも少し目が血走っているかのように見えたのは気のせいであろうか。少なくとも、父親が死んだことに対しての興味よりも、加倉井が謎の死を遂げたかも知れないという方に興味をそそられたのは間違いない。

――ということは、彼女は、父親が死んだということではまったく見えていなかった事件の真相が、加倉井氏が殺されたということで、何かの進展があると思い、俄然興味を持ったということになるんだろうか?

 という思いがあった。

「加倉井さんというのは、どういう人だったんですか? 同じ家に過ごしていたわけですから、少しは分かると思うのですが、確か一年ほどご一緒だったということでしたね?」

 と浅川刑事がいうと、

「ええ、そうです。でも、ほとんどご主人様とご一緒だったので、家で私たちと面と向かうことはほとんどなかったですね」

 と、山下女史が言った。

「ということは、皆さんがご主人を含めた団欒の時には必ずそこにいて、逆にご主人がいない時は、いなかったという解釈でいいんでしょうか?」

 と、浅川が訊くと、

「ええ、その通りです。その指示に関してはすべてお父さんが仕切っていたので、私たちは逆らえないという感じでした。お父さんは、基本的に家にいる時は自分が仕切っていないと気が済まないタイプだったので、山下さんも大変だったと思います」

 と今度は、涼音が答えた。

 どうやら、二人の間には暗黙の老獪のようなものがあり、どんな質問があれば、どちらが答えるというようなものがあり、答えなかった片方がそれを聞いて、補足をするというようなそんな関係ではないかと思えたのだ。

 それを感じたのは、今の話が初めてではなかった。もっと早い段階で気付いていたのかも知れないが、それはきっと、涼音の気持ちが浅川に近づいてきたという感覚があったからだろう。

 実は、この写真を見て、

「写真に写っているのが、この間殺害された人物だ」

 と感じた倉橋巡査は、そそくさとその場から退室し、別室から署に電話を入れていた。

 もちろん、このことを捜査本部に連絡するためであり、もし自分の勘違いであったとすれば、大変なミスを犯したことになるので、自分だけの目ではなく、実際に立ち会った桜井刑事、福島刑事にも確認してもらおうという意思があってのことだった。

「そうか、分かった。ありがとう、今からそっちに向かうことにする。たぶん、三十分はかからないと思う。すまないが、それまで浅川刑事や河合刑事、そしてもちろん、君もその場にいてもらうようにできないだろうか」

 と、桜井刑事はそうお願いした。

「ええ、承知しました。そのようにいたします」

「それじゃあ、任せたよ」

 ということで電話を切ったのだ。

 倉橋巡査としても、自分の言葉が重大であったことは認識している。

――ひょっとすると、あそこで言わない方がよかったのかな?

 と感じたほどで、そういう意味で、後悔の念が襲ってきているようであった。

 倉橋巡査は、河合刑事のように、刑事課に赴任を希望しているわけではない。実際にはかなり年齢も過ぎているので、いまさら刑事になろうとは思わなかった。それよりも、庶民との関係を濃密にして、

「市民から愛される警察官」

 というような、まるで巡査の鑑のような言葉を頭に浮かべて、それをモットーに生きて行こうと思っていた。

 しかし、それでも今回のように、殺人事件のような重大事件に関わることも多いだろう。逃げるわけにもいかず、できるだけ目立たないように、表に出ている刑事の手伝いができることを考えるだけだった。

 もっとも、巡査が出しゃばってくると、刑事から煙むたがられ、ほぼ間違いなく、無視されるという結末になり、自己嫌悪に陥ってしまうことになるだろう。倉橋巡査はそれが嫌だったのだ。

 河合刑事が巡査から刑事を目指したというのも、実は倉橋巡査を見ていたからだった。

 自分のことを、

「気が弱い性格だ」

 と思っていることを自覚していることで、倉橋巡査を見ると、

「まるで、自分の将来のようだな」

 と感じたのだ。

 つまり、今行動を起こさなければ、どんどん、慣れてきてしまって、二度と上に上がる気持ちを持たなくなり、倉橋巡査の姿が、

「将来の自分の姿だ」

 と思うのだろうと感じたのだった。

 倉橋刑事が自分にそんな思いを抱いているとは、当の河合刑事は分かっているのだろうか?

 そんなことを考えていると、倉橋は自分が今、河合刑事の近くで事件に直接かかわっていることがまるでウソのように感じられたのだ。

 本当はタバコを吸いたいくらいの気持ちだった倉橋巡査は、あの場面では吸うことはできないのは分かっているので、我慢をしていたが、そのせいなのか、微妙に喉が渇いてきたのを感じた。しょうがないので、とりあえず、その場所に戻って、山下さんを呼び出した。

「すみません、何かの飲み物ありますか?」

 と、訊ねた。

「ああ、台所にいけば、冷蔵庫にミネラルウォーターがありますが、それでよろしいですか?」

 と言われて、

「申し訳ありません、ご所望できればありがたいのですが」

 と言って、自分も山下さんについて、台所まで向かった。

 すると、

「あれ?」

 という山下さんがいうので、

「どうしましたか?」

 と訊ねると、

「何か変な匂いがしませんか?」

 と言われた倉橋が、

「あっ、そういえば、何かホルマリンのような臭いがする気がしますね」

 というと、山下女史の表情は完全に鼻が曲がったかのような表情になり、

「ホルマリン? 私は詳しくは分からないけど、何やらお酢のような臭いを感じるんですよ」

 という山下女史に対して、

「それはおかしいですね。同じ異臭を感じて、感じる人によって方やホルマリンの匂いで、かたや、お酢の匂いというのは明らかに可笑しいと言えますよね」

 と倉橋は言った。

 二人はゆっくりと歩いていたが、この異臭は明らかに台所からしてくるのが分かったのだ。

「入ってみましょう」

 と言って、二人で入ると、今度は鼻を塞ぐようなひどい臭いに、いたたまれなくなった倉橋巡査は、これは明らかに尋常ではないと判断し、応接室に戻って、

「申し訳ありません、せっかくのお話を中断させて済まないのですが、台所から何やら異臭がしてくるので、ご確認いただきたいと思いまして」

 と、倉橋巡査は、その様子の尋常でないことを伝えようとした。

 いち早く反応したのは河合刑事で、

「倉橋巡査がそこまでいうのであれば、これはただ事ではない」

 と言わんばかりに、無言の視線で浅川刑事に訴えていた。

 それを察した浅川刑事は、

「よし分かった。とりあえず話を中断して、台所に行ってみることにしよう」

 と、その場に居た人は一斉に立ち上がり、念のためん位タオルなどで顔を隠せるようにして用心深く台所に近寄ってみることにした。

 すると、ちょうどのタイミングで、桜井刑事が呼び鈴を鳴らしたのである。倉橋巡査はそれが、桜井刑事であることは分かっていたので、

「浅川刑事、桜井刑事ではないでしょうか?」

 と言ったので、それを聞いた浅川刑事は、

「分かった。河合君、もし桜井刑事と福島刑事なら、こっちに連れてきてくれないか?」

 と言った。

「はい、分かりました」

 と言って、玄関に向かうと果たしてそこにいたのは、桜井刑事と福島刑事だったのだ。

 様子がおかしいと思った桜井刑事がいうと、

「どうかしたのかい?」

 というと、

「実は台所から異臭がして」

 と言い換えると、

「まずい」

 と言って、通路に入って。

「待ってください、近寄るのは危険です」

 と桜井刑事が声の限り叫んでいるようだった。

 まさに間一髪だったと言えるだろう。

「どういうことなんだ! 桜井君、説明をしたまえ」

 と、さすがに普段温厚な浅川刑事が、これまでになるとは桜井刑事も思っていなかったらしく、その恫喝に一瞬たじろいでしまったが、彼には彼で言い分があった。

「申し訳ありません。でも、こうでもしないと、また死人が増えるところでした」

 と、桜井刑事の口から恐るべき言葉が語られる

 融通が利かないと思われるほど、この手のブラックユーモアには敏感な桜井刑事にはありえないほどの言葉に、今度は浅川刑事が驚愕した雰囲気だった。

「う―ん」

 と唸ると、浅川刑事は腕を組んで、桜井刑事を見つめている。

 これが、長年のコンビのなせる業だと感じた倉橋巡査は、何か言おうとしたようだが、言葉を飲み込んでしまった。

「実は、この臭い、これは毒性のあるものなんです。落ち着いたらゆっくりと説明しますが、まずは我々が丸腰でいくのではなく、キチンと装備した鑑識さんに任せるべきなんですよ」

 という桜井刑事の言い分を、浅川刑事は素直にしたがった。

「うん、分かった。じゃあ、鑑識さん、よろしくお願いいたします」

 と言った。

 鑑識を台所に戻して、一同はまた応接室に戻ってきた。少し落ち着きを取り戻すまで待ったが、今回も最後まで落ち着かなかったのは、涼音だったのだ。

「涼音ちゃん、大丈夫かい?」

 と、ねぎらいの言葉を掛けたのは浅川刑事だった。

 これがタイムリーな言葉となって、涼音はしっかり意識を取り戻し、

「はい、私に構うことなく、お話を初めてください」

 という涼音を見て。大丈夫と判断したのだろう。浅川刑事は桜井刑事に向かって、

「よし、それじゃあ、さっきの顛末の説明をお願いしようか」

 と言って、腕組みをした。

――変なことを言い出したら、承知しないぞーー

 とでも言いたげなのだろうか。

「では、さっそくお話をさせていただきます。ところで大前提なんですが、倉橋巡査から、どうやらこの間の殺害された人物がここの秘書の方ではないかということを伺ったので、私は福島刑事を伴ってこちらに来ました。我々もあの事件で、いろいろ不可解なことが多く、科学的な部分、そして、足での捜査を並行してしていたんですが、その理由は、あの時の被害者が整形を受けていて、それが事件に関係があると思ったからなんです。そんな中で、まず探さなければいけなかったのは、被害者に整形を施した人物だった。被害者がなかなか特定できないので、少し目線を変えたというわけです。でお、施術を行った人が見つかれば、自然と被害者も見つかるのではないかと思ったのですが、実際には、そんな小さな問題ではなかったのですよ」

 と、桜井刑事は言った。

「どういうことだい?」

 という浅川刑事の質問に対して、

「やっと昨日、その手術をしたのではないかと思われる、男を見つけました。その男は、医師免許も持っておらず、まったくのモグリだったのです。そのため、少し泳がせてお香と思ったんです。そうすると、怪しげなところに入り込んで、そこで研究をしていたんですが、何と毒ガスマスクのようなものを研究員皆がしているではないですか。そして、まわりにあまり匂いが漏れないようにしていたんですよ。その場所は大きな敷地の奥にあるので、民家まではかなりの距離があります、それでもここまで注意しているということは、相当な危険な研究ではないかと思い、鑑識に来てもらってできるだけ分析してもらうと、やはりかなりの猛毒であるということ、しかも特徴として、ホルマリンと酢酸の臭いが交互に襲ってきて、それを同時に吸い込むと、一気に死んでしまうというものでした。だから、この部屋に入った時、感じた匂いがホルマリンでしたので、これは危ないと思って、何があっても、止めないといけないと思ったんです。これが、先ほどの顛末になります」

 という桜井刑事を戒めることなく、ねぎらいながら、ゆっくりと浅川刑事は、話し始めた。

「そうか。それはありがとう。私が同じ立場でも一緒のことをしていただろう。いや、していないと、一生後悔が起こって、刑事を続けられるかどうかの問題になってきそうだ。いや、そういう問題ではない。これは立派な人命救助だ。君には何と言って礼を言っていいかと思っているところだよ」

 と、浅川刑事は言った。

 そう言う浅川刑事に従うかのように、皆落ち着くまで少し待っていた。

「さて」

 と、少し落ち着いてから、浅川刑事が切り出した。

「整形手術に関係のある匂いが、この部屋の台所からしてくるということはどういうことなのかな? 普通ならしてはいけない臭いなんだろう?}

 と桜井刑事に聞くと、

「その通りですよ。この臭いが充満してくると、秘密をばらしているようなものだし、誰か犠牲者を出すわけにはいかないでしょうからね。しかも、ここは社長の家の台所でしょう? これが何を意味するかというところでしょうね」

 と桜井刑事が言った。

 それに対して、

「ということは、この臭いは、予期せぬことだったと言えるんじゃないか? つまり社長がこの臭いを発生させて、本当はあるタイミングで消すつもりだったのだが、殺されてしまったので、止めることができなくなったと考えると、一つの辻褄が合うんじゃないかな?」

 と、浅川刑事が言った。

「その考えは少し偏っているような気がしますね。そうなると、社長の自殺説は限りなくありえないということになってしまうのでは?」

 という桜井刑事の意見に対して、

「ということになるだろうね。でも、そうなると、あの密室が疑問なんだよな」

 と浅川刑事が言った。

 それを聞くと、急にベソヲかいたような顔になった涼音を浅川刑事は見逃さなかった。

「どうしたんだい? 涼音さん」

 と聞くと、彼女はどっと泣き崩れた。

「すみません、本当は最初にいうべきだったんでしょうが、私が気を失ってしまったので、いうタイミングを逃したんですが、実は昨日私、お父さんと喧嘩になったんです。殺害された父の寝室で言い争いになったんです。その理由は私が、好きな人ができたから血痕したいという内容だったんです。でも、私の悪い癖というか、思ったことを父にだけは計算せずにいきなり言ってしまうところがあったのでいつも喧嘩です」

 というと、山下女史が、

「それはね、あなたが悪いわけでも社長が悪いわけではないの。社長が言いたかったのは、あなたが今言った、何も考えずにいきなりいうところに怒りを持っていたんですよ。よく私にこぼしていました。お嬢さんがいつまでも子供のように、まったく変わらないって、それが何も考えずに意見をぶつけてくるところだったんですよ。お互いに分かっていながら、依怙地になってしまっていたので、気持ちがうまく伝わっていなかったんでしょうね」

 と、いうと、それを聞いた涼音は感無量に陥ったのか、どっと崩れてベソヲかいて泣き始めた。

 それを見ていたまわりはどうすることもできず、泣き止むのを待つしかなかったが。意外とすぐに平静さを取り戻した涼音は、話を続けた。

「渡すは、どうすることmできずに、父を振り切って、部屋を出ました。たぶん、その時、わざと大きな音を立てながら、扉を閉めたはずなんです。その時に、きっとロックが掛かったのではないかと思います」

 と涼音は言った。

「涼音さん、言いにくいことを言ってくださってありがとうございます。私はお父さんの無念を晴らしたいという思いと、本当の真実が何なのかをきっと見つけようと思っています。だからあなたも、あまり思いつめないでいただきたい。これは私からのお願いです」

 と言って、浅川はまたしても、涼音をねぎらうように言った。

「ありがとうございます。私も気持ちは浅川刑事さんと同じです。私でよければ、いくらでも協力は惜しみませんので、何でもおっしゃってください」

 と言って、頭を下げた。

――何とすがすがしい女性なんだ――

 と浅川刑事は感じた。

「こうなったら、例の桜井刑事が見つけたというその秘密工場のようなところ、一刻も早く、捜査してみる必要があるようだね」

 と言って、桜井刑事に言った。

「はい、分かりました。捜査令状を取るようにいたします」

 と言った。

「たぶん、合同捜査ということになることになるだろうから、お互いに情報はしっかり共有することにしよう」

 と浅川刑事がいうと、

「じゃあ、連続殺人ということになるんでしょうか?」

 という桜井刑事に対し、

「まだ犯人が同じだと決まったわけではないからね。ただ、ここでの社長の密室殺人はたぶん、機械的なトリックなのだろうが、なぜここを密室にしなければいけなかったのかは、トリック自体よりも問題なのではないかと思うんだ」

 と、浅川刑事は言った。

「浅川刑事」

 と後ろから声を掛けられ、そちらを振り返す炉、そこには鑑識官が立っていた。

 彼がいうには、

「この臭いは、実は警察がか衣鉢している薬物に似ているんです」

 と言われて、

「開発って、なんの開発ですか?」

「実は、最近増え続けているサイバー詐欺関係で、変装や声だけを変えるという開発が詐欺グループで頻繁に行われているんです。それに対抗するための我々の対抗策なんです。まだハッキリした証拠がなかったので言いませんでしたが、この間の河川敷での殺人事件で、被害者が整形をしていたでしょう?」

 と鑑識官に訊かれて、

「ああ、確かにそうだった。でも、死後、すぐに判明したんだよな? 肉眼でも分かったくらいにハッキリと」

 と桜井刑事が言った。

「ええ、そうなんです。だから、あれはまだ未完成の整形で、今は詐欺グループも日々、改良を加えているところなんです」

 と言った。

「じゃあ、あの時の被害者、つまり加倉井氏だと思われるあの男は詐欺グループの一羽ということになるんですか?」

「ええ。私はそう思っています。やつらは、詐欺グループの協会のようなものを地域で作っていて、それを全国的にまとめている集団もあるんです。そこがどうやら、このあたりの開発をしていて、サイバーテロによって、警察のコンピュータに潜入して、そこで情報を得ていたというふしがあります。そこは、サイバー犯罪の部署が今当たっています」

「じゃあ、詐欺グループも、サイバー詐欺として、捜査をしているということですか?」

「ええ、韮崎刑事などのグループが、日夜、捜査に当たっているところですね」

 という話を鑑識官から聞いて、ドキッとした気持ちになったのは、福島刑事だった。

「じゃあ、私が冤罪ということにされたのも、やつらの最初からの計画だったということなのか?」

 と思ったのだ。

 なるほど、大きな詐欺グループが暗躍していて、それを知らずに、警察の通り一遍の捜査や精神論などで、太刀打ちできる相手ではなかったということだ。そう思うと、悔しいというよりも浅はかだった自分を嘲笑してしまいそうになる自分を感じていた。

「そしてですね。もう一つなんですが。ここの台所から摂取された薬物ですが。臭いに関しては有毒物質を含んでいますが、実際に触る分にはそこまではありません。ただ、皆さんも感じられたと思いますが、ホルマリンの匂いと、酢酸の臭いが交互にしましたよね。実はあれはそれぞれ、元々警察が極秘で開発していた薬物で、詐欺グループがノウハウを持っていると思われる変装用の薬物なんですが、それぞれに都庁はあります。未完成だったというのは、人間の細胞が死んでしまうと、その効果は消えてしまい、しばらくすると、元の顔が復元できるという特徴があるんです。だから、この間の整形を施された死体も、顔の復元はだいぶ進んでいます。そこで起こったのが、こちらの殺人であり、そして、台所から匂いが充満してきた。これがどういうことなのかと思ったのですが、あの薬品を混ぜることによって、溶解効果があるんです。つまり、それを使って密室に仕立てることができるということです」

 と鑑識官が言った。

「なるほど、だけど、問題なのはそこではなく。つまり、どうやって密室を作ったのかということではなく、密室にする必要があったのかということですね。確かに、捜査陣を惑わせることはできるでしょう。でも、その理由はどこにあるのおでしょう? いたずらに時間稼ぎをするくらいしか思い浮かばない。その間に高跳びを企んでいるとか、他の犯罪を計画しているのだとすれば分からなくもないけどですね。それを考えると、やつらの本当の目的はどこにあるというのか? 今見えていることだけを考えると、加倉井氏と思しき人物の殺害なのか、それとも、こちらの中西社長の殺害なのか。それともこれは単に何かの犯罪の序章でしかないのか。要するに、動機がまったく分からない、そのために、全貌が見えない犯罪だということになるんだよね」

 と浅川刑事は話した。

 その話は、その場にいる人たちにそれずれ驚愕を与えた。警察関係ではない、山下女史や涼音にまで分かるように話をしているのは、普通なら考えられないことだ。捜査に関する重要な話で、しかも警察内部に絡んでいる話ともなると、このようなデリケートな話を訊かせるわけにはいかないだろう。それでも、浅川刑事は聞かせた。そのことを一番気にしているのが、河合刑事だった。

――何だって、浅川刑事はこの二人にこだわるのだろう?

 という思いである。

「秘書をされていた加倉井さんがこちらにいられないので分かりかねるかも知れませんが、こちらに警察関係者の人が訪ねてくるということはありませんでしたか?」

 と、これはまったく何も期待せずに聞いた浅川刑事の質問だった。

 だが、戸惑っている山下女史とは対照的に、間髪入れずに涼音は答えた。

「ええ、それらしき人が訪ねてこられたことは、何度かありました。私は一度、警察署長さんと思しき、初老の制服警官の方が来られているのを見ています。貫禄があり、しかも、父が敬意を表しているようだったので、それなりの立場の人だったんでしょうね。父という人は、自分から見た相手の立場を態度にする人なんです。だから、父の態度を見ていると、おぼろげに相手の人の地位などが分かることがよくありあした。だから、あの警察関係者の方は、たぶん立場からすれば、県警本部長くらいの方ではないかと思うんです」

 と、彼女は言葉では曖昧そうに話してはいるが、かなりの自信を持った言葉だということを感じさせた。

 それを聞いた桜井刑事が、

「県警本部長といえば、東京でいえば、警視総監クラスの人だということですね」

 と言ったが、

「ああ、そういうことだ。たぶん、中西社長というのは、組織の中でもかなり上のクラスではないかと思われる。そんな人が敬意を表する警察官といえば、それくらいの地位にいる人でないとありえないことだろうな」

 と言いながら、苦々し気な表情をした浅川刑事だった。

 それは、あまりにも相手が大きすぎるために、どこまでこの事件を解決に導けるかという思いと、しょせん自分たちでは、大きな権力の前ではできないことを実感させられるだけだという思いが頭をよぎったからである。

 テレビドラマの刑事ものなどでは、そんな強大な権力に立ち向かう一刑事が描かれるが、それはあくまでも幻想であって、現実にはありえないだろう。

 もちろん、ドラマでも限界を示していて、そこをテーマに描いているものも少なくはないが、それはあくまでも、警察というものの裏を暴くだけで、しょせんはマイナスイメージを持たせるだけのものではないだろうか。

「それにしても。この事件の裏には何が潜んでいるというのか、何とも言えないが、見えている部分だけを整理しないと前に進めないのは間違いないことなんでしょうね」

 と、桜井刑事は言った。

 さっきから、河合刑事は、倉橋巡査の様子がおかしいことに気づいていた。

「どうしたんですか? 倉橋さん、少し顔色が悪いですよ」

 というと、

「ああ、大丈夫だよ。さっきの有毒物を吸い込んだことで、少し気分が悪くなったのかな?」

 と答えた。

 この二人の会話は、大っぴらに行われたものではなく、桜井刑事と浅川刑事が思案しながら会話しているその中でのものであった。

「少し、別室で休まれたらいいんじゃないですか?」

 というと、倉橋巡査は、

「うん、そうさせてもらおうかな?」

 といい、歩き始めると、

「皆さんには私から説明しておきます」

 という河合刑事の耳打ちを訊いて、手を挙げてそれを制しながら、別室へ引き上げていった。

 会話が白熱していたせいか、この二人のやり取りを気にしている人はいない。ここで倉橋巡査一人がいなくても、何ら問題ないと言ったところであろうか。

 だが、これは、この場にいた人たちの策略であったことを、その時の倉橋巡査には分からなかった。

 倉橋巡査が退室してから、河合刑事から倉橋巡査の話が出ることも、他の誰からも倉橋巡査の話題が出ることもなかったのである。

 とりあえず、事件考察の場において、並行してこのようなやり取りが行われていたのだが、それを気にする人は誰もいなかったということである。

「ここで一つ私が考えていることをこのメンバーで言っておきたいと思う」

 と浅川刑事はあらたまって言った。

 その場にはさっと緊張が走ったが、驚愕に値するような内容ではないことは分かっていた。なぜなら捜査員以外の、被害者の身内というだけの二人がいるからだ。ただ、それをお構いなしということは、二人にも聞かせたいという意思があるからに違いない。

 浅川刑事は続けた。

「私が考えているのは、きっと今回の犯罪には、警察関係者が絡んでいるということですね。そしてそのカギを握っているのが、倉橋巡査ではないかと思うんです」

 と浅川刑事は言った。

 誰も口を開く人はいなかった。まさか倉橋巡査の名前が出てくるとは思わなかった河合刑事であったが、正直言われてみれば、かつての先輩だっただけに、今から思えば、何か怪しいと思えることがなくもなかった。あまりにも小さなことが無数にあったので、次第にその感覚がマヒしていったのだが、今から思えば、それも相手の作戦だったのかも知れないと思うと、何とも言えない歯がゆい気持ちになってくるのであった。

「警察というのは、いろいろなところで不思議な絡み方をしているので、誰が犯罪グループに利用されるか分からないところがあると思うんです。それに、その警察関係者を利用するために、誰かを利用するということもありなんじゃないでしょうか?」

 という浅川刑事に、

「浅川刑事は、そのあたりのカラクリが分かっているのですか?」

 と桜井刑事が訊くと、

「ある程度は分かっている気がするんだけど、証拠がないんだよ。あくまでも私の主観的な想像でしかない。いや、今の段階では、妄想と言ってもいいかな?」

 という曖昧な言い方に、

「どうしてですか?」

 という桜井刑事に対して。

「それは、私がそうであってほしくないという思いがあるからさ」

 というと、その場はさっきよりも凍り付いてしまったように思えるのは、錯覚なのであろうか……。

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