影猫

御餅田あんこ

影猫 カゲネコ

 大学で知り合った真帆とはたまたま同郷で、夏休みに帰省した折、祭の宵宮に一緒に出掛けることになった。真帆が浴衣を着て行こうと言ったので、里子は母の手を煩わせながら浴衣を身につけ、髪をまとめて、約束の午後七時より気持ち早く待ち合わせ場所の公園に着いた。住宅街の余った土地にブランコとベンチを置いただけで、ボール遊びにも鬼ごっこにも物足りない猫の額ほどの土地である。ちょうどベンチの真横に外灯が一本立っていて、里子はそこに腰を下ろして真帆を待った。


 腕時計に視線を落とすと、まだ六時五十分。待ち合わせまでは、まだ時間がある。


 随分と日が延びて、この時間でもまだ薄ら明るい。二十メートル先の道路を時折過ぎ去っていく車の形もはっきりと認識できる。空は日中の晴れやかな青色の名残を残しながら、徐々に、藍に、紺に、暮れつつあった。


 空を見上げていた時、わさわさとした感触が足首に触れて、里子は驚いてベンチから飛び上がった。ベンチの下の暗い影の中に、光る小さな目が見えた。うっすらと影に目をこらして輪郭を見るに、どうやら猫らしかった。里子が急に飛び上がってベンチが揺れたので、あちらもびっくりしたのだろう、隅で小さくなってこちらの様子を窺っている。


「ごめんね、こわくないよ、おいで」


 里子は無類の猫好きで、思わず手を伸ばした後で、真帆から「野良猫に触っちゃダメ」と度々注意されるのを思い出して引っ込めた。猫はまだ警戒して、その場に蹲ったままだ。下手に手を出しても怖がらせるだけだろうし、里子は猫に向かって「じゃあね」と呟き、ベンチに座って真帆が来るのを待った。


 数分して、浴衣姿の真帆がやってきた。


「待たせちゃったかな?」


「ううん。大丈夫。それより真帆、とっても綺麗ね! いいなあ、素敵」


 言うと、真帆は照れくさそうにはにかんだ。


 真帆は容姿も仕草もどこか大人っぽくて、周りの女の子の憧れの的だ。浴衣姿も垢抜けていてよく似合っている。それに比べて自分はまだ高校生みたいだ、と、里子は思った。


「待っている間、野良猫には触らなかった?」


 真帆は心底心配した様子で、里子の周囲を見渡しながら言った。ベンチの下の猫は移動したのか、まだベンチの下の影の中に潜んでいるのか、見えるところにはいなかった。


「大丈夫、触ってないよ。真帆は心配性だね」


「……そうかもね」


「じゃあ、行こうか。私、もうお腹すいちゃった」


 宵宮の屋台が出ているのは住宅の並びを一つ越えた辺りで、公園まで美味しそうなバターや醤油の焼ける匂いが漂っていた。空腹には堪える。


 里子が肩をすくめて腹をさすると、真帆は笑った。





 程よく歩き疲れた二人は、宵宮の出ているアーケード街の歩道の縁に腰掛けて、かき氷を食べた。田舎町の商店街なのに、道路を埋め尽くすぐらいの人が歩いている。親子連れも大勢いる。普段里子が故郷のこの街に抱いている印象とは随分と違って見えた。


 食べ物の匂いに誘われたのか、太ったぶち猫がアーケードの隅をふてぶてしく歩いて行く。口には何か、たぶん唐揚げか何かだろうが、人の食べ残しなのか貰ったのか、咥えていた。


「真帆は、猫が嫌いなの?」


「えっ……嫌いというわけではないんだけれど……」


 突然の質問に困った様子で真帆は答えた。


 確かに、猫が嫌いだという話を聞いたことはない。野良猫には触らないように、と言うのは、きっとダニや病気を心配してのことだろう。


「飼い猫とかは平気なんだ?」


「平気、だけど、ちょっと怖いかも」


 そう言って、真帆は落ち着かない様子でかき氷をへらでつついた。


「里子は、一ノ森町だって言ってたよね。影猫って、知ってる?」


「ああ、影猫。そういえば、おばあちゃんがよく言ってたかな、影猫に食べられるよって」


 影猫は、この辺りの何地区か、ほんの狭い範囲で伝承されている妖怪だ。真っ暗な影の中にいる化け猫で、若い人間、特に子どもをを好んで食べる。幼い子どもに言い聞かせる方便だ。里子もよく言われた記憶があったが、長ずるにつれて居もしない妖怪よりも部活動や友達同士で遊ぶ方が大事になって、影猫のことなんてすっかり忘れていた。


「こんなこと、外の友達にはとっても言えないから黙っていたんだけれど、里子なら、信じてくれるかな」


 しゃりしゃり、食べもしないで、真帆が氷をかき回す音だけが不気味に響く。屋台の裏で鳴っているラジカセだとか人の声が、本当はずっと大きな音で鳴っているはずなのに、どこか遠く思えた。


「私の妹、影猫に食べられたの」


 そう言った真帆に、里子は何と返事をしたらいいのか分からなくなった。


「影猫は居るの、本当に。夜の真っ暗闇じゃなくて、夕方とか、妙に明るい夜とかに、うんと暗い影の中に潜んでいて、影の中に入ってきた人を食べるの。それも、一気に食べるんじゃないのよ。ちょっとだけ、味見でもするみたいにちょっとだけ。食べられた場所がほんのちょっと、真っ黒になっちゃうだけで、痛みもない。他の人には、何の異常もない肌色に見えるから、医者に行っても治せない。誰にも治せないの」


 里子はその時、真帆のうなじに真っ黒な穴が空いているのを見た。色の反射しない、吸い込まれるような真っ暗穴。汚れとは違うように見えた。浴衣の襟元の鮮やかな赤い花模様には、何の汚れうつりもしていなかった。


「妹は毎年ちょっとずつ影猫に食べられて、どんどん真っ黒になっていった。目のぱっちりした可愛い子だったんだけれど、十二歳になった頃には、鏡や硝子越しじゃないとどんな顔をしているのか分からなかった。妹は、きっと両親が妹の変化に気付けないように、私のことも何も気付いていないんだと思っていたと思うけれど、私は知っていた。だって、私も、昔、影猫に食べられたことがあるから。時々、すれ違う人がぎょっとして妹を見たのを覚えている。妹は、夏の夜が怖いのって泣いていたわ。その頃には妹の身体は、目に見える部分は全部真っ黒だった」


 きっと私の妹は美味しかったのね、と真帆は寂しそうに言った。


「私は気付かないふりをして妹を励ましたわ。大人は不味いから、影猫は食べない。大人になれば大丈夫よって。でも妹は中学三年生ある日、ボーイフレンドに誘い出されて、家を出たきり――」


 そこまで言って、真帆はちょっとイタズラっぽく笑った。


「嘘だと思う?」


 嘘には思えなかったが、里子は真帆の様子に動揺して、「いやだなあ、真帆ったら」と返事をした。真帆の首筋の真っ暗な穴が目について、力ない言葉を吐き出すだけで精一杯だった。


 真帆の手の中に固く包み込まれたかき氷は、里子のより溶けて、水っぽくなっていた。

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影猫 御餅田あんこ @ankoooomochida

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