自転車操業
自転車屋があった。Kはこの自転車屋がとても気がかりだった。なぜ気がかりかと言えば、いつ店を見ても客が一人もいなかったからである。彼はどうしてこの店が潰れないのか、気がかりで仕方なかった。
「Kが気にしすぎなのだろう」と考える人もいるかもしれないが、彼が気がかりになるには最もな理由があった。
それは、その自転車屋に客がいるところを一回も見たことがないという理由からだった。その自転車屋は、彼がこの街に引っ越して来た時にはもうすでにあったから、少なくとも20年以上はあった。もっと言えば、引っ越して来た時には、すでに店の外装はかなり古かったから、20年ではきかないようにも見えた。だから、もしかすると、何十年も客がいない自転車屋なのかもしれないと彼は考えたのである。
そして彼が出した結論は、きっと何か裏があるに違いないということだった。客がいない自転車屋でありながら、何十年も全く潰れないのだから、きっと自転車操業ではない。そうであるならば、自転車屋以外の生計の立て方があるのだろうと彼は考えたのである。それで、彼は単純な好奇心から、今度その自転車屋に行ってみることにしたのだった。
次の休みの日に、Kはその自転車屋を訪れた。入ってみると、店内は特別変わったところは見当たらなかった。いわゆるママチャリや、マウンテンバイクやロードバイクなど、あらゆる自転車を網羅しているいたって普通の自転車屋だった。しかし、いたって普通の自転車屋でありながらも、Kはどことなく奇妙な違和感を覚えていた。
その奇妙さの正体はすぐに判明した。それは、店員がどこにもいないということである。初めは、トイレかどこかに行っているのかと思ったのだが、どこを探してもいないのである。一方で、いたって清潔で整理の行き届いている店内の様子からは、店員が全くいないとは考えられないのだった。つまり、店員の気配が全くないというわけではなくて、まるで店員が突然消えたかのようだったために、彼は違和感を覚えたのである。
「やはりこの自転車屋はおかしい。もしかすると、スパイ映画みたいにアジトになってるのかもしれないぞ」Kは興奮しながら店内に何か仕掛けがないか見渡したのだが、しかし、特別仕掛けがあるわけではなかった。だから、彼の興奮をすぐに冷めてしまった。つまり、やはり店員がいないだけで普通の自転車屋なのだった。
自転車屋になぜ店員がいないのか、その謎はわからないままだったが、自転車屋へのKの興味は失せてしまった。「帰るか......」そう呟いてKは自転車屋を出ようとしたのだが、奇妙なことにドアが全く開かなかった。自動ドアではないから、反応しないから開かないわけではない。かといって、見たところ施錠されているわけでもなかった。「おかしい」彼は途端に不安になり始めた。
他の出口はと言えば、裏口があったくらいだが、同様に鍵がかかっていないのに開かなかった。それで、彼は外からドアを開けてもらおうと考えた。
「すみません、開けてください」彼は店内から外の道を歩く人に声をかけた。「誰か開けてください」彼は必死にドアを叩いた。しかし、道行く人は全く見向きもしなかった。まるで、Kが見えていないかのようだった。
誰か助けを呼ぼう、そう思った彼は、携帯電話を取り出した。しかし、携帯電話は圏外になっていた。「どうなってるんだ?」いまや彼は冷や汗が止らなかった。
しばらく考えてから、Kは近くに置いてあった椅子を拾うと、思いっきりドアにぶつけた。しかし、ドアには傷一つつかなかった。
Kは完全に自転車屋に閉じ込められてしまった。もはや彼はどうすることもできなかった。
3時間が経ち、24時間が経ち、2日が経ち、1週間が経ち、2か月が経ち、1年が経ち、15年が経った。
奇妙なことに、何も食べずにも、一睡もせずにも、Kは生きることができた。店内も、汚れてもすぐに何もなかったかのように綺麗になった。そのあいだ店には誰一人来なかったが、不思議と彼の精神は落ち着いていた。
しかし、その時は突然に訪れた。店のドアが突然開かれたのである。と、彼が気付いた瞬間、彼は店の外にいたのだった。携帯電話もしっかりとつながっていた。不思議なことに、時間を見てみると、Kが初めて自転車屋を訪れた丁度その時間だった。それから、また、彼はもはや全く自転車屋への興味も薄れていた。もう一つ不思議なことがあった。それは、自転車屋に閉じ込められていた記憶がなくなっていたことだった。
それから、その自転車屋はというと、相変わらず客が入る様子はなかったが、少なくとも15年は潰れることはなかった。きっとこれからも客は入らないのだろうが、きっとこれから先も潰れることはないのだろう。全く不思議な話ではあるのだが......。
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