2 秋祭

 秋祭とは、一年の収穫を神に感謝し、翌年の五穀豊穣を祈願する祭である。


 村々にとって信仰する神は様々だが、ゆいの村では龍神を祀る。豊かで清い水を育むと云われる、この地一帯の土地神だからだ。


 結とたつるが村に戻ってきたときには、すでに広場で龍の神輿が出来上がっていた。それは和紙や木板を組み合わせて彩色した、龍のはりぼてである。頭部は岩場の巨石より大きく、胴体は人の背の十倍以上。おそろしい面構えでくれないの口内や緑の鱗が鮮烈だ。


 この神輿を村の数十人の男衆おとこしゅが担いで練り歩く。村内をめぐり、沢を渡り、神社で舞い踊り奉納するのだ。そしてその後、神社の裏手にある「龍の巣穴」に赴くのだが、そこからは今年の“華姫”――つまり結の仕事であった。


「龍神さまは、金の鱗だったわ」

 立派な神輿を見やり結がぽつりと呟くと、達はふと笑った。

「そうか」


 結は達になだめすかされ、村に帰ってきた。恐怖は心のなかにわだかまっている。けれど“華姫”の務めを果たさなければ、龍神の罰がくだると思うと、もうどうすることもできなかった。


 広場には男衆の太い笑い声が響いている。忙しなく女たちは走り回り、煮炊きや祭の準備に余念がない。それを見るともなしに見て歩くと、一軒の家から走り出てくる中年女の姿が見えた。


「ふたりとも何をしていたんだ! 祭に間に合わないじゃないか。早く来なさい!」

 結の母だった。物凄い剣幕で近づいてくるものだから、ついつい後ずさりしてしまう。

「こっちもこわいのがいたな」。達が囁くので、結の気分がいくぶんか紛れた。


「まったく、“姫”は大切なお勤めなんだよ。落ち着きのないおまえに本当に務まるのか」


 小言を言いながら、母加耶かやは結に薄衣を着せた。儚い桃色の、蝉のように軽い薄衣だ。胸には、下に穿いた緋袴と同じ色の紐飾りがあり、それを蝶々結びにする。加耶はその間に、結の長い黒髪を背の辺りでひとつにまとめ、耳の上に金木犀の花かんざしを挿した。うっすらと白粉おしろいをはたき、唇には紅を引く。


 これでよし、と加耶は満足げに息をついた。


「おまえは人の目をまっすぐに見つめる癖がある。今日くらい伏し目にして、大人しくしておくれね。そうすれば立派な姫に見えるだろうから」

 結はしぶしぶうなずいた。


 “姫”とは、龍神の花嫁のことである。祭の儀式のひとつで、見目の良い村娘をひとり姫に選び、龍神に捧げ加護を乞うのだ。とはいえ本当に人身御供にするわけではない。実際の姫のお勤めは、「龍の巣穴」に一晩こもり祈りを捧げるだけで、あくまで形式的なものだった。


 結はやにわに心が重くなった。

 またふたたび龍神が現れたその時には、いったいどうすれば良いだろう。もし断ったときにはどうなってしまうのか。食われるだろうか、村に災いが降りかかるだろうか。

 悪い神ではないはずだが、何が起こるかなんて誰もわからないのだ。


「暗い顔だね」

 加耶が不思議そうに見やる。結は唇を湿し、顔をあげた。

「華姫なんて、やりたくない……」

「何を言っているんだ。緊張しているのかい?」

「そうじゃなくて」

「だめだよ。巫女さまが占をして、村の皆がおまえを選んだんだ。年頃の娘のなかでおまえがもっとも適任だと思われたんだよ。名誉なことじゃないか」

「でも」

「あたしは本当に鼻が高いよ。この家から、姫と近侍が出るんだから」


 近侍とは姫の側近くに仕える従者のことで、その役を今年は達が務めることになっていた。


 加耶はふくよかに笑んだ。


「おまえは少し変わったところがある。人やものへの執着が薄くて、ひとりでいつも遠くを見つめていた。大切に愛情を注いでも、まるで水のように、両の手からするすると流れ出てしまいそうだった。だから達を見つけてきたときには何だか安心した。おまえは人への興味を失っていないと思えてね」


 結の瞳が揺れる。

「達がそばにいるようになって、おまえはよく笑うようになった。村娘たちにはうまく馴染めなかったけれど、達とは水が合うんだね」

 愛おしげに、加耶が結の髪を梳く。


「おまえたちは血こそ繋がっていないが、血を分けた兄妹よりも仲が良い。前世から一緒にいたように見えるくらい。どういうわけか、今日この日もふたりして式に臨むんだから。不思議なものだ」

「かあさん……」

「――達は精悍せいかんになった。結だって娘らしくなった。そのふたりを見送るんだ。とても誇らしいよ」

 優しい瞳で見つめられ、結は何も言えなかった。


 ふと窓の外から村娘たちの歓声が聞こえ、同時に戸口が叩かれた。

「達です。入っても良いですか」

 その静かな声に加耶が笑み、声をあげる。

「ああ。達、おいで。今ちょうど結の支度も終えたところだ」

 結はどきりとしてがらり戸を見た。

 返事に合わせ入ってきた男は、結の見知った人ではなかった。


 流線模様が施された白の水干に藤紫の単衣ひとえ、群青の袴。普段は肩口で緩くまとめる長髪を、今は高く一つに結い上げている。目尻には一筋の朱が引かれ、切れ長の目元をより涼やかに際立たせていた。

 長身で姿勢の良い立ち姿、そして整った顔立ちの達に、衣装は驚くほどよく似合っていたのだ。


 達は戸外で騒ぐ娘たちをうるさそうに見やり、すぐに戸を閉めた。顔をあげ結に目を留めると、まぶしそうに目を細める。

 結はなんだか恥ずかしくなって目を逸らした。


「――よく似合っている。まるでどこかのお貴族様のようだ。達はもしかして、やんごとなき所の落とし子なんじゃないか」

「なんだそれは」

 加耶の言い分に、達は気恥ずかしそうに苦笑する。そしてまっすぐにこちらを見た。


「結、きれいだ」


 みるみるうちに頬に血が集まり、結は慌てて俯いた。隣で加耶が笑いを零す。

「じゃあ姫様、行きましょうか」

 達が近くまで来てすいと手を取るので、結は焦った。


「達」

「恥ずかしがってばかりじゃ、外に出るまでに日が暮れるだろ」

「……そんなことしたらまた村娘たちみんなに何を言われるか」

「別にいいだろう。言わせておけばいい」

 達は楽しそうに笑うばかりで手を離してくれない。やきもきする結を引っ張り出し家を出る。


 村娘たちの悲鳴と歓声が茜空に響いた。

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