龍神の求婚
谷下 希
1 満願成就
澄み透った清流が
今や水面は数多の紅葉で真っ赤に染まっているのだ。
深秋。渓谷の沢はもうきりりと冷たい。寒さに凍えながら身体を沈め、結はひとつ吐息をこぼした。
彼女は村娘だ。巫女のように常に身を清めるべき身分ではない。しかし水浴びは彼女の日課であったし、良い気分転換になっていた。清流に身をひたすことで、心にわだかまるものを押し流すことができる。嫌なことを忘れられる。そうして日々を過ごしてきた。
「いっそこの身ごと川になってしまえばいいのに」
水音に掻き消えるような声で、結は呟く。
山から海へ。絶えず流れて
ああ、と結はまた吐息をこぼした。
ああ、川が羨ましい。
『ならば川になれば良いではないか』
ふと男の低い声が聞こえ、結は飛び上がった。胸を手で隠し、急いで辺りを見回すが人の気配はない。
「だれかいるの」
腹に響く、深いところから聞こえる声だった。岩場から声をかけたのではないだろう。ではどこに。いったいどこに。
何か大きな生物が来ると分かった。紅葉が引いた水面に、ちらちらと光る金の鱗が見える。水上の錦をさらに彩るようなきらめき。結は思わず見とれたが、ハッとわれに返った。慌てて岩場に上がろうとしたがすでに遅い。大きな水音を立てそれは現れたのだ。
金の鱗に覆われた蛇の胴体。二本の角、長い
この形相を結はよく知っていた。正確には、はりぼての作り物で見知っていた。何せ秋祭の主役、辺り一帯の村が祀る神なのだ。
「龍神さま……」
声は掠れた。身体が可笑しいほど震えだす。逃げる術を考えようとしても、思考はまったく働かない。
金の龍は結を真っ向から見据えていた。
『川になりたいのだろう。その願い成就してやろう』
「……どうか、どうかお許しください! これは祈願ではないのです」
『祈願したはずだ。その数、今日で三千。ついに
「満願だなんて!」
恐れで立ちすくんだ結に、龍は鼻先を近づけた。
『娘よ、わたしの妻になれ。雫となり瀬となり遥かな大河になろう』
「……つ、ま」
言葉を理解するのに時間がかかった。理解すると同時に、血の気がいっぺんに引く。
どうすれば良いだろう。巫女ならどうするだろう!
“神の意向は絶対。それはお前の運命。背けば大いなる災いが降りかかる”
きっと、いや必ず巫女はそう答えるはずだった。もっともらしい顔をして話す口ぶりさえ、簡単に思い浮かぶ。
結はうろたえた。けれど怖れに打ち勝つことは、どうしてもできない。どこから力が湧き上がってきたのか、結は川底を蹴り勢いよく立ち上がった。あらわになった肢体にもかまわず、持ち前の敏捷さで水を掻き駆ける。後ろは振り返らなかった。恐ろしくてふり返ることができなかったのだ。激しく水しぶきをあげ、傷がつくのもかまわず、がむしゃらに岩場にのぼる。そして結は命からがら沢を後にした。
*
「結!」
林を駆け抜ける結の背に鋭い声がかけられた。飛び上がって振り返れば幼馴染の姿がある。
「
「なんて格好をしているんだ!」
聞き慣れた低い声に、結は泣きそうになった。
わたしは龍になってはいない。まだ人の世にいる――。
安堵がみるみるうちに広がり、衝動に任せて達の腕に飛び込む。
「結、おまえ……」
身体に巻き付かれ達はひどく動揺したが、やがてぎこちない動作で抱きしめ返した。細身なわりに背が高いので、結はすっぽりと包み込まれてしまう。彼の鼓動は、走った後の結の鼓動と同じ早さだった。
「結」。もう一度名を呼び、達は腕に力を込めた。
「達、うしろを見て! 何かいる?」
達は首をひねって背後を見た。
「――何もない。だれもいないぞ」
返答に力を得て、結は恐る恐る同じ方向を見やる。
林は
「ほら」
達は素早く上衣を脱ぎ結に着せかける。それで結はようやく肩の力を抜いた。大きく息をつくと、衣からふわりと彼の香りがする。清く静かな香り。それをゆっくりと吸い込むと、心が落ち着いていく。
「……巫女さまよりも良い香りがする」
「何を言っているんだ」
村の男の中では色白で品のある彼の顔がしかめられる。
結のこわばった頬が緩んだ。
「さあ教えてくれ。いったいどうしたっていうんだ。何があったんだ」
結は表情を固くした。
「……なんでもないの」
「なんでもないなんてだれも思わないぞ。おまえ、誰かに……」
「ちがう」
強く首を振る。
「じゃあ、何なんだ」
結は逡巡した。本来、神にまつわることは他言してはいけない。固く秘めるべきものである。けれどこの秘密を抱え込むのはあまりに辛かった。
――達になら。
意を決して口を開く。
「……沢で水浴びをしていたら、龍神さまが現れたの」
「なんだって?」
「本当よ。金の鱗の、おそろしい赤眼の龍神さま。わたしが沢に入るたび、川になりたいと思っていたものだから、
達は口をつぐんだ。
「信じない?」
「……いや」。彼はじっとこちらを見つめてくる。
「で、どうしたんだ」
結は顔をふせた。
「……逃げてきてしまったの」
「返事もせずにか」
気まずくうなずく。達の透きとおる薄茶の目が、厳しく細められた。
「困ったことになったな」
「こわかったもの」
結の声がしぼんだ。
「こわいに決まっているでしょう……」
悪神ではないはずだが、だからといってこわくないわけがないのだ。
しばしの沈黙があった。やがて、達は「そうか」とだけ言った。肩を落とす結の頭を、ぽんぽんと撫でる。
林が涼風をまとってさやさやと鳴っている。日は天頂から西へ少しずつ下りはじめた。
達はその光を
「結、今日は秋祭だ」
ふとそう囁く。
結は思いきり顔をしかめた。結は今年の“
「それどころじゃ……」
「今日は秋祭。龍神を祀る日」
達は静かにさえぎった。
「結は今年の“華姫”で、夜には“龍の巣穴”にこもり祈祷をする。だから龍神は、今日この日に現れたんだろうな」
「どういうこと」
動揺する結の瞳を、達は静かにとらえる。
「きっと夜に、結の前にまた現れるってことだ。そして
「どこへ」
「神の世へ」
がく然として、結は黙った。
達がつめたくなった手をとる。
「いやならいやと言えばいい」
瞳がうるんだ。
「言えるわけがないじゃない……。わたし、華姫を降りる。龍の巣穴にはいかない」
「それこそ龍神の怒りに触れる。逃げてはいけない」
「だって!」
激昂する結を達は抱きしめた。幼子にするように、背をなでてあやす。
「結、落ち着いて考えるんだ。申し出をふいにして、本当にいいのか」
どういう意味、とにらみつけると、彼はゆっくりと首をふった。
「川になりたいとあんなに言っていただろう」
「それは言葉のあやで」
「本当にそうなのか? おれにはそうは見えなかった。人でいることが辛いのではないかと、そう見えたときもあった」
どきりとした。瞳をあげる。
達は、ゆっくりと結の髪を梳く。
――これは運命なのかもしれないよ。ふと彼は言った。
「一時でいいから、怖れをとりはらって考えてごらん。神の世か、人の生か、結はどちらへいきたいのか。きちんと心の声を聞いてみるんだ」
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