龍神の求婚

谷下 希

1 満願成就

 澄み透った清流がにしきころもをまとうかのように。

 今や水面は数多の紅葉で真っ赤に染まっているのだ。


 ゆいはその紅葉を巻き込まないように、そっとせせらぎに髪を遊ばせた。水に浸かった腰から艶やかにそれは広がり、赤金の錦にぬばたまの色を添える。


 深秋。渓谷の沢はもうきりりと冷たい。寒さに凍えながら身体を沈め、結はひとつ吐息をこぼした。

 彼女は村娘だ。巫女のように常に身を清めるべき身分ではない。しかし水浴びは彼女の日課であったし、良い気分転換になっていた。清流に身をひたすことで、心にわだかまるものを押し流すことができる。嫌なことを忘れられる。そうして日々を過ごしてきた。


「いっそこの身ごと川になってしまえばいいのに」


 水音に掻き消えるような声で、結は呟く。

 山から海へ。絶えず流れて汚濁おだくを知らない川になれたらどんなにいいだろう。光をくぐり空気をはらんで、透きとおる流れを身の内につくりだすことができれば、どんなに楽しいか。

 ああ、と結はまた吐息をこぼした。

 ああ、川が羨ましい。


『ならば川になれば良いではないか』


 ふと男の低い声が聞こえ、結は飛び上がった。胸を手で隠し、急いで辺りを見回すが人の気配はない。

「だれかいるの」

 腹に響く、深いところから聞こえる声だった。岩場から声をかけたのではないだろう。ではどこに。いったいどこに。


 あごを水に浸けたまま首を巡らせていると、ふと大きな水流を感じた。水面に浮かぶ紅葉の群がゆらゆらと揺れる。やがて向こうの瀬からひとつのうねりが来るのが見えた。


 何か大きな生物が来ると分かった。紅葉が引いた水面に、ちらちらと光る金の鱗が見える。水上の錦をさらに彩るようなきらめき。結は思わず見とれたが、ハッとわれに返った。慌てて岩場に上がろうとしたがすでに遅い。大きな水音を立てそれは現れたのだ。


 金の鱗に覆われた蛇の胴体。二本の角、長いひげ、尖った牙。すべてを射抜かんばかりの紅玉の眼。その恐るべき面が、結の眼前にある。


 この形相を結はよく知っていた。正確には、はりぼての作り物で見知っていた。何せ秋祭の主役、辺り一帯の村が祀る神なのだ。


「龍神さま……」


 声は掠れた。身体が可笑しいほど震えだす。逃げる術を考えようとしても、思考はまったく働かない。

 金の龍は結を真っ向から見据えていた。


『川になりたいのだろう。その願い成就してやろう』

「……どうか、どうかお許しください! これは祈願ではないのです」

『祈願したはずだ。その数、今日で三千。ついに満願まんがんを遂げた』

「満願だなんて!」

 恐れで立ちすくんだ結に、龍は鼻先を近づけた。


『娘よ、わたしの妻になれ。雫となり瀬となり遥かな大河になろう』


「……つ、ま」

 言葉を理解するのに時間がかかった。理解すると同時に、血の気がいっぺんに引く。

 どうすれば良いだろう。巫女ならどうするだろう!


 “神の意向は絶対。それはお前の運命。背けば大いなる災いが降りかかる”


 きっと、いや必ず巫女はそう答えるはずだった。もっともらしい顔をして話す口ぶりさえ、簡単に思い浮かぶ。


 結はうろたえた。けれど怖れに打ち勝つことは、どうしてもできない。どこから力が湧き上がってきたのか、結は川底を蹴り勢いよく立ち上がった。あらわになった肢体にもかまわず、持ち前の敏捷さで水を掻き駆ける。後ろは振り返らなかった。恐ろしくてふり返ることができなかったのだ。激しく水しぶきをあげ、傷がつくのもかまわず、がむしゃらに岩場にのぼる。そして結は命からがら沢を後にした。



 *



「結!」

 林を駆け抜ける結の背に鋭い声がかけられた。飛び上がって振り返れば幼馴染の姿がある。

たつる

「なんて格好をしているんだ!」

 聞き慣れた低い声に、結は泣きそうになった。


 わたしは龍になってはいない。まだ人の世にいる――。


 安堵がみるみるうちに広がり、衝動に任せて達の腕に飛び込む。

「結、おまえ……」

 身体に巻き付かれ達はひどく動揺したが、やがてぎこちない動作で抱きしめ返した。細身なわりに背が高いので、結はすっぽりと包み込まれてしまう。彼の鼓動は、走った後の結の鼓動と同じ早さだった。

「結」。もう一度名を呼び、達は腕に力を込めた。

「達、うしろを見て! 何かいる?」

 達は首をひねって背後を見た。

「――何もない。だれもいないぞ」

 返答に力を得て、結は恐る恐る同じ方向を見やる。


 林は森閑しんかんとしていた。木の葉が涼やかな音を立てるばかりで、何も気配はない。それはしばらく経っても同じことだった。


「ほら」

 達は素早く上衣を脱ぎ結に着せかける。それで結はようやく肩の力を抜いた。大きく息をつくと、衣からふわりと彼の香りがする。清く静かな香り。それをゆっくりと吸い込むと、心が落ち着いていく。


「……巫女さまよりも良い香りがする」

「何を言っているんだ」

 村の男の中では色白で品のある彼の顔がしかめられる。

 結のこわばった頬が緩んだ。


「さあ教えてくれ。いったいどうしたっていうんだ。何があったんだ」

 結は表情を固くした。

「……なんでもないの」

「なんでもないなんてだれも思わないぞ。おまえ、誰かに……」

「ちがう」

 強く首を振る。

「じゃあ、何なんだ」

 結は逡巡した。本来、神にまつわることは他言してはいけない。固く秘めるべきものである。けれどこの秘密を抱え込むのはあまりに辛かった。


 ――達になら。


 意を決して口を開く。

「……沢で水浴びをしていたら、龍神さまが現れたの」

「なんだって?」

「本当よ。金の鱗の、おそろしい赤眼の龍神さま。わたしが沢に入るたび、川になりたいと思っていたものだから、満願成就まんがんじょうじゅするために来たというの。……そのために妻になれと言われた。妻になって、ともに大河になろうと」

 達は口をつぐんだ。


「信じない?」

「……いや」。彼はじっとこちらを見つめてくる。

「で、どうしたんだ」

 結は顔をふせた。

「……逃げてきてしまったの」

「返事もせずにか」

 気まずくうなずく。達の透きとおる薄茶の目が、厳しく細められた。

「困ったことになったな」

「こわかったもの」

 結の声がしぼんだ。

「こわいに決まっているでしょう……」


 悪神ではないはずだが、だからといってこわくないわけがないのだ。

 しばしの沈黙があった。やがて、達は「そうか」とだけ言った。肩を落とす結の頭を、ぽんぽんと撫でる。


 林が涼風をまとってさやさやと鳴っている。日は天頂から西へ少しずつ下りはじめた。

 達はその光を手庇てびさししながら見上げた。

「結、今日は秋祭だ」

 ふとそう囁く。


 結は思いきり顔をしかめた。結は今年の“華姫はなひめ”役を仰せつかっている。早く村に戻り準備を始めなければ怒られてしまう。けれどいまは、それがどうしたという気分だ。

「それどころじゃ……」

「今日は秋祭。龍神を祀る日」

 達は静かにさえぎった。


「結は今年の“華姫”で、夜には“龍の巣穴”にこもり祈祷をする。だから龍神は、今日この日に現れたんだろうな」

「どういうこと」

 動揺する結の瞳を、達は静かにとらえる。


「きっと夜に、結の前にまた現れるってことだ。そしてはいなら、そのまま連れていくつもりだ」

「どこへ」

「神の世へ」

 がく然として、結は黙った。

 達がつめたくなった手をとる。

「いやならいやと言えばいい」

 瞳がうるんだ。

「言えるわけがないじゃない……。わたし、華姫を降りる。龍の巣穴にはいかない」

「それこそ龍神の怒りに触れる。逃げてはいけない」

「だって!」


 激昂する結を達は抱きしめた。幼子にするように、背をなでてあやす。


「結、落ち着いて考えるんだ。申し出をふいにして、本当にいいのか」

 どういう意味、とにらみつけると、彼はゆっくりと首をふった。

「川になりたいとあんなに言っていただろう」

「それは言葉のあやで」

「本当にそうなのか? おれにはそうは見えなかった。人でいることが辛いのではないかと、そう見えたときもあった」

 どきりとした。瞳をあげる。

 達は、ゆっくりと結の髪を梳く。

 ――これは運命なのかもしれないよ。ふと彼は言った。



「一時でいいから、怖れをとりはらって考えてごらん。神の世か、人の生か、結はどちらへいきたいのか。きちんと心の声を聞いてみるんだ」


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