第19話

 結局俺は、早乙女に報告した通り、26日の昼前に寮を出て実家に帰り、地元の友だちとダラダラ遊んで、31日の夜中には近所の小さな神社へ初詣に行き、そこでまた中学の同級生と会って合流してファミレス行って、すぐそばのスーパーの屋上駐車場に忍び込んで御来光拝もうぜとノリで場所を移動して、初日の出をしっかりと見届けたあと、朝帰りで寝正月を決め込んだら母ちゃんに無理やり起こされた。

 イギリス留学中の姉ちゃんがリモートで参加するからと、ノートパソコンの載ったテーブルでの、英語と日本語が飛び交う家族の新年会の席に半ば強引に付き合わされ、イギリス育ちの母ちゃんが作った純和風お節を、ファミレスのドリンクバーでタプタプになった腹にちょっとずつ箸で摘んで詰め込む。

 そして三が日が過ぎた頃、予想通りアウトドア好きの父ちゃんに誘われた冬のキャンプを、「もう寮に帰るんだ」と振り切り、寂しがる父ちゃんの顔を横目に、寮が開く4日にはもう実家を後にした。ごめんな、父ちゃん……俺、アンタとは血の繋がった息子だけど、そこまでサバイバル能力高くないんだよ。

 いつもの年末年始。見慣れた風景。なのにいつもより少し愛おしい。まるで空っぽになった俺の心を、それとは知らずに慰めてくれているかのようで。

 そして、帰ってきた。俺の第2の我が家に。

 3年間しか暮らしてないけど、正直ココは実家より落ち着く。比較的同室のやつに恵まれていた、というのもあるかも知れない。

 今年の同室の主である水上は、まだ戻ってはいない。瑞希は……もちろん戻っていない。

 俺は1人、部屋のロッカーの前に立ち、扉を開けるとリュックから出した着替えをボンボンと乱雑に中に詰め込んだ。

 瑞希が帰ってきたとして、俺はもう冬休み前と同じように、笑顔で話しかけに行くことはないだろう。むしろ自ら避けに行くかもしれない。俺は、はっきりと瑞希の口から拒絶の言葉を聞くことが怖いのだ。

 そうやって俺が怯えて尻込みをしているうちに、無情にも時は過ぎ、俺たちはあっという間に卒業の日を迎える。

 俺は持って帰ってきた物を全部ロッカーに仕舞い終わると、自分のベッドの中に潜り込み頭から布団を被った。


「あけおめ〜、一之瀬〜ハワイの土産あるぞ〜」

「ハワイ?」

 久しぶりに聞いた水上の声に、俺は寮に戻って以来1日のほとんどを過ごしているベッドの中からのっそりと顔を出した。

「うん、はい。マカダミアナッツ」

 そう言って水上が俺に差し出す茶色い箱を受け取りながら、俺はなんとも言えない複雑な気分になる。

 俺が人生最底辺まで落ち込んでいる間、こいつは浮かれてハワイ旅行……いや、関係ない。俺の傷心と水上の旅行は、何の関係もない。それはまったく持って逆恨みだ。

「言っとくけど、旅行の予定は俺が大学受かったら行くって最初から決まってたから」

 水上はまるで俺の心を読んだかのようにそう言うと、ニシダ帰ってるっけ?と部屋を出ていった。なんだか自分だけが止まった時の中にいたようで、悔しくなった俺はクッと唇を噛み締めると、やけ食いをするために茶色い箱のセロハンを乱暴に引き破いた。その時だった。

 ベッドの中に置いていたスマホがブブッと震えて俺を呼んだ。誰だよ、とマカダミアナッツの入ったチョコをひと粒口に入れてスマホの画面を見る。そして俺の、チョコを噛んでいた口の動きが止まる。

「瑞希?」

 そこには久しぶりに見る、瑞希のバスケ部時代のユニフォームを写したアイコンが表示されていて、その横には文章の最初の方、『今、寮にいる?あと……』までが読める。

 俺の心臓がバクバクと速く脈打った。取り敢えず深刻な内容ではなさそうなので、タップして全文を表示しようとするが、指が震える。えい!俺は覚悟を決めるとスマホの画面に指を触れさせた。

『今、寮にいる?あと30分くらいで着くんだけど、地下鉄の駅まで来れる?』

 駅までって……寮じゃ話せないことがあるってことか。まさか……別れ話?!冬休みの間に俺と離れてよく考えた結果、ついに決断を下したということか?!どうしよう。耐えられるか、俺!

 悪い想像が頭の中をぐるぐると駆け巡る。

 泣くかな?泣くよな。じゃあ外出時間は長めに。暖かい格好で行こう、暫く外にいても大丈夫なように。と俺はロッカーからダウンジャケットを出して出かける支度をすると、部屋を出て、玄関のすぐ横のカウンターの上にいつも置きっぱなしになってる外出届けに名前と行き先と時間……1時間、いや、1時間半はかかるかと考えた挙げ句、結局2時間時間を取ると靴箱から靴を取り出した。


 地下鉄の入り口にたどり着くと俺は、中までは降りて行かずに、下へと続く階段脇の壁にもたれかかると瑞希が出てくるのを待った。

 ここまで来る足取りは重かった。足の甲に見えない何かが乗っかってるかのようだった。

 俺はダウンジャケットのポケットに入れっぱなしの、冷たくなった両手をギュッと握りしめる。

 ああ、瑞希が越してきてからここまで楽しかったな。瑞希に会えて本当に良かった。人を好きになるってこういうことだったんだって教えてくれたのは瑞希だ、とかなんとか考えながら、なんだか歌の歌詞みたいだと苦笑する。何かを考えてないと不安に押し潰されそうだった。そのとき……。

 タッ、タッ、タッと階段を走って上る足音が聞こえてきて、俺がハッとして階段の下をのぞきこむと、「有司!」久しぶりに聞いた瑞希が呼ぶ俺の名前と、その明るいトーンが、俺の不穏な気持ちとあまりにもかけ離れていて、俺の頭が一瞬バグる。はい?

 瑞希は階段を上り終えると、俺の前で膝に手をつき、ハァハァと息を整え、「明けましておめでとう」とあまりにも今の状況にそぐわない言葉でまた俺を混乱させた。

「あ、うん。おめでとう」

 俺がポカンとしながら取り敢えず挨拶を返し、瑞希の息が整うのを待っていると、突然瑞希がスッと体を起こして真っ直ぐ俺の顔を見るので、俺もつられて思わずポケットに入れていた手を出して背筋を伸ばした。

 いよいよ、言われるのか。お別れの言葉を。俺はグッと唇を噛み締めて、心の準備をする。

 すると瑞希はおもむろに肩にかけていたナイロンバッグのジッパーを開け、中から封筒をひとつ、取り出して俺の方に向けた。角形2号封筒。受験生なら、すぐにこの封筒のサイズの名前を言うことができる。手紙なんかを出す小さめの封筒じゃなく、書類を折り曲げずに入れることのできる大きなサイズの封筒で、大抵の大学は、このサイズの封筒に出願書類を入れて出願することになっている。そして、瑞希が持っている封筒の表には、各大学のホームページからプリントすることができる宛名ラベルが既に貼り付けてあった。そこに書いてあった宛先を見たとき、俺は一瞬何が起こっているのかわからなかった。そして視線を封筒から、少し緊張したような瑞希の顔に移したその瞬間、俺はまるで自分の中の丸くなったカタツムリが一気に外に現れたときのように、目の前がパアッと光を取り戻したのを感じた。

「瑞希……これ」

 封筒の宛名ラベルには、今、瑞希が乗ってきた地下鉄で10分もかからない場所にある、地元の大学名が記載されていた。

「俺、ここの一般入試受けてこっちで暮らそうと思ってるんだ。冬休みに母さんが帰国するっていうから急いで帰って休み中かけてようやく説得できた」

「あ……」

 俺はバカみたいに口を開けたまま、何も言葉を見つけることができない。

「有司、ごめん。ずっと1人で頑張らせて。今からは俺が頑張るから」

 瑞希がもう何も迷うことはないといった口調で言う。

「でも……瑞希もう、地元の大学受かってるのに」

 目の前で起こっている出来事がまだ信じ難くて俺は、やっと喋れたというのに、そんな間抜けな言葉しか発することができない。

「うん、でもいいんだ」

「地元に帰ったら、実家で暮らせるんだろ?」

「うん」

「バスケ部んときの友だちとかいるんだろ?学校帰りに一緒にマック寄るような」

「まあね」

「向こうの方が、思い出がたくさんあるんだろ?」

「……ん」

「それなのに、俺のことを選んでくれるの?」

 そんな俺の間抜けな言葉の数々に、瑞希は苦笑いしながら、「泣くなよ」と言って、俺の頬を伝う熱いものを封筒を持っていない方の手で拭った。

「泣くよ!じゃあそう言っといてよ!」

 俺、もう本当に終わりかと思ったじゃん!もう、バカ!

「だって言ったら駄目だったときのショックがでかいと思って……」

「それでも言って!」

 やっぱり瑞希は、わかりにくい。俺が両手で、安堵なのか嬉しさなのか、内緒にされていたショックからなのかもう訳がわからない涙を拭って瑞希をジロリと睨むと、瑞希は一瞬申し訳なさそうに肩をすくめたあと、伺うような上目遣いをしながら、「これ、今から郵便局に出しに行こうと思うんだけど、一緒に行ってくれる?」ともう一度出願書類の入った封筒を俺に向けた。

 俺は涙で湿った両手を一度自分のジーンズでゴシゴシと擦って乾かすと、そっと封筒の端っこに手を添えながら「うん」と頷き、今なら瑞希に永遠の愛を誓えると、本気でそう考えていた。



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