雲のなまえ
笹木シスコ
高校生編
第1話
「あの上に薄く拡がっているのが薄雲。下の方にある、綿あめみたいなのがわた雲。入道雲は晴れた日に出てるイメージあるけど、あれは積乱雲っていって、あの下では実は大雨が降ってるんだよ」
雲の種類って、大きく分けると10種類しかないって知ってた?と言ったあと、
外を見ればいつも視界にあるものなのに、俺は雲が10種類しかないなんて知らない。入道雲とかウロコ雲とか飛行機雲とか、そのくらいならわかるけど、全部の雲になまえがあるだなんて考えたこともない。
見上げればいつでもそこにある。そんな世界一信用できるもののなまえを、ちゃんと知っている瑞希に、俺はその日、「好きだ」と告白しようと思った。
〜高校生編〜
俺の日常はまるでメリーゴーランドだ。
乗っかってればそれなりに楽しいし、回っていれば景色も変わるし、のん気で平和で楽チン。でも気づいたら元の場所に戻っている。同じところをぐるぐるぐるぐる。
その週末もいつも通り、俺は同じ高校の友だちと、友だちの誰かが連れて来た女の子たちと、中途半端に田舎な街にぽつんと有りがちなアミューズメント施設に遊びに来ていた。女子のいない男子校において、イケてるかイケてないかなんて、はかる物差しが無さすぎてよくわからないんだけど、多分イケてる方のグループである俺たちは、よくこうやってインスタで繋がった女の子や誰かの中学時代の同級生を介して知り合った女の子たちを誘って週末ボウリングへ行ったりカラオケに行ったりして遊ぶ。俺はおじいちゃんがイギリス人のクオーターで、顔はそんなに日本人離れしているとも思えないんだけど、色素が薄くて髪も瞳も他のやつとは色が違い、物珍しいのか謎に女子受けがいい。
「
マスカラでまつ毛をギュンギュンに上向かせた女の子が、更にそのまつ毛を際立たせるよう上目遣いで目をパチパチと瞬かせ、俺の頭を撫でた。
狭いカラオケルームの四角い椅子に、男子と女子が交互になるようにぎゅうぎゅうになって座り、まつ毛ギュンの女の子とは反対側の隣では、別の女の子が、その向こうにいる俺のルームメイト
スピーカーから大音量で流れる曲に合わせ、ニシダが下手くそな歌を勢いだけで格好良く見えるように歌っていた。ニシダは仁志多と書くんだけどぱっと見なんて読むのかわからないせいか、呼ぶとき頭にニシダとカタカナ表記で名前が浮かぶ。
「ちょっとトイレ」
俺は誰にともなく言うと席を立ち、安っぽいプラスチック製のグラスがたくさん並んだテーブルと、座っているやつらの膝との隙間を縫うように移動すると、扉を開けて廊下に出た。
扉が閉まった途端に、急に室内の音がウォンと小さくなり、防音になっているようできちんと防音になっていないカラオケルームの扉という扉から、様々な曲と様々な歌声が微かに漏れ聞こえてきて、店内に流れるBGMと混ざり合い、音のごった煮状態となった中、1人で廊下を歩いていく。
そのとき背中で、再びウォンとニシダの声がフォルテになったかと思うと、俺が今出てきた扉から、「私もトイレ〜」と、まつ毛ギュンの女の子が顔を覗かせ、細いポニーテールを左右に揺らして俺を追いかけてきた。
はい。釣れた。
「んっ……ん……」
トイレの個室の中で声を漏らす女の子に向かって、俺は一旦離した唇から、しーっ、と小さく息を押し出した。女の子が、上目遣いで恥しそうにこくっと頷き、俺たちは再び唇を重ねて舌を絡ませる。
ホントはこのままここで挿れちゃいたい。でもゴムがない。抜け出してホテルに行こうにも、今日はそこまでの持ち合わせがない。何故、持ち合わせがないかというと、先週別の女の子とホテルに行って使ったからだ。寮生である俺たちは、次の仕送りが家から届くまでの間、手元にあるお金ですべてをやりくりするしかない。だからホテルも月に2回までとか制限をかけて行くしかない。たまに電話一本で親からスマホに送金してもらうやつもいるけれど、俺の親はそんなに甘くはない。
「そろそろ戻ろっか」
俺はまつ毛ギュン子ちゃんの耳元で小さく囁くと、まだトロンとこっちを見ているまつ毛の中の瞳から目を逸らして、そっとトイレの鍵を開けてドアを少しだけ開けた。外に誰もいないことを確認してからやっとドアを全開にして、「先戻ってて」と女の子の背中を優しく、なおかつ強引に個室から押し出すと、自分は中に残ったまんま、またドアを閉めて鍵をかける。
こいつをなんとか収めないとみんなの元へは戻れない。
俺は硬くなってしまった股間を落ち着かせるため、蓋が閉まったまんまの便座に腰を下ろしてそのまま暫く待機することにした。そして考える。
ところで今の子、名前なんだっけ……。
先週もそうだった。事が終わってホテルのベッドで横になっているとき、隣で同じように横になりながら俺の肩に頭を載せて甘えてくる女の子を見て、あれ、この子の名前「めいちゃん」だっけ?「まいちゃん」だっけ?と分からなくなり、帰ってから相互フォローしたインスタ見てみたら「めい♡」も「mai」も両方あって、投稿してある写真もどっちもおんなじように加工してあって、結局わからずじまいで今に到ってしまっている。
俺って最低だろうか……。太ももの上に肘をついて、両手の指を合わせて三角形を作り、なんとなくその真ん中に視線を落とす。その視線はどこまでもどこまでも落ちていき、途中から無重力の中に身を置いているような錯覚に陥る。そのまま1番底まで落ちてしまいそうな不安がよぎるちょっと手前で、俺は合わせていた両手を離して顔を上げた。
いや、みんな一緒っしょ。さっきの子だって、来週には別の男とベロチューしてるかも知んないし。みんな同じ。毎週同じことの繰り返し。高校を卒業するまでの3年間、大人になったら「あの頃が1番楽しかったよな〜」なんてたまに語り合う思い出づくりの時間。夏になったら受験も始まるし、もっとも俺は附属の大学に内部推薦もらうつもりでいるから、評定値さえ今より落とさなければ大してやることもないんだけど、外部の大学狙ってるやつはやっぱり忙しくなってもう遊べなくなるかも知れないし。今だけ今だけ。
俺は気を取り直すと、落ち着いた下半身を便座から持ち上げて、トイレのドアを開けた。
次の日、朝早くに目が覚めた。覚めてすぐに目覚めた理由がトイレに行きたいからだと気づき、トイレに行きたい理由がすぐに昨日カラオケ店でドリンクバーを飲み過ぎたせいだと気づいた。なんだか昨日からやたらとトイレに縁がある。
いつもカーテンを閉めない俺たちの部屋は、もう全体が薄ら明るくなっていて、向かいの壁に貼り付いた二人分のロッカーや、床に乱雑に転がった体操服の袋や室内履きや脱ぎ捨てられた上着なんかがすべてはっきりとした輪郭を持って見えているのに、枕元に置いたスマホの画面を立ち上げたら、まだ5:13の表示が出た。
いつの間にこんなに日の出が早くなっていたんだろう。
ついこの前までは、決められた起床時刻になって起きてもまだ薄暗い、という状態だったのに。もう5月だしな、とぼんやり考えながら、おっと、それよりトイレトイレと重たい体を持ち上げた。
ベッドから這い出して立ち上がると、二段ベッドの上の段で寝ている水上は、真っ直ぐに体を上に向けた状態で胸を大きく上下させ、ぐっすりと眠りこけている。きれいに寝るよな、こいつ。
水上を起こさないようにそーっと室内履きに足を突っ込み、ソロソロとあるいてドアに近づきドアノブを回して外に出た。
寮の廊下は、カラオケ店と同じように向かい合わせに扉がいくつも並んでいる造りだけど、当然ながらBGMなんか流れてないし、まだ話し声すらしない。しん、という音があるなら聞こえてるんじゃないかと思うくらい静まり返った廊下は、まるで何か不思議な現象によって、地球上に自分だけが取り残された、というSF的な物語を俺に思い起こさせた。まあ6時になれば朝練組のやつらが起きてきてすぐに騒がしくなるんだけど。
俺は、あまり足音をたてないように気をつけながら廊下を左に向かって歩き、同じフロアに設置されている共同トイレに入った。用を足してホッと一息つき、昔ながらのタイル張りの洗面台で手を洗ってピッピッと水を払いながらまた廊下に戻る。その時だった。
トイレを出てふと向かって左、廊下の突き当りの方、外と寮内を隔てるガラス扉に目を向けると、ガラス扉の更に外側にある、寮の敷地と公共の道路を隔てている重い鉄製の門を、誰かが必死でこじ開けようとしているのが扉のガラス越しに見えた。
えっ?!不審者?
俺は思わず立ち止まり、その男……多分男だ。トイレから門までは10メートルくらいはあったけど、俺は両目とも視力が2.0なのでぼやけることなくその姿が見えている。男がなんとか門を開けようとして、門と塀の隙間に手を突っ込んだり、下の出っ張りに足を引っ掛け上から首を突き出し内側を覗き込んだりしているのを、俺は呆然と眺めながら、寮長の
門やガラス扉は、もちろん夜間施錠されている。でも、夜遊びに出た隙に、仲間に頼んでこっそり出入り口の鍵を開けておいてもらうやつが、ごくたまにだけど、いる。ただ、見つかったら一発退寮なので滅多にやるやつはいない。今、門にいるやつは、仲間に裏切られたか手違いがあったかで、最大のピンチに陥っているところなのかも知れない。
俺は、ソロソロとガラス扉に近づくと、扉の取っ手の下にある鍵をカチャンと縦に回して扉を開けた。門にしがみついていた男がハッとこちらに気づき、その瞬間、俺とそいつの目が合う。え?一瞬パニックに陥った。男……だよな?
ガラス扉から出てきた俺を見て、最初は驚き、次第にすがるように変わっていったその目は、まるで女の子のようにくるんと丸くて黒目がちで、男のそれとは思えないくらいにかわいかった。
「あ、あの!俺、今日からここに入る、
ああ、そういえば昨日朝飯のとき早乙女が、家庭の事情で急遽入寮してくることになったやつがいるとかなんとか言ってたっけ。去年退寮したやつが1人いたせいで、3年生の数が奇数となり、くじ引きで1人部屋をゲットした
「大雨って、降ってたっけ?」
「あ、こっちの方は降ってなかった?途中すごかったんだよ。全然、前、進めなくなっちゃって。俺、電車で夜明かしたの初めてで」
と・む・ら・み・ず・き。俺はさっき聞いた名前を頭の中に念入りに刻み込んだ。『みずき』は、喋りながら時折笑い、笑うたびに下瞼がぷくっと涙袋をつくり、すじの通った鼻にふっくらとしたピンクの唇に丸くてちっちゃい頭に細くてなめらかな首に、え?ヤバくない?スッピンでこれってヤバくない?いや、女の子じゃないんだからスッピンとかそういう基準どうかと思うけど、でも俺、やっぱりこんなかわいい子、女子でも見たことないんだけど!
「門の鍵は6時まで開かないよ。ていうか寮監もきちんと時間通りには起きてこないからもっと遅くなると思う」
「あ〜……」
俺が言うと、『みずき』はがっくりと肩を落とし、首くらいまでしか高さのない門の上におでこを載せた。
「ていうかさ、もう乗り越えちゃっていいんじゃない?それ貸して」
俺は『みずき』の足元に置いてある大きくて黒いナイロンの旅行バッグを指差した。
「え、いいの?」
「いいよ。だってもう寮生だろ?入っていいに決まってんじゃん」
『みずき』は少し躊躇するような顔をしたけど、俺が門まで近づいて両手を前に差し出すと、少し遠慮がちに足元のバッグを持ち上げて、門の上から俺の両手の中にその大きな袋をそっと手渡した。思ったよりも軽い。大きな荷物は別で届くのだろう、と考えていたらさっそく『みずき』が門の上にジャンプして足をかけているので、慌てて降りる場所を作るために後ろに後ずさる。『みずき』は猫のようにしなやかな動きで門から飛び降りると、衝撃を全部膝で吸収するように深く屈み込んで着地した。
「ありがとう。えっと……」立ち上がりながらバッグを受け取り『みずき』が笑う。
「3年の
「一之瀬くん。俺も3年。戸村瑞希、ってさっき言ったっけ」
うん、言った。そしてもう覚えた。門を乗り越えてこっちにきた途端、急に同じ空気を吸ってるみたいで胸がドキドキする。
「中に入れたのはいいけど、まだ誰も起きてないんだ。だからさ、だから……」なんだかうまく息ができない。「だからさ、みんなが起きるまで俺と2人で喋ってようぜ」柄にもなく緊張して声が震えた。こんな今まで何百回と言ってきたような台詞にとてつもない勇気を込めた。
要するに俺は、その時完全に、瑞希にひと目惚れしていたのだ。
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