空腹と会話

笹暮

空腹と会話

 お通しのキャベツを甘めの味噌につけて食べる。

 わたしの両隣に座る同級生たちは、隣の同級生と談笑している。前に座っていた同級生はいつの間にか席を変え、ウイスキーを片手にテーブルの端で他の同級生たちと議論を始めていた。どうやら会話の境目はわたしらしい。甘いレモンハイを飲みながら、わたしは誰とも会話をしないまま、口に入れたキャベツを咀嚼する。

 右は今日の講義の話、左は最近辞めたアルバイトの話。わたしはどちらの会話にも入れないで、取り分ける用の割り箸を使い、木製の黒いテーブルに広がる料理を小皿に移す。それから、わたし個人で使っている割り箸に持ち替えてから料理を口に入れた。細長く切られたニンジンは、酢で和えてあるのか少し酸っぱい。

 誰とも会話をしない代わりに名前を知らない料理を食べ、レモンハイを飲み、時々思い出したかのように話しかけられるので一言返すが、それで会話が終わるので、また一人に戻る。幹事に誘われたあの時、この飲み会の参加を断ればよかったと少し後悔している。

 料理はおいしい。はっきりとした味つけで、酒がよく進む。だがしかし、右を見ても左を見ても言葉があふれている場所で一人、静寂を保っているのは、少々居心地が悪い。最初は全員が手をつけていた料理も、会話が中心になってからはわたししか口にしていないのだ。減らない料理。そろそろ満腹になってきた。

 わたしは大きなバッグから財布とスマートフォンを取り出し、ハンカチをポケットに入れ、立ち上がった。

「大丈夫?」

 席から離れるため椅子を引くと、左隣の同級生が自分の会話を中断し、心配そうにわたしを見上げた。彼女と話していた同級生も同じ顔をしている。

「トイレに行ってくる」

 久しぶりに話しかけられたのが嬉しくて、へらりと笑い、わたしはテーブルを離れる。

 一杯目はジン・トニック、二杯目はキティ、三杯目はレモンハイ。スイスイ飲めるカクテルのせいで、意識も足元もしっかりしているのに目の前がふわふわする。

 わたしが合法的に酒を飲めるようになってから三か月が経つ。誕生日の二日後に、酒を飲み慣れた同級生たちと初めてバーに行った。その時もわたしはただ料理を食べ、慣れない甘いカクテルをがぶがぶ飲み、わたしが入れない会話を聞きながら一人きりの寂しさを感じて終えた。帰りの足取りはしっかりしていたし、一人で電車に乗れたし、次の日になっても記憶が消えることはなかった。

 女性用のトイレの前には一人並んでいた。トイレの扉が開くと一人出てきて、わたしの前に並んでいた人が入る。わたしはトイレの前に立ち、出てくるまでぼんやりと店内を見ていた。

 黒を基調とした店内には、家族だと思わしき人たちもいれば、二人組の人たちもいる。学生のグループはわたしたちくらいだろうか。おしゃれな店内、おしゃれな料理、おしゃれな飲み物。なぜわたしはここにいるのだろうかと疑問に思う。

 トイレから出てきた人に軽く頭を下げてから入ると、そこもおしゃれな内装。なんだかくらくらする。車酔いをしたような気持ち悪さを感じ、わたしは便座の前に腰をかがめた。

 まだすっきりとは言いがたい体調にため息をつきながら、ハンカチで両手の水分を拭き取りながらトイレを出ると、扉の前には長袖の黒いシンプルなワンピースを着た女性が立っていた。

 軽く頭を下げ、足早に横を通り過ぎようとすると、女性から「こんばんは」と声をかけられた。驚いて立ち止まり、顔を上げると、彼女はしっかりとわたしを見ている。

「こ、んばんは」

 戸惑いつつ返事をすると、女性は満足げに目を細めた。

「君に会いたいと思っていました、ずっと」

 初対面の人にそう言われ、わたしは困惑する。どこかでお会いしたことがあったなら、どなたか訊き返すのは失礼だし、知り合いのフリをして話を合わせるのも苦しい。どう返答したら穏便に立ち去れるか考えていると、黒いワンピースの女性はポケットから焦げ茶色の革の名刺入れを取り出した。

「これ、わたしの名刺です」

 わたしは頭を下げ、黒いワンピースを着た女性から両手で名刺を受け取る。黒いワンピースを着た女性は嬉しそうに微笑んでいる。

「いつき」

 誰かを呼ぶ声がはっきりと聞こえた。女性がゆっくりと声の方を見るので、わたしはその視線を追う。怒った様子の女性がこちらに近づいてくる。

「なにナンパしてんのよ」

 眼鏡をかけたその人は眼鏡のふちを指の腹で上げ、黒いワンピースを着た女性を怒り始めた。

「ナンパじゃないよ」

 黒いワンピースの彼女は慣れているのか、のんびりと返した。眼鏡の女性が出す大声は店内に広まる会話の波に混ざる。店員さんにすら気づかれていないようだった。

「驚かれたでしょう。すみません」

 距離を取ろうとしているわたしに、眼鏡をかけた女性が申し訳なさそうにそう言った。

「あ……、いえ……」

 悪い人たちではないのだろう。もしかしたら、わたしと似ている人が知り合いで、間違えているのかもしれない。眼鏡をかけた女性が黒いワンピースを着た女性の腕をつかみ、引っ張る。

「トイレ行かないなら、戻るよ」

「うん」

 黒いワンピースを着た女性は小さく手を振ると、眼鏡をかけた女性に連れられ、店内に戻っていった。

 残った名刺には、名前、メールアドレス、スマートフォンの電話番号が記されている。真っ白い紙ではなく、背景に青、黄緑、桃色の水彩絵の具がにじんでいて美しい。わたしはその名刺を財布にしまった。



 脚がない灰色の椅子から見える電車内は人でごった返している。

 酒の飲みすぎで吐いた同級生を二駅前で降ろし、自動販売機で買った水を手渡してから、駅員さんにお願いした。幸か不幸か、彼が吐いたのは電車を待っている最中の駅のホームで、終電まで何本もある中途半端な時間だったからか周りにあまり人はいなかったし、その駅で別れたはずの同級生が異変に気付いたのか戻って来てくれて、吐いた同級生をトイレにまで連れて行ってくれた。ついでに少し吐瀉物がついたわたしのスニーカーまで心配してくれたその同級生は、吐いた同級生とわたしが電車に乗るまで一緒にいてくれた。

 彼らは無事に帰宅できただろうか、と心配しながらも、わたしは自分が暮らしているアパートの最寄り駅で、一人、ぼんやりと灰色の椅子に座っている。

 動こうと思えばきちんと動けるし、吐き気もない。アルコールを摂取したあとのふわふわとした高揚感も薄れた。それでも冷たい椅子に座ったら体が重く感じ、星がない夜空を見上げている。なにも楽しくないのに、椅子から立ち上がれない。

 椅子に座ってから、すでに電車を二本見送った。東京の終電間近は本数が多い気がする。あまり終電には乗らないので、わたしの気のせいかもしれないが。

 駅のホームにアナウンスが流れる。しばらくすると、電車が停まった。

 ぷわあと音を立てながら開いた扉。誰もわたしには目もくれず、階段がある左に流れていく。電車に乗る人は降りる人を扉の左右で待ち、降りる人が少なくなったところで乗り込む。それからすぐにぷわあと音を立てて扉が閉まった。電車がゆっくりと発進する。車内の窓から漏れる明かりがなくなった分だけ、ホームが薄暗くなった。

「大丈夫ですか?」

 声をかけられた。駅員さんだと思い、重い腰を浮かせる。

「終電はまだなので、お座りください」

 その言葉に従いながら声のする方角へ顔を向けると、腕時計を見ていた女性が顔を上げた。

「あ」

 わたしがもらした声に、駅員さんの制服とは違う厚手の黒いコートを着た女性が笑みを浮かべる。数時間前に同級生たちと飲み会をしていたおしゃれな飲食店で、美しい名刺をくれた人だ。わたしの中に緊張が走る。名前は確か、いつきさん。眼鏡をかけた女性がそう呼んでいた。

「またお会いできて嬉しいです」

 女性はわたしの隣に座り、そう言った。わたしはもう二度と会わないと思っていたので、少々気まずい。曖昧に笑顔を作るわたしに、彼女は変わらず微笑んでいる。親しげな笑みを浮かべているのに、言葉遣いは硬め。表情と口調がちぐはぐなのに、不思議と恐怖は感じない。

「名前をうかがってもいいですか」

 もしかしたらわたしが忘れているだけで、以前どこかで会ったかもしれないと不安だっただけに、彼女の口から飛んできた質問に戸惑う。

「大丈夫。わたしたちはちゃんと初対面です」

 そんなわたしに気づいてか、彼女はそうつけたした。

「浅川千明です」

「あさかわ、ちあきさん」

「浅瀬の浅に水が流れている川、数字の千に明るいで、浅川千明です」

「浅川千明さん」

 女性が宝物のようにわたしの名前をつぶやくので、わたしの方が少し恥ずかしい。

「わたしはさとういつきといいます」

 彼女は膝の上に置いた黒いバッグから手帳とボールペンを出し、手帳の真っ白いページに佐藤樹と書いた。樹さんが書いた字はやや丸めの美しい字だった。

「樹と呼んでください」

 樹さんは名前を書いたページを破き、わたしにくれた。わたしはそれを受け取り、佐藤樹と書かれた紙を眺める。張りつめていた緊張がすっと抜けていく気がした。

 なんてことない会話をぽつりぽつり続けていると、ホームにアナウンスが流れた。上りは次で終電だという。樹さんは手帳とボールペンをしまうと、立ち上がった。彼女は降りる駅を寝過ごしたそうで、これから上りの電車に乗るらしい。

 ホームが一段明るくなり、速度を落としながら電車が入ってきた。ぷわあと電車の扉が開くと、人が流れ出ていく。このまま別れたら、今後、樹さんと話す機会もなくなる。すれ違ったとしても、きっと立ち止まらないし、それ以前に気がつかないだろう。たった十分ほどしか話していないが、このまま別れるのは少し寂しい気がした。

 電車を降りる人たちを見ていた樹さんが振り返った。わたしは手と足元のバッグを彼女に取られ、引っ張られるまま電車に乗り込む。人が多い電車内で呆気に取られていると、目が合った彼女が微笑む。わたしのバッグを足元に置いた樹さんは、しかし、わたしの手は放そうとしなかった。



 終点で電車を降りた。ICカードで改札口を通り、近くのビジネスホテルに入る。

 いつ予約したのか、受け付けに置いてあるタッチパネルでチェックインすると、エレベーターに乗った。わたしのバッグは樹さんが持ったまま。手も繋いだまま。わたしがいつでも振り払えるように、彼女はずっと軽い力で手を引いている。樹さんはずるい大人だと思う。

「なんでわたしを連れて来たんですか?」

 軽い音をたてて停まったエレベーターから手を引かれながら降りる。前を歩く樹さんに疑問を投げかけると、彼女は足を止めた。カードキーで黒い扉を開けた彼女は、扉を体で押さえ、わたしが部屋に入るのを邪魔するように立つ。繋いでいた手が離れた。

「なんででしょうね」

 彼女の表情から笑みは消え、緊張感が漂う。

「一目惚れって本当にあるんだなって思いまして」

 独り言のようにつぶやいた樹さんは、ため息を吐いた。

「このままお帰りになるならタクシー代をお支払いしますし、もう二度とお会いしません。わたしは君の連絡先を知らないのでご連絡もできませんし」

 安心してください、と樹さんは自傷気味の笑みを浮かべる。その表情を見ていると、駅のホームで話したなんてことない会話が脳裏をよぎった。わたしは樹さんと話していて楽しかった。樹さんはどうだっただろうか。

「樹さんはわたしと話して楽しかったですか?」

 わたしの質問に樹さんは目を丸くする。

「わたしは楽しかったです。樹さんは楽しかったですか?」

 彼女の本心が知りたくて、丸い目をじっと見た。そんなことをしても、本当の感情などわからないのに。それでも、つまらなかったなんて彼女が言わないと、わたしには自信があった。

「楽しかったです」

「それならいいです」

 頬を赤らめた彼女の返答に、わたしは満足する。それならいいのだ。本当に。



「もし、前世の記憶があったらどうしますか」

 近くのコンビニに行き、飲み物と化粧落とし、それから化粧水と乳液を買って、ホテルに戻る。交互にシャワーを浴び、後に入ったわたしが髪を乾かしている最中に、そんなことを訊かれた。ドライヤーを使いながら、樹さんの言葉を考える。前世の記憶があったらどうするか。わたしには前世の記憶がないので、いまいちぴんと来ない。

「わかりません。樹さんはどうしますか?」

「わたしは恋人を探します」

「恋人ですか?」

「はい」

 なんだかモヤッとする。わたしはドライヤーを止め、コンセントを抜いた。アメニティーグッズの櫛で髪をとかしながら、心に生まれた不快感の理由を考え始める。

「恋人ですか」

 一目惚れなどと言った相手に、面と向かって前世の恋人と会いたいなど言うのは、少し、いや、かなり不誠実ではないか。しかしどうだろう、樹さんが不誠実ならわたしは身勝手だ。わたしは彼女の恋人ではないので、彼女の不誠実を咎める関係にない。

「そうですね。一つ前の人生では、わたしと君は夫婦で、二男三女を儲け、幸せに暮らしていましたが、時代の流れに逆らえず、君たちを残して逝ったのが心残りだったとか。さらに一つ前の人生では、わたしは黒猫、君は飼い主で、君には婚約者がいて、わたしは自分が猫として生まれたせいで、君をどこの馬の骨ともわからない女性に取られたのが悔しくてしかたがなかったり、したかもしれませんね」

「なるほど」

 樹さんの中では、わたしが前世の恋人らしい。感じていた不快感がすっと晴れ、好奇心に変わる。

「前世の恋人に会えたら、どうしますか?」

 わたしの問いに、彼女は美しく微笑む。

「また恋人になるんですよ」

 その答えに背筋が寒くなった。壁際のベッドに横たわった樹さんは、くすくすと笑う。

「もしもの話です」

 もしかしたら、樹さんには前世の記憶があるのかもしれないし、意味のないただの口説き文句かもしれない。真実を尋ねても、彼女ははぐらかす気がした。



 チェックアウトの時間より三時間も前に目が覚めた。その時にはすでに樹さんは起きていて、椅子に座り、スマートフォンで誰かと通話をしていた。内容を聞くに、仕事の話をしている。

 わたしが起きたと気づくと、彼女は通話をしながら備えつけのメモ用紙に自分のボールペンで文字を書き、わたしに見せた。

 ホテルのロゴマークが入ったメモには、おはようございます。よく眠れましたか? と、やや丸めの美しい字で書いてある。わたしがうなずくと、彼女は同じ紙に、もう少しで話が終わりますので、一緒に朝食を食べに行きませんか? と書いた。口と手で全く違う話をしている。器用だな、と感心しながら、わたしはもう一度うなずく。

 樹さんを待っている最中にトイレと浴槽が一緒になっている洗面台で顔を洗い、歯を磨いて、昨日着ていた服に着替える。化粧品は持って来ていないので、常日頃から持ち歩いている色付きのリップクリームを塗る程度で終える。

 洗面所を出ると、彼女はちょうど通話を終え、スマートフォンをバッグにしまっていた。

「お待たせしてしまい、申し訳ございません」

「いえ」

 気にしないで欲しいと手を振ると、樹さんの表情が柔らかくなる。

「朝食に行きましょうか。お腹が空きましたね」

 彼女は椅子から立ち上がりながらそう言った。

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空腹と会話 笹暮 @sasakure15

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