ガラスの鉢

うり北 うりこ

第1話


 ──どぷん。


 息苦しさを感じた。うまく息ができない。

 実際には呼吸をしているにも関わらず、吸い方も、吐き方も分からない。

 いつも、静かに溺れている。



 そんな私の目の前で、男が真剣な顔をしている。


 時代錯誤な厚底眼鏡をかけた冴えない男だ。だが、両親が私の相手にと選ぶ程度には優秀で、将来が約束された男でもある。


 私に与えられた選択肢はひとつ。そこから外れることはない。


『お姉ちゃんもさ、自分のことは自分で決めなよ』

 家出をしたまま帰ってこなくなった妹の声が脳内で響く。



 ──ごぽり。


 あぁ。息が苦しい。



 私の目の前では、男が返事を待っている。

 すでにここまで来てしまった。今さら、後戻りなどできない。いや、後戻りをしたとして、私は逃げられない。

 泳ぎ方など、とうに忘れてしまった。いや、そもそも泳げていたことなど一度もないのかもしれない。


 私の返事など最初から、あってないようなもの。



「はい」


 たった二文字で男の顔が晴れやかになった。


 何をそんなに喜んでいるのだろうか? 断られるはずもないプロポーズ。結果など、最初から分かっていただろうに。



 ──ごぽり。


 息苦しさから半開きになった唇から、空気が逃げて、より一層苦しくなったような錯覚に陥った。



 恋人から婚約者へと変わったこの男に、恋愛感情を抱いたことはない。


 嫌いではない。けれど、好きでもない。

 嫌悪感もない。けれど、好意も持てない。


 それでも、私はこの男に嫁ぐ。両親という私の飼育者が、この男に変わる。

 ただ、それだけのことだ。



 ──ごぽり。


 プロポーズと共にはめられた薬指の指輪を見る。


 ──ごぽり。


 目の前のしごくどうでも良い男を見る。


 ──ごぽり。



 あぁ、息が苦しい。


 ──ごぽり。



 私の口からこぼれていく。



 ──ごぽり。

 ────ごぽり。

 ──────ごぽり。





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