不安系遺伝子たち

志村麦穂

1 不安型遺伝変異

 小さいころ、『にじいろのさかな』という絵本を読んだことがあった。ひかる鱗をもった、丸っこいブダイだか熱帯魚だかの魚がおって、いろんな魚に羨ましがられて、ひかる鱗を一枚ずつ引っぺがして配って行く話やった。最後にはひかる鱗が一枚だけになってしまって、みんなひとつずつひかる鱗があって、なかよしこよし、めでたしめでたし。で、おわりやった気がする。特別ではなくなったけど、友達はたくさん。ひかる鱗を鼻にかけて嫌なやつやった自分を卒業して、みんなの仲間になれた。

 絵本やから当たり前なんやけど、ええはなしってオチ。教訓ゆうか、道徳ゆうか。世界平和とか、みんななかよしとか、ひとにやさしくみたいなもん。少なくとも私のなかでは同じカテゴリで、この魚アホやなとしか思わへんかった。ムズかゆぅて、煙たぁて、くしゃみしそう。

 ええはなしやし、幸せなことなんかもわからんけど、それと受け入れられるかは別の話。

 自分独りが価値のあるもんを独占しとるなら、せめて交換とか、もっと有利に立ち回ったらええやん。つまるところ、にじいろの魚は、財産を狙ろうとった奴らに集られ、むさぼられただけちゃうんか。配ったひかる鱗は、いわゆる友達料ってやつやないんか。私はこのかつてが、後々友情の真贋について悩みはじめるんが目に見えた。鱗がなかったら、こいつらは仲良うしてくれんのかって。

 ひとつ、にじいろの魚にとってすごく幸運だったこともある。それはひかる鱗がみんなにとって羨望の対象であって、他魚にとって価値のあるものだったこと。にじいろの魚は嫌なやつやったかも知れんけど、特別なやつやった。

 特別にもいい特別と、悪い特別があって、いいヤツは才能とか言われたりする。ほんで悪いヤツは欠点とか、ひどくなれば障害とか言われる。にじいろの魚かて、聞こえの悪い言い方をすれば、奇形やし変異やし色素異常。フツウでないヤツは、異常やし変やし仲間外れ。

「フツウ、フツウ。ニンゲンなにごともフツウがいちばんや」

 親友のちぃちゃんはいつもの口癖をゆってわらった。小学校から続く登下校。高校生になったいまでもふたり並んだ景色は変らない。

「でもさ、フツウてなんやろ。難しない?」

 私はいつぞやの人道的倫理観についての授業を思い出した。

 道徳の授業やったかで、センセがスペクトラムの考え方について話したことがあった。

 スペクトラムゆうんは、英語で連続体の意味で、虹色を例に出して説明しはった。虹色をならべたとき、それぞれの色は境目がなくて少しずつ混じり合って変化していくグラデーションなんやと。ひとつずつ色が別個に存在するんやなくて、三原色の混じり合う程度の差で違ごてるようにみえるだけ。

 俺とお前はちゃう生きもんや、って考え方を否定する為に存在する考え方らしい。あんたと私は断絶した個ではなくて、地続きの私たちですよ、ってなもん。走るのがはやいヤツ、遅いヤツ。数学の得意なヤツ、暗算すらおぼつかんヤツ。身長の高いヤツ、ちびなヤツ。障害かてそのひとつで、得意なことと苦手なことがあるだけで、おんなじ私たちですよ、ゆう如何にも優し気な考え方。

 ただスペクトラムにも誤解した甘い所があって、センセは虹色のグラデーションを横向きにおいて説明していたけれど、あれは実は縦向きにおくのが正しい。

 たしかに程度の違いかもしれん。けど、その程度の違いによって優劣が付いてしまう。社会的に有用か否か。世間的にすごいかすごくないか。使えるか使えないか。その判断のあるなしは、脳死で理想を唱えるよりも大事なことのはず。

 理性的になって仲良くしなきゃいけないよ、と唱えるセンセたちの説明はだいぶ感情的やった。

「フツウゆったら、人間ってこと。日本人は日本人らしいってこと。角とか、鰭とか、毛皮の生えてない人間てこと。眼が青かったり、プラチナブロンドやったり、鼻高こうて彫の深い顔じゃないってこと。遺伝子がおかしなってないってこと」

 ちぃちゃんは登校中の生徒らを見回して、眉をしかめた。

「ひとの枠超えた見てくれなんか、多様性やあらへん」

「うん、そうやな」

 私の笑顔は凍り付いた。

 覚えてないけど、昔みんなが口を揃えて「多様性多様性」とシュプレヒコールしよった時期があったらしい。ちょうど、ゲノミック・タトゥーが流行り、遺伝子組み換えが一般に認知されたころ。第二世代の子供たちが生まれはじめて、突然変異ゆうか、予想外の変質ゆうか。遺伝子にノイズが混じってしまう現象が発覚したことが発端だった。

 予期していない眼の色、髪の色、肌の色をした子供が生まれた。アルビノが生まれやすくなった。はにわり、ふたなり、奇形に障害。ゲノミック・タトゥーを施した親から生まれた子は、いじった部分だけやのうて、予想外の顕性遺伝をもつ『雑種』になってしもうた。

 ゲノミック・タトゥーは元々医療技術から生まれたもんで、ジーン・クリーニングゆうて生まれる子や自分の遺伝的欠陥を治すためのもんやった。糖尿、禿、ガンのかかりやすさ。そういう遺伝子上の悪い部分を綺麗にするもの。それが後々ゲノミック・タトゥーとして、生まれてくる子や自身の遺伝子をデザインするように変わって行った。身長を高くするだとか、ブロンドの地毛がいいだとか外見的なことから、記憶力を良くしたい、筋肉が発達しやすいといった能力的なことまで。そういう風に子供をコーディネートしていける環境が整った。

 そんで問題なんは生まれてくる次の世代。親が遺伝子を変則的に弄るもんやから、出来上がる子の変化を予測すんのも難しくなる。ノイズが0.001%でも混じると体のどっかが変になる。人間とサルでも99%遺伝子同じゆわれるぐらいやから、ノイズの威力は計り知れん。予想するにはスパコンで計算しなあかんぐらいの不規則な変化が起きる。でも、身体構造の根幹部分の設計遺伝子はいじったりせんからって、つむじの向きや、耳垢のドライかウェットか程度の、小さな変化やと軽視された。

 当然、遺伝医療にはめちゃくちゃ金かかるから、安価で粗雑な遺伝子整形クリニックなんてもんが無数にできては摘発されて消えていった。そういうクリニックは、変質影響の計算が特に甘い。雑種の運命は天のみぞ知る、ゆーて。

 そんなやから多様性、多様性ゆうて、みんなおなじ人間ですよ、って誤魔化して。

 差別とか、フツウとか、言葉の重みは半端ないもんになってしまった。それでも表面上は取り繕って上手くやって、世間もすこしは落ち着いた風。クラスでも遺伝子組み換え児は珍しくない。赤毛、グレーの瞳、従来の日本人離れした骨格、瞬間記憶能力。数十年前は子供のために習い事や家庭教師にお金を割いていたことが、今では遺伝子組み換えにお金をかけるようになっただけ。世間のトレンドが変化しただけ。

 でも、そんなんは氷山の一角でしかない。しかも、光のあたった良い側面だ。

 不安型突発遺伝変異症。

 私には鱗が生えた。

 一枚だけ。二の腕のところに、黒子みたいなんがこちょっと生える。油が浮いたみたいに、ヤなカンジで虹色にテカる鱗が一枚。

 私はこの特別が嫌でしゃあなくて、生えてくるたびペンチで引き抜く。

 薄い爪みたいなもんで、結構しっかり皮膚とくっついとるからめっちゃ痛いし血もでる。肩出したノースリーヴとか絶対着られへんし、夏場でも七分丈が限界。プールにも海にも行かれへん。

 だって、変やもん。

 この特別は、悪い方の特別なんやもん。

 貼りつけたカットバンの裏の傷がムズかゆい。そろそろ生えてくるんやなってのがわかる。憂鬱だ。鱗抜き過ぎて腕の傷はどんどん汚くなっていってるし、根元は硬くて頑固になっていってる。

 私は多様性ゆう言葉が一等嫌い。こいつのせいで鱗のある私は、フツウからはみ出した特別になってしまった。

 多様性とはつまり、みんな違ってみんないい。私たちの違いを認めてしまった上で仲良くしましょ、という話だ。俺とお前は所詮ちゃう生き物や、という前提をもとに話がすすむ。たしかにそれは当たり前のことなんやけども、わざわざ立てんでいい波風を立てる。

 いままで些細な違いがあっても曖昧なくくりの『私たち』で済んでいたことが、『俺とお前は違う』が前提になったことで、『私たち』の基準がより厳しくなってしまった。曖昧で広めだったフツウの基準が、厳しく狭いものになってしまった。

 フツウのひと、というのは、鱗が一枚も生えていない人間のことを指す。

 私はにじいろの魚にはなれない。

「ウチらはフツウやもんな?」

 ちぃちゃんは念押しするように私の手を握る。鱗の生える方の手だ。

「当たり前ですやん」

 特別というにはささやか過ぎて。フツウというには度が過ぎる。

 私はこの小さな小さな障害の、大きな痛みに耐えて過ごしていた。

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