僕の■■■■が、生まれた訳

Hellmär

僕の■■■■が、生まれた訳

 小説で書き出しに迷ったのなら、とりあえず主人公を走らせればいい。

 なにかの新書に、たしかそんなことが書かれていた。

 とめどなくそんな思考を巡らせながら、もう夜になるという時間帯に自分でも分からない何かに向かって走っていた。

 小説の中で彼らが何故走っているのか?

 それは小説のページを読み進めれば自然と分かるけれど、僕には僕が走っている理由が分からない。

 それは理解だって出来ないけれど、けれど確かにどこかにある感情が、僕に走れと命令している。

 向かっている場所なんてない。

 何処に行けばいいのかだって分からない。

 けれども僕は、走らなければならない。

 走り続けて、何処かへと向かい続けなければならないのだ。

 何もしないよりは走っている方がいい。

 何も出来ないと分かってはいても、届くと信じて、走るしかない。

 自分が何をしたいのか。

 それだけは、明確に分かっているから。

 僕は足を動かす。

 回転させる。

 前進を続ける。

 向かうのをやめない。 

 筋肉は張り裂けそうなほど膨張して痛いけれど、足を止めることができない。

 絶対に行けるはずのない場所に行くまで、止まってはいけない。

 不可能だと分かっていても、それでも必ず、たどり着いてみせるから。

 

 ――僕は君に、出逢ってみせる――

 

 



 流されるのは好きじゃない。

 けれど、それに逆らうほどの気力がある訳でもない。

 昔から真似とか同じだとか、誰かの後ろに付いていくような事に忌避感を覚えていた僕は、今の自分が置かれている状況に小さくない不満を抱えていた。

 高校を卒業するのだから大学に行くのは当然で、それは僕が中学から高校に上がるときにも感じた、急速にエレベートした時に起きる、空気遠近法で見る景色のように歪んだ音が耳に入り込んでしまったみたいな、そんな違和感が込み上げてくるのだ。

 皆と同じ事をするなんて流されているようでつまらないのだが、何者かであるためには流れなければならない。

 高校生でなくなるのだから次に何になるかを選択しなければ、高校生という称号が剥奪されてしまった僕は、人生の迷子になってしまう。

 けれど僕が早々に推薦まで取った大学行きにあまり乗り気ではないのは、きっと明確な理由があって――


「ねえねえ」


 気怠げな声と共にエッセンシャルオイルの匂いの中にシトラスの混ざった香りの、グレージュのショートヘアが顔に垂れてきて、僕の眼に映る自分を見つめているような、琥珀色の瞳と目が合った。


「……コウ君。コウ君はもう、大学決めてるよね?」


 怠そうな声と相反するようにぱっちりと開いている大きな瞳は、好奇心という言葉が浮かんでいるように鈍く煌めいていて、見続けているとキスでもしてしまいたくなってしまう綺麗な貌を手ではねのけるようにどかした。


「むぅ……」


 僕の手に潰されている頬も相まって、いっそう不機嫌さが伝わる呻き声をだした幼顔の少女は頭を手に乗せたまま脱力して体重をかけてきた。

 鬱陶しかったが支えてやらないと地面に突っ伏してしまいそうなほど力を抜いていたので、僕はそのままでいる。

 海沿いに置かれたバス停のベンチに座ってバスを待っていた僕たちは、乗り遅れてしまってあと1時間はこないだろうバスに時間を持て余していたのだ。


「もう推薦まで取ってるよ」

「どこだっけ?」

「皇摩大学の文学部だよ。叔父さんが教授してるからな」

「ふぅん……そこさ、わたしの頭じゃ行けないよ」

「別に来なくていいぞ。てか大学にも行かなくていいんじゃないか、綺羅きらは」


 綺羅の偏差値ではとてもではないが、同じ大学には通えない。

 そしてそれが、多分僕が大学への進学に乗り気ではない理由の一つなのだろう。

 この18年近く、殆ど離れたことがない幼馴染みと学校では会えなくなる。

 なんだか女々しい理由であるとは自分でも思うのだが、思考ではなく心という漠然とした未解明の部分から発せられる感情を、僕は無視することができなかった。


「行かなくていいの? わたしがいなくて、コウ君寂しくない?」

「そこまで綺羅に依存してない……平気だよ、多分ね」

「ふぅん……じゃあわたし、なにしてれば良いんだろ」


 小さい頃から僕の後を小鴨のように付いてきていた綺羅は、急に目印を失ってしまったみたいな、飼い主とはぐれた仔犬のような表情を浮かべた。


「家にいればいいだろ」

「それじゃあニートだよ」

「良いんじゃないか、それでも」

「むぅ……無責任な言葉だね」


 更に力を抜いたのか僕の胸元に倒れ込んできた綺羅は、しかし直ぐに立ち上がって少し歩いてから振り返り、無自覚な流し目を送った。


「もうさ、歩いて帰ろうよ」


 チラリと時刻表に視線をやってから、たまにはそれもいいかと徐にベンチから立ち上がる。

 暮れかけている空には斑に雲がかかっていて、海に天使のはしごを掛けている光はオレンジ色になりつつあった。

 海沿いの緩やかな坂道を2人で上っていって、家に着くまでには忘れてしまうようなくだらない話を断続的に続ける。


「疲れたぁ……コウ君おぶってよ」

「はいはい。勝手に飛びつけ」


 話しながら坂道を登るのは疲れると、ごちって立ち止まってしまった綺羅に、僕はため息交じりにそう言ってから先を歩く。

 すると「えいっ」というかけ声と共に本当に飛びついてきて、背中にのし掛かってきた小柄な幼馴染みを、本当に軽いなと思いながら膝を持ってズリ落ちないように固定してやる。


「ねえコウ君、大丈夫? わたしのこと家まで持てる?」

「家まで運ばせる気なのか……まあ、綺羅は軽すぎるくらいだし、平気だよ」

「そっか……ふふふっ」


 何が嬉しいのかぐりぐりと頭を右肩に辺りに押しつけてくる綺羅から、またシトラスみたいな香りがして、入浴剤を変えたのか昨日までと匂いが違った。


「なんなんだこの髪の匂いは。ミントみたいで目が覚める」

「これはね、夜空のキラキラ流れ星の香りだよ?」

「……なんだそれ」


 ファンシーなことを言う綺羅に、若干の呆れ顔で聞き返すと以前使っていた入浴剤を久しぶりに使ったのだと教えてくれた。

 綺羅はお風呂で青色の入浴剤を手に持って溶かしていくのが好きなのだ。

 神秘の青い薔薇の香りとか、風吹く青い花畑の香りとか。

 風呂場には香りを想像しても首を傾げるしかないようなパッケージの入浴剤が沢山置いてある。


「ああ、確かそんな名前の入浴剤があったな」

「そうだよ? いいでしょ。コウ君も使う?」

「どうせ今日はうちの風呂使うんだろ。僕も後に入るんだから同じ入浴剤になるさ」

「一緒に入る?」

「今日は遠慮しとくよ」

「ふぅん……」


 詰まらなそうに唸った後に、綺羅は僕の首に回していた腕を絞めていって、少し強めに抱きついてきた。


「ねえ、本当に行かなくていいのかな」

「大学か?」

「うん……わたし、コウ君が手伝ってくれるなら頑張って勉強するよ?」


 教師に何を言われても落書きばかりして進路を書かなかった綺羅がそんなことを言ってくれたのが嬉しかったが、どうせ今からでは間に合わないだろうと首を横に振った。

 それに、綺羅には学校というものが合っていないのだ。

 もうこれ以上綺羅を学校に縛り付けたくはなかった。


「いいよ、別に」

「……じゃあわたし、何すればいいんだろ」

「だから、家にいろよ」

「もう……それじゃあニートだよ」


 同じ事を拗ねたように言った綺羅に、僕は少しだけ逡巡してからいつもより重い息を吐くように言葉を発した。


「……それでいいんだよ綺羅は。僕が帰るまで、家で好きなことして待ってろ」


 俯き気味に言った僕は、直ぐに帰ってこなかった返答に居心地が悪くなったけれど、気長に待つかと歩き続けることにした。


「……うん。分かった」


 けれど30秒もしない内に帰ってきた綺羅の声に、密着している彼女の胸から伝わってくる鼓動がいやに強く感じられて、それは自分の心臓と鼓動が混じっているような気さえした。


「着いたぞ、綺羅」

「むぅぅ……」


 ガレージの大きな自分の家と、その左隣にある小さな庭園のような庭が特徴的な綺羅の家。

 到着したので綺羅を降ろそうとおんぶのための前傾姿勢をやめようとしたが、綺羅は僕の首元に回していた両手に力を込めることでまだ降りたくないと言外に伝えてきた。


「ったく、仕方のない奴め……」


 こんなところも可愛いと思ってしまう自分は、相当に重傷なのだろうと理解していながらも無理に降ろす気にはなれず、そのまま綺羅家の玄関まで進んだ。

 玄関口の前に来ても降りてくれそうにはなかったので、僕は綺羅をズリ落とさないように前屈みになり、ズボンにチェーンで繋がっているキーケースから互いに交換し合っている家の鍵をなんとか片手で探し当てた。

 淡緑色のリボンの付いている鍵を使い、物心つく前から何度も入っていてもはや第二の我が家と言っても過言ではないくらいの綺羅家へと入り、観葉植物の多いリビングにある灰色のソファに綺羅を寝かせた。

 この幼馴染みは全身から力を抜いているかのように気怠けで、そのくせ首元に回されている腕だけは解けなかったので、仕方なく満足するまで一緒にいてやろうとソファの下にひかれている絨毯に腰を下ろした。


「いらっしゃい皇威(こうい)君。綺羅を運んできてくれたの? 綺羅は、また甘えてるのね」


 グレージュの髪を少し傷んでいる淡いグリーンのリボンで結び、右肩に回している年若い綺羅の母親がキッチンから出てきて、銀のトレーに乗せたミントティーを持ってきてくれる。

 綺羅が大人になってもこうはならないだろうなと一目で分かるほど品位と落ち着きのある美しい母親は、いつも首から先端の欠けた合鍵のネックレスを提げているという微妙なセンスを持っている。

 どうやら家に入ってくる時から見ていたらしく、幼馴染みにべったりとくっつく娘にどこか呆れたような表情になりながらも微笑ましいのか、そこには柔和な笑みが混じっていた。


「……これはコウ君に甘えさせてあげてるの」


 母親の前だと多少意地っ張りになるところのある綺羅は、ソファに寝転んだままなので下に座る僕を後ろから抱きしめているような姿勢になっている。


「はいはい、そういうことにしてあげる。お茶は飲む?」

「飲む」


 綺羅の母親はトレーにもう一つ乗っていたミントティーを綺羅にも差し出し、それを受け取るためにようやく腕を解いてくれた綺羅は、そのままソファに座ればいいのに何故か僕の隣の絨毯の上にちょこんと座った。

 その後、ちびちびとミントティーを飲む綺羅を横目に自分もガラス製のカップを傾けると、歯磨き粉を水に溶かしたみたいな味が口の中に広まった。爽快感はあるのだがどうにもこの味には慣れないなと、僕は内心では不味いと舌を出す。


「そろそろ2人とも夏休みね。どこか行きたいところはある?」

「部屋にいたい」

「コウ君といたい」


 帰り道での会話のせいで妙に意識してしまう幼馴染みの言葉に若干頬を朱色に染めつつも、いたって冷静を装ったつもりではあったが、綺羅の母親の表情を見るにまったく隠せていないようだった。

 ああ僕は、やはりこの少し不思議な幼馴染みのことが好きで仕方がないのだろう。

 同じ病院で生まれて、家も隣同士だったこの運命的な幼馴染みとは、一緒にいた時間は親よりも長い。

 幼稚園も小学校も中学も高校も同じで、ずっと一緒にいたからなのか2人とも目力が強いからなのか、よく兄妹と間違えられもした。

 けれどずっと異性という認識はあって、互いに言葉にはしないだけで、好意は充分に伝え合っていた。

 だからこのまま当然のように一緒に居続けて、自然に結婚するのだろうと思っていた。

 あの日、彼女と繋がってしまうまでは。

 僕は確かに、そう信じていたんだ。

 

 


「ねえ王来王家おくおか。今年こそ夏休み暇な日ない?」

「綺羅の世話があるからない」


 放っておいたら認知症のお婆さんのように何処かへ彷徨ってしまう綺羅から目を離すなんてとんでもないと、僕は目の前の机に腰掛けているクラスメイトの誘いを断った。


「あんたまたそれなの……どんだけキラキラちゃんのこと好きなのよ」


 ついでに綺羅のフルネームは雲母綺羅きらら きらという。

 その苗字と合わさることによって輝きすぎる名前により、クラスでのあだ名はキラキラちゃんとなっていた。


「確かに綺羅のことは好きだが、瓦川原かわらがわら。君が思っているような関係じゃない」

「恋人じゃなかったら何んなのよあんたら。キラキラちゃんの介護係?」

「知ってるだろ。幼馴染みだ」

「あぁ、はいはい。王来王家にとっての幼馴染みは夫婦って意味なのね」


 僕の隣の席で2時限目から熟睡中の綺羅を横目に呆れたように言って、瓦川原は「やっぱり無理だったか」などと呟いてからスマートフォンを弄りだし、何故か軽く睨んできた。


「2年以上誘い続けてるのに、一度も学校外で遊んだことないわよね」


 確かにこの入学前から染めていた茶髪を地毛だと言い切り毎月しっかり染め直しているらしいクラスの準不良枠生徒である瓦川原室及やしきとは、1年の頃から同じクラスで何度となく遊びに誘われている。

 綺羅と3人でなら映画になどは行ったことがあるのだが、瓦川原のいう遊びとはどうやら二人っきりのデートみたいなものらしい。


「仲の良い友達っていうわけでもないだろ。おかしな事じゃない」

「いや私はあんたのクラスで唯一の友達だからね? 私がいなかったら王来王家はぼっちよ?」

「綺羅がいるだろ。それに瓦川原、お前僕の友達のつもりだったのか?」


 僕に友達がいたなんて驚きだと純粋に訪ねると、何故か瓦川原は若干目尻に涙を溜めていた。


「えっ、違うの? ……ちょっと悲惨な事実に泣きそうなんだけど」

「泣くな。友達でいいから泣くな」


 喚かれたら綺羅が起きてしまうだろ。

 割と涙腺の弱い瓦川原は直ぐに泣くので扱いに困る。

 恋愛映画を観に行ったときには右では綺羅が爆睡し、左ではボロボロと泣く瓦川原に挟まれるという異様空間のせいで半分以上残ってしまったキャラメルポップコーンのことは今でもよく覚えている。


「はぁ……もう諦めるしかないかなぁ」

「なにをだよ」


 尋ねるも綺羅以外だとクラス唯一の話し相手は、答えてはくれずにスマートフォンを弄ることに意識を割ききってしまったようだ。


「よっし。切り替え切り替えっと。なんか遅すぎる気もするけど……」


 しばらくしてからスマートフォンを下げて自己暗示のごとく独り言を自分に聞かせた瓦川原は、何故なのか酷く落ち込んだように見えた。


「ああ、そうだ。瓦川原、二十九日なら空いている」


 というか、その日までに女子に手伝って貰いたい買い物があるのだ。


「えっ! よりによってその日! というかこのタイミングでって……もう少し早く言ってよ!」

「思い出したのが今なんだ。仕方ないだろ」

「最悪……さっき予定入れちゃったわよ……」


 異様に落ち込む瓦川原が可哀想だったので、キャンセルできない予定なのかと訪ねてみた。


「デートがあるのよ」

「お前なんかに彼氏が出来たのか。数奇なことだな」


 正直に驚いた僕は綺羅のように目をぱっちりと開けた。


「それは酷すぎない……まあ、まだ会ったことないし彼氏じゃないけどさ」

「なんだそれ。どういうことだ」


 瓦川原の話を聞くと、どうやら最近ネットで知り合い仲良くなった相手とカフェで会うことになったのだという。

 果たしてそれをデートと言って良いものなのかは甚だ疑問ではあるが、僕は電子上だけの関係というものに強い忌避感を持っていたので、隠そうともせず嫌みな貌をした。


「よくネットで知り合った相手なんかに会おうと思えるな。僕には到底無理だ」

「大丈夫だってば。っていうか王来王家ってあんまりスマホも使ってないし、あんたが現代に適応してないだけなんじゃない?」

「まあ一理はあるが、僕は電子上の付き合いが好きにはなれないんだ」

「だからいくらLINEしても既読スルーなのあんた……」


 それは単に返信が面倒なだけだ。どうせ明日にはクラスで会える相手にメールを打つのだと思うと億劫なのだ。

 けれど互いの顔も知らずに話し合うだなんて、なんだか気味が悪い。

 そこから始まる関係もあるのだろうけど、個人としてはやはり嫌悪感は拭えなかった。

 クラスメートの多くはちょっとした休み時間にすらスマートフォンを取り出しているし、ゲームアプリやTwitterなどをあまり使用しない自分にはまったく理解し難い行動だ。

 個人的な感情でしかないけれど、そんなもの使わないで目の前にいる友達と話した方が楽しいのではないだろうか。


「まあ……王来王家がどうしてもっていうなら、その日は断ってあんたと一緒にどっか行ってあげてもいいけど?」

「いや、別にいい。行ってこいよ、お前の人生でラストチャンスかも知れないぞ」

「あんたね! わたし告白されたことだってあるんだからね! もういいわよ行くわよ! 後になってやっぱりとか言っても遅いわよ!」


 癇癪を起こした瓦川原はスマートフォンで僕を殴りつけかねない勢いで怒鳴ってきたが、予鈴が鳴って冷静さを取り戻したのか、綺羅の方を一瞥した。


「……ねえ、そろそろ次の授業始まるけど。キラキラちゃん起こさなくていいの?」

「そうだな……」


 怒鳴られたせいでやはり対人関係は面倒だし、それならいっそ気軽なネットの方が良いかとも考えたが、こういった喧嘩のようなものだって青春の一つだろう。

 やはり面と向かって話すのが一番だ。

 けれども僕はスマートフォンを弄る瓦川原と一向に起きる様子のない綺羅を見比べて、これではどちらがマシなのだか分からないなと、微かに苦笑した。

 



 

 夏休みの一週間後、暑さのせいで綺羅にアイスを買いに行かされている僕は、陽炎を作るほどに熱されたアスファルトの上を歩き回るはめになった。

 コンビニを目的地としていたのに、日陰の方へ日陰の方へと足を動かしている内に裏路地などに入ってしまって、偶然にも数ヶ月前に見つけた骨董品屋を再び見つけてしまった。

 店の主人が独特な雰囲気を持つ人なのと面白い物ばかり置いてあるので、殆ど買いはしないが見ていて飽きず家からも近いと思われるので、僕は無意識的に気が向けばこの青猫堂という珍妙な屋号の骨董品屋へと立ち寄っていた。

 枯れたツタが自然のカーテンとなって窓に絡みついている店の、ホラーゲームみたいにギイギイと音の鳴る扉を開けて、ゆらりと漂ってきた古本と太陽の差し込む中庭との匂いが混じったような空気を吸い込んだ。


「やあ、王来王家君。また来たんだね」


 朽ちた木で作られたようなカウンターに佇む暮れ髪の青年が、読んでいた本を閉じて蒼然とした双眸そうぼうを僕へと向けた。

 理知的な眼をした、酷く儚げな雰囲気を持っている。

 自分とたいして年が離れているようには見えないけれど、古ぼけたカウンターに佇む姿は齢を重ねた大樹のようで、あまりそこから動かないからか、僕には彼が根を張っているようにさえ見えた。

 骨董品屋の主人のくせにブルートゥースイヤホンなんかで音楽を聴いていたらしく、イヤホンを首に掛けていて、挨拶だけすると再び本を読み始めてしまったので、彼との会話は諦めてしかたなく僕は二階まである店内を見て回った。


「やっぱり、伸びてるよな」


 椅子にぽつんと置かれている、球体関節が見えていなければ本物の少女かと見まがうような等身大のフランス人形の金髪を見て、そう呟いた。

 最初に来たときにはセミロングほどだったのに、今では肩下まであるカールした金髪は明らかに伸びていて、本当なのか冗談だったのか、定期的に切ってあげないと伸び続けて大変なのだと主人が言っていた。

 その隣の棚には黒縁のもさったい眼鏡などが置かれていて、主人によればこの眼鏡は少女漫画効果を生み出すとかいうものらしく、美少女がかけると見た目が地味になってしまうらしい。

 なら綺羅にかけさせれば三つ編みのお下げにでもなって地味っ子に変わるのだろうかと想像してみたりして、僕はこの店を楽しむのだ。

 他にも死ぬ日を教えてくれるウィジャボードとか、時空間の棺だとか、透明人間になれる薬とか、勝手にその日の行動が記される日記だとか。

 果ては咥えて走ると運命の相手とぶつかることの出来るパンを焼けるトースターまで、呪いのアイテムからギャグなのではないかと笑ってしまうようなものまで置いてあるので、説明や商品名を読みながら空想を働かせる。

 綺羅もこういった色物が好きなので紹介してあげたいが、この骨董品屋、探そうと思うと何故か見つからないのだ。いつもふらっと歩いているといつの間にかこの店が見えていて、毎回が発見のし直しだ。

 そんな神出鬼没なところが、並ぶ商品の信憑性を高めていて、本当にこの骨董品屋はなんなのだろうかと深く考え込んでしまったことも一度や二度ではない。

 けれど主人に「ここって何なんですか?」というようなことを聞いても。


「骨董品屋さ。まあ少しだけ、商品が変わっているというだけのね」


 という毎度同じ答えが繰り返されるだけなので、僕はゲームのNPCにでも話し掛けているような気分にさせられてしまう。

 実際には独り言の多い人なので、意図してそういった風に話を濁しているだけなのだろうが。


「あっ、これいいな。値段は……まあ、買えなくもない」


 この店はなにも面白グッズや呪術品だけ売っているというわけではない。

 調度品やら置物などの普通の骨董品も売っている。

 本当は面白グッズなどを買いたいのだが、安い物でも諭吉が数十枚は飛んでいくのでとてもではないがバイトもしていない高校生が買える代物ではない。

 何度か来たこともあって財布には常に数万円を入れる習慣が出来たが、それでも買えるのは普通の古めかしい品ばかりだった。

 それでも充分に良いものは売っている。

 以前に買った物といえば鉛で出来た精密な飛行船の模型やスチームパンクな電球スタンド、一番のお気に入りはまだこの世界が平らだと思われていた時代の世界地図タペストリーのレプリカで、どれも学生価格だと負けてくれても高額だったが、部屋に飾っておくと値段に見合った良い雰囲気を醸し出してくれる。

 ついでにそのタペストリーの本物は僕の貯金を全てはたいても到底買えない値札が付いている。


「200ドルか。うぅん……」


 この骨董品屋は外国人を対象にしているのか、日本だというのに値札も説明書きも英語表記だ。 

 初め見たとき2000円だと思って手に取った骨董品が実はアメリカ・ドルで、日本円にすると20万円以上すると分かったときにはそっと元あった場所に戻したものだ。

 一通り回ってから200ドルの白い鯨を象ったキャンドルスタンドを買おうか迷っていたとき、そのキャンドルスタンドが置かれている棚の一番上にあるアロマキャンドルと表記された琥珀色のブロックキャンドルが目に留まった。

 綺羅の趣味はアロマテラピー専門店を営む母親に影響されてなのか、ハーバリウムとアロマキャンドル作りだ。

 綺羅の部屋に行くといつも溢れかえるエッセンシャルオイルの香りにリラックスを通り越してむせ返りそうになる程である。

 無論、白鯨の無骨なキャンドルスタンドは綺羅の部屋には似合わないので、綺羅が毎日のようにくれる新作アロマキャンドルを消費するにいたってこういったものがあった方が良いだろうという、つまりは自分用のものだ。

 けれどもうすぐ、七月三十日には綺羅の誕生日がやって来る。

 誕生日プレゼントを買うようにお金を使わずにおいた方がいいだろうという理性と、普段は自分以外の客を見ないのに来る度に商品が変わっているので、今買わないと無くなってしまうかも知れないという焦燥が僕の中でせめぎ合っていた。

 そんな時に眼に入ったのが琥珀色のブロックキャンドルで、たまには綺羅も自分が作ったものではないアロマキャンドルを楽しむのも良いだろうと思ったのだ。


「アンバー、グリス?」


 使われている素材の名称に聞き覚えがあったので記憶を探ってみると、以前に綺羅が言っていた鯨からとれるとても高級なアロマの材料のことだと思い出した。

 捕鯨が禁止されている今では殆ど入手する方法がないとかで、海岸などで見つければ一攫千金ものなのだとか。

 高そうだなと値札と説明書きを読んでみると、想像以上に高価であったらしく9000ドルという値がつけられていた。

 自分にはどうやっても買えそうもないが、綺羅にあげればそれはもう飛び跳ねて喜ぶことだろうというのは容易に想像がついてしまうのだから意味もなく悩む。

 そうして十分ほど無意味に悩みこんでから、僕は結局白鯨のキャンドルスタンドを持ってレジへと向かっていた。


「あれは買わないのか、王来王家君。随分と熱心に、女の子と見つめ合うみたいに眺めていたようだけれど」


 アンバーグリスのアロマキャンドルに視線をやっている主人は、どうやら僕をからかってきているようだった。


「高校生には買えませんよ」

「そうだな。普通の高校生には、買えないだろうさ」


 やはりからかっているのか、レジがないので暗算で会計をする主人は微かに笑んでから白鯨のキャンドルスタンドを受け取ると、毎度のことだが端数をまけてくれて2万円だと言い、丁重に梱包し始めた。

 そのあいだ手持ち無沙汰になった僕の目に、外にいれば一度は空模様を見るのと同じくらい自然に、カウンターに置かれているものが入ってきた。

 それはコンビニのレジの隣に置かれているライターやチロルチョコのように、買い物のついでに目に付いたら買っておこうと思うこともある他愛のない物であるかのように、ひっそりとカウンターに佇んでいた。

 古めかしい木箱と、そこには古いといえば古くもあり、そうでもないとも言えるのであろう、凡そその木箱には似つかわしくないガラパゴス携帯電話が入っていたのだ。

 そもそも骨董品屋に携帯電話というのがおかしな話なのだが、けれども技術革命が盛んな現代において、スマートフォンの登場でその存在が半ば亡き物になりつつあるガラパゴス携帯電話は、既に骨董品という種別に入れられても遺憾のないものになっているのかも知れない。


「なんですか、これ」


 好奇心に言葉を任せてそう尋ねると、主人は梱包を続けながら、一切の視線も動かさずに説明してくれる。


「ああ。それはガラクタとも言っていいような、本当にくだらない代物だよ。年代も時間も場所だって選択できないけれど、それは、過去へと繋がる携帯電話さ」

「過去へ、繋がる……?」


 あまりに魔術的な機能が近代的な機器に込められているので、僕は思わずオウムのように同じ言葉を返してしまった。


「そう、過去へと繋がるんだ。けれど本当にランダムでどこに繋がるかなんて分からないからね。

 長い歴史の中で人類が電波なんてものを扱い出しのは極々最近のことだから、殆どの場合が電子機器のない時代へと無意味に電波を送るだけになるのさ」


 それは確かにガラクタのようなものだなと納得する。


「王来王家君はいつもこういう商品ばかり見ているけれど、もしよかったら持って行くかい?」

「えっ、いいんですか?」

「このまま店にあっても相当な物好きじゃないと買わないだろからね。3000でいいよ」

「……お金取るんですね」


 この流れは無料なのではないだろうか。

 というか3000とは円なのだろうかドルなのだろうか。


「一応は商品だからね。3000も本来ならアメリカ・ドルだけれど、特別に円でいいよ」


 ドルから円というのはいうなれば0が2つなくなると言うことで、なかなか大胆な値引き方だった。

 お得に感じた僕は、ほんの少しくらいは迷ったけれど、結局という言葉が付かないほどにあっさりと購入を決めた。

 正直この骨董品屋に売っているものが本当に不思議な力を持っているのかは分からないし、確かめる方法は買って試すしかないので、僕はこの過去へと繋がるというガラパゴス携帯電話の購入をもっと迷うべきなのかも知れない。

 けれどここにある商品に不思議な力があるにせよないにせよ、僕はこの骨董品屋の主人の言葉を本当なのだと信じている。

 いや、信じたいと思っている。

 先ほどの説明では使って過去へと繋がらなくとも仕方が無いような、まるで証明から逃げるみたいな解説がされていたけれど、仮にこのガラパゴス携帯電話がどこへも繋がらなくとも、僕はきっと電波が時代を間違えたのだと信じるだろう。

 勿論主人の言葉を信じたいと思う感情もあるけれど、先ほど提示された3000円は、僕にとっては失っても痛手ではないと思える最高限度の金額だったのだ。

 そんな様々な理由が重なってなのか、僕は即決でガラパゴス携帯電話を購入し、キャンドルスタンドと一緒の紙袋に入れて貰って、3000円を追加した2万3000円をキャッシュトレイに置いた。

 キャンドルスタンドを買ったせいで結構な金額を使ってしまったが、さて綺羅の誕生日プレゼントは何を買ったものだろうか。

 なんて思考を巡らせながら扉を開けて一歩外へ出たとき、主人から声が掛かった。


「忘れ物だ」


 声に振り返ると目の前に何かが迫ってきていて慌ててキャッチしてみれば、それは琥珀色のブロックキャンドル、アンバーグリスの蝋燭だった。


「あげるよ。在庫処分にお金を払ってくれたお礼だ」

「でもこれって……」

「転売はするなよ。好きな女の子にでも渡せばいい」

「えっあの、ありが……」


 既に耳にイヤホンを填めて本を読み始めてしまった主人にお礼を言おうとしたが、ポルターガイストでも出たみたいに超自然的に勢いよく扉が閉まってしまって、感謝の言葉は喉に引っかかってしまったように口から出ることはなかった。

 もう一度店の中に入るのもなにか違うなと思った僕は、心の中でしっかりとお礼を言ってから、アンバーグリスのキャンドルブロックを紙袋に入れて歩き出したのだが、数歩目かで違和感に気づいた。


「綺羅がアロマキャンドルを好きなこと、知ってるみたいな言葉だったな……」


 やはり不思議な主人だなと思い骨董品屋を振り返った僕は、何もない裏路地が続くだけの光景を見てああやはりなと、家に帰ってからガラパゴス携帯電話を使うのが楽しみになったのだった。


「ねえ、アイスは?」


 帰宅後に飼い主を待つ仔猫のように玄関で僕ではなくアイスを待っていた綺羅に、紙袋を睨まれながらにそう指摘され、僕は帰りが遅くなったことも含めた謝罪のため、既に日も暮れてしまっている時間帯にもう一度アイスを買いに家を出ることになってしまった。

 

 




 七月三十日。

 今日は綺羅の誕生日だ。

 僕が七月の三十一日生まれで、生まれた時間が数時間しかズレていない僕と綺羅は、夜には毎年恒例で互いの家族も一緒に誕生日を祝うのだ。

 朝昼に綺羅の好きな植物園や水族館、果物狩りへと出かけ終えた僕は疲れていたが、今年は僕の家で行われることとなった誕生日会は綺羅の家と違って料理は全て出前に依存するので、去年のように気を遣って綺羅のお母さんの料理を手伝おうとしなくて良いから楽だった。

 僕と僕の両親と、母子家庭である綺羅とその母親とでテーブルを囲う。

 当然お誕生日席には綺羅と僕が、少し窮屈ながらも並んで座っている。


「誕生日おめでとう、綺羅」

「うん、ありがと」


 少しだけ頬を赤らめて、親に見られているからなのか照れながらに僕から誕生日プレゼントの入った紙袋を受け取った綺羅は、毎年のことながら変わらずに、我慢の出来ない子供のように直ぐに紙袋を開けてプレゼントを取り出した。


「これ、アロマキャンドル?」

「ああ。アンバーグリスってやつだけど、前に一度でいいから使ってみたいって言ってただろ」


 琥珀色のそれを「綺麗で……いい匂い」と呟きながら見回して、けれど思い出したと言う風に僕を見つめた。


「だけどこれ……すっごく高い」

「えぇと、まあ……たまに行く骨董品屋で、たまたま見つけたんだよ」


 別に嘘は言っていないが、貰ったというのもなんだか格好が付かないので詳しくは話さないことにした。


「ありがと……嬉しい」

「ん。まあ、喜んでくれてよかった」


 ブロックキャンドルを抱きしめるようにして微かに頬をほころばせた綺羅は、表現は控えめながらもいたくプレゼントを気に入ってくれたらしいことが伝わってきた。


「あっ、零時になったね」

「僕も誕生日か」


 明日、いや今日は朝からこのメンバーで温泉やら個展やらに行くので、例年通り早起きが苦手な僕と綺羅は車の中で寝てしまい、また揃った寝顔の写真がアルバムに追加されるのだろう。

 今日、というか誕生日といえば、綺羅からのプレゼントは何だろうか。

 綺羅がくれるものは毎年変わっているし、そもそもが相手が喜ぶものを考えてプレゼントを選ぶような子ではない。

 自分があげたいと思ったものをあげたい時にあげる子なので、誕生日だからといってそれが変わる訳ではないのだ。

 毎日のように貰うアロマキャンドルがプレゼントのようなものだし。

 それでも去年のプレゼントは大量のハーバリウムとライトで僕の部屋を綺羅の自室のように飾り付けるという例年とは少し変わったものだった。

 僕が集めている骨董品は部屋の外に追いやられていたし二つほど壊されていたけれど。

 壁に掛けられた時計を見ながらに今日起こるであろう事を想像していると、本当に意識の外から唐突に、脈絡なんて何もなく。

 唇に軽く、何か柔らかいものが触れた感触がした。


「えっ、綺羅……」


 両親も綺羅の母親も目を見張って、綺羅の行動に驚いて「あらまあ」だとか「……大胆ね」なんて言葉を呆然と開けた口から漏らしている。

 僕も同様に不意打ち過ぎるキスに動揺を超えて固まってしまって、肩がくっつくほどの近距離に座る綺羅を見つめた。


「んっ……誕生日、プレゼント」


 キスは初めてではなかった。

 ファーストキスなんてものは小さい頃にはもう互いに交換してしまったし、僕たちの間ではアメリカ人みたいに挨拶のついでくらいには気軽に交わせるものだったからだ。

 けれど親の前では羞恥心が強くてしたことはなかった。

 まだ誕生日を迎えて1分も経たないうちに貰ったプレゼントは、相当に恥ずかしかったのか赤められた顔を隠すように俯いてしまっている綺羅の姿と相まって、今までにないくらい特別な贈り物に感じられて、僕は感情が酔ってしまったように意識がクラクラとした。


「不満……?」

「いや、嬉しすぎて死にそう」

「ふうん……よかった」


 なんだかぎこちないやりとりを交わして、今すぐ綺羅を連れてニマニマと見つめてくる親たちの視線から逃れたいと思ったが、これから誕生日ケーキが出てくるのでそんなわけにも行かなかった。

 互いに夜行性ばりに夜には強いので夜中の誕生日会でもまったく眠くはない僕と綺羅は、これも例年通りの、誕生日プレートが二つ付いたケーキを出され、一緒に蝋燭の火を吹き消した。


「これで2人とも18歳ね。あら、ならもう結婚もできちゃうじゃない」

「綺羅ちゃんが良ければうちの皇威こういを貰ってくれていいぞ?」


 ふざけだした両親と、終始ニコニコしていてこんな日にもネックレスが家の合鍵というよく分からないファッションセンスをしている綺羅の母親の視線を浴びて、答えたくもない問いを無視しようとしたのだが。


「大丈夫。コウ君がわたしのこと貰うから」

「綺羅、なにいってるんだ……」

「いらない?」

「いやいるけどさ、欲しいけどもさ」


 なんだか釈然としない僕に、綺羅はその魚みたいにぱっちりと開いている瞳を向けながら小首を傾げた。


「ずっと家で待ってろって言われた。僕が帰るまで、とか」


 告白まがいの言葉を親に暴露された思春期の青年の心はお察しの通りで、この時は少しだけ綺羅の純粋さに悪意を感じた。

 その後も色々とイジられたけれど、やはりこれも例年通りで、楽しい誕生日会だった。


「ああ、忘れるところだった」


 寝間着に着替えた僕は同じくパジャマ姿の綺羅の、風呂上がりは自然乾燥させるのが好きな為に濡れたままの髪と、その先にあるサイドテーブルに置かれたあのガラパゴス携帯電話を見て、あの日から寝る前のルーティーンのようなものになっているメールの送信を思い出した。

 過去、とだけ書かれた送信先に昨日と同じメッセージを貼り付けて、今日も僕はどこかへとそれを送信する。

 本当に繋がっているのかも分からないし、仮に電波の届く時代に届いたとしても場所だって指定できないのだから日本語が通じるのかも分からない。

 けれども一日の最後に何度かボタンを押すだけの作業は毎朝ゲームアプリのログインボーナスを貰うのと一緒で、なんとなくで続けられて、それが恒例化できてしまう程度の単純なものだ。

 明日には返信が来ているかも知れないと思うことは無くなってきてるけど、いつか来たらいいなと思う程度の願いは残っている。

 あと数時間で母が起こしに来てしまうからと、僕は綺羅の隣に寝転がった。

 一緒に使う大きめの枕は少し湿っていて、もう慣れたがドライヤーくらい使ったらいいのにと思いながら、僕は微睡みの中に目を閉じた。

 

 




 自分と同じで朝が弱いとも今起きたとも思えないほどにぱっちりと開いた双眸に、少しだけ早く起きられて自然乾燥でふわふわとしている綺羅の髪をイジっていた僕は肩を震るわせるくらいには驚いた。

 互いに意識は朦朧としたままで、母親の声でようやくベッドから抜け出てパジャマから外出服に着替えていた時、僕はなんとなしにガラパゴス携帯電話を手に取って開けてみた。


「あっ……」


 諦めなんてものよりもそもそもが期待していなかった僕にとっては本当に意外でしかなくて、まだ夢見心地ではないのかと、あろうとなかろうと自分の受験番号を見直す中学生のように何度も新着のメッセージがありますの文字を読み直していた。


「どうしたの?」

「……なんでもない」


 今返信するのははばかられた僕は、さっさと服を着てから気になって仕方が無さそうだからとガラパゴス携帯電話を部屋に置いていくことにした。

 けれど結局置いていった携帯電話の事が気になってしまって、その日は初めて車の中で寝ることがなかった。

 綺羅はもう寝ていて親は僕が寝るのを待っているかのようにカメラを持っていたので仕方なく空寝をしたけれど、新着のメッセージがありますの文字が睡魔を封殺しているようで眠気は皆無だった。

 それでも綺羅や家族と何かしている間にガラパゴス携帯電話のことは頭から離れていき、僕はその日部屋に戻るまで新着のメッセージのことを忘れてしまうことが出来た。

 綺羅にあの骨董品屋のことを話そうかと迷ったが、取り敢えず自分だけで確認してみようと決めた僕は綺羅がお風呂に入っている間に意を決してメールを見た。


 件名:疑心暗鬼

 『未来から送ってるって本当ですか?』


 ごもっともな返信だった。

 というかよくメールを返してくれたものだ。

 割と最近の時代に繋がってしまったのだろうか。

 僕が送った内容は。


 『未来から送っています。証拠の写真です。』


 というもので、スカイツリーやら新国立競技場などの写真を添付しておいただけだった。

 これでよく返信など出来たものだ。

 僕であったなら一笑に付していただろう。

 よく考えれば今までだって実は送信できていて、怪しさしかなくて返信されなかっただけということもあり得たのだ。

 この返信してくれた誰かには感謝をしなければなるまい。

 僕は早速返信のボタンを押して、カチカチとボタンを打つのにまだ慣れていなくて打ち難かったが、本当に過去なのかを確かめるために返すメールを打ち込んだ。


 件名:本当です。

 『今は西暦何年ですか? こちらからは分からないの教えてください。未来から送っているという証拠は、言ってくれれば何処でも、未来の写真を送ります。こちらは西暦2020年です。』


 これでいいかと送信して、明日になれば返信が来ているだろうと思ったけれど、前に一度だけ返信してみたら直ぐに既読が付きLINEが帰ってきた瓦川原のように、瞬時に携帯電話のヴァイブレーション機能が作動した。


 件名:2001年です

 『新宿とか原宿とか、それと未来にしかないものの写真をください』


 僕は直ぐに新宿と原宿の今の写真をネットで探してきてスクリーンショットしてからガラパゴス携帯電話に送り、ついでにスマートフォンや薄型テレビを撮って軽く説明文を付けてから送った。

 返信はまた直ぐに来て。


 件名:過去より(まだ少し疑いますけど)

 『取り敢えずは信じます。写真綺麗ですね。あとそれが未来の携帯って本当ですか? 全然違いますね。いつ出るんでしょうか? あとテレビが壁に掛かってるのにも驚きました。看板に書いてあったタピオカって何ですか?』


 件名:回答。

 『スマートフォンは暫く出ませんね。でも今のうちにappleの株を買って置いた方が良いかもしれません。タピオカは食べ物というか飲み物というか、2001年よりも昔に一度流行ったはずです。2008年にもう一回ブームが来ますよ。』


 そのメールを打ち終わった直後に綺羅が階段を上がってくる音が聞こえたので、僕は急いで新たなメールを打った。


 件名:これが最後です。

 『名前を聞いてもいいですか?』


 送信ボタンを押したら直ぐにたたんでソファのクッションへと放り投げ、丁度そのとき扉が開かれて、水色の水玉パジャマを肌に張り付かせた濡れ髪の綺羅が入ってきた。


「ウィジャボードしよ?」


 両手に蝋燭とウィジャ盤を持ってきた綺羅が、恐らくクラスメートの友達は誰もやっていないであろう遊びを提案してきたので、僕はまたかといつもの茶番に付き合うことになった。

 部屋にあるガラスのトレーに置かれているモーガン・ダラーを使ってやるこっくりさんみたいな呪(まじな)いなのだが、これが霊とかは一切を無視して勝手にコインを動かしてLoveやらFavoriteやらと以外にも口下手でいつもは言えない感情を、綺羅はこのフラクトゥール(亀甲文字)の英語で書かれたウィジャボードに示してくれるのだ。

 僕としてはとても嬉しいのだが、なんとも気恥ずかしく互いに顔を見られなくなるゲームなのであまり好きではない。

 自分で愛の言葉を作るためにコインを文字のもとまで持って行くのはいっそ本当に幽霊が僕の指を動かしてくれればと思うほどに羞恥心の掛かるものなのだ。

 けれど綺羅はこのゲームをたいそうお気に召しているようなので、今日のようにこうして持ってくることがあるから拒否が出来なかった。

 その夜はアロマキャンドルの揺らめく灯りとバイオレットの香りに包まれながら、2時くらいまで文字の上で愛を囁きあうことになった。

 綺羅以外の女の子に興味がなかったのは、多分この日が最後だったのだろう。

 

 




 件名:良いですよ

 『八月一日誕生です』


 亭午になってそのメールを見たときには、誕生日を聴いたわけではないのになと首を傾げたものだ。


 件名:読み間違えかな?

 『誕生日じゃないですよ。名前です』


 なんて送ったら。


 件名:ふりがな忘れちゃいました

 『それが名前なんです。ほづみ うまれって読みます』


 八月一日ほづみ誕生うまれ。綺羅と同じで、苗字と合わさって成立するようなキラキラネームだ。


 件名:珍しい苗字と名前ですね。

 『僕は王来王家皇威(おくおか・こうい)です。』


 件名:そちらに言われたくないです

 『自分よりおかしな名前を初めて見ました。なんですかその尊大過ぎる名前は。苗字とかおうらいおうけって読んじゃいました』


 件名:よくそうやって間違われます。

 『出席をとる先生はよくそう間違えます。』


 件名:もしや同い年?

 『学生なんですか? 私は高校生です』


 件名:同じく。

 『高校の3年です。』


 件名:わたしが年下ですね

 『2年生です』


 なんて他愛もない会話が続き、次第に件名も面倒になったのか互いに無くなって、綺羅のお母さんに昼食に呼ばれるまでメールをし続けていた。

 その後も過去の原宿の写真などを送って貰って、確かに町並みが古いと感じた。

 それと今と比べると写真の画素数が著しく低かった。

 そうやって本当に過去にいる人と繋がっているのだと実感を得ると、初めてスマホを貰ってその機能に驚いていたときのように、なんだか少しだけ未来にいるような気分にさせられた。

 一日に数回ほどメールを送り合う。時間は不定期で、けれど夜が多かった。

 過去とか未来とかはあまり関係なく、ただの日常会話をすることの方が多かったけれど、偶に僕の方に未来の様子などの質問が来ることがあったりした。

 そうして、僕とうまれは少しずつ仲良くなっていったのだろう。

 そんな関係が一週間そこそこ続いて、僕はふと、彼女とは電子上だけでしか付き合いがないことに、ようやく理解が回った。

 自分があんなにも嫌悪していたインターネット上での繋がりを、こんなにも簡単に、自分でも気付かぬ間にやっていたということが、僕には少しだけ怖かった。

 インターネット上の繋がりと言えばと、思考を切り替えたかったのか、僕は瓦川原のことを思い出した。

 噂をすればではないけれど、そう考えた直後に瓦川原からLINEにメッセージが来たことが画面の上に表示される。

 僕は本当になんとなく、普段からすれば気の迷いとでもいう風にLINEを開き、瓦川原からのメッセージを読んでみる。


 『一生のお願いm(_ _)m』『……愚痴を聞いて』。その後涙を流した不思議の国のアリスみたいな少女のスタンプが送られてきて、今度はこんなにも早く僕がLINEを見たからなのか『うそでしょ……既読付いた』と驚愕の意を表してきた。

 またもなんとなく、それと夏休みだったこともあって、どうせたいしたことではないだろうなと思いながらも『分かった』と送ってやる。

 やったーとか喜びを表すスタンプが3つほど送られて、さっさと愚痴を打てとキーパッドに打っていたときに、『出来ればカフェとかで?』と場所指定が入った。

 了承してしまった手前、断るわけにも行かない。

 仕方ないかと、僕は朝起きてからずっとそこにいたリビングのソファから立ち上がった。

 身支度を済ませて『カフェはお前の奢りな』と打って、送られてきた近場のカフェへと向かった。

 

 




「聞いてよ……誰にも言えないくらいの恥話だけど聞いてよ」

「分かった分かった。聞くからその涙を拭け。僕が泣かしているみたいで微かだが心が痛い」「なんで微かなのよ……」


 それは実際に僕が泣かしている訳ではないからだ。

 マスターの趣味が良いのか可愛い制服のウェイトレスが来て注文を聞いてきたので、僕は「この店で一番高いものを二つ。あとコーヒーとアイスティ」と頼んでおく。


「ちょっ! なんでアンタってそんなに容赦ないのよ!? 傷ついてる女の子に追い打ち掛けるようにたかるんじゃないわよ! しかもなんで二つ!?」

「お前の分だよ」

「うっ、嬉しいけどそういう優しさいらないから! それにそれわたしのお金じゃん! あとなんで私が好きな飲み物知ってるの?!」

「喚くな迷惑だろ。飲み物は前に行った映画の後によったスタバでお前が頼んでたのを覚えてたんだよ」


 ウェイトレスも困惑してしまっているようだし、他の客の視線が向けられているのを感じる。あまり注目されるのが好きではない僕は、取り敢えず瓦川原を落ち着かせた。


「で、何があったんだ」


 直ぐに運ばれてきたコーヒーを飲みながら、ガラスのコップを持つ気力もないのかストローに顔を近づけてコップをテーブルに置いたまま吸っている、いつもの綺羅みたいな飲み方をしている瓦川原に訪ねた。


「夏休み前に言ったじゃん……デートがあるって」

「ああ、そんなこと言ってたな。ネットで知り合った奴とのだろ」

「そう……そうなの……うっ、うぅ……」


 なんかまた泣き出してしまった。そんなに悲しいことでもあったのだろうか。ドタキャンされたとかだろうか。

 けれど真実は僕の予想なんか的外れも良いところで。


「あれ、実はネナベだったのよ。会ったらすっごい謝られた……」

「なんだネナベって?」

「女の人がネットで男のふりすることをそう言うの。まああんまり使われないし、私も初めて使ったわよこんな言葉……。はぁ、なんでこんなに運がないのかなぁ私……」


 曰く、待ち合わせ場所に来たのは普通のOLさんだったという。会社でのストレス発散がどうしてかネットで男性のフリをすることで、騙してしまって申し訳ないと上司に怒られる平社員よろしくペコペコと頭を下げられたらしい。


「へぇ、まぁ、ドンマイ」

「軽い! 励ましの言葉が軽いわよ! もっと優しい言葉は思いつかないわけ!?」

「思いついたとしてもお前に言ってどうすんだよ。そんなんで機嫌治るのか?」

「治るわよ! てか治るの! だからアンタに愚痴ってんの! もうなんでこんなに鈍感なのこいつ! キラキラちゃんズルい! 私のこともちょっとで良いからかまってよぉっ……!」


 癇癪を起こして嘆き喚いている瓦川原の姿があまりにも憐憫を誘うものだったので、少しくらいはメンタルケアでもしてあげようと思ったところ、どうやら注文した店で一番高い物がきたようで、2500円もするメロンや苺がのった豪勢なパンケーキと同じ値段の巨大なパフェがテーブルに置かれた。


「えっ、なにこの値段……」


 瓦川原は一緒に来た伝票を見て絶句してしまい、財布の中を確認してから目を白くして肩を落とし、なんだか灰にでもなってしまいそうな雰囲気を漂わせ始めていた。


「樋口一葉……こんなところで樋口一葉を使うなんて……」

「食わないのか。ならそこに刺さってるトッポよこせ」

「食べるわよ! もうあらゆる事実から目を背けて食べるわよ!」


 パフェの底まで届く長いスプーンを持って「これなんカロリーなんだろ……」などと不安を漏らしながらも、瓦川原は大量のアイスクリームと生クリームを勢いよく掻き込んでいった。

 そうして互いに生クリームの取り過ぎて胃の中が気持ち悪くなるまでになってようやく食べ終え、僕は店員に「お前マジかよ……」みたいな目で見られながら涙目の瓦川原に5千980円を会計させた。


「じゃ、今度は学校でな」

「ちょっ えっ、嘘でしょ!? ちょっと待ってよ! 女の子に五千円出させといてこれで終わりなの!? もっとちゃんと慰めてよ!? 具体的に言うとデートしてよ!」

「あんな重いスイーツ食った後だから気持ちが悪い。帰る」

「頼んだのアンタでしょうが! 私の一葉さん返せぇー!」


 まだ昼間だというのにさっさと帰路につく僕は、涙のせいで濁った悲痛すぎる喚き声をバックにしながらも、多少心が痛んだが本当に胃が気持ち悪かったので早々に帰宅するのだった。

 しかし流石にこのままだと可哀想過ぎるので、瓦川原のメールにはこまめに返事をしてやることにしよう。明日から。

 

 




 瓦川原の懐に高校生には割と強烈な痛手を与えてから数日後のこと、僕は一日のうちの1時間は必ず使うようになっていたうまれとのメールのやりとりの最中、瓦川原との会話を思い出していた。


 ――あれ、実はネナベだったのよ――

 ――女の人がネットで男のふりすることをそう言うの――


 瓦川原の事例のように、メールのやりとりだけでは、相手がどんな姿なのかなんて分からない。たとえ写真を送られたとしても、それが本人のものだという確証を得ることは難しい。

 相手の顔を見ないインターネットは、良くも悪くも嘘を言いやすい環境だ。

 理想の自分を演じることだって出来るのだし、瓦川原の言っていた人のようにそれを娯楽としている人もいる。

 考えると、不安ではあった。

 今自分が文章を交換し合っている相手は、果たして自分が思うとおりの人なのだろうか。

 そもそもが、女性という前提すら違っているのかも知れない。

 そうだ。

 実は性別が違う可能性だってある。

 瓦川原の件とは反対に、女の子のフリをしているということだってあり得るのだ。

 実際に女子高生だとも明言されていない。

 貰ったのは高校二年生という情報だけなのだ。

 僕はうまれが本当に女の子なのか疑心暗鬼になってしまって、けれど直接『本当に女の子だよね?』などというのも気が引けて、あの時代ではまず誤魔化しが聞かず、尚且つ言ってもあまり不自然ではない方法を試してみることにした。

 そのメールは直ぐに打ち終わったが、送信ボタンを押すだけの事がなかなか出来ず、あまりに躊躇しすぎていたからなのかうまれから『どうしたの?』というメールを催促するようなメールが送られてきた。

 そうして僕はようやく、最後に二度ほど迷ってからではあったけれど、それを送信した。


 『電話してもいいですか?』


 そのたった1行を送るのに、随分と時間が掛かってしまった。

 けれどそれと反比例するように、送ったことを後悔したり帰ってくる返事の内容にドギマギしたりする前に、携帯電話が震えた。


 『いいですよ』


 それは事前に返信の文章を打っていたのだろうかと思ってしまう程の早さで、僕はメールを何度か見直して、『いいよ』の返事の下に書かれている電話番号を徐にキーパットに入力する。

 通話は1コール目で始まり、けれど互いになんと声を発して良いのか分からなかったのか、何も聞こえてこない携帯電話に耳を当てているだけの時間が続いた。


『……皇威、君?』


 想像していたよりも、気の弱そうな声だった。

 彼女はもっと凜々しく、澄んだ声音をしていると、勝手に考えていた。


「えーと、王来王家皇威です……」

『うん。知ってる、かな?』


 少しおどけているような、淡い音の声を聞いて。八月一日誕生は確かに彼女であったのだという確証を持つ事が出来た。


『皇威君っていま、何してるの、かな』

「そりゃあ、君と電話をしている」

『…………』


 何故だろう。会話が途切れたと言うよりは、停まったように感じる。


『あはは……面白い人なんだね、皇威君って』

「いや、僕は聞かれたことを答えただけなんだが」

『いやいや、普通そこは会話を繋げようとするよ。せっかく私が頭を総動員してやっと出した話の振りなのに。皇威君って、友達いないでしょ』

「よく分かったな。けれど惜しいだけで正解じゃない。少ないだけで、1人はいるんだ。カフェで五千円くらい奢ってくれるような友達が」

『えっ……なにその友達、私も欲しい』


 綺羅とだってそこまで話さないのに、不思議とうまれとの会話は途切れることがなかった。

 そろそろ長くなりすぎたから切ろうかとも思っても、止め処なく思いついてしまう話に流されて切るタイミングを見失ってしまう。

 その日は4時間は話し続けてしまって、綺羅がアロマキャンドルをくれるついでに夕飯に招待するために僕の部屋に来なければ、寝るまで話していたんじゃないかと思う。

 翌日から殆どメールはしなくなり、僕とうまれは通話での会話ばかりするようになった。

 過去と未来というよく分からない電波の発信だからなのか通話料金が発生しないどころか1バイトも減らず電気しか使わないので、互いに時間なんて気にする必要がなかった。

 けれど昼間から話し続けるなんてことはなく、寝る前の1時間程度がうまれとの会話時間になっていた。


「うまれは、夏休み何してるんだ?」

『何してるって、もう終わってるけど?』

「えっ」


 昔は夏休みが終わるのが早かったのかとも考えたが、僕はうまれに確認してみる。


「今って、そっちは何月なんだ」

『九月の十八日だけど。そっちは違うの?』


 一月ひとつき。日にちも時間も同じなのに、月間だけがズレている。

 本当に、変におかしな所のある携帯電話だ。

 

 





「……ねえ、コウ君。最近、なにかあった?」


 成長しすぎた観葉植物に侵略されたようにフローリングの床に根が張っており天井には草が生えていて、ライトで下から光る色とりどりハーバリウムと火事にならないだろうかと心配になってしまうアロマキャンドルだらけの綺羅の部屋。

 そのベッドの上で、二人で肩をくっつけて膝に乗せたアイパットでスパイ映画を見ていたら、お色気シーンが流れ気まずくなったタイミングで、綺羅がそう切り出した。

 アロマキャンドルが虫除けになっているのかハエの一匹も見たことがないこの部屋は、何故かごく偶に思い出したように水をあげるだけの放りっぱなしでも勝手に身の回りの植物が育っていくという不思議パワーを持っている綺羅の力のたまもので、リラックス効果のあるものを詰め込みすぎて逆に落ち着きづらい内装になっている。

 そんな部屋にも慣れてしまっている僕だったのだが、今の綺羅の質問で、まるで慣れの一切がリセットされてしまったみたいに、部屋にあるものにばかり目をやってしまう。

 別に後ろめたいと思っているわけではないはずなのだ。

 過去へと繋がるガラパゴス携帯電話で、過去にいる女の子と話しているだけなのだから。それ自体に後ろめたさはない。

 しかしこの過去という部分が重要で、綺羅に話すにしてもそこをなんと説明したらいいのかが分からない。

 泳がせていた目が不意に彼女の瞳に捕まって、綺羅は僕の琥珀色の目を見つめていた。綺羅の目を見ていると、まるで自分の瞳を覗き込んでいるような気にさせられてしまう。

 このひずみやゆがみがないように丸い双眸の中では、虚飾が意味をなさい。偽りを纏うことが出来なくなる。

 どう言おうかと口を開いてから舌先が少し乾くくらいの時間が経って、ようやく発せたのは。


「……新しい、友達が出来た」


 なんて、お茶を濁したような言葉だった。それに友達と表していいかは絶妙に違っていそうな関係だったが、それ以外にうまれの存在を説明する言葉が浮かばなかったのだ。


「ふぅん……そっか」


 綺羅はまったくもって興味がないという風に呟いて、何も言わずに僕との肩の距離を詰め、映画の続きに関心を移してくれた。

 言葉にしなくとも、ただ感じてくれる。

 綺羅との関係には、あまり会話が必要ではない。

 沈黙が苦ではなく、互いに寡黙に接するくらいが丁度良い。

 綺羅はきっと、まだ僕が話したくはないと理解して押し黙ったのだろう。

 迷う必要なんてなかった。

 最近はうまれや瓦川原と関わって人間関係の煩わしさを受け入れてしまっていたから、綺羅の問いに変に緊張してしまったのだろう。

 やはり、綺羅は他の人間とは違う。

 綺羅といると、心から落ち着くことができる。

 いつもアロマキャンドルばかり作っているから、染み込んでしまった彼女のエッセンシャルオイルの匂も、気怠げな声音も、その愛らしい仕草も。全てが、僕を安心させる。

 会話なんて必要ない。

 ただ隣にいるだけで充分だと思わせてくれる存在感は、羽のように軽くて、太陽というよりは空気を読んで降ってきた雨のように優しい。


「なのにどうして…………僕は彼女に惹かれるんだろう」


 綺羅に聞こえるか聞こえないくらいの声で、そう呟いた。

 それは隠し事という罪悪感を誤魔化すための告白だったのかもしれない。

 八月一日誕生ほづみ うまれ

 彼女とは絆や関係という以前に、まだ会ってすらいないのに。

 会う事なんて絶対にないはずなのに。

 どうしてか僕は、彼女に逢いたくて仕方が無かった。

 逢わなければいけない気さえしていた。

 そしてそれは不思議と、綺羅のことが好きな感情とは、矛盾していない気がしたんだ。

 





 最初は学校でのことを話していたはずなのに、いつのまにか好きな本の話にすり替わっている。

 一見その2つに共通点が見いだせないようでいて、会話を思い返してみればその2つの間に幾つかの話があったことに気付く。

 そんな風に、十数分前とはまったく違う話題になってしまっているなんてことは、時の感覚も曖昧になるような会話ではよくあることだ。


「あれ、最初は何を話していたんだったか」

『あぁ、また脱線しちゃったね……。確か、私の時代はまだ屋上に入れるのか、だっけ?』

「だった気がする。しかし、そんな入れないの一言で終わるような話題でどうしてこの時間まで会話が続くんだ……」


 スマートフォンの画面をつければ3時59分と出ていて、そろそろ寝なくては9時までに起きられない可能性が出てくる。

 誰かに起こされない限りは永遠と寝ていられる綺羅はいつもボーとしているように見えてやりたいことは沢山あるので、1日を無駄にしたくはないと遅くとも10時には起こすようにお願いされているのだ。

 ついでに9時に起きる理由は、僕が目覚めてから1時間は経たないと真面な行動能力を発揮できないからだ。

 最近はいつもこうだ。寝よう切ろうとは思っているのに、話が弾みすぎてつい会話を長引かせてしまっている。


「うまれは、寝なくても平気なのか。ていうか、偶に騒がしいところから電話してるだろ。いまも、なんだかスクランブル交差点みたいな音が聞こえる」


 というよりは、やはり単純に騒がしいと言うべきか。

 確認したことはないが、1日の時間自体はずれていないはず。

 つまりうまれは真夜中だというのに、いった何処にいるのだろうか。


『あぁ、うん……ちょっとね」


 言いにくい事情なのだろう事は察するに容易かった僕は黙ったのだが、少しの逡巡の後にうまれの方から、ぎこちなく話してくれた。


『うちってさ、親同士仲悪いんだけど、普段は2人とも忙しいから険悪でもないんだ。でも偶に両親が揃って帰ってくるときがあって、なんだかね……いづらくって』


 どうしてそんな話を、顔も知らない相手にするのだろうか。

 いや、顔だってしらないからこそ、声だけの繋がりだからこそ、話せることもあるのだろうか。

 僕は何か声を掛けようと考えたが、言葉の空気が抜けたように、なにも浮かんでくることはなかった。

 どこかの繁華街で1人。ガードレールにでも腰掛けて、僕に電話をしているうまれを想像する。

 彼女が僕との会話を続ける理由は、少なからずその孤独な時間を感じないようにしているからなのだろう。


『ねえ、皇威君。皇威君の家は、どう? 仲良い? 兄妹とか、いる?』


 沈黙を気にしてか、うまれが明るめの口調で話を振ってきた。


「親の仲は良いよ。兄妹はいないけど、本当の妹みたいにずっと一緒にいる幼馴染みがいる」

『たまに話に出てくる、キラキラちゃん?』

「そうだな。その幼馴染みもおかしな名前なんだ。2001年にはまだないかもしれないけど、少し経つとキラキラネームっていうのが流行するんだ。まあうまれの名前も、充分にキラキラネームに入るんだが」

『えぇー……私みたいな名前の子が増えるとか、学校の先生とか名前呼ぶとき苦労しそうだね』


 その後も六時くらいまで話し込んでしまって、僕はもう綺羅を起こす時間までに起きられないだろうとそのまま寝ないことにした。

 もう幾本もの蝋燭を溶かしてきた跡が残る、溶けた蝋が歪に固まって良い味を出している白鯨のキャンドルスタンドを使い、綺羅から貰ったアロマキャンドルに火を付けて、香りを楽しむのではなく、なんとなく眠気覚ましに火を見つめた。

 けれどそれは不正解だったようで、エッセンシャルオイルのリラックス効果のある香りと小さな火の揺らめきが余計に睡魔を誘い込んでしまっていた。

 僕は早々に蝋燭の火を吹き消して、暇つぶし程度にやっているアプリゲームを起動して時間を潰していると、七時になったのでもう母が朝食の支度を終えただろうと一階へ下りた。

 しかしリビングにある三人家族にしては大きめのテーブルには朝食が置かれておらず、母がアルバムを広げて写真を眺めているところだった。


「母さん。おはよう」

「あら、もう皇威の起きる時間? 写真を入れるついでにちょっとだけ眺めようと思っただけだったのに、いつのまにか時間を忘れちゃったわね」


 見れば、アルバムの横には僕と綺羅を写した十数枚の写真が置かれていた。

 これからアルバムに入るであろうそれらは、色々な場所での写真から綺羅が僕にケーキをあーんしてくれているものやキスをした決定的瞬間まで――


「なんで撮れてるんだよ! いつのまにカメラを……!?」


 思春期特有の恥ずかしさから幼馴染みとのキスシーンなどアルバムに残されてはたまらないと写真を破り捨てようとするが、母は瞬時に写真を回収し僕の手から逃れ、アルバムに納めていってしまった。


「まあ、これは6歳の時の2人ね。皇威も綺羅ちゃんもまだちっちゃくて可愛いわ。寝ながら手なんか繋いじゃって。この時はまだ綺羅ちゃんのこと好き好きって言えてたわよね。今じゃもう恥ずかしがって言葉にしないけど」

「はいはい……」


 毎年必ず撮られる車の中での2人揃った寝顔写真のページに、今年は空眠の僕と例年通り爆睡している綺羅の写真が加えられる。

 写真を入れ終えると母は僕に見せようとページをめくっていき、生まれたばかりの病院での写真にまで遡った。


「雲母さんとは病室が一緒でね、退院も一緒だったわ。だから貴方と綺羅ちゃんも病院の頃から一緒にいたんだけど、まさか隣に引っ越してきてたのが雲母さんだったなんて思わなかったわ。まだ雲母さんのお母さんもいて、育児の悩みとか共有できて、お母さんとっても心強かったの」

「へえ。綺羅にも、祖母がいたのか」


 綺羅の家には仏壇もないから、てっきり最初から母親だけの家庭なのかと思っていた。

「綺羅ちゃんが生まれて直ぐに癌でね。とっても優しい人だったわ」


 母は少し寂しそうに言ってから、朝からこんな話もダメねと、「未来のお嫁さんの話をしてあげる」と綺羅を話題に変えてきた。


「綺羅ちゃんギリギリ未熟児じゃなかったんだけど、平均より体重も低めで生まれちゃってね。そのせいなのか他の子より成長が遅かったのよ。今だって身長は低いけど、幼稚園に入っても一言も話さない子だったのよ?」

「まあ、それはなんとなく覚えてるよ」


 自分には幼児健忘がないのか、実はなんとなくではなく、母のお腹の中にいたときから覚えている。

 綺羅との最初の記憶は、病院のシーツの上。

 そこまで鮮明に思い出すことが出来ず、風景は曖昧だが。

 けれど綺羅だけは、どんなに昔のことでも、目を閉じずとも思い返せる。

 本当に喋らない子供だった。

 泣きもしないし、笑うこともない。

 けれど一緒に黙々と積み木を積んでは互いに互いが作った塔を倒したり砂場で城を作っては互いの城を壊したりと、今思えばおかしな遊びをしてコミュニケーションをとっていた。

 幼稚園でクレヨンを使って大好きなお母さんかお父さんの似顔絵を描きましょうと言われたときだって、僕は綺羅の見たこともない笑顔を描いたし、綺羅は仏頂面な僕を描いた。

 きっと僕も綺羅も、〝大好き〟という言葉にだけ反応したのだろう。

 その日描いた綺羅の笑顔を実際に見るまで、随分と時間が掛かってしまったけれど。

 小学校二年生の時に親に内緒で交換したファーストキスのあと、綺羅はあの日描いた絵のように、はにかむように笑ってくれた。

 あの笑顔が、今でも欠片も薄れずに、僕の記憶に対流し続けている。

 笑顔と言われて真っ先に浮かぶのは、いつもあの日の綺羅のはにかみ笑いだ。


「そうだ。雲母さん、今日もお店が忙しくて帰って来れないんでしょ? なら朝食から綺羅ちゃんと一緒に食べたら?」


 母の提案に僕は頷き、Tシャツにジーパンという適当な服に着替えてからいつもより早く綺羅を起こしに行くことになった。


「この時間から起きるか分からないけど、呼んでくるよ」


 起きないなら背負って連れてきてしまえばいい。

 外にパジャマ姿の綺羅を出すことにはなるが、どうせ家は隣なのだ。

 誰も見はしないだろう。

 予想通り起きなかった綺羅をおんぶしてあの植物に支配された綺羅の国から連れ出した。

 なんとか席に座らせて一緒に朝食を取り、母が「そろそろ綺羅ちゃんもお料理覚えないとね」などとからかってくるので鬱陶しそうな目で見て辞めさせ、昼はかき氷を作ったり昨日も遊んだ綺羅に家の庭に作った子供しか遊ばないような家庭用プールに二人して浸かったりと、いつもとあまり変わらない1日を過ごした。

 その日いつもと違ったのは、僕の携帯電話が、スマートフォンではなくガラパゴス携帯電話の方が、テーブルの上で震えてからだ。

 部屋のソファでは綺羅が寝ていて、隣でうとうとしていた僕は目を開き、ガラパゴス携帯電話を取った。

 当然、非通知などではなかった。

 連絡先なんて一件しか入っていないこの電話に掛けてくるのは1人しかいない。

 うまれだ。

 僕は寝ている幼馴染みの横で電話に出るかどうか迷った。

 けれど思い返してみると、今まで昼に通話したことはなかった。

 なんとなく、互いに夜の寝る前にだけ話すようになっていたのだ。

 そして僕からかけるときも、うまれからかけるときも、今まで互いに通話を拒否したことがなかった。

 だからそれをしてしまうと、時間という遠すぎる壁のあるこの関係が途切れてしまうような、そんな予感が僕を襲ったのだ。

 緊急事態なのかもしれない。

 はたまた、ただ昼にも話したくなっただけなのかもしれない。

 どちらでも構わないと、僕は通話ボタンを押した。


『もしもし、皇威君?』

「まだ昼だけど、どうしたんだ」


 声のトーンから、何か事件でもあった訳ではないと察し、僕は今回は早めに通話を切ろうと考えながら話し掛けた。


「えっとね。実はさ、パパとママが喧嘩しちゃって……私なんで喧嘩するのって、怒って家を出てきちゃったんだ」


 前言撤回だ。

 緊急事態でも事件でもないけれど、何事かはあったようだ。

 そもそも電話越しの声で人の感情を察するなんていう高等技術を、この僕が持ち合わせているはずもなかった。


『皇威君、今って暇? もし他にすることがなかったらで良いんだけどさ、ちょっとだけ、私と歓談でもしてくれないかな』


 どこかおどけた口調で、笑い事のように話すうまれの声は、僕には酷く悲しい声音に聞こえて、どうしてか胸が痛くなった。


「いいけど、そんなことでいいのか」

『それでいいの。それにさ、皇威君に何かして貰おうにも、君は未来にいるんだから。助けなんて、求められないでしょ?』


 うまれが言ったのは考える必要もないくらい当然で、否定しようのない事実でしかなかった。 けれどその言葉は重く、僕の胸の中に落ちていった。

 現実に引き戻されたような思いだった。

 僕はどうしたって、うまれに逢うことは出来ない。

 時間というものは、壁でも溝でもないのだ。

 埋められるものでも、努力すればたどり着ける道でもない。

 進んでも戻っても、そこにたどり着くことは出来ない。

 僕と彼女では――仰ぎ見る空すら違うんだ。


『皇威君?』


 沈黙が長かったからか、うまれが不安げな声音で僕を呼んだ。


「そう、だったな……僕と君は、違う空の下にいるんだ」

『なにそれ……なんか、詩的な表現だね』


 そうだろうか。

 何処までも続く空は、けれど彼女のいる場所とは繋がっていない。

 そんな当然のことを、言葉にしただけだった。

 それに僕はいつから――

 

 ――彼女に逢いたいなんて、思い始めたのだろうか。

 




 

 八月一日誕生ほづみ うまれ

 何度頭の中で読み直しても、脳裏に描いた漢字通りに読めない。そんな名前だ。

 しかもそんな名前をしているくせに、実際の誕生日は九月一日なのだから。

 名付けた親には一ヶ月ズレていると言ってやりたくなる。

 僕が八月一日誕生について知っていることは少ない。

 理解していることはもっと少ないどころか、1つとしてない。

 明確に分かるのは、電話越しに聞く声くらいのものだろう。

 そんな関係だから、何が真実でなにが嘘かも分からない。

 だから彼女の姿だって、僕には想像することくらいしか出来ない。

 きっと彼女は肩下まである艶やかな黒髪で、あの少しおどけた話し方に似合った、少し垂れ目な、綺麗な瞳をしているのだろう。


『タイムマシンって、まだそっちでは出来てないの?』

「たった十数年でそこまでのパラダイムシフトは起こってないな。せいぜい宇宙旅行が始まったくらいだ」

『えっ、凄い』

「まあ旅行と言って良いのか分からないような短時間で、地球を見るくらいだけどさ。Virgin Galacticって会社が今年にやったよ。一部の金持ちは空の上の宙にいったさ」

『へぇ、やっぱり未来なんだね……あれ? でも皇威君が持ってる携帯電話は私と繋がってるよね? 過去に電話することは出来るのに、行くのは無理なの?』


 ああそうかと、僕はうまれが急にタイムマシンなどと言い出した理由を理解した。

 うまれの中での未来は、過去に繋がる携帯電話は僕が持てるほど当たり前にあるものという認識になっているのだろう。

 ここで下手な嘘をついても意味がないかと、僕はあの骨董品屋のことを話して聞かせた。


「そういうわけで、これは未来の技術でも何でもないんだよ。言うなればオーパーツ的なものだね」

『未来の骨董品屋って凄いね……』

「いや、あそこが特別なんだ。きっとこの世界には魔法だってあるんだろう。そう信じさせてくれるような、良い場所だよ」

『そっか……そこで皇威君はその過去に繋がる携帯電話を手に入れて、私と繋がってるんだね』

「まあスーパーナチュラルな事だとは思うけど。そういうことだろ」


 こんな話をよく信じるものだなと思いながらも、きっと綺羅のように純粋な子なのだろうと思えて、また僕の中で彼女のイメージが洗練されていく。

 瓦川原のように幻想と現実の違いに苦しむことも、逢うことの出来ない僕たちには起きえない。

 だから好きなだけ、彼女を僕の頭の中では完璧な美少女にしてしまおう。


『ねえ、皇威君。君ってさ、私ってどんな姿をしていると思ってる?』

「急になんだ。そういうのは、互いに心の中だけにとどめておいた方が良いんじゃないか」


 まさに今考えていたことを話題にされ、思考が読まれてしまったみたいでヒヤヒヤとした。


『私たちって、声だけしか知らないでしょ? あとは話し方とか。人ってそれだけで、どこまで他人を感じられるものなのかなって』

「なら、答えは全くもって分からないだ」

『そう言わないで。ちょっと考えてみてよ。ね?』


 考えるまでもなく、とっくに君の姿を思い描いている。

 なんて言えなくて、僕はさも今考えたかのように時間をおいて、空想の中のうまれの容姿を言葉にしようと思ったら。

 先に、うまれの方から話し始めてきた。


『きっと君はね、ちょと暗めの髪の毛で、青っぽい黒髪をしてるのかな。背は平均より少し高くて、運動は出来そうだけどあんまり筋肉はないの。目つきは良い方じゃなくて、でも目力は凄く強いから、ちょっと怖そうかな。あと瞳の色は琥珀色で、その中に時間を閉じ込めてしまいそうな、そんな色をしてるんだろうなって……私は勝手に想像してる』


 言われながらに、僕は部屋にある電源の付いていないテレビに反射している自分を見る。

 これがまったく、うまれの言うとおりの姿をしていたから、驚愕に瞳孔が広がったのが自分でも分かった。


「……なんでそんなに詳細に分かるんだ」

『うーん、乙女の力、かな?』

「嘘つけ。それはもう超能力だ」

『うん、嘘だよ? 本当は前に送られてきた写真の端に、君が映ってたんだ』


 綺羅から貰った写真も幾つか送っていたので、その中に自分が映り込んでしまたものもあったのだろう。

 しかしうまれは僕の姿を知っていて、自分だけは彼女の姿を知らないのは不公平に思えた。


『私ね、皇威君の姿を想像するのが楽しかったの。きっとこんな人なんだろうなって考えて、でも現実はそうじゃないんだろうなとも同時に思ってたから。だから何度も皇威君がくれた写真を見直す中で、これが君なんじゃないかなっていう人が写真に写ってたときは、それを確認したくて仕方なくなっちゃったんだよ』


 どうして相手の容姿を想像するだなんて話をしたのか、その本当の理由が分かる。

 回りくどかったが、うまれはたまたま写真に写っていた人物が僕なのか、それを確かめたかったんだ。


『君が私の想像通りの人でビックリしたな。この写真に写ってるのが本当に皇威君だって分かって、なんか嬉しいや』


 現実と幻想は違う。

 僕が空想したうまれと、現実のうまれはまったく異なっているのだと、そう思っていた。

 けれどうまれが空想していた僕は、どうやら偶然にも想像通りだったようで、もしかすれば僕の考えるうまれの姿もそうなのではないかと、ほんの少しばかり期待してしまっている。


「……きっと君は、肩下まである艶やかな黒髪で、そのどこかおどけた話し方に似合った、垂れ目気味な、綺麗な瞳をしている。背は平均よりも少し低い程度で、肢体は折れそうなくらい細いんだ」


 だから僕も、空想を口にした。

 しかし髪の色と目の形以外は綺羅の特徴を言ってしまっている自分に、やはり何処までもあの幼馴染みが理想であるらしいこと気付き苦笑してしまう。


「まあこれは空想と言うよりは、ただの理想だが」

『……ふぅん、そっか。そういう子が、皇威君のタイプの女の子かぁ』


 携帯電話から伝わってくるうまれの声は、少し残念がっているようで、どうやらまったく違う容姿を言ってしまったのだと分からせてくれた。


「で、実際はどんな感じなんだよ」

『まあさ、そういう事にしとこ? 私は今君が言ったとおりの、儚げで可憐な女の子だよ』

「いい加減だな」


 結局僕の方だけ、君の姿を知れないのか。


『私ね、好きだよ。皇威君のこと』

「はっ?」


 唐突すぎて、頭がそれを告白かもしれないと理解する前に間の抜けた声を出してしまった。


『だって、殆ど理想と同じだったんだもん。そりゃあ、好きになっても仕方ないよね? これで皇威君が髪の毛金色にしてくれたら、本当に私の理想だよ』

「……僕が染めたら、きっと不良みたいになるぞ」

『そんなことないって。きっとね、私が夢見る、我の強い王子様みたいになるよ』


 王子様だから、金髪なのは必須条件なのか。


 うまれは電話越しにも分かるくらい、緊張なのか少し震え気味の、水を含んでいるような声になっていて。僕は返す言葉に迷う。


『なんかさ、いつの間にかそうだったんだよね。君じゃないかなっていう写真を見てて、気付いたら、心がそうなっちゃってたの。好きってふうに、なってたんだよ』


 あっさりとした雰囲気で、けれど言葉は多い。

 そんな告白は、できるだけ軽くなるようにと考えられたものであるような気がした。


『性格はもう一押しだけど。自分の意思とか強そうだから、一応合格かな』

「なんだそれ……」


 この話を笑い事にしてしまいたくて、僕は声に笑みを含ませようとしたけれど、どうにも上手くいかなかった。


『……ダメかな? 逢ったこともない人に恋しちゃ、いけないのかな』


 うまれの問いは告白への答えを聞かれているようで、僕には答えを出すのが、言うことが恐ろしかった。

 言葉にすればそれを認めてしまうような気がしたから、どんな答えであれ、自分に聞かせたくはなかった。


『ねえ、皇威君は、どう思う? 逢ったことない人を好きになっちゃ、いけないと思う?』


 無言の時間を作るのも嫌で、僕は言うことを思いつく前に、ただ口を開けてみる。


「良いんじゃないか……別に」


 そうしたら、言葉は勝手に出てきてしまった。

 止めることが出来なくて、言いたくない言葉が、僕の中から這い出てくる。


「……でも、僕たちはそうじゃない。僕らは逢ったことがないんじゃなくて、逢えないんだ」


 距離じゃない。時間なんだ。

 いっそうまれが月にでもいてくれた方が、まだ会いに行くことだって出来た。

 けれど時は越えられない。

 届くのはただ、電波に乗った声だけだ。


『そうだね……皇威君みたいに言うとだけどさ、私は、君と繋がっていない空の下にいるから。逢いたくても、逢えないんだよね』


 その言葉を最後にして、恐らく互いにまったく同時に、僕たちは通話を切った。

 僕はガラパゴス携帯電話を放り出して、長い時間話していたせいで日が沈み、暗くなってしまっていた部屋の中でソファからベッドに移動した。

 どうして、あんな話になってしまったのだろう。

 最初は本当に、何でもない話をしていただけだったはずなのに。

 いつの間にか内容は流転していって、最後はただ、嫌な事実を確認し合った。

 部屋に光が入り込んだと思えば扉が開かれていて、見る必要もなく綺羅が来たのだと分かる。


「コウ君。ごはん、だよ……」


 言い終える前に僕の異常に気付いたのか、綺羅は静かにベッドに近づいてきた。

 そしてただ黙って、ベッドに膝立ちになって僕を抱きしめてくれる。


「なんだよ……」

「んっ。コウ君、泣いてるから。ハグ」


 言われて頬に触れてみるが、自分でも気付かぬ間に濡れているなんてことはなくて、目尻に涙すら溜まっていなかった。


「別に、泣いてないだろ……」

「泣いてるよ? コウ君あんまり顔に出さないけど、痛そうだから。よく分からないけど、悲しいんだよね。わたしバカだから相談とか乗れないけど、コウ君こうしてあげると落ち着くって言ってたから。だから、ハグしてあげてるの」


 相変わらず表情のない声で淡々と言う綺羅だったが、僕はそんな幼馴染みの優しさの方に涙が溢れてきて、その細い四肢に気を遣いながらも、思いっきり力を込めて抱き返した。


「そっか……ありがと、綺羅」

「んっ。どういたしまして」


 綺羅はなんでもないかのようにそう言って、手を引いて部屋から連れ出そうとしてくれる。


「早く行かないと、ご飯冷めちゃうよ。今日はね、わたしも手伝ったんだから、残したらコウ君のこと蹴る」


 調理自習の時も班員達に任せっぱなしで何もしなかった綺羅がなんの心境の変化だろうかと、大人しく綺羅に引っ張られた。


「ちゃんと食べるさ。食えるものを作ったならな」

「殆どコウ君のお母さんが作ったから大丈夫」

「それ言っちゃうのか……」


 ほんの僅かな会話で直ぐにいつもの調子に戻れて、やはり綺羅は自分にとっての特別なのだと再確認することが出来た。

 心が安らぐ。悩みなんて、彼女の前では最初からなかったかのように消え去ってしまう。

 ああだけれど、僕は不思議でならなかった。

 綺羅を思えば思うほどに、内に隠していたうまれへの好意が込み上がってきてしまうから。

 




 

 あの日から、うまれから電話は来ていない。

 僕の方も、いつもの時間になっても携帯電話に手が伸びなくなっていた。

 彼女もきっと気まずいというか、自分からは掛け難いのだろう。

 けれど互いに相手の方からきっかけを作ってくれることを望んでいるから、いつまで経っても電話を掛けられない。

 そんな硬直状態が続いているのだろう。

 それを理解していてもなお、僕はガラパゴス携帯電話を手に取ることが出来ないでいた。

 互いにもう、忘れた方が良いと考えていたからだ。

 そもそもが、過去の相手と通話をするなんて事がいけなかった。

 会えない相手に想いを募らせるなんて無意味なことだ。

 そう考えているのに、結局の所僕は、あの過去へと繋がるガラパゴス携帯電話を捨てられずにいる。

 部屋にいるとき不意に、寝る前にはいつも、彼女から電話が来るのではないかと考えてしまう、いや願ってしまっていると気付くのだ。


「うまれ……」


 今日、夏休みが終わる。九月一日だ。

 きっと今も何処かにいるうまれの、誕生日だった。

 けれどその日も何もなく、ただ過ぎていってしまう。


「綺羅はさ、好きな人に会えなかったら、どうする」


 明日からは学校だからといつか遊んで中途半端に余っていた手持ち花火を消化していた僕は、線香花火を2本同時に持って楽しんでいる綺羅にそんなことを訪ねてみた。


「分かんないや。わたしの場合、ずっと一緒だから」


 答えを聞いてから、自分を好きな子にする質問ではなかったなと反省した。


「でも、もしコウ君に会えなかったら……困るな」

「困るって、何にだよ」

「好きっていう心の居場所、かな。相手がいなかったら、それって迷子になっちゃいそうなんだもん」


 じっと線香花火がほとばしらせる火花を見つめながらに、恥ずかしげもなく言った綺羅は、次の瞬間落ちてしまった線香花火に「あっ」と口を開いてから、残念そうに肩を下げた。


「終わっちゃった」

「確か部屋にまだ一袋あったけど、やるか?」

「やる」


 花火に点火するための蝋燭にしているアロマキャンドルの炎に目を移しながらに2つ返事した綺羅に、僕はもう余りの消化ではなくなったなと思いながらも自室に花火を取りに行った。

 電気を付けずに部屋に入り、僕は薄暗い部屋のロッカーから黄色いビニール袋に入った花火を取り出して直ぐに綺羅の元まで戻ろうとしたが、第六感のようなものが働いたかのように、ベッドの脇に設置されたサイドテーブルの上に置かれた、ガラパゴス携帯電話を見た。

 感は正しく、震えだした携帯電話に僕は徐に手を伸ばし、開くとボタンを押して、電話に耳を押し当てた。


『ねえ、皇威君』


 分かっていたのに、僕は聞こえてきたうまれの声に固まってしまった。


『私ね、皇威君の話が、嘘だったらって思うんだ』


 いつになく愁嘆とした声は、街の喧騒と混じって聞こえてきていて。


『もしそうなら……もし君が、本当は未来にいなくて、私と同じ世界にいるなら……』


 自分が発した言葉にすら後悔の念を込めているような、抑えていられないからと、感情を吐き出しているようような――


『逢いに、きて…………私ね、痛くて、死んじゃいそうだよ……』


 酷く僕の感情を揺さぶる、そんな声だったんだ。

 僕が言葉を見つける前に通話は切れて、一度だけかけ直したけれど、何度コール音が鳴ってもうまれが出てくれることはなかった。


「何処に、いるんだよ。分からないだろ、そんなこと言われても……」


 たとえ同じ時間にいたとしても、場所さえ知らないのにいけるはずがない。

 うまれは、信じてくれているんだ。

 僕が未来にいることを。

 真実だと、受け入れている。

 だから絶対に無理だと理解していて、こんな電話をしたのだろう。

 何があったのかも分からないし、会いに行けないという以前に会いに行く必要もない。

 僕が行ったところで、何かが変わるわけでもないのだから。

 それでも、無意味に走りたい気分だった。

 心が、そういう風にさせられてしまったんだ。

 僕はガラパゴス携帯電話を投げ出して、駆け足で家を飛び出した。


「コウ君?」

「ちょっと用事が出来た」


 綺羅の前を駆けながらに、ランニングしてくるというくらい軽い口調でそういった。

 実際、これはただ走るだけになるのだから、ランニングというのも間違ってはいなかったのかも知れない。

 目的地は設定できず、足を動かした。

 たどり着く場所なんてない。

 目指すべき地点は遙か昔の何処かなんていう、目的には足りない目的で、走っている理由も分からずに走った。

 本当にどうして僕はこうも、何処かへと向かおうとしているのだろうか。

 走る人間には理由がある。

 ただの気分でも、純粋に速くなりたいでも、どうしてもたどり着きたい場所への焦がれでも。 本当にくだらないものかも知れなくても、必ず理由はあるものだ。

 ならその理由を失ってしまっている、生まれた頃から今日この時に走る理由がなくなってしまっている僕は、いったい何を根拠として走っているのだろうか。

 これは後から気付いたのだけれど、僕が知る限りで1つだけ、何処にも向かっていないからこそ、たどり着ける場所があった。

 もしかすれば無意識に、僕はここへ来たかったのかも知れないけど。

 いつの間にかいた裏路地に佇む、一件の骨董品屋。

 不用心にも鍵の掛かっていない扉を開けて、僕は店内に入った。

 夜間営業はしていないのか、年季の入ったカウンターにあの暮色髪の骨董品屋の主人はいなくて、むしろ好都合だったかと、僕はある商品の前で止まった。


 〝時空間の棺〟

 そんな商品名を付けられている、銀の装飾がなされた灰色の棺。

 棺とは、人間が最後に入る異世界への箱船なのだと、主人が語ってくれたことがあった。

 現世から黄泉の国へと向かうそれは、死者を別の世界へと連れて行ってくれる乗り物。

 だからこれは棺の形なんかを取っているのだと、本を読みながらに彼は言っていた。

 これは時間と空間を無視して、ただ一度だけ、願った場所へと連れて行ってくれる。

 それが本当なら、きっと違う空の下にだって行けるはずだ。


「彼女の場所まで……」


 呟きながらに棺に入って、勝手に閉まった事に驚きはしたが、今更ながらにどうして僕がこんなにもうまれに逢いに行きたいのか、よく理由が分からない。

 ただ彼女が好きだからだとか、そんな理由のような気もすれば、どこかズレているような気もする。

 些細な問題かと、僕はまぶたを閉じた。

 開けると何故か浮遊感に包まれていて、棺が数㎝のところで落ちたのか僕は割れた棺の蓋から転げ落ちた。


「痛って……」


 冷たさと肌触りから地面がコンクリートであることはなんとなく分かったので、本当に異世界に連れてこられたわけではなかったと少し安心した。


「これ、1回きりとは言ってたけど、使ったら壊れちゃうのかよ……」


 明らかに破片が足りないが、細かい木片へと変わってしまっている時空間の棺を見て、僕は「帰りどうすればいいんだ……」と呟きながらに立ち上がった。

 どうやらどこかの裏路地に来てしまったようで、妙に眩しく感じる光の方へ歩くと、そこが確かに過去なのだと理解できる。


「てか、何処だよここ……」


 全体的にセンスが古いくせに、夜中だというのに偶に人がぶつかるくらいの過密度で歩く人たちはさも自分たちが最先端を行っていると言う風な貌をしているのだから、未来人としては笑えてきてしまう。

「昔の町並みなんて見ただけじゃ大差なくて分からないって……えーと、標識とかは」

 探してみれば原宿駅への案内板のようなものを見つけられて、ここが十数年前の原宿であることは直ぐに分かった。

 しかし、姿も知らないのにどうやってうまれを探そうかと途方を暮れそうになった時、落ちた痛みでふらついていたせいでギャル風の女の子とぶつかった。


「あ、すまん」

「いえ、こっちこそ……って、皇威君?」

「は?」


 見ず知らずの昔の女子高生に急に名前を呼ばれて、自分のような名前の持ち主が2人もいるはずがないとぶつかった少女の方を向いた。


「えっ? え? なんで、いるの? えっまって、ホントに嘘だったの?」


 何度も電話越しに聞いてきた声は確かにうまれで、けれど僕は想像との違いの振れ幅に動揺し、それをうまれと認めるまで唖然として彼女を見つめてしまった。


「……いや、あったんだよ、タイムマシン。本来の用途は違うけどさ」

「そっか……凄いね、未来って。あっ、もしかして、またあの骨董品屋さん?」

「……勘が良いな」

「…………えっと、ねえ、さっきから何でそんなにジロジロ見てるの?」

「いや……」

「あぁ、そっか。皇威君は私のこと見るの初めてなんだよね。どう? 理想と全然違ってて、がっかりした?」


 彼女は、八月一日誕生ほづみ うまれは、着崩したブレザーと染めたせいで少し傷んでいる金髪がよく似合っていた。

 ミニスカートから伸びる細くて長い足には、聴いたことしかなかったルーズソックスなんてものを履いている。

 少しつり目気味の瞳は、けれど人を威圧するものではなくて、反面にその雰囲気は、どことなく人を寄せ付けない類いのものだった。

 想像していた清楚な姿とは正反対と言ってもよかったけれど、その瞳だけは想像通り、怖いくらいに澄んでいる。


「いや、違いすぎるけど、それはそれで可愛い」

「ふふっ。そっか、ありがと。皇威君は、写真よりちょっと大人びてるね。あれいつの写真?」

「2年前くらいだな」


 うまれはなんだか、流行や友達に流されたのではなくて、自分からあえて素行の悪そうな格好をしているように見えた。

 そんなアンバランス感が不思議と彼女にはよく似合っていて、想像していたよりもずっと、見惚れるくらいには綺麗な子だ。


「それで、どうしてあんなこと言ってたんだ」

「あんなことって?」


 とぼけようとするうまれに、けれどあえて追求する。

 でなければ過去にまで来た意味がないのだから。


「言ってただろ。死んでしまうくらいに、痛いって」


 それはきっと心がなのだろうと考えていた僕は、逢ってから終始笑顔で感情を見せようとしないうまれに詰め寄るのだが、うまれは笑みで話を濁してしまう。


「ねえ、そんなことより、もうすぐ終電だよ? 帰らなくて良いの? あっ、未来行きの電車はないか……」

「誤魔化すなよ……まあ正直、どうやって帰ったら良いか分からないが」

「えぇ……。まあでも、それなら私に付き合ってよ。もう帰るから、家、付いてきて? 特別に上がってもいいから」

「知り合って一月、逢って一日だぞ。僕ら」


 いくら何でも無防備に過ぎると忠告したのだが、うまれは人差し指をあごの下に当てて微かに迷うような様子を見せてから、僕とその赤茶の目を合わせた。


「あぁ、そういえばそうだね……じゃあ、ほら。王来王家皇威君、私と付き合って? あっ、これは男女交際の意味ね?」


 吹き抜ける微風みたいな軽い愛の告白に、僕は驚きを通り越して呆れた。


「……いや、分かるけど。急すぎる」

「彼氏なら、家にあげるのは普通だよね。よかったね皇威君、私の初カレだよ? 皇威君にとっては、私って何番目? あっ、もしかしてもう彼女いる?」

「いないけど……」


 婚約者に似た相手はいる。

 とは言い出せなかった。


「じゃあ決まりね。ほら、ちゃんと返事して?」


 後ろで手を組んで、少しだけ前屈みになって僕を見つめるうまれの仕草に心をくすぐられて、自分には断るのは無理そうだと分からされる。


「……分かった。君が、僕の初カノだ」

「えっ、やっぱり? ふふっ。やったね、互いに初めて同士だ。ぎこちなくもよろしくね?」


 まるで友達になるみたいに、お世辞にもこれから恋人同士になるとは思えない握手という行為ではあったけれど、初対面の自分たちには相応しいかと、僕は差し出されたうまれの手を取った。

 過去でも未来でも原宿なんてあまり来たことがないので、家に入れてくれるといううまれに付いていくとやはり駅のホームにたどり着いたので、僕は微かに貌をしかめた。


「電車乗るのか。僕、苦手なんだが」

「私の家、港区だから。歩いて行くにはちょっとキツいかな」


 未来のお金は使って良いのだろうかと思いながらもSuicaなんて仕えない改札に、久しぶりに切符を買って親の後を付いていく小鴨みたいにうまれに付いていった。


「へぇ。これが未来のケイタイ?」

「スマートフォンだ。タッチパネルとゲーム機と携帯電話が合体したようなもの、と考えればいい」

「タッチパネル? ていうかゲームできるの?」

「まあ、ネットに繋がなくてもいいものなら……やっぱり5G回線は来てないよな」


 電波を確認してもやはり対応していなくて、僕はネット環境のいらないゲームを電車に乗っている時間で幾つかうまれにやらせてあげた。


「わお、テレビより絵が綺麗……流石未来」

「まあ、たった十数年後だけどな」


 スティーブ・ジョブズは偉大ということをうまれの反応を見て再確認しながら、30分かそこらでうまれの最寄り駅へと着いた。

 案内されたのは駅から数分の所にあるタワーマンションで、港区という時点でなんとなく分かってはいたけれど、うまれの家は相当に裕福らしかった。


「親になんて説明するんだ。僕のこと」

「今日いないから、平気だよ?」

「えっ……」

「あっ、いま二人っきりだって気付いちゃった? ふふっ。でもそういう反応なら、襲われたりはしなさそうかな」


 オートロックの扉を開きエレベーターで三十階にまで上がり、雲母家以外の他人の家に初めて入った。

 夜景がよく見える巨大な窓のあるリビングを過ぎて、マンションなのに二階まであり、そこにうまれの部屋があった。


「結構散らかってるけど、まあ入ってよ。あっ、別にがさつな女とか思わないでね? 私だって、君が来るって分かってたらちゃんと綺麗にしたんだから」


 部屋に入る前にそう言い訳されたので余程汚いのかと思ったが、入ってみればカーペットの敷かれた床にクレーンゲームで取ったのだろうぬいぐるみやパジャマが脱ぎ散らかされているだけだった。

 それと綺羅以外の女子の部屋には入ったことがなかったから知らなかったがアロマキャンドルが幾つか置いてあったので、女子は割と皆アロマキャンドルが好きなものなのだろうかと考えて自然と笑ってしまった。


「わ、笑っちゃうくらい酷かった?」

「いや、女の子らしい可愛い部屋だと思う。もっと服とか化粧品とかが落ちているのかと思っていたから、割と綺麗にしているようにさえ見えた」

「あぁ、まあね……グレちゃったの最近だし。まだ色々手が伸びてないんだよ」

「グレた自覚があるなら、どうしてそんな格好してるんだよ。似合ってるけど、性格にあってないぞ」

「うぅん、なんだろ。親への反抗、みたいな?」


 それで格好から入る辺りがうまれらしい気がした。

 仲の悪い両親に対する嫌がらせのようなものなのだろう。


「あっ! そうだ、皇威君。ちょっとさ、彼女の初めてのお願い、聞いてくれない?」


 別にいいぞと内容も聞かずに了承してしまった僕は、この後風呂場に連れて行かれて髪の毛にブリーチ剤を塗りたくられ、十五分ほど無理矢理なうまれに文句を言いながら時間を潰して、髪を洗い流した後には、彼女に合わせるかのように見事に不良になった金髪の自分がいた。


「髪がギチギチいうぞ……」

「良いリンス買ってしっかりトリートメントしてね? ふふっ、似合ってるよ皇威君」


 うまれはたいそう気に入ったようで、僕の強張った髪を拭きながらニマニマと満足げに笑っている。

 部屋に戻って修学旅行みたいなテンションなのか急に「えいっ」と枕を投げてきたうまれの遊びには付き合わず、枕をキャッチして終わりにすると、ベッドに座ったうまれにぎこちなく話し掛けた。


「で、何の用なんだ」

「ん? 別に、何のようもないけど?」

「じゃあなんで家まで呼んだんだよ……」

「君が未来に帰れなくて泊まる場所がなさそうだから、かな」

「それは感謝するが、何もなかったら、あんなこと言わないだろ」


 言って欲しくなかったのか、うまれは目を伏せた。


「あぁ、だよねぇ……なんで電話なんてしちゃったかなぁ私。いやでも、それで皇威君に逢えたんだから良いのかもだけど、余計なこと言っちゃったかな」


 また誤魔化そうとする類いの笑みを浮かべてヘラヘラとしているうまれを見つめ続け、見つめられたら目を逸らせない質なのか見つめ合ってしまい、けれどうまれの方から観念したという風に肩をすくめた。


「……なんかさ、離婚するみたいなんだよね。私の両親」


 ぽつぽつと雨みたいに、うまれは話し出した。


「そんな重要なことも、あの2人は電話で伝えてきて……そんなんだからいつまでも仲良くなれないんだよ」


 なんだが拗ねているような口調で、途中からは濡れたような声になって。


「それでね、私はどっちとも好きだから、泣きたくなっちゃったんだ……。でも1人じゃ泣けなくて、胸を貸してくれる友達もいなかったから、もう皇威君に電話するくらいしかなくて……あんなこと言っちゃったの」


 水の中のような空気になってしまって、沈黙が続きそうな展開だったけれど、僕は空気が読めないからか、思ったことをそのまま感想として言ってしまう。


「お前、知り合って一月の僕しか相手がいないくらい友達いないのか」

「ここでそれいうの……? まあ皇威君らしいけど……」


 今度はしっかりと拗ねたしかめっ面をされてしまう。


「そうだよ。私友達いないんです。というか、電話越しじゃないとあんまり喋れない性格なの」


 僕が知るうまれからは凡そ予想の出来ない事実だった。あまり引っ込み思案には見えなかったが、考えてみればこの見た目も最近になって変えたもので、元はもっとクラスの端にいるような地味な女子だったのかも知れない。


「だから皇威君は不思議だね。こうして面と向かってても、あんまり現実って気がしないや」


 褒められているのかよく分からないことを言われて、それきり黙ってしまったうまれに、僕は躊躇はしたけれど、綺羅を真似るかとベッドまで近寄り、急に焦った様子を見せるうまれを抱きしめた。


「わお……皇威君って大胆だね」

「胸を貸してくれる友達がいるんだろ」

「今は彼氏でしょ?」

「……そうだった」


 うまれが座っていて僕が立っているせいで背丈に差がありすぎる不器用な抱擁は、うまれが泣き出すことはなかったことから考えて、綺羅のいうハグとしては50点くらいだったのだろう。

 それでも僕の首に腕を絡めて抱きしめ返してくれたから、安らげなかった訳でもなかったのだろう。


「うぅん……どうしよっかなぁ」


 耳元で聞こえた呟きに何を迷っているのだと訪ねようとして、その間もなく首に絡められたうまれの手に力がこもった。


「……おい」

「……なにかな」


 引っ張られるようにしてベッドに倒された僕は、自然とうまれの上に覆い被さる姿勢になっていて、互いの瞳の色を観察できるくらいの距離に彼女の顔があった。


「言ってなかったけど、僕には未来に好きな幼馴染みが……」

「この体勢でそういうこと言わないの。嘘でも君が好きってくらい、言ってよね」


 遅れてきたのか、涙が溜まっていくうまれの瞳に、僕は口を開けなくなってしまう。


「分かってたよ? 皇威君がキラキラちゃんのことを話すとき、声がとっても優しくて、なんだか幸せそうだったから。でもさ、ここは過去なんだよ。その子がいなくて、私がいる世界に、他の女の子持ち出さないでよ」


 必死に現実から目を逸らすような言い方は酷く憐憫を含むもので、付き合ったのだって家に上がらせてもう口実くらいにしか考えていなかった僕は、想像を超えて自分のことを想ってくれていた少女に、どうしたらいいのかが分からなくなってしまった。


「……好きだ」


 他人を傷つけることが出来ない訳じゃない。

 彼女が望まない言葉を言うことだって出来たのに、僕にはこれが、今日ここに来てこうなってしまっていることが、運命にさえ思えた。

 幼馴染み以外に初めて感じる心を揺すぶられる感覚と、込み上げてくる恋愛的な感情に、僕の思考は選んだのだ。

 うまれの望む事を、自分の意志に従って言葉にするということを。

 その澄んだ瞳を閉じたうまれに、ゆっくりとキスを落として、僕らは互いの金色に染めた髪がどちらのものなのか分からなくなるくらいになっていく。

 考え無しに互いを求め合って、僕らは薄暗い夜に溶けていった。

 

 




 体のあちこちに鈍痛を感じ、目を覚ませばそこは薄ら寒い床の上で、勢いよく起き上がった僕は木片の散らばった床や周囲を見渡し、ここが骨董品屋だと気付く。


「……夢……いや、違うか」


 金色に染まってしまっている自分の前髪を弄って、鮮明に残っている記憶が現実であったことを認識する。


「よくも使ってくれたな。もう在庫がないんだぞ、あれ」

「えっ、あ……」


 カウンターで本を読んでいる骨董品屋の主人へと振り向き、僕はばつが悪い表情になる。


「ふむ。そうか……まあ君がそう言うなら」


 珍しく本から視線を動かして虚空に向かって話す主人は、やれやれといった風に僕の元まで歩み寄ってくる。


「早く帰るんだね、王来王家君。親とかが心配しているだろ。それと、君の大好きな幼馴染みとかね」


 以前も思ったがどうして綺羅のことを知っているのか気になったが、取り敢えず立ち上がり、勝手に棺を使ってしまったので「すいません」と謝ったが、主人は既に視線を本へと戻していて、気にするなと言う風に手をぶらぶらと僕へ振っていた。

 僕は言われたとおりに店を出て行って、やはり振り返ると消えている骨董品屋に後ろ髪を引かれながらも、もうあの日が登っている道を家に向けて歩き始めた。

 意外に近いところに出現してくれたのか、家には数分で到着し、ぼけーとした表情で昨日の格好のままに庭に座っている綺羅を見つけて駆け寄った。


「綺羅。まさか、ずっと待ってたのか……」

「花火」


 まさかの僕が持ってくる花火をずっと待っていたというような発言に、色々と申し訳ない気持ちが溢れてくる。


「いや、その……ごめん」


 色んな意味で。


「ねえ、コウ君」


 いつも以上に僕をそのぱっちりと開きすぎている双眸で見つめてくる綺羅に、どうしたのだと僕も見つめ返すのだが、綺羅の瞳の中にいる自分を見てその視線の意味を理解した。


「グレた?」

「あぁ、これは……親への反抗、とかかな?」

「ふぅん……わたしも染めた方がいい?」

「いや、そのままで良いと思う」

「そっか」


 綺羅は珍しいグレージュの髪を持っているので、それを髪染めで変えてしまうのは勿体ないだろう。

 家に着いたので鍵を開けようとポケットを探ってみたがいつもあるはずの鍵が見当たらない。 どうやら何処かに綺羅と交換した合鍵を落としてきてしまったようで、キーケースから鍵が一本無くなっていた。

 取り敢えず綺羅が持っている合鍵で家に入り綺羅を風呂に入れた。

 その間に母親が帰ってきて「どうしたの皇威……」と髪を心配されたが、僕は何も答えずに自分も風呂に入ってから服を着替えた。

 最悪なことに、今日から学校が始まってしまうのだ。

 けれど僕も綺羅も疲れていたが、綺羅が納得しないので朝だというのに約束通りに少しだけ花火をやってから、一緒に泥のように眠った。

 次の日から僕も綺羅も普通に学校に行って、けれど僕はもう繋がらなくなってしまったガラパゴス携帯電話を、嫌な思い出のように引き出しにしまった。

 けれども少しもうまれを忘れることが出来ずに、僕はひっそりと彼女を探してみることにした。

 今のうまれに会っても、この年代の彼女はもう30歳過ぎで、僕のことを覚えているのかすら怪しいだろう。


 それでも、この世界のどこかにいるであろう彼女を探さずにはいられなかった。

 いきなり消えてしまってごめんだとか、謝りたいことは沢山会ったし、あの後の彼女が、僕のことをどう思ったのか、どう生きてきたのかが気掛かりでならなかったのだ。

 最初に行った一番可能性のあった港区のタワーマンションには、もう八月一日(ほづみ)という人は随分と前に解約してしまっていると分かり、さっそく探す当てが無くなった僕は何度か学校帰りに原宿へ行き、あの日のままでいる金髪の自分ならうまれの方から気付いてくれるかも知れないと、歳を取ったうまれを想像しながらにぶらぶらと通りを歩き回った。

 けれども当然、高校生が広い東京の中で今の顔もよく分からない個人を探すのは不可能に近いことだった。

 探し始めて一週間かそこらだというのに既に僕は諦め掛けていて、探偵にでも依頼しない限りは見つかりそうもない彼女をこれ以上探しても無駄だと、この一週間はあまり一緒にいられなくて拗ねてしまっている綺羅のこともあり、そう決めつけてガラパゴス携帯電話を引き出しの中に閉まったままにした。

 一ヶ月の夢だったと思うには後腐れのありすぎるそれは、次の朝に起きてからも僕を悩ませ、あくびをかみ殺して一階へと降りていった僕はまたアルバムを広げている母に朝食を催促した。


「はいはい。今作るから、これでも見てて」


 最近はご飯を作るときに妙に機嫌の良い母は、料理にはまったのか綺羅が手伝いに来るのであれこれと教えるのが楽しいらしかった。

 娘も欲しかったなとぼやいているくらいには。

 僕は記憶から同じシーンを引っ張ってくるように写真を眺めながらに頭の引き出しを探って、もう2冊目になりそうな分厚いアルバムを最近の写真からページを飛ばしながらに見ていった。

 見れば見るほど綺羅といちゃつく赤裸々な写真が多かったが、これと全く同じ写真が綺羅の家にもあるのだと思うとここで写真を引き裂いても無駄だと思えてどうでもよくなってくる。

 さっさと捲っていったので遂には自分も綺羅も赤ん坊の写真にまで到達し、この頃から手なんて握ってるんじゃないと幼い頃の自分に文句を呟いて、不意に、その背景へと目が行った。

 綺羅を抱いているのは、若すぎる母親で、その目は綺羅のように酷く、澄んでいて――


「っ……!」


 肩より下辺りまで伸びているその髪には、ブリーチをすると黒く染め直しても色が落ちてきてしまう為に、金色の煌めきがあった。

 いくら何でも若すぎる彼女は、まだ高校生ほどにさえ見えて、気付けば僕は、母に綺羅を連れてくると言って家を飛び出してしまっていた。

 嘘だ。

 そう信じたいのに、思い出してしまう。

 記憶の中から、おぼろげだった綺羅との記憶が。

 その後ろにいつもいて、僕らを見守っていた、少女のような母親のことを。


「うまれっ!」


 探す必要なんてなかった。

 彼女はずっと、それこそ僕が生まれたと時から、ずっと側にいたのだ。

 観葉植物の多い雲母家のリビングに駆け込んだ僕は、彼女の、雲母(きらら)誕生(うまれ)の名前を呼んだ。

 グレージュの髪をセミロングにした、おとなしめのツーピースがよく似合う美人になっている彼女の、服のセンスは良いのにその首からいつも提げている合鍵のネックレスが何なのかも、今なら分かる。そしてキッチンから出てきた彼女は、僕へと困ったような笑顔を向けた。


「気付いちゃったんだね、皇威君……」


 その呼び方は、思い出せば小さい頃から変わっていなかった。

 その声はあの日のまま、僕にとっては数日前で、うまれにとっては19年前のままで、どうして今まで気付かなかったのかが分からないくらいに、彼女は19年前と変わらない笑みを浮かべていた。


「その髪、よく似合ってるよ。……そうなってるって事は、もう逢ったんだよね。私に」


 気を遣ってくれているのだろう彼女の笑みが僕にはどんな凶器よりも痛くて、理解が追いつき始めた僕は胸を押さえてその場に膝をついてしまう。


「そんな……だって、こんなことって……それじゃあうまれは、僕のせいで……」


 熱くなっていく目とぼやけていく視界が彼女の胸によって塞がれて、うまれがあの日の僕のように、綺羅と似たその包容力で、そっと僕を抱きしめてくれた。


「ねえ、聞いて。私はね、ちゃんと幸せだったよ? 君のせいで不幸になったりはしてない。むしろあの日皇威君と過ごした夜に、一生分の幸せを貰ったんだよ」


 そう言ってうまれは、まだ起きてこない娘のいる二階へと目を向けた。


「綺羅はね、私の宝物。パパとママも、ちゃんと恋愛して出来た子供だって言ったら、産ませてくれたの。ちょっと失敗したかなって思ったのは、愛される子に育つようにって、皇威君の幼馴染みの名前を取って綺羅って名付けたら、産む前にパパとママが離婚しちゃって、ママの旧姓を知らなかったから雲母綺羅なんていう名前になっちゃったけど。今思えば良い名前だよね。うん、キラキラちゃんって、あの子にぴったりじゃない? それに君が大きくなっていくのを見るのだって、なんだか楽しかったな。どんどんあの日の皇威君に近づいていく君を見てたら、最初から皇威君みたいな幼馴染みのいる綺羅が、ちょっとだけ羨ましくなっちゃったよ」


 優しい手がそっと僕の髪に触れて、傷んだ髪に手櫛をするように撫でられる。


「だからさ、泣かないでよ。皇威君」


 嗚咽を漏らして、子供に返ったみたいに泣きじゃくってしまっている僕は、うまれの顔を見ることが出来なかった。

 嘘に決まっている。

 不幸じゃなかったなんて、僕を労った悲しい嘘でしかない。

 誰のとも分からない子供を妊娠して、本当は親になんと言われたのだろうか。

 綺羅を産んで、たった1人で子供を育てることは辛くなかったのだろうか。

 学校だって中退したはずだ。

 追いかけたかった夢だってあったのかもしれない。

 それを何も知らずに僕は、彼女の人生を壊してしまった。

 何も考えずに、昨日なんて忘れようとさえしていたくらいの、その程度の気持ちで。


「仕方なかったんだよ。あんな誘い方じゃ、断れなかったでしょ? あれは私が悪いの。だから君は、何も背負わなくていいんだよ。皇威君はただ、綺羅の事だけを考えてあげて?」

「僕は……許されちゃいけないだろ……それに綺羅に、どうやって接すればいい……だって綺羅は、僕の、僕たちの……」


 その後の言葉は言わせないと、うまれは僕の唇に人差し指を当てた。


「ダメだよ、皇威君。そこから先は、胸にしまって? 綺羅は君の幼馴染みで、君が誰よりも好きな女の子。ほら、あの子私に似て、皇威君にぞっこんだから。もう依存しちゃってて、引き離せないよ。だからね、幸せにしてあげて」

「それは……」


 躊躇う僕に、うまれは微かに罪悪のあるような表情になって、決心したとばかりに真正面から僕を見つめた。


「うぅん……ちょっと酷いし、綺羅には可哀想だけど、言うね。綺羅は、もう君しか見れないの。ちょっと甘やかして育て過ぎちゃったのもあるけど、君の存在が強すぎたから。あの子を見捨てないであげて……私の時みたいに、綺羅の前からいなくならないで」


 それは確かに、僕には酷な言葉だった。


「……君の心があの日を罪だと責めるなら、私の分まで綺羅を幸せにして。綺羅の幸せが、私の幸せだから。それを、君の贖罪にしてよ」


 頷くしかない誓いに、僕は涙を止めて、うまれを軽く抱きしめ返すことで返事をした。

 それを何か勘違いしたのか、うまれは軽く僕の頭を小突く。


「あっ、ダメだよ皇威君。君は綺羅のなんだから。おばさんに浮気はいけません。あっでも、そろそろお義母さんかな」


 なんてからかいを入れて来たとき、近頃は母の料理の手伝いに為の自分で目覚ましをセットし始めた綺羅が寝ぼけてはいるがぱっちりと開いている目でリビングに降りてきた。


「ママ? と、コウ君だ」


 自分の母親と幼馴染みが抱き合っている状況を特に不思議に思うこともないように近寄ってきた綺羅は、僕へと頭を差し出してきた。


「自分で起きれた」


 これは褒めろという意味かと、綺羅の頭を撫でて、くすぐったそうにして震えた綺羅は、僕を僕と同じ、その琥珀色の瞳で見つめてくる。


「ねえ、コウ君。泣いてるよ」


 そういって母に代わってという風に僕にハグしてくる綺羅を、僕は以前と同じように見れているだろうか。

 ただただ綺羅を好きだった時と変わらずに、綺羅を純粋に好きでいられるだろうか。


「わたしね、最近お料理習ってるの。知ってるよね、微妙な顔して食べてるし。でもこれからちゃんと上手くなるから。コウ君が大学行ってる間、わたしは好きなことしてていいなら、コウ君の為に、色々出来るように頑張る」


 それからハグをやめて半歩離れた綺羅は、僕の記憶に今でも漂っている、あの日のはにかむような笑みを再現するみたいに。


「だからちゃんと、コウ君のお嫁さんにしてね」


 恥ずかしそうに、でも言葉に出来たことが嬉しそうに、綺羅は笑った。

 僕はこの笑みを守れるだろうか。

 決して話せない秘密を胸に、綺羅を幸せに出来るだろうか。

 この血の繋がった幼馴染みが、生まれてよかったと、あの日が間違いではないと思い続けられるのだろうか。

 いつか、話さなくてはいけない日が来たとしても。彼女が生まれた理由を、話さなくてはいけないとしても。

 ああけれど、そんな悩みを打ち消してしまうくらい、彼女の笑みは、何処までも僕を安心させてくれるもので、乱雑としていた感情に荒れる心も、いつの間にか微風に吹かれて冷やされたみたいに落ち着いていた。

 ……そうだった。何も変わらないのだ。

 綺羅を好きなこの感情は、変えようと思っても変えられるものではなかった。

 だから心配なんて、必要ないのかも知れない。


「ああ……分かってるよ、綺羅。僕も君を――幸福にしてみせる」

 

 この愛おしい幼馴染みを想い続けることは、過去へ行くよりは、難しくはないだろうから。

 

 













 『僕の幼馴染みが、生まれた訳』


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