蓬莱島(ほうらいじま)の人魚

あじさい

第1話

 22世紀の初期から末期にかけて、あらゆる科学的な予測をはるかに超える急激な地盤じばん沈下ちんかと海面上昇が、この星をおそった。


 このとき、人々の多くが支持したのは宇宙への脱出、特に火星への移住だったが、端的に言って、その構想は22世紀の人類の手に余るものだった。

 そもそも地球上のあらゆる生物は、地球の重力に依存した身体構造をしている。

 そのため、無重力や弱重力の環境では、平衡感覚を失って頭痛・めまい・吐き気を感じたり、筋力や骨密度が著しく低下したり、生殖に支障をきたしたりする。

 宇宙開拓論者は最後まで、この問題を克服するためのビジョンを描くことができなかった。


 陸地に代わって人類の新たな住処すみかとなったのは、宇宙や火星ではなく、海上に建設された巨大な人工島群、通称『箱舟はこぶね』だった。



 『箱舟』の建設は当初、億万長者の中でも心配性しんぱいしょうな人々によるギャンブルの域を出なかったが、陸地の完全消失が現実味を帯びた2140年代には数千もの類似商品が作られた。

 2170年代、『箱舟』は人類最後の避難場所との認識が一般化したが、同時に、各国政府や国際機関による対応の遅れが決定的になった。

 もちろん、富裕層たちの富と権力がいくら膨大でも、それは社会的なものであるため、庶民がいなくなってしまっては何の意味もない。

 富裕層は『箱舟』に築いた玉座を、表向きは快く、公権力に明け渡した。

 だが、その対価としてあらゆる政府機関を自分たちの傀儡かいらいとし、立法・行政・司法、そして報道という四つの権力を、実質的に掌握しょうあくした。

 その結果、『箱舟』は富裕層の新たな帝国となり、人権度外視の増築・廃棄、疑心暗鬼な経済紛争・武力紛争・サイバー紛争、それに伴う離合集散をくり返すこととなった。


 当然ながら、『箱舟』の数も、それぞれの収容人数も、全人類を救うには不充分だった。

 人類の大半は『箱舟』に乗り損ねた。

 陸に取り残された人々はより高い土地、より高い山を目指して移住をくり返しつつ、広がり続ける海から資源を得ようと船やボートを出し、『箱舟』に比べれば貧相で原始的ながら、数多あまたの水上村落を築いた。

 とはいえ、自然の猛威を前に、どれも悲惨な結末を迎えた。

 庶民の内、かろうじて『箱舟』に乗ることを許された人々も、労働人財として使い潰され、時には食料供給に貢献した。

 もちろん、『箱舟』の主要な市民たちも、決して贅沢ぜいたくが許されたわけではない。

 みんな苦しい中で、人類を存続させるためには、これしかなかった。

 ……これしかなかった。


 そんな混乱もひとまず落ち着き、25世紀を目前にひかえた西暦2396年現在、この星の『箱舟』は5つに集約されている。

 その1つ、『蓬莱ほうらいじま』――滅びゆく人類を横目に上海シャンハイの富豪が付けたと考えると極めて悪趣味な名前だ――の周縁しゅうえんブロック、日本人街の1つに住む俺、波多野ハタノ・直人ナオトは、今週もまた、このエッジに来ていた。


 エッジとは、『箱庭』の外縁にある、港を取り巻く防波堤のことだ。

 『蓬莱島』のエッジは大抵、てっぺんの高さが20mほどで、それが階段状に低くなっていく。

 海洋調査やメンテナンスがしやすい造りにしたのだろうが、季節によっては釣り人も集まる。

 学校の教師が言うには、働き詰めな人ほど貴重な休暇に金と時間をぜいたくに使いたがるそうで、24世紀になっても釣りはただの食料調達にすることなく、スポーツとして人気を守り続けている。


 不思議なもので、海が人類にとって害悪でしかなくなってもなお、人間は海を眺め、波音を聞くと気分が落ち着く。

 港が放棄されてひさしいこのエッジには、今日も人がいない。

 そのことに安心した俺は、ネイビーブルーのキャップを脱いだりかぶり直したりしながら、エッジの内側から一度てっぺんに登り、外側をいちばん下まで降りる。


 陸地がすべて沈んでも、『箱舟』の風景が変わっても、空だけは変わらない、と大人たちは言う。

 2396年7月17日、日曜日。

 青い空、ギラギラと肌を焼く太陽、遠くに見える真っ白な入道雲。

 海は緑色で、200m以上の深さがあるという。

 この強い風にあおられて落ちたらどうしよう、と俺はいつも想像する。


 エッジをいちばん下の段まで降りると、コンクリートを打つ波が白くくだける様子を、わずか2mほどの眼下にのぞむことができる。

 12時58分、俺はいつもの場所に腰を下ろし、エッジから足をらした。


 5分ほど待っていると、暗い海の底から白い顔がせり上がってきた。

 勢いよく海面を突き破り、水しぶきをまき散らす。


「あ゛あ゛ぁ、しょーい」


 風呂に入ったおっさんみたいにうめきながら、ロモルが俺の隣に座った。

 海水でぐっしょり濡れた長い髪をき上げる彼女は、あどけない女の子の顔をした人魚だ。


「ちゃっす、待ってたよ」


「俺も5分ほど待ったぞ」


 人魚が実在することは一般には知られていない。

 言っても誰も信じないだろう。

 ロモルが言うには、人魚は一連の地盤沈下と海面上昇を引き起こした種族で、すなわち、人類を滅亡に追い込んでいる張本人なのだそうだ。

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