プロローグ

 八月の終わり――。

 自転車を漕ぎながらバイト先の喫茶店へと向かう。

 

「あ、暑い……」


 夏の太陽がジリジリと皮膚を焼き、一秒の労働もしていないのに、バイト先の裏口に自転車を置く頃には、すでに汗だくだった。

 リュックの中のタオルで、ガシガシ汗を拭いていると、突然――裏口の扉が開いた。


「遅いわよ、柏田カシワダ君……。はやく着替えて手伝いなさい」


 さらさらと艶やかな黒髪が揺れる。

 その下には恐ろしいほど整った顔。

 そこら辺の芸能人には太刀打ち出来ないほどの美少女だ。


 花茎カケイ羽美ウミ――俺のバイト先の先輩であり、クラスメイト。

 尤も教室では、一言も話したことはない。

 なぜなら、この女はクラス内でも、いや学内でも一軍と呼ばれるカースト最上位の陽キャグループに属しているからだ。


 あっ、ついこの女とか言ってしまったが……それはこの女の生態中身を俺が知っているからだ。

 この女の生態はそう――あれだ。

 動物園にいるコアラだ。

 体内エネルギーを極限まで節約し、のろのろと動き、24時間のうち最大18時間は眠っている――ああ、まさにこの女の生態だ。


 しかし、コアラ女の外見に騙されて授業中なんてほぼ寝てるんだぜぇ、一学期は告白ラッシュの末に、フラれた野郎共の屍の山が出来たらしい。

 

 俺には……このコアラ女に告白する気持ちが一ミリも理解出来ない。

 

 俺はアイロンをせっせと施した白シャツに袖を通して、黒いサロンの紐を堅めに結びながらそう思う。


 そして「おはようございます!」と事務所兼控室の扉を開けてホールへ出ると、普段はイケオジなマスターが眉毛を八の字にして「柏田くぅん」と捨てられた子犬のような声を出しながら、厨房とデシャップを高速で行き来していた。

 ホールを担当しているパートの内田さんなんかは、最早、残像でしか姿を追えないほどだ。


 どうして、こうなった?


 くっ、薄々は気づいていただろう俺氏。

 原因の全てはコアラ女だろう。


 コイツは働かないのに、お客様だけはわんさか連れてくるのだ。


 入口に近い窓際の席で、ただ紅茶を飲んでいるだけで……。

 そして、たまに憂いを帯びた表情なんかをするだけで……。

 人時売上高は俺なんかを遥かに凌いでしまう。

 だからマスターも内田さんも、コアラ女が堂々とサボっていても何も言えないのだ。


 顔が矢鱈と良いってチートすぎりゅ。

 そう思うと今から真面目に働くのヤだ。


 そして、見たくはなかった……。

 洗い場の惨状。

 山のように積み上げられた食器達。

 あー、頂きが見えねぇ。


 しかも、今日の客入りは異常だ、多すぎりゅ。

 まさか……。


 そして、俺は恐る恐る入口に近い窓際の席を見ると――そこには学内に数組存在する一軍の中でもコアラ女と人気を二分する美人ギャル黒川礼奈が「アハハハ、羽美ウケる〜」と笑っていたのだった。


 これは、まだまだお客様がいらっしゃるのでは?


 あー、今すぐ帰りてぇー。



 

 ◇



 過去の作品フォルダからですが、どうぞ宜しくお願いします。

 ゆるゆる更新のつもりですが、

 応援いただけますと更新頑張ります。

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