先生へ

朝日奈 雪蒔

聞いてくれてありがとう。

ある時から繰り返し見る夢がある。

透明な厚い壁の向こうで幼い私がうずくまって泣いている。大丈夫だよと言ってやりたくても、厚い壁は私の声を通してくれない。

厚い壁は幼い私の声すらこちらに通さない。なのに、なぜその子が泣いていると分かるのだろう。

それはきっと過去にした体験と重なるからだろう。

どれだけ叫んでも、どれだけ壁を叩いても彼女を助けてやることなど私にはできないんだと諦めて、ただ泣いている私を眺めていることしか出来ない私。


「…っ」

全身が軋むように痛い。

痛みから数秒遅れて、夢から覚めたことを悟る。

また一日が始まってしまったこと、生きていることに仄暗い気持ちになりながら、痛む体を起こす。

体を無理やり起こしても力は入らず、このまま学校をサボってしまおうかとも考える。しかし、この家に少しもいたくない気持ちの方が勝ち、重い体を引きずるように誰もいない家の中で準備をして、家を出た。

5月の朝は既に夏の空気をいっぱいに含んでいて、連日の雨で濡れた地面や草木を風が撫でた後肌をなぞり、その生ぬるい不快感に溺れる。

その中を切るように自転車で進んでゆく。

体を動かせば動かすほど痛みは麻痺して、赤信号につかまり再び動き出そうとする時、思い出したように全身に激痛が走る。

そもそもなんでこんなに全身が痛むのか。きっかけはなんだったっけか、あぁ。

「自分の使った食器さっさと片付けろって、お前が先ず自分のを片付けてから言えっての。」

昨日は兄の機嫌がすこぶる悪かったようで、私が食べ終わったあと食器をそのままにして携帯を触ってしまっていた事を咎められ、そこから全身フルボッコにされた。

思い出すと腹が立って、ペダルをぐっぐっとさらに力強く踏み込む。

そんなんで殴られてたら体がいくつあっても足りやしない。母親は見て見ぬふりだ。

どれだけ私が殴られていようと、兄妹ゲンカと一蹴する。どれだけ殴られても私は翌日何食わぬ顔で学校に行くことの方がほとんどで、周りにいちいち言わない。よくある事だから。

けれど、一体いつまでこれに耐えていればいいんだろうと思う。

兄とは1歳差で、高校生になったら何かが劇的に変わるんじゃないかとの期待は、ここにもあった。兄が高校生になれば、私を殴ることにも急に飽きたりするんじゃないか。そしたら私は笑って高校生活を送れるんじゃないかな。

そんな淡い期待もすぐに消えた。

高校ではまた違ったストレス源が出来たのか、長期休暇明けだったり、イライラしている時、ストレスがかかってるなって明らかに分かる時は決まって殴られた。たまに抵抗すると、さらに殴られる時間が長引くものだから、されるがまま耐えるのが一番いいのだ。だって誰も助けてくれないから。大声で泣いても、誰も助けに入ってこない。

高校2年目、もうだいぶ殴られることへ諦めもついたはずなのに、考えれば考えるほど、孤独に喉がぎゅうぎゅう押されて、自転車を漕ぎながら涙をポロポロと流す。

こんな時、私はチャリ通でよかったなぁと心底思う。泣いてたって誰も振り向かない。誰も気づかない。

学校につき、自席に座り友達がおはようと挨拶をくれ、それに笑顔でおはようと返す。昨日と変わらない今日に安堵し、そして絶望する。

授業を受けても全然頭に入らない。

1番後ろにある私の席が、1人だけどんどんみんなから離れて、ひとりの世界になってしまったみたいに何も聞こえない、何も頭に入らなくなってしまう。

酷い頭痛がして、次の授業に出るのを断念した。

保健室へも行く気になれず、そんな時に決まっていく場所があった。

封鎖された屋上へ続く階段。

屋上へ続く踊り場は、廊下からは死角になっている。

ここが私の安全地帯。

1番上の段に腰を下ろす。

「いててっ」

立ち座りの動作の時が1番体が痛かったりする。

今回のはまたしばらく痛いなー。なんて思いながらぼんやり、段下に投げ出した足を見つめているとひょこと予期せぬ人影が現れた。

「う、わ!びっくりした」

私の声に相手も驚いたようで、声を上げた。

「こ、こっちも驚いた…」

「先生…」

顔を出したのは確か化学かなんかの先生だったような。

「先客がいたのは何となく気づいていたけど、驚かれると心臓に悪いな」

言いながら、先生はどかっと私がもたれてる反対側の壁を背にするように座った。

「え?」

座るの?と声に出そうになり慌てて押しとどめる。

「なんだよ」

「いや、別に…」

授業中だぞ。とか、サボってんじゃねぇよとか言われるのかと思った。言われないってことはいていいってこと?

分からないまま、先生が来る前にしていたのと同じように自分の足をぼうっと見つめる。

あまりに先生が話しかけてこないので、ちらっと先生の方を見やる。高窓から光が差し込んで先生の黒髪を艶めかしく照らしている。

狭そうに片膝を立ててもう一方の足をあぐらをかくようにおった膝へ教科書を乗せてペラペラめくったり、名簿を見たりしていた。暇なんだろうか…

すると、私の視線に気づいたのか先生が再び

「なんだよ」

と怪訝そうな顔で言う。

「いや、先生暇なのかなと思って…」

言った途端、ピクっと眉が上がり先生の声が少し尖る

「そう言う君は暇なのかな?」

「い、いえ…」

どうしたって授業をサボっている私の方が分が悪い。

「体調が悪くて少し休憩していました」

「保健室いけよ」

その通りだ…

「保健室は苦手で」

これ以上深堀されたらどうしよう。もう無理だ。退散して大人しく教室戻るしかないか…とグッと目を瞑る

「あそ」

へ?あ、あーー。助かった。

先生は私の事なんか興味無いよな。そりゃそうだ。学年も違うし、科目の受け持ちでもない、部活の生徒でもないなんの関わりもない生徒だもん。こんなもんか。

もっと責められると思ってただけに拍子抜けした。自分に興味のない人、心地いいな。

「先生、先生って殴られた事ありますか?」

自分に興味のない人、と分かるとするりと自分の話が出来そうな気がした。友達にも話せない私の話を。

「殴られたこと?教師とかにあるな。時代だな。親とかにもある」

それがどうした。と続いて、

「私、兄に殴られるんです。昨日も殴られて」

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