第三章成長する将軍(二)

 建永二年、西暦一二〇七年。

 正月早々、実朝は、御台所倫子を連れて揃って鶴岡八幡宮へ出かけた。実朝の手には翡翠の数珠、倫子の手には紫水晶の数珠がそれぞれかけられている。

「春とはいえ、まだ寒いのに、連れ出してすまなかったね、御台」

 実朝の問いに、倫子は微笑んで言った。

「そのようなことはございません。京にいた頃は、ほとんど外に出ることがありませんでしたけれど。鎌倉に来てからは、たびたび外出できる機会が多くて、楽しゅうございます。」

 実朝もまた、倫子に向けて柔らかい笑みを浮かべた。

「それはよかった」

 実朝にとって、倫子と過ごす時間は何よりも楽しく、かけがえのないものだった。

(本当に、御台が鎌倉に来てくれてよかった)

 実朝は、それぞれの手にかけられた数珠を見つめながら、御仏の縁に心底感謝していた。

 それから、間もなくして、実朝は、初めての二所詣に出かけることになった。

 二所詣の前には、由比ガ浜において潮浴で身を清める二所精進が行われた。

 季節の上では春とはいえ、まだまだ外は寒い。

 元来、あまり体が丈夫ではない実朝の様子を心配そうに見守っていた義時に対し、実朝は大丈夫だと安心させるように笑って儀式をこなしていく。

 やがて、五泊六日の予定で、将軍一行は鎌倉を発った。箱根権現、三嶋大社、走湯山の伊豆山権現と実際には三か所を訪れることになっていた。

 箱根山を越えると、海辺に波の寄る小島が見えてきた。初めて訪れる場所なので、実朝はこのあたりの土地のことに詳しくない。

「あの海の名前はなんというのですか」

 好奇心旺盛なまだ少年の甥の問いに、義時は笑いながら答えた。

「伊豆の海と申します。よいお歌が詠めそうですか」

 叔父の問いに実朝ははじけるような笑顔を見せて興奮したように答えた。

「箱根路をわれ超えくれば伊豆の海や波の小島に波の寄る見ゆ。驚いたなあ。山を越えた途端に急に視界が広くなって、目の前に海があって、小島に波が寄っている姿が見えてくるなんて。絵巻物でしか見たことがない世界をこの目で実際に見られるとは」

「それはよろしうございました」

 伊豆に着いた実朝は、今度は言葉遊びも兼ねた歌を詠んだ。

 わたつうみの中に向ひていづる湯の伊豆のお山とむべも言ひけり

 海の中に向かって湯が出づる山、なるほど、それで伊豆山と言うのだなあ。

 伊豆の国山の南に出づる湯の速きは神のしるしなりけり

 伊豆山の南から出づる湯は、湯が迸る早さも神の御利益の効果も早いのだなあ。

 走る湯の神とはむべぞ言ひけらし速きしるしのあればなりけり

 走り湯の神とはなるほどよく言ったものだ、御利益の効果は早いものだよ。

 都より巽にあたり出湯あり名はあづま路の熱海といふ

 都の東南には宇治があるが、あちらは世を憂いて隠棲する場所である。同じく、都から東南に当たる東路には出湯があるが、湯が熱いからあつうみ、あたみというのだろう、こちらの方はなんともめでたいことだなあ。

 実朝は、心も体も温まりながら、伊豆の湯の効能を堪能した。

 将軍としての重要な務めを一つ果たし、自分なりの和歌も読めて一安心した実朝は、徐々にまつりごとにも才を見せ始めていく。

 実朝は、武蔵守に任じられた義時の弟の時房と、武蔵国の領地運営について話しを聞いていた。

「先の国司は大内義信殿でした」

「現地を混乱させないためには、従来どおりのやり方を当分続けたほうがよいのだろうね」

「さようでございますね」

 話をしながら実朝は、亡き兄頼家が東国の荒野の開発に積極的だったことを思いだした。鎌倉殿としての期間は短かったけれども、頼家もまた父頼朝の後を引き継ぎ、己の務めを懸命に果たそうとしていたのだ。結果として自ら望んで手に入れた地位ではないけれども、それでも、自分もそれを引き継いで己の務めを果たしていく、それこそが亡き兄への償いであろう、そう思った実朝は、兄と同様に、武蔵国の原野開発を地頭たちに命じた。

 順調に公務をこなしていた実朝であったが、それからしばらくして、もともと体がそれほど丈夫ではないこともあってか、実朝は病で寝込んでしまった。

(つい先月、二所詣に共に出かけた時は元気だったというのに)

 義時は、頼朝が亡くなった時に、幼い実朝を抱き上げて、共に見上げた梅の木を見つめていた。そのそばには、実朝がわざわざ永福寺から取り寄せた別の梅の木や桜の木が入植されていた。姉大姫や父頼朝との思い出深い梅の花を実朝はとりわけ愛していた。

「お前も、ご主人様のことがさぞ心配だろうなあ」

 義時は、実朝の愛犬雪を抱き上げて話しかけながら、梅の木に手を合わせて甥の回復を祈った。義時の思いが通じたのか、実朝の病は再び公務が行える状態にまで無事回復した。


 六月。御台所倫子の父大納言坊門信清の使いが朝廷側の便りを携えてやって来た。紀伊国の守護は、三浦義村の叔父三浦義連が務めていたが、義連亡き後交代者は定まっていなかった。その隙に乗じて、義連の配下が扇動し、紀州国の土民が高野山に入り、狩りをしたり、寺の年貢を横領したと高野山が訴えてきたのである。

「もともと、院様の熊野詣の宿場で利用する以外に、関東とはあまり関わりのない土地のようだが、どうするべきなのだろうか」

 実朝の疑問に答えるように、中原広元(後の大江広元)は答えた。

「いっそのこと守護は不要なようですからこれを廃止して、朝廷に管理を任せることにして、亡き三浦義連殿らの配下は引上げさせた方がよいでしょうな」

 朝廷との交渉の窓口となることは、武家の棟梁である将軍のもっとも重要な政務の一つであった。実朝は、朝廷と関係のある訴訟の扱い方など、朝廷との付き合い方も学んでいった。

 

 八月。鶴岡八幡宮で放生会が行われたときのことである。

 供の者達の中から、出発間際になって具合が悪いと言い出した者がおり、別の者を代役にたてたため、出発時間が大幅に遅れてしまった。後から事情を調査したところ、具合が悪くなったと言い出した者達は、ある者は親族の喪に服しているとか、またある者は病気だったのだなどと言い訳をし始めた。そのような事情があるのなら、事前に届け出るのが通常であるから、どうみても嘘に決まっていた。

 そして、馬鹿正直に本当のことを話した吾妻助光は、内容が内容だけに、なお質が悪かった。なんと、助光は、晴れの儀式にと新しい鎧を新調し、その鎧がねずみにかじられてしまったので、慌てて具合が悪いと言ってしまったのだと白状した。これには、実朝だけでなく、重臣達も呆れかえって言葉がなかった。

「新しい鎧が使えないというのであれば、先祖代々着古した鎧を着ればよいだけの話ではないか。だいたい、鎧は警護のためにあるのであって、着飾るためにあるのではないのだ。年中やっている恒例の行事のたびに鎧を作り替えていたのでは、父上以来の質素倹約の信念にも背くことになる。けしからんことだ」

 助光は、実朝から出仕停止を命じられた。実朝は、これ以降も、家臣達の職務怠慢や違反行為に対しては毅然とした態度を取るようになっていく。


 それからしばらくして、実朝は、御台所倫子が子を産める体になったのだという知らせを受けた。

 実朝と倫子の仲はとてもよかったが、実朝はまだ倫子と夜を共に過ごしたことがなかった。倫子と夜を共に過ごすことになれば、いずれ愛らしい赤子が生まれるということを知った実朝は、赤子を生み出すための指南書として渡された巻物を渡された。

 実朝には、赤子が生まれたら、父頼朝が実朝にしてくれたように、してやりたいと思うことがいっぱいあった。

(御台の産んでくれるややこは、特に御台に似た姫だったら、さぞかし可愛いだろうなあ)

 年頃の男子でありながら、性的な知識については皆無だった実朝は、巻物を開いた瞬間、頭を大きく殴られたような強い衝撃を受けた。

(これは、一体何なのだ!)

 そこには、一糸まとわぬ男女の姿が描かれていた。男の方は、いやらしそうな顔で女の乳房を手で弄んで口に含み、男の証を女に突き立てていた。

 実朝は、まだ幼い頃、いとこの泰時に、「ややこはどのようにして生まれてくるのか?」と尋ねた時、泰時はひどく戸惑ったような顔で答えたことがあった。

 泰時が比喩として話した、大根の種蒔きの話の本当の意味を、そして真面目なまだ若い泰時がなぜあれほど動揺していたのかをようやく理解した実朝は、その行為のあまりのおぞましさに強烈な吐き気を催した。

(嘘だ!あのように愛らしく無垢なややこが、このような汚らわしい行為で生まれてくるはずがない!)

 同時に、実朝の脳裏に、幼い頃偶然目撃してしまった兄頼家と和田朝盛が絡み合う場面が浮かんできた。

「可愛い奴だ」

「お許しください」

 実朝の頭の中で、兄は泣いて懇願する朝盛を汚そうとしていく。そして、場面は転換して今度は、実朝が嫌がってひどく泣く倫子を汚そうとしていた。

(何ということだろう!生涯かけて大切にしようと誓った御台なのに。私は御台を汚して傷つけて泣かせるだけの存在にすぎないというのか!私は、確実に御台に嫌われるだろう。このような真実を、私は知りたくなどなかった!)

 それ以降、実朝からは、少年らしい大らかさと明るさは見られなくなり、内にこもり、暗い表情を見せることが多くなった。

 実朝は、倫子と臥所を共にすることを周囲から勧められても、体の具合がよくないことを理由にそれを拒否した。それとは相反するように、知りたくはなかった真実を知ってから、実朝の中では、ますます倫子と共にいたい、倫子に触れたいという欲求が高まって行った。実朝は、そのような汚らわしい自分に、ますます嫌気がさすようになっていった。

 わが恋は初山藍の摺ごろも人こそ知らね乱れてぞ思ふ

 山藍の摺衣を初めて着るように、私も初めて知った恋の真実にどれほど慄いて心乱れているか、誰も知らないであろう……。


 白雪が舞う曇り空のとても寒い日だった。御所では、飲み会が開かれており、実朝は、倫子と共に、ほろ酔い程度に酒を楽しんでいた。

 そこへ、一羽のアオサギが飛んできた。気味の悪いアオサギの鳴き声に、倫子は酷く怯えて震え出した。実朝は、その姿を見て、まるで自分が倫子を犯しているような気分にさせられた。

 いつになくアオサギの存在にいらついた実朝は、「不吉な感じがする。誰か、あのアオサギを射る者はいないか」と投げやりな気持ちで言った。

 叔父義時は、「それならば、吾妻助光がおります。放生会での失態を回復する機会を与えてやってはいかがでしょうか」と進言した。

 実朝は、叔父のいうとおりに、助光に使いをやった。

 助光が矢を放つと、アオサギは庭に落ちた。助光の矢はアオサギには当たっていなかった。助光は、アオサギの目をかすめるように矢を射たのだった。見事な腕前で名誉を回復した助光を実朝は許してやり、助光の名誉は回復された。

 だが、実朝には、アオサギが汚れた実朝自身のように思えてならなかった。

 いつもとは違う暗い実朝の表情に気づいた叔父の義時は、心配そうに実朝のことを見つめていた。

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