賢君源実朝
shingorou
第一章愛し子(一)
建久三年、西暦一一九二年、四月二日、大倉御所。
夫頼朝との間に第四子を懐妊した政子の着帯の儀が行われていた。
「苦しくはないか」
「はい」
頼朝は妻を気遣いながら、愛しそうにその腹部を撫でながら新しい命の音を聞こうとしていた。
「若かな。姫かな」
「どちらでもよろしゅうございますよ」
夫婦はにこやかに笑い合っている。
父と母に誕生を望まれている子もいれば、一方で、正妻への遠慮から憚られる子もあった。
頼朝と正妻政子との間には、上から順に、十五歳の長女大姫、十一歳の嫡男万寿、七歳の次女三幡がいたが。
実は、頼朝には、他にも大進局という妾との間に春若という庶出の男子があった。春若が生まれた時、政子は次女の三幡を懐妊中でひと悶着があったのだ。
しかも、頼朝は、政子が嫡男万寿を懐妊中にも亀の前という妾と浮気しており、それが政子にばれて鎌倉中の注目を集める大喧嘩となった前科があった。
それだけに、今また懐妊中の妻の気を高ぶらせるようなことは避けなければならなかった。
(可哀そうなことではあるが、嫡男は万寿と決まっておる。春若を余計な争いに巻き込ませたくはない)
頼朝は、春若を僧侶として仁和寺へ入れることに決めた。
春若が鎌倉を断つ前日の夜。頼朝は、密かに春若のもとを訪れた。
「春若か。大きゅうなったなあ」
頼朝は涙ぐんで春若を抱きしめた。
「父上、父上ですか!」
春若もまた、父に強く抱きついた。
「明日はいよいよ発つのであったな。体には気をつけてな」
そう言って、頼朝は春若に太刀を渡した。幼い息子の境遇が哀れに思われ、頼朝は涙がとまらなかった。
「これを父だと思うておくれ。こんなことしかしてやれない父を許してくれ」
頼朝は、長い間春若を抱きしめて離そうとしなかった。
翌日、鎌倉を発つ春若は、輿の中で、父から授かった太刀をぎゅっと抱きしめて涙を堪えていた。
頼朝は、春若の輿が見えなくなるまで、ずっとそれを見守っていた。
七月十八日、政子は、出産の準備のため、父北条時政の名越邸の近くにある浜御所に移った。その二日後の七月二十日、頼朝は、朝廷から征夷大将軍に任じられた。
「もうすぐこの子に会えますわ」
「この子は、生まれながらの征夷大将軍の子じゃ!この子が、儂らに幸運を運んできてくれたのじゃ!」
重なる慶事に政子と頼朝は、抱き合って喜んだ。
そして、八月九日。浜御所に赤ん坊の元気な泣き声が響き渡った。生まれてきた子は男児であった。幼名は千幡と名付けられた。
「おお、可愛いのう。可愛いのう」
頼朝は、生まれてきたばかりの千幡を抱き上げて目に入れても痛くないと言った様子で愛し気に頬ずりをした。
「乳はよう飲むか」
「はい」
語りかける頼朝に対し、めのとの阿波局は控えめに答えた。阿波局は、政子の実の妹で千幡の叔母に当たり、阿波局の夫阿野全成は、頼朝の異母弟でもあった。
「この子は、できるだけ、儂と御台に近い場所で育てたいと思うておる」
「よろしく頼みますよ」
「かしこまりましてございます」
兄夫婦の言葉に、全成は頭を垂れた。
「儂にも千幡君(せんまんぎみ)を抱かせてください!」
政子の弟義時は、慣れた手つきで頼朝から千幡を受け取って抱き上げた。
義時には、この時点で正妻がいなかったが、亡くなった側女との間に庶長子金剛をもうけており、男親だけで育てていたこともあってか、赤子を抱くのには慣れた様子だった。
「ああ、私とあの方との間にも、こんな愛らしいややこが生まれたら!」
義時は、うっとりとした表情で、生まれて間もない千幡を抱いて頬ずりをした。
その様子に政子はげんなりした様子で言った。
「小四郎、あなたほんとしつこいわねえ。全く見込みがないんだから、いい加減諦めなさいよ」
御所には、頼朝と万寿のめのと一族でもある比企氏出身の姫の前という大変美しい高級女房がいた。義時は、姫の前に一目惚れして以来、しつこく恋文を贈り続けていたのだが。
この冴えない田舎者のおっちょこちょいの子持ちやもめは全く相手にされていなかった。
「比企と北条が縁を結ぶのは、千幡のためにも悪くはないが。さすがにここまで来ると、重症というか、憐れにすら思えてくるな。一応骨を折ってやってもいいが」
頼朝の言葉に、義時は、千幡を抱いたまま小躍りした。
「本当ですか!」
「二年もの間、ねばったんだ。起請文に、正妻として必ず大事にする、どんなことがあっても別れないと書いて訴えてみろ。それでも相手にされなかったら、その時は潔く諦めるんだな」
頼朝は、義弟を見ながら、やれやれと言った様子でため息をついた。
頼朝の仲介が功を奏したのか、義時の純情と誠意が通じたのか、姫の前の方でも実は満更でもなかったのか。それから間もなく、義時は、念願の姫の前と結婚した。
千幡が生まれてから二か月ほどたって、政子と千幡は浜御所から大倉御所に戻った。
家族一同が揃って、千幡を出迎えた。
「本当に何て可愛いんでしょう!」
「見てください、母上!千幡が儂に笑いかけました!」
大姫と万寿も、年の離れた末っ子の弟が可愛くて仕方がないらしい。政子は微笑みながら子どもたちの相手をしていた。
その様子を見て、次姉の三幡は、一人ぶすっとふくれっ面をしていた。
「何よ!千幡ばっかり!」
「三幡も、儂の可愛い娘じゃ」
頼朝は、宥めるように三幡の機嫌を取っていた。
千幡が生まれてから四か月後。頼朝は、千幡を、嬉しげに自ら抱き上げて家臣一同の前で言った。
「儂は、この子が可愛くて可愛くて仕方がないのじゃ。儂が歳をとって生まれた末っ子ゆえ、儂もこの子のためにも長生きしたいと思うが。皆々もどうか、心を一つにして、千幡の行く末を見守ってやってくれよ。ささ、この子を抱いてやっておくれ」
家臣達は、恭しく頭を下げながら、恐る恐る千幡を順に抱っこしていく。再び自分の腕の中に戻って来た千幡をあやしながら、頼朝は義時に自慢げに言った。
「千幡は、寝返りを打てるようになって、『とと』と言うたのだぞ!見てみよ!この徳の高い僧のような澄んだ瞳、賢げな顔つき。何もかも、儂にそっくりじゃ!」
頼朝の親馬鹿ぶりを無視して、義時は、頼朝から奪うように千幡を抱っこして千幡に話しかけた。
「女好きの父君などに似たらおおごとですわい。千幡君は、この叔父めに一番似ているのです。ねえー」
「なー」
千幡は、叔父の言葉を聞いて、にこにこ笑い返しながら、オウム返しの喃語で答えた。
その様子を見て、頼朝は少し面白くない顔をしながら、義時に抱っこされている愛児の顔を覗き込んだ。
「おお、何じゃ?千幡?偉く難しい顔をして考え込んで?」
その時だった。義時の腕の中にいる千幡の尻のあたりから、ぶうという音がした。義時の着物が濡れ、あたりに異臭が広がった。
「やや!この叔父めに、何という悪さをなさるのだ!」
思ってもいなかった災難に、義時は慌てふためいたように叫んだ。頼朝は、鼻をつまみながら、どこか勝ち誇ったような顔で、茶化すように言った。
「ようやったぞ!千幡!あっぱれじゃ!さすが、生まれながらの征夷大将軍の子じゃ!」
周囲の者達の間に大きな笑いが広がった。
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