第2話

 朝起きると、陽くんはすでに出社して部屋にいなかった。仕事を始める前に、湯船に四十度のお湯を張ってお風呂に入る。陽くんの部屋の浴室は、年季の入ったタイル張りだ。浴槽はステンレスで、横に大きな給湯器がついていて古めかしい。去年付き合い始めたころは、この狭いバランス釜に二人でくっつきながら入って、一緒に缶ビールを飲んだりして楽しかった。陽くんはお酒がそんなに強くないのに、わたしに合わせてちょっと無理して飲んで、よく二日酔いになっていた。陽くんがダイエットのためにお酒を控えるようになったり、わたしが一人で入りたいと言うことが多くなったりして、二人でお風呂に入ることもなくなってしまった。


 お風呂を出て冷蔵庫を開けると、ストローが刺さったプラカップ入りのアイスコーヒーが置いてあった。マンションの一階のコーヒー屋さんのものだ。陽くんが毎日出社前に買ってきてくれる。昨日はわたしのせいでセックスできなかったのに、陽くんはやさしい。


 アイスコーヒーを飲みながら、パソコンでエディタを開く。去年開発して無事公開された、アパレルの通販サイトのコードを編集していく。来月サイトに新しいタイプの商品が追加されるので、それに対応するために新しい機能を追加したり、既存のコードを更新したり、いろいろタスクがある。でも、こういうビジネスケースを想定して、実装の設計を工夫して拡張しやすいものにしたり、既存の機能に問題が起こらないか自動的にチェックできるように、細かくテストコードを仕込んだりしておいたから、思ったよりもスムーズにいきそうだ。会議のときにプロジェクトマネージャーに伝えた工数見積もりには、ちょっとバッファを積みすぎたかもしれない。


 できるだけシンプルにすることを心掛けながら、コードを書くのは楽しい。それに、わたしたちが寝ているときもわたしたちがつくったシステムが動いて仕事をして、そのおかげで浮いた時間でみんながもっとほかのことができるんだと思うと、やりがいを感じる。


 ヘッドフォンでひとつの曲をリピート再生しながらコードを書いていると、集中が深まっていくにつれてどんどん音が聞こえなくなっていく。そのうち、深いところで泳いでから、ゆっくり水面に上がっていくみたいに耳に音楽が戻ってきて、時計を見ると大体いつも一時間くらい経っている。このときに感じる疲労が好きだ。

 休憩がてら、会社のチャットアプリを起動する。通知を見て、コードレビュー依頼を確認して、それぞれにコメントしていく。


 李さんはさすがベテランだけあってコードがきれい。


《LGTMです! 自分も参考にさせていただきます。後ほどのご対応で全然大丈夫なのですが、このタイプの商品は、在庫のチェックがバッチ処理で行われているので、一応リアルタイムでも在庫を確認して、在庫切れだった場合の処理もしていただいた方がいいかもしれないです》


 契約社員の嶋野さんは、実装は相変わらず雑だけど仕事が早い。


《LGTMです! めちゃくちゃ早いご対応ありがとうございます。できればテストコードも追加していただきたいです》


 新卒の小山さん。実装は見当外れだし、仕様も把握する気がないなら、早くやめてほしい。


《ご対応ありがとうございます! ここの処理は、値が参照できずにエラーになるかも? と思うので、動作確認をお願いします》


 実装のミスを指摘したり、こうしたほうがいいかもしれません、とアドバイスしたりすると不貞腐れてしまうエンジニアがたまにいる。小山さんはそのタイプだ。コードについて話しているのに、なぜか自分自身が否定されたような気がするらしい。だからコメントを書くときは、できるだけ! とか? とか絵文字を使ったりして明るい雰囲気を出す。そうするとみんな気分よく働けて、いい製品ができるし、仕事が早くおわる。


 右手が小刻みに震えているのに気づいて、左手で右手を握りしめた。最近、ふとしたときに、右手が震えて止まらないときがある。仕事は楽しいし、陽くんも好きだ。セックスしなくていいなら、全部うまくいっているのに。




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注釈です!


LGTM ... Looks Good To Me「私としては良いと思う」という意味の英略語。ソフトウェア開発の場でよく用いられる。

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