くちびるで聞いて

さけたチーズ

第1話

 シュウマイの回し車が、アクリル製のハムスター用ケージにガンガン当たる音で目が覚めた。手探りでみつけたスマホで時間を見ると、まだ深夜三時だった。数時間ほどしか寝てないはずなのに、眠気がさっと引いて、逆に意識がクリアな感じだ。今なら仕事もできそうなくらい。舌で上の歯列をなぞる。マウスピースがちゃんとついている。早紀と飲んだ後終電で帰ってきて、服も着替えてないし化粧も落としてないしコンタクトも着けたままだけど、歯は磨いてマウスピースもしっかりはめて寝ていたようで、安心した。これがないと歯ぎしりしたときに、どんどん歯が削れてしまう。


 横で寝ていたくんが寝返りを打ってこっちを向いた。


「明日はちゃんと約束守ってね」


 半分寝ているような、かすれた声で陽くんが言った。うん、とうなずくと陽くんに抱きしめられた。陽くんのパジャマは、油と汗が混ざったような甘ったるいにおいがする。この体勢のまま寝るんだろうか。無呼吸症候群の治療用の、ホースがついたマスクをして寝た方がいいのに。マスクをつけないと、陽くんは寝ている間に呼吸が突然止まって、溺れているみたいに荒く息をし始めたり、急に叫んだりすることがあるから、こわいし心配になる。陽くんがいびきを掻き始めた。眠りが深くなるのを待って、陽くんの腕から這い出る。毛布をわたしがいつのまにか剥ぎ取ってしまっていたので、頼りない薄手のタオルケットにくるまって寝ている陽くんに毛布をきちんとかけてあげた。


 思い切って布団から出る。ストッキングを履いた足の裏からフローリングの冷気が伝わってきて、思わず身震いした。


 リビングの本棚の中段からシュウマイのケージを両手で引っ張り出して、ダイニングテーブルまで持って行く。テーブルの上には、陽くんのパソコンだのボードゲームの箱だの爪切りだのはさみだの水道料金の請求書だのが積み重なっている。それらを端の方に寄せてスペースを作って、ケージを置いた。


 陽くんの部屋にはものが多い。テーブルとフローリングに敷きっぱなしの布団以外のスペースを封印しようとしているみたいに、高さの不揃いな棚が壁にびっしり並んでいて、ひとつひとつの棚にとにかくいろんなものがぎゅうぎゅうに詰まっている。陽くんの部屋に泊まるようになったころ、わたしの服を何着か押し入れにしまおうとしたら、押し入れの中も衣装ケースで埋まっていて、どれも満杯だった。一眼レフカメラとレンズ。ダイソーのノート数十冊。絡まりあったケーブル数十本。サンタクロースのコスプレ衣装。数百枚のジップロックが衣装ケースに入っているのを見て、「これって減らせないの?」と陽くんに聞いたら、「置くところがあるんだから、減らす必要ないんじゃない」と言われた。泊めてもらっている身で陽くんの部屋の使い方に口を出すのも違う気がして、「そうかもね」と答えたと思う。わたしの服は結局、布団の脇に積んである。


 ケージに寒さ対策のためにかぶせておいたタオルを除けた。薄暗い部屋の中で見ると、シュウマイは大きい毛玉みたいだ。シュウマイは回し車をこのまま死んじゃうんじゃないかと思うくらいものすごい勢いでまわしている。走るのが速すぎて、ちょっと宙に浮いているようにも見える。たまにこの回し車の土台部分とケージの側面が接触して、シュウマイが走ると音が響いてしまう。


 ケージの蓋を開けて手を突っ込んで、走り続けるシュウマイごと回し車を持ち上げる。回転がいきなり止まったのでびっくりしたのか、シュウマイはふわふわの白い脚で立ち上がってこっちの方を見た。シュウマイの目は真っ黒で、サカキの実みたいにつやつやしている。ハムスターは視力が悪いし、シュウマイからしたらわたしは大きすぎて、山かなにかにしか見えないだろうから目は合わない。ケージの底に敷いたウッドチップの床材が薄くなった部分を手で均すように整えて、回し車をケージ内に配置し直す。回し車の土台が安定して、ケージに当たらなくなった。シュウマイは相変わらず突っ走っているけれど、注意しないと聞こえないくらいのシャーという音しか鳴らなくなった。


 わたしがシュウマイをこの部屋に連れてきたとき、陽くんは「ケージをテーブルに置いてもいいよ」と言ってくれたけれど、それはなんだかシュウマイによくない気がした。ものが多いからか、陽くんの部屋はなんだか埃っぽい。代わりに、ちょっとでもましな気がして、本棚を一段分どうにかこうにか空けてもらったところにケージを置いている。だから普段はケージの正面からしかシュウマイの様子は見えない。ケージを本棚から出すと、ケージの側面からシュウマイが穴を掘って隠したエサが床材の隙間から観察できたり、シュウマイがすみっこで寝ているときは、ジャンガリアンハムスター特有の綿棒の先っぽみたいに白くてちっちゃいしっぽが見られたりする。シュウマイにエサをあげるときと、ケージを掃除するときの楽しみだ。


 シュウマイのケージを本棚に戻して、水道から出るめちゃくちゃに冷えた水で手を洗った。パジャマに着替えてコンタクトも外して、陽くんを起こさないように静かに布団に潜り込む。陽くんの体温が閉じ込められた布団の中はあったかい。


 陽くんがまぶしくないようにスマホの画面の明るさを落として、カレンダーアプリで陽くんとの共有カレンダーを確認する。明日の二一時にまた「スキンシップ」のスケジュールが入っている。もう三ヶ月くらい続いているセックスレスを解消するために、陽くんが提案して最近設定し始めたものだ。今日の分は、わたしがドタキャンしてしまった。昼間、陽くんに「共有カレンダーに予定入れといたよ」とLINEで言われたときは、「分かった」と言ったのに、陽くんが家に帰ってくるころになってやっぱりどうしても無理になって、飲み友達の早紀に連絡して外出してしまった。セックスしたくないのに、セックスしないといけない自分がひどくみじめに感じて、ものすごく嫌だった。陽くんには、「急にチームで飲み会をやることになったらしいんだけど、行ってきてもいい?」と聞いてごまかした。普段はリモートワークで、滅多にチームメンバーに会うことはないから、もし飲み会があったとしたら、実際行きたい。陽くんは「いいよ。急に予定入れてこっちこそごめんね」と返してくれた。


 もしわたしが明日のスケジュールを削除したら、陽くんは怒るだろうか。


 つま先が毛布から少しだけはみ出して寒い。

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