六道輪廻の徘徊者
鍵村 戒
序章 幼少期
起
初夏の陽気に見舞われていた午前中から打って変わって降り出した雨の影響で湿度が上がり、ジメジメとした空気が境内を支配していた。
とある仏閣の境内にある、本殿からは少し離れた小さな小屋。
そこで一人雨宿りをしていた少年は耳を抑えてうずくまった。
少年の耳には耳鳴りとは違う明確な何者かの声がはっきりと聞こえていた。
だが、それが何か分からない、分かることは学び屋で常日頃から行われる、お師匠様からの教えを受ける際にその声が強まるということだけだった。
その声は呟くようにお師匠様の教えとは別の教えを脳内で語り続ける。
彼にはそれが辛く、お師匠様の教えを侮辱されているようでたまらず逃げ出してきてしまったのだった。
そもそもこの声が自分ではないとは限らないのだ。
もしも自分の本性がこの脳内の声で、お師匠様の教えを侮辱するようなことを良しとする性分なのだとしたら、それはそれで自分自身を許せない。
荒い息を上げてこちらに向かってくる気配を感じ、顔を上にあげた。
「
うずくまっていた少年の顔を確認すると怒りの言葉よりも心配の言葉が口から飛び出した、そんな様子だった。
清々と呼ばれる少年は気怠そうに答えた。
「…大丈夫」
雨の中走って本堂から離れたこの地にわざわざやって来た少年は溜息を付くと清々の隣に座った。
「清々、お前最近変だぞ。教えを受けてる時に急に飛び出して行くし、教えを受けてる時も耳塞いでるしな」
清々の顔を覗き込むように聞くと、真っすぐ木々の葉から滴り落ちる雫を眺めていた清々は関心を示した様子を見せず、
「最近自分が…分からないんだ…」
遠くを見つめる清々を心配した少年は何か悩みでもあるのかと聞いた。
しかし清々は脳内で流れる声のことを親友にも話すことができなかった。
何か話したいことがある、だがそれを口に出せないことを親友は察した。
「…なぁ清々。俺たちでここを抜け出さないか?」
「…え?」
突然の親友からの誘いに動揺こそすれど直ぐさまそれがどんなに無謀なことであるかを思い出す。
「お、お師匠様から固く言われているし…この境内からは出てはいけないって…それに…」
清々が次々とここから抜け出すことはいけないことである理由を説くものだから聞いていた少年は辟易していた。
「んなこた分かってんだ。それを承知で言ってんだよ。それに、お師匠様の教え教えって言うけどな、お前最近ろくにお師匠様の教え聞いてねーじゃんか」
「う…そ、それは…そうだけど…」
痛いところを突かれた清々は思わず赤面した。
話を変えるように清々は話し始めた。
「なんで
「世界を知るためだ」
即答だった。
その時清々の脳内にはある小説の一節が流れた。
≪流れ星が流れるときに願い事を三回唱えると願いが叶うーーそれは流れ星という一瞬の出来事が起きた時にも願いを思い続けているくらいの強い願望が力となり願いをかなえるのだーー≫
流転という少年は強い願いがある、そしてそれを叶えようと行動に起こそうとしている。
(小さなこの世界でうずくまっている自分とは大違いだ…)
「俺たちはこの世界で生まれ育ってきた、かれこれ十年あまりが経過したがこの世界の事しか知らない」
「この境内しか世界というものは広がっていないかもしれないよ」
「其れでも構わない。一番嫌なのは行動せずに一生を棒に振るうことだ」
清々は何も言い返すことはできなかった。
流転のその光り輝く眩しい目を見てしまったからだ。
(敵わないな…)
清々は立ち上がった。
同時に流転も立ち上がると、清々は流転の方を向き
「ここを抜け出そう」
と言おうとした。
だが、それは叶わず、大きな爆破音と共に、二人の少年は小屋の壁に叩きつけられた。
原因は爆風だ。
大きな音と共に人を転ばすほどの風。
方角は本堂の方だった。
二人の少年は顔を合わせ、走り出した。
急いで本堂まで走ると屋根から何やら黒い煙が出ていた。
勢いよく扉を開けると部屋の中は閑散としていて人一人見受けられなかった。
部屋の中は暗く、しかし、整頓された机と教科書が先程まで授業があったことを物語っていた。
そしてまた、畳に黒く滲んだ血が散乱していることから、何かがここであった、と少年二人は確信した。
「何があったんだ…?誰かが怪我して皆で連れて行ったとか?」
流転が推理するも清々が、
「だとしたら全員で連れていく必要が無いよ…。お師匠様もそれは許さないはず。」
「じゃあこの血は何なんだよ」
清々は少し考えたが判らなかった。
自分が講義を抜け出してから三十分弱の間に何があったのか。
「流転は何分前にここにいた?」
「三十分くらい前かな。お前が抜け出してから俺もサボってた。」
「そうだったの?!」
「まぁな」
流転は何か言いかけたが、それよりも先に対処すべきことがあったため、話を切り上げた。
二人の少年はこの状況を考えたがこの世界のことを知らないが故に判断材料が少なく、結論など導き出せなかった。
「取り敢えず外を探してみるしかなさそうだな」
声一つしない本堂を眺め、流転は呟いた。
「…いや、待って」
部屋の内部を観察していた清々が本堂の奥社へと通じる扉が少しだけ空いていることに気が付いた。
「確かに妙だな。あの戸は通るときは開けたら絶対に閉めるように師匠から言われてるもんな」
「閉められない境遇だった…?それともその教えを知らない誰かが開けた…?」
冷静に観察するがやはり分からない。
「進んでみるしかないんじゃないか?清々。誰もいないんじゃどうしようもない」
誰もいない。
流転に言われ、周囲を改めて確認すると本当に一人もいない。
普段は必ずと言っていいほどこの仏閣の関係者が本殿前の広場にいる。
ある者は鍛錬をしたり、ある者は写経を読み上げたり、ある者は追いかけっこに興じたり。
だが、辺りは恐ろしく静かで今まで自分が過ごしてきた場所ではないのではないかと不安に思う程、普段とは様変わりしていた。
「どうした清々。大丈夫か?」
顔色を心配された清々は雑念を振り払うように頭を横に何度か振ると
「…大丈夫。流転の言う通り、先に進もう」
戸に向かって歩き出した。
清々が先に戸を開けると二人は思わず息を呑んだ。
血でできた足跡が廊下に沿って続いているのだ。
また、壁にも多くの血が飛び散っており、手形も多くあった。
「何だこりゃ…」
「これは…早く進んだ方がいいかもしれない…!」
珍しく感情的に清々が言うと二人の少年は廊下を駆けだした。
気付けば雨は止み、夏の空が顔を覗かせていた。
道しるべは奥社へと続き、またその奥社を超えて二人が一度も足を踏み入れたことの無い場所へと続いているようだった。
勿論、二人は指定された場所以外への移動は禁じられており、破ったものは最悪破門とすると告げられている。
「どうするの…流転?」
肩で呼吸する清々は禁足地を遠く見据えながら尋ねた。
「当然行く。外に出る良い機会だ」
「ほんとに…?」
清々は流転の発言を少し疑った。
だが清々とは反対に一切の疑いもない様子で答えた。
「誰もいない…この状況下で俺たちを助けてくれる人はいないんだ。頼れるのは自分だけなんだよ」
淡々と言うとさらに続けた。
「目の前に真相があるかもしれないのにそれを目前にして野垂れ死ぬのは嫌だしな」
「でも…お師匠様に𠮟られるかもしれないんだよ…?」
未だ腑に落ちない清々は弱気になっていた。
だが、既に流転の気持ちは揺るがないことを知っていた。
「あー破門っていうやつか?お前が心配してんのは。だったらこっちから願い下げ!二人で破門されようぜ」
にかっと清々の方を向いて笑いかけると禁足地に足を踏み入れた。
清々は流転のその真っすぐな目を見ると思わず俯いた。
自分の不甲斐なさ、情けなさが一気に込み上げてきたからだ。
目から落ちそうになった雫を必死になって隠すと上を向き、禁足地への第一歩を踏み出した。
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