虫と私

鱈場蟹 蠢徊

第1話

 人生を大きく変える出逢い。それは、小学校に入ってしばらくしてのこと。出逢った相手は、何を隠そう、昆虫である。

 生活科で、虫を飼育してみようという趣旨の授業があった。それ以前は、昆虫に対する興味など一切なかった。そのとき初めて、私は虫を観察することになる。私は驚いた。小さな命の灯火が激しく蠢くのを見て。しばらくして、その命は途絶えた。私は泣いた。

 得体の知れない衝撃を受けた私は、その後、一気に昆虫の世界にのめり込んだ。昆虫の世界は、自分の想像を軽く超えた実に壮大なものだった。私は、中でも蜂に興味を抱いた。二匹のヒメスズメバチを捕まえ、ハッチーとペッチーと名付けて、虫籠で飼育した。私は、ハッチーとペッチーを心から愛した。来る日も来る日も、虫籠に鼻を近づけた。今もなお、彼らの一挙手一投足を鮮明に覚えている。

 九年前の夏、私は神戸大学にいた。大学院で蜂の研究をしている前藤教授のご厚意で、研究室を見学させていただくことになったのだ。少年は、目を輝かせ心を躍らせ、何十もの質問を書き連ねたノートを手に抱え、教授の研究室に入った。教授は、質問一つ一つに丁寧に答えてくださった。まだその頃は、幼稚さゆえに、事の重大さを理解していなかった。著名な大学の教授が、一介の小学生のために数時間を割いてくれたという事実の重大さを。今では、あの時の記憶を思い出すたび、前藤先生への深い感謝の念を抱かずにはいられない。

 自分も前藤先生みたいな昆虫学者になりたい。その思いを胸に、自分は一途に昆虫学者を目指し始めた。

 しかし、道は緩やかではない。自分ほど昆虫を熱烈に愛している人なんて近くにはいなかった。その上、自分が好きな昆虫はどれもマイナーでマニアックだった。

 次第に、周りから変人として認識されることが増えていった。成長していく中で、自分の趣味嗜好はかなり異常なのではないかとも思い始めた。怖かった。

 小学五年生の頃、昆虫をやめようかという考えが頭を過ったこともあった。その頃は、天体に興味を持ち始めていた。

 でも、その時、母は言った。

 「天体に興味のある人は山ほどいるだろうけど、あんたほど昆虫に対する情熱と知識がある人は、そうそういないよ。」

 その時、気づいた。

 やっぱり、虫だ!自分には虫だ!

 前藤教授の顔が脳裏に浮かぶ。

 昆虫学者になってみせる!

 そして、今に至る。今、私は蝿が好きです。あなたは驚くだろう。えっ、なんで蝿?

 昆虫には、たくさんの分類群があるが、中でも特に種が多様なものが五つある。大まかにいえば、甲虫・蝶・蜂・亀虫・蝿。甲虫や蝶の愛好家が多いのは言うまでもない。蜂や亀虫好きもそれなりにはいる。一方で、蝿…言わずもがなその人気度の低さは種数の多さとは真逆の様相を呈する。日本国内に、いわゆる蝿好き!な人は、せいぜい百人程度だろうか。

 それでも私は蝿が好きだ。あんな気持ち悪い虫なのに…とあなたは思うだろう。

 じゃあ、ここで、私から質問。あなたは、今、即興で蝿の絵を描くことができますか?

 急に描けと言われても…紙の上に、粗雑に小さな点を黒く塗りつぶし、そこに翅を付け足しておく…ほとんどの人には、それくらいの曖昧なイメージしかないだろう。

 でも、実際の蝿は、本当にそんな姿?

 いいえ。そんな一つの点で表せるようなものではない。あなたは、蝿の真の姿を知らない。

 蝿一匹にしても、その身体には無限の構造が詰まっている。驚くことなかれ、実は、蝿の身体に生える剛毛一本一本に名前がついているのだ。

 そして、一匹一匹に個性がある。同じ種類でも、毛の本数が違ったり、色が違ったり、突然変異が見られたり。

 もちろん、個体の多様性だけでなく、種の多様性も著しい。黒色だけじゃない。銀色、黄色、金色、赤色、青色、稀に緑色の種類もいる。とんでもなく細長いのもいれば、異様に平べったいのもいる。蝿はみな翅を持つというイメージさえ、見事に打ち砕かれる。

 みんなちがって、みんないい。

 今、この瞬間も、地球の至る所で、一匹一匹の必死に生きる姿が、「いのち」という壮絶なドラマを描く。それらは誕生と消滅をあらゆる速度で繰り返しながら、複雑に交錯して巨大なネットワークを形成する。我々の未だ知らぬ世界が、今も蠢きつづけている。

 そう考えると、居ても立っても居られない。私は走り出す。虫を求めてどこまでも。

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虫と私 鱈場蟹 蠢徊 @Urotsuki_mushi

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