現かあるいは白昼夢

氷雨

現かあるいは白昼夢


 “私”という人間が産まれてから20数年。

長いようで短いのかもしれないその生涯を、私は自らの手で終わらせようとしている。


足元の毛布にはもうぬくもりはない。

朝から姿を変えずに布団が置かれたままの寝室に私はただ呆然と立っていた。


 時が止まったかのようにゆっくりと進む昼過ぎ。

息づかいと心臓の音がやけに聞こえてくる。


 私は人間社会で生きるには、あまりにも向いていなかった。

笑顔と本性を切り替える人間を理解こそしても、恐怖した。

目の前で笑う人間が裏で自分を忌み嫌っているのではないかと誇大妄想に囚われていた。

……私は、人を、自分自身をも信じられない。平気で自分を裏切る他人が恐ろしい。


息苦しい生活を幾度となく終わらせようと繰り返しては、死にたくないと叫ぶ本能に従って生き長らえていた。

私は死を否定し続けることで、生きているというだけであった。


 とっくの昔から私は人生を悲観していた。

生きる価値がないのは当たり前で、存在する理由もないのも当然で。

そんなありきたり理由には大方、答えを出してきた。


進化の先には自滅するしかないように、生物が生きることに疑問を持つこと自体が、荒唐無稽で欠陥なのだ。


生まれてしまったことが全ての過ちだった。

私など、生まれなければよかった。


もし人生をやり直せたら、どこからだろう。


それを正せば、苦しまず普通に生きていけるのだろうか。


全身が浸かるほどの悲しみと絶望の中で、ほんのわずかな期待が光を放って__首を吊ろうとして気づいた。


 目の前に見慣れぬ少年が見えたのだ。


走馬灯と呼ぶには奇妙だ。

幻覚でも見ているのかと惚けていると


はじめまして、と彼はにこり笑いかけた。綺麗なソプラノだった。


誰? 喉の奥から掠れた声を絞り出す。

少年は笑みを絶やすことなく微笑む。


「君たちが呼ぶ、天使のようなものかな」


「好きに呼んでよ」


 脳は早々に考えることをやめている。

ただ天使と名乗る少年の無邪気な笑みが眩しくて、自分の汚れが際立って見える。

思わず、顔を背けた。


「君は違う世界の自分がどうなっているかって思ったんだよね。

僕は君の願いを聞いてここに来たんだ」


彼は快活そうな声で笑いかける。

どうせ自分は死ぬのだから、この際、彼の言葉を信じてやってもいいだろう。


「教えて。他の私が…どうしているのか」


「もちろん」


 少年は大きく頷く。羽根こそ見当たらないが正に天使と呼ぶに相応しい。

暖かな木漏れ日のような人柄に安心感を覚え出す。

きっと彼は、私がこの閉鎖された状況から打開する存在なのかもしれないと、期待に胸が膨らんだ。


「…例えば、もし私がひとり暮らしを始めていたら…どうなるの?」


「そうだなぁ…」


 彼はかわいらしく悩む素振りを見せる。

そして、にこりと笑って語り出した。


「ある世界では、君は大学の進学と共にひとり暮らしを始めた。

でもね。学校も仕事も大変で心身も衰弱していった。

そして3年も経った頃にはとうとう今みたいにマンションの一角で、首を括って自殺したんだ」


 重い沈黙。

冷や水を浴びせられたように空気は静まりかえった。


今、彼は 何と言ったのか。


当の本人は相変わらずニコニコとしている。

彼の笑顔を見ていると、先程の言葉は気のせいなんじゃないかと思い始めていた。

花のような笑みに吊られて、私は醜い作り笑いを貼り付けた。

先程の言葉を誤魔化したかったのだろう。


少年のもつ天使と名乗る “ 悪魔 ” 的な魅力を恐れる自分と、それを客観視する自分がいることに気がついていた。

それなのに、さっきのはきっと質の悪い冗談なんだと思い込んでいた。


「……じゃあ次」


「次はね……君は大学に行かずに高校卒業してすぐ就職をした。

やっぱり仕事と家庭の板挟みで君は疲れ果てて、ふらりと駅に飛び込んでしまったんだ」


 先ほどと同じように彼は涼しげに笑みを浮かべている。

頭を抱えた。もう聞きたくない十分だ。

なのに口は勝手に動く。


「次は」


「就職ができなかった君は虐待を受けて……」


「……これなんてどう?就職先はいわゆるブラック企業というやつで……」


 もうやめてと、私は耐えきれずに思わず耳を塞いで叫んだ。

そんなことが聞きたかったわけではない。


どこかの“私”はきっと幸せなはずだ。愛されていたはずだ。

そうでなければ私は__

縺れた長い髪をぐしゃぐしゃに手繰り寄せる私を見て、彼は冷ややかに笑う。



 そして、もう堪えきれないとばかりに腹からと笑いはじめると、最も聞きたくなかった事実を並べ立てた。


「君が生きていける世界だって?そんなものがあるわけないじゃないか!

君のそのどうしようもない性根こそ、生きる上でどうしようもない程に“邪魔”なんだよ!」


口から何か言葉が滑り落ちる。


…この悪魔。


殺意の滲んだ激しい憎悪の言葉に、彼は変わらず意地の悪い笑みで返す。


「あはは!悪魔は君の方でしょ。

自分よりも誰かを憎んで死ねるなんて良いじゃないか。

……全ては君の幻想なんだよ。君の頭の中のお話さ」


彼はちいさな頭を華奢な人差し指でとんとんと叩いてみせる。

少年は__いや、あれは最初から天使などではなかった。


 あれは、現実を知る自分だ。

気づいたら自我が壊れてしまうからと、無意識が今までなかったものにしていた存在だ。

こんな人として欠陥品が、どこでどうなろうと変わりはしないという事実を、最期に告げてきたのだ。


 全てを“理解”してしまった私は獣よりも醜い絶叫をあげた。

形容し得ぬ程に醜くく、酷い騒音だった。

それは身体が、精神が、完全に壊れていく音なのかもしれない。

近くに置いてあって包丁を引ったくるように手に取ると__一切の迷いなく真下に見えた胸元へと真っ直ぐ突き刺した。





 お昼のニュースです。

本日◼︎時頃、◼︎◼︎県◼︎◼︎市にて女性が自宅で死亡していることが発見されました。

近所に住んでいた住民が女性の叫び声を聞いて住宅へ入ってみたものの、鍵はかけられていないらしく、寝室と思われる部屋には胸を刃物で刺されたと思われる女性の遺体が発見されました__発見後、すでに亡くなっていることが明らかになりました。近所の住民らによると__

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現かあるいは白昼夢 氷雨 @marin0806

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