恋はすべてをぶち壊す
海山馬骨
1話 諏訪原一花
ある日、こんな夢を見た。
夢だったと思う。足元がふわふわでおぼつかない変な場所で、あたしは見たことのないくらいきれいな女の人と話をしてた。
その女の人は電球みたいに自分自身が発光していて、よく見えない。
細かなパーツも表現できない。ただ、とにかくひたすらきれいな人だという印象だけがあった。
『なるほど、なるほど。つまりは運命的な恋をしてみたいってことですねー』
『いやそういうことは言ってないですけど』
『自分が運命の恋をするには、運命の恋を間近で見るのが一番です! そんなあなたにはこの能力を授けましょう!』
『どうしようこの人……全然話聞く気がない……』
あたしはただ、自分の幼馴染同士が付き合いだして、当てられるし疎外感あるしで、毎日きつい。
という相談というか愚痴を言っただけだったのに。
そのひたすらきれいな女の人は、あたしに向かって両手をかざし、ますます体を光らせた。
そしてストンと自分の中に『何か』がはまり込んだ感覚がした。
『力の使い方に悩む必要はありません。指先であれどこであれ、あなたが触った人はすぐさま自分にとっての運命の人に出会える運命に導かれるのです!』
なんだそれ。なんの使い道があるのかもわからない。金運がすごくよくなるとか、そんなののほうが全然いい。
『うふふふふふ。やっぱり人間、恋をしてこそってものですよ。さあ、めくるめく恋の世界へようこそオーライ!』
そこであたしは目を覚まし、なんだこの夢と思ったことを覚えてる。
それが実は夢ではなかったらしいことを、すぐに思い知ることになり。
夢であれば、どんなによかったかと毎日願うことになったのだ。
それがあたしの地獄の始まりだった。
※ ※ ※
あたしが一階に降りると、今日もお店に明かりはついていなかった。
あまり採光がよくない店舗は、電灯をつけないとすごく裏寂れて暗い、まるで廃墟のような雰囲気になる。
もちろん休業したわけではないから毎日掃除は行き届いてるし、埃が舞ってたりするわけでもないけど。
カウンターのすぐ背中には『諏訪原商店』という大き目のステッカーが主張していて、それがこのお店の名前だ。
限界集落とまではいわないけど、スーパーも病院もコンビニもないし、大きな街にはアクセスが悪い。
そんなあたしの生まれ故郷にはなくてはならない生活の友。
だから、いまどき個人商店の雑貨屋なんて営業形態でふつうに商売が成り立っていた。つい先日までは。
そのカウンターにはいま、二人の人物が座っている。
営業してないからカウンターにいる必要はないはずだけど。まるで番の鳥のように彼女たちは身を寄せていた。
さも心配げな顔つきで、相方を見つめながらその手を握っているひとは嵯峨野芽衣さん。
そう、テレビ見てる日本人なら誰でも知ってる、ゴールデンのドラマに引っ張りだこの大女優だ。
細く高く通った鼻梁に、これもほっそりした頬から顎のライン。凛々しい目つき。長すぎるまつげ。
ああ、もういいや。美人に決まってるんだから。それはもう、『テレビでしかお目にかかれない美人』っていう言葉そのものの存在だ。
ボブカットにまとめた髪が、今日のパンツスーツとあいまって、男装の麗人かのような、どこか背徳的な色香を漂わせてる。
そんなひとに一心に見つめられ慰められてるのは、あたしの姉の諏訪原一花だ。あたしはいちねえと呼んでる。
釣り合いなんて取れてるわけない。我が姉ながらきれいなほうとは思ってたけど、嵯峨野芽衣と並んで見落とりしない女なんて、同じ芸能人でも指折り数えるほどしかいないだろう。
いちねえは、カウンターの上に乗せている、祈られるように組まれた自分の両手を、ただ物憂げに見つめている。
またすこし痩せた気がする。『こうなる』前にはダイエットの話をしていた、同じ人物とは思えない。きっとまともにごはんが食べれてない。いちねえはいつもならポニーテールに結んだ髪型がトレードマークで、快活そのものという印象だったのに、髪を降ろしてうつむく様子はこの世の終わりを思わせる。
あたしはふたりに気づかれたくなくて、なるべく物音を立てないように、飲料用の冷ケースからミネラルウォーターを取り出した。
本当にかすかな音もさせなかったはずだけど、あたしの気配を耳ざとく察知した芽衣さんが、あたしのほうに背を向けたまま、目だけで振り返って言った。
「ああ、蜜音ちゃん。よかった、起きてたんだね。今日はまだ何も食べてないでしょう? あとでごはん持っていく」
「……結構ですから」
芽衣さんに施しを受けるいわれはない。
いまこんなことになってしまったのは、全部あなたのせいじゃないか、と叫びたかった。
いちねえはあたしたちのやりとりに、何もいわない。
なんかいえよ。頼むから言ってよ。
責める気持ちが湧き出して、だけどあたしは自分の手に爪を食い込ませてぎゅうっと握る。
ほんの一週間前までは、このお店はいつも明るかった。コンビニのイートインコーナーよろしく、店内に設置された丸椅子とテーブルは集落の人たちの憩いのスペースで、あたしが学校から帰ってくるどんなタイミングでも、いつでも誰かの談笑が聞こえてくる。そんな空間だった。
いちねえが忙しいときは旦那さんの陸斗さんが、まあ大体の場合はいちねえが店を切り盛りしてて。
そして、そこにはいつも可愛い聖也の姿があった。2歳になったばかり、やっと立って歩けるようになったところで、目を離せない可愛いさかりの甥っ子だ。言葉らしきものを発するようになりだしたところでもあり、いちねえのことを「おか」と盛んに呼び立てていた。
僻地だから幼稚園への送迎も大変ということで、うちでずっと面倒見てた。村中総出で村の子供みたいな可愛がられようだった。
もちろん、お母さんであるいちねえがその筆頭。自分の初めての子供が可愛くて仕方なかったようで、店番もそこそこにしょっちゅう触ったり撫でたり、それまで聞いたことのなかった猫なで声で話しかけたり、こんな構ったら逆に情操教育に悪いんじゃない? って心配になるくらいだった。
そしてもうここには誰もいない。暗い店に残っているのはいちねえと、いちねえの恋人と、無言に過ぎる重い時間。
壊れてしまった。たぶんあたしが壊した。だからあたしは、ふたりのことも本当は責められない。
※ ※ ※
それをしてしまったのは、好奇心ともいえないレベルの気まぐれでしかなかった。
指先であれどこであれ触ると、ねえ。
あんな荒唐無稽な夢を信じた、なんてことはもちろんない。
ただ、そういえばいちねえに触れたことなんて何年もないな。と思ってしまっただけ。
それはそうだろう。いくら仲がいい家族だからって、手をつないだり抱き合ったりなんてことはない。というか日常的にそんなことしてたら、もう家族ではない別の何かだろう。
べつに憎んだり嫌ったりしてない。むしろ家族として好感を持ってて、姉として敬意を感じてる。
ちょっと蓮っ葉なところがあって、だから言葉使いがたまに乱暴で、ざっくばらんで物事にこだわらなくて、嫌なことも笑って流す、そんな姉をあたしはむしろ大好きだった。
なにより、両親が事故で急逝したとき、大学を辞めてこの田舎へ帰ってきて、店を引き継いでくれたことには感謝しかない。
言葉にして言われなかったけど、ふたねえと二人暮らしになるのを心配してくれて、当時まだ中学生のあたしの環境が急に変わらないようにしてくれたんだってことは、あたしも察していた。
「大学行ってもやりたいこと見つからなかったからさあ」
と苦笑しながら、自分自身が理由でそうしたんだ、って装ってくれた。そんないちねえをあたしはすごく大人に感じたものだ。
田舎に帰ってきたいちねえは、そのあとすぐにご近所で幼馴染の陸斗さんと結婚して、聖也を授かった。
出来婚じゃない。ちゃんと、結婚から一年以上たってからの計画的な妊娠出産。大人の世界は何もわからないあたしは、収入的に大丈夫なのかなんて心配したりもしたけど。そういえば子供のころからお金で困ったって記憶がないから、うちはわりと蓄えもある裕福な家らしかった。雑貨屋なのに。
聖也が生まれて、成長するにつれ、うちはどんどん明るく楽しくなっていった。
両親を急に亡くした悲しみも、いろんな理由で急に泣き出す聖也を相手する大変さにまぎれ、いつのまにかずいぶん癒されていた。
そんな聖也をあやして、指を絡めて遊んでいるいちねえを見て、そういえば。なんて思ったのだった。
最後にいちねえと手をつないだのって、小学校の入学式だったかな? あたしは適応力の低いこどもで、それは今でも変わってないんだけど、いまの聖也と同様にうちで育てられたせいですごく引っ込み思案に育ってしまい、小学校という新しい環境へ行くことが怖くてぐずってしまったのだった。
そして当時中学生だったいちねえは、あたしと手をつないで、「これだったら頑張れるかー?」と、あたしを小学校まで連れてってくれたのだ。そうだな。記憶にある最後の接触はあれだと思う。
勇気をだして行った小学校は、そこで出会った今に続く幼馴染たちのおかげもあって、本当にいい思い出になってる。
……ただ、最近はその思い出が反転してあたしに襲いかかりつつあるんだけど。
あたしは嫌な気持ちを頭を振って追い出しながら、聖也を抱くいちねえに近づいて、聖也とつながれたその手に自分の手を重ねてみた。
「なんだなんだ。蜜音お姉ちゃんまで甘えっこか?」
「や。そういうんじゃないんだけど」
変な夢を見たから。
なんてことを告げるのもおかしな気がして、じゃああたしのこの行動はいったいなんだよと思いつつ、しばらくその手を撫でまわしてた。
(特になにも起こらない。……当たり前か)
そして、そんなことを思ってた。愚か者だ。
実際は、起きていたのだ。そのときのあたしには知る由もないだけだった。
もしもあたしがもらった能力というのが、あんなふざけたもんじゃなくて例えば時間を飛べたりすることだったら、あたしはその瞬間に戻ってぶん殴ってでも自分を止める。
でもそうはならなかったし、起きてしまったことをなかったことにもできやしなかった。
※ ※ ※
あたしが無思慮にもいちねえに触ってしまった、翌日のこと。
あたしはその日、神社の境内で、漫画を読んでいた。
隣には幼馴染の瞬がいて、遠くを見ながらかき氷アイスバーをかじってる。
いま読んでるのは、彼女が描いた漫画のごく初期作品。小学校6年のときに描いたやつだ。
久しぶりに読みたくなってねだったら、下手だから嫌だと恥ずかしがりながら、アイス一本を代価にして家から持ってきてくれた。
こんな田舎に私服でいるときでもおしゃれに余念がないきらきら美少女の瞬は、こう見えて漫画を描く。ただ、あんまり裕福な家庭ではないから、いまどき当たり前らしいデジタル作画の環境を揃えるお金もないし、かといって原稿用紙なんかを毎回買ってるお金もない。
だから大学ノートに10冊分くらい、いままで作品を描いてきてた。
裏写りしないように下敷きを引いて、片面ページにだけ丁寧に丁寧に。それで60ページの大学ノートが埋まって、30ページ分の一冊の漫画になる。
キラキラしててオシャレで可愛くてクラスの中心の彼女が、こんなに漫画を描く時間があるのは不思議でしょうがない。そしてそれをあたしにしか読ませてないらしい。だから、あたしが彼女の漫画のファン一号で、ひょっとすれば最終号なのかもしれなかった。
特に大きな事件が起きるわけでもない、日常を印象的に切り取ったようなその漫画は、女子高生が描くには渋好みが過ぎるかもしれないけど、あたしは好きだった。欠点は、毎回登場人物は違うはずなのに、みんな判で押したように同じような人物像であることで、どの作品も読み心地がほとんど変わらない点だろうか。
最近では雑誌に載っててもおかしくないと思えるくらい絵も上達してきてる。この初期作品と比べれば、成長の度合いがよくわかる。
こんなに一生懸命描いてるんだから、将来は漫画家になりたいのかな。
でも、瞬からそんな話をされたことはない。
あたしが漫画に没頭してると、ピコンと通知音が鳴る。あたしのじゃなく、瞬のスマホから。
スマホをいじっていた瞬が、あたしにその画面を見せてきた。
「嵯峨野芽衣が来てるって、この村に」
「いやうそでしょ」
冗談にしても脈絡がなくて、嘘だったらレベルが低い。このときあたしはそう思っていた。
そして高齢化著しい寒村に、とんでもない大事件が起きた。
芸能人が来た。それも、そろそろ仕事がなくなりつつある過去の人なんかじゃなく、今をときめく大人気女優だ。
「うーわ……きれえ……」
「顔ちいさあ。スタイルから違う生き物みたいじゃん」
あたしと並んでその人物を観察してた、幼馴染の遥と瞬がいう。
女の子みたいな名前を恥ずかしがって、坊主頭で野球部を頑張ってる遥。
男の子みたいな名前だけど、おしゃれでいつもキラキラしてて女子高生の見本品みたいな瞬。
ふたりは先月から付き合ってて、あたしは彼女たちと一緒にいることが近頃つらい。
ふたりを見てるとすぐに浮かんでくる嫌ぁな気持ちを振り払って、あたしは遠くのひとに注目した。
確かに。ふたりのいうことは正しい。
この村どころか、街に出たって一度も見たことがない、とんでもない美人さんがそこにいた。
ただ立って、スタッフさん? みたいな人と立ち話をしてるだけなのに、にじみ出るオーラみたいなものを感じる。
嵯峨野芽衣。CMでもドラマでも見ない日がない超有名人だ。
口を開くと自分の青春時代のスターの話しかしない、うちの3件隣に住むおじいちゃんでも知っていた。
そんな人がこんな村に来るなんて、ありえない事態に、みんなすぐ大騒ぎになった。
田舎者はみんな知り合いだ。連絡網の伝達は一瞬で終わる。
「ちょっと、四つ角んとこで嵯峨野芽衣見たんやけど」「は?」「冗談でしょ?」「騙された思ってきてよオーラやばい」
第一発見者が誰だったかはもうわからないけど、そんなLINEを発端にして、村人の半数が集合するのに時間はかからない。農作業ほっといて来てる大人までいる。
物見高い不審な田舎者に包囲されたというのに、嵯峨野芽衣はそんなこと慣れっこといわんばかり、完璧な笑顔であたしたちに手を振ってよこす。キャーーーとみんなから真っ黄色な悲鳴が上がる。あたしも言ってしまったかもしれない。
「JAF呼んで運んでもらうっていっても、ここじゃ一日がかりでしょう?」
「そりゃ、そうなんですが。でもここじゃ宿だって用意できませんよ」
「それならいっそ民家お泊り企画にしたら? こういう企画ってアポ後取りふつうでしょ?」
「いやいやいや! 嵯峨野芽衣をそんな、そんじょそこらの民家に泊められないですって!」
「でも車が動かないんじゃあ……どうせ明日の予定まるまるダメじゃない」
「タクシー呼んででも今日中に戻ってもらいますから!」
あたしたちに聞こえるように言ってるんだろうか、彼女がスタッフさんらしき人とちょっと剣呑な雰囲気で会話してる。
暑いのにスーツ着てるし、ひょっとしてマネージャーさんなのかな? その人は止めに回ってるけど、嵯峨野芽衣はあえて大声で話して、自分の考えを回りに宣伝してるみたいだった。
それを聞いてた瞬が、あたしの横から飛び出した。
あ、と思った。止めようとしたあたしの手が空振りする。
どうして、あ、と思ったのかはわからない。防衛本能みたいなものだったのかもしれない。
「あ、あのー! ここ番組とかに使うんですか?」
「なに、君は」
嵯峨野芽衣の周りにカメラマンはいるけどカメラは構えてない。撮影してないんだろう。マネージャーさん? が警戒した顔で嵯峨野芽衣を守るように前に出た。それを回り込んでさっと躱して、彼女は瞬の手を取った。
「そうそう! ここって何か見どころとかある?」
有名人に手を握られて、瞬がいつもの強気も鳴りを潜めて、顔を真っ赤にしていた。何アレ。あんな瞬見たことない。
その瞬が、あたしを振り返ってウインクしてきた。何を意味するウインクなのか、あたしにはさっぱりわからない。
「見どころ……ただの村なんでぇ。ほんと何もないですけど。新しくてきれいなお店あるんですよ! みんなの集会所みたいな」
「おー。いいじゃん。素朴で面白そう。そこ行ってみよっか。じゃあ、決まりね?」
嵯峨野芽衣がもう決定とばかりスタッフに指示しはじめて、スタッフたちは諦めた感じで機材の準備をはじめた。
テレビ番組の撮影ってはじめて見るけど、こんなにその場のノリで決まって動くものなんだ。
あたしがちょっとびっくりしてると、嵯峨野芽衣に手を振って、瞬があたしたちのところに戻ってきた。
「蜜音、あんたのウチ行くことに決まったっぽい!」
「ええ……そんなの撮ったってしょうがなくない?」
「いいじゃん。一花さんも会いたがってたでしょ?」
余計なお世話されてしまったなあ、というのがあたしの正直な感想で。
ただ、いちねえが嵯峨野芽衣を一目見たいって残念がってたのも本当だった。
今日はいちねえと陸斗さんの二人が通ってた、街の高校の同窓会があって、陸斗さんはお出かけしてる。往復が大変だから明日まで帰らない予定。
だからいちねえも同窓会に出たかったろうけど、店を空けられなかったのだ。
べつに店番なんかいなくても、泥棒なんてこの村に出ないと思うけどね。まあお客さんは来るかもしれないから。そういう、ここってところで急に真面目になるのはすごくいちねえらしかった。
瞬が主に先導役になって嵯峨野芽衣を相手しながら、あたしとそれから遥がついていく。その後ろからゾロゾロとスタッフのみなさん。さらに後ろから村人一同。
ほんとなにも映すとこなんかない、ただ生垣とたまにブロック塀が延々とひたすら続くだけの、どこにでもある田舎の道路。
ふだんはたまに車が通るくらいのこの道を、こんな人口が往来するのは村始まって以来かもしれない。
あたしは不思議な気分でそれを眺めてた。
いつもはべらべらと自分のことばかり喋るタイプの瞬は、今日は聞き役に徹してた。
まあ、気持ちはわかるよ。きっと二度と会えない有名人相手だもん。相手のことこそ聞きたいよね。
そこで語られたのは、今日この展開に至るまでの数奇な出来事だった。
はじまりは、来春封切り予定だった映画の撮影延期。夏が舞台の映画だから、どうしても夏にしか撮影できないシーンが必要なのに、主役級の一人が急な体調不良で撮影に参加できなくなった。
そうすると、そのために空けておいた嵯峨野芽衣のスケジュールにかなり大きめの空白ができてしまった。
スタッフやマネージャーは忙しすぎた嵯峨野芽衣を心配していて、これをお休みに当てたらと提案したけど、彼女はどうせならともともと興味があった旅番組とか田舎番組に出てみたいと言い出した。
それこそ急なことだけど、なにせ大人気女優が出てくれるということですぐに出れそうな番組の予定はついた。
でもやっぱりいきなりだったものだから、事務所の調整が失敗して、本来なら有り得ないはずの共演NGの人が同じ番組に出ることになった。というか、もともとそっちが先約で、嵯峨野芽衣のNGが伝わってなかったってことらしい。
ねじこんだタイミングもドタバタだから、彼女とスタッフたちはもう現地へ向けて移動してしまっていた。
そこでこのことが発覚して、嵯峨野芽衣は、みんなに迷惑なのはわかるけどあの人だけはどうしても無理、と断固拒否。
テレビクルーを引き連れたまま、この村の近くに来た。そのまま国道を進めば、村から一番近い街へ抜けるのに、昼時だったこともあり、急ぐ予定でもなくなったし、どうせなら現地のものを食べましょうと峠の茶屋的なお店で昼ご飯を食べることになって。
その間に周辺情報を調べていたスタッフが、どうせなら近くの村へ行ってみましょうかと言った。なんらかの撮れ高がないと会社に帰れないテレビマンの性というやつだろう。
彼女は二つ返事でそれを了承し、一行は山がちでかなり険しくも狭い、この村への道を辿った。
そしたら、スタッフと機材満載でかなり無理をさせていたうえ、整備不良だった撮影車が、この村の入口あたりエンストしてうんともすんともいわなくなってしまった。車に詳しいスタッフが見てもお手上げ。
それで、さっきの場面に至るというわけだ。
あたしはそのとき、強烈な違和感に襲われていた。
そんなことってありえる?
偶然と、誰かの気まぐれ、偶然に、気まぐれ。
それがつづら折りになって、折り重なった結果として、嵯峨野芽衣がここにいる。
その途中のどれか一つでも気まぐれが別方向へ向いたり、あるいはトラブルが起きてなければ、このひとがこの村に来ることはありえなかったのだ。
奇跡でしか起き得ないようなことが実際に起きている。あたしはどうしても、それをたまたまだと思えなくなっていた。
あの夢のことが頭をよぎらずにいられない。わけもない、いやわけがありすぎる不安が湧いてくる。
雑談のうちに時間は過ぎる。
一行は、諏訪原商店へと到着してしまった。
「ああ、いらっしゃい瞬ちゃん。ほんとに連れてきてくれたん? わあ、あたし芸能人見るの初めてだ……わ……」
ニコニコと、瞬を出迎えたいちねえが、口にしかけた言葉を最後までいえなかった。
目を瞠って、呼吸を忘れたように、唇を開きっぱなしにする。
その頬が瞬く間に赤らんで、瞳が泣き出す寸前のように潤んでいった。
あたしは姉のそんな顔を見たことなどもちろん、ない。陸斗さんにも見せたことがないはずだ。
問題なのは、それを受けたもう一方だ。
なにか重大なことを隠さなければいけないというように、嵯峨野芽衣は口元に手をあてた。
きれいな形の大きな瞳は、いちねえに負けないほど大きく開かれていた。
こんなところでいきなり演技するわけがない。だから、あきらかに演技から来るものではない、上気した頬を涙が伝った。
人が恋に落ちる瞬間に、音というものがあるとしたら、そのときあたしはそれをはっきり聞いたのだった。
※ ※ ※
撮影は中止になった。
呆けたように見つめあい続ける二人に、さすがにしばらくして周りが不審を覚え、声をかけた。
そしたら嵯峨野芽衣が主張を一変させて、こちらに急に来て迷惑をかけられないと言い出したからだ。
不承不承、不満たらたら、そんな様子で解散させられたスタッフは、その日は壊れてしまった撮影車で車中泊することになったようだ。
嵯峨野芽衣はといえば、いちねえから言い出してウチに泊まることになった。
……なんで?
ふつうなら有名人が自分の家に泊まるなんて、喜ぶところなのだろう。
でもあたしはさっきの様子を見てしまった。いちねえがどんなつもりでそれを言い出したのかってことに、疑問を感じないでいられない。
それなら私も、と言い出して泊まりたがった瞬を苦労して追い払い、あたしはその晩、異常な食卓に着くことになった。
4人がけのテーブル。いつもの定位置は、いちねえの隣に聖也。向かいに陸斗さん。その隣にあたし。
でもそのとき、いちねえの隣に座ったのは嵯峨野芽衣。聖也はあたしの隣に座らされた。
食事はゆっくりと進む。言葉少なに、いちねえと嵯峨野芽衣が何度も見つめあって中断したからだ。
ときどき、聖也がぐずる。あたしが泣き止まそうとしても、母を求める心にはかなわない。そうするとさすがにいちねえが立ち上がって、聖也を構いにくる。嵯峨野芽衣のそばを離れるとき、いちねえはちょっと申し訳なさそうな苦痛の表情を浮かべてた。そして嵯峨野芽衣は、ずっといちねえを目で追い続けた。ずっと、ずっとだ。他のことなど何も目に入らないように、聖也を抱き上げるいちねえを見つめ続けてた。その表情はあまりに野放図で、女優と呼ぶには取り繕うことを忘れすぎていた。
うちは、店の部分はリフォームしたけど、2階の住居部分は古い木造建築だ。
だから壁が薄い。
あたしの部屋の隣は、いちねえが昔に個人で使っていた部屋にそのままダブルベッドを置いただけの、夫婦の寝室。
予感がしてた。だから夜半になってもあたしは寝つけなかった。
そこに、押し殺したような、けれども確かに甘い声が、響いてきた。聞いたことのないような、だけど家族だからわかってしまう、確かにいちねえの声だった。
何が起きているかわからないわけがない。
さっぱりしていて、あまりものごとに執着しない、でも家族を誰より大事にしてる。
あのいちねえが、不倫してる。
それも、今日初めて会った同性と。
あたしは頭がおかしくなりそうだった。いっそ、狂ってしまったほうが幸せだったかもしれない。
聖也が。子供が、いるんだよ。なに考えてんの。そういえば、いま聖也はどこにいるんだろう。いつもなら、いちねえと一緒に寝てるはず。
そのとき、一階から赤ん坊の泣き声が響いてきた。
きっと店のカウンター裏の住居スペースにあるベビーベッドから。
聖也のお母さんを呼ぶ声は、そのあと一度も、誰にも止ませてもらえなかった。
感極まったような女の鳴き声も、その晩一度も止まなかった。
あたしは頼むから泣き止んでと、頭をかきむしって何も行動できなかった。それをどっちに向かって言っていたのかわからない。
翌朝あたしは、いちねえとあの女と、二人ともを張り飛ばしてやらないと気が済まないと階段を降りた。
未明のことだ。電灯をつけてない店舗スペースは暗い。
その暗がりのなかで、二人の女が抱き合っていた。そして顔が重なってた。深々と、ふたつの唇が重なっていた。
いちねえと嵯峨野芽衣、どっちの服も大急ぎで無理に着たように乱れていた。
あたしは呆然とそれを見た。
あたしの足音に気づいたらしい二人は、気まずそうに居住まいを正したけど、身を離したりはしなかった。
あたしと目を合わせないいちねえは、ほつれ毛を気にするように自分の髪をいじっていて、おくれ毛が汗で湿ったうなじに貼りついていた。その首筋にいくつものキスマークがあった。
叫ばずにいられるだろうか、肉親のこんな姿見せられて。
「……なにやってんの! なにやってんの!? 聖也きのう泣いてたじゃん!? 聞こえてなかったわけないよね!?」
あたしは、自分も聖也を助けてあげなかった自分を棚に上げて、いちねえを責めた。
その聖也は、二人の近くのベビーベッドで、疲れたようにすうすうと寝ていた。
いちねえは、一瞬そちらを見て、罪悪感に顔をゆがめた。そして顔を覆って泣き出した。
「……あたしだってわかんないわよ! 自分に何が起きてるのか、全然わからない! ……でも、芽衣さんを見てると、芽衣さんのことしか考えられなくなっちゃうのよ……。……頭がおかしくなりそう」
なってるよ。とっくに。
あたしがそう叫ぶ前に、嵯峨野芽衣があたしを向いて頭を下げた。
「ごめんね。蜜音ちゃん……だよね。こんなことになったのは全部私のせい。一花はなにも悪くない」
昨日初めて会ったやつが、あたしの姉を呼び捨てにすんな。
怒りのあまり掴みかかりそうになるあたしを、どんなドラマでも見たことないような、真剣な目で射抜いて嵯峨野芽衣がいう。子供に過ぎないあたしは、その迫力で簡単に停止させられた。
「私も一花と同じ。家庭がある女性だとか、子供がいることとか、そんな当たり前に大事なことがなにも考えられなくなる。一花のこと以外何もかもどうでもいいって思ってしまってる……自分で気が狂ってると思うわ。でも、こんな気持ち初めてなの。たぶん、一般の人とは桁違いの人と会ってきてるけど、こんなに心が奪われたの、初めてなのよ。好きって言葉の意味を今まで間違って感じてたんだって思ってる。月並みな言い方だけど、このひとが私の運命の相手なんだってわかってしまった」
あの夢のことが瞬間あたしの頭をかすめる。
運命の相手。
響きだけがロマンチックで、なんて忌まわしいしおぞましい言葉だろうか。
テレビ越しなら素敵な大女優と、あんなにも尊敬してた大好きな姉が、自分とぜんぜん別の世界から来た化け物に見える。
あたしは耐えられなくなって逃げ出した。
一睡もしてない。鞄も持ってないし、だから教科書さえ持ってない。それでもあたしは、あの異常な場所にいられなくて、街の高校へ向かうスクールバスへ逃げ込んだ。
どうするんだろう。あの二人は。
これからいったいどうなるんだろう。
昼前にもなれば、陸斗さんが同窓会から帰ってくる。帰ってきてしまう。その前にあの二人はあの家を出てどこかに行くのだろうか。
それとも、ずっとあそこにいて、陸斗さんと鉢合わせてしまうのだろうか。
どういう道筋を辿ったとしても、絶対に、よくないことが起きる。取返しのつかないことになる。
それがわかっていても、あたしにできることは何もなかった。
同じスクールバスに乗りこんだ、あの顛末のはじまりの瞬間をあたしと一緒に目撃してた瞬が、あたしの尋常でない様子に気づいて、なぜか謝ってきた。
瞬が悪いわけじゃない。たぶん、なるようにしかならなくて、そしてああなることは決まってしまっていたのだ。
だとしたら誰が悪いんだろう。
あたしなの? 考えたくない、考えないようにしてた結論に行きついてしまう。
もしかして、本当に、あたしが悪いのだろうか。
まるで身に入らなかった学校の授業も、全部のコマが終わってしまえば下校せざるを得ない。
鉛でも撃ち込まれたようにひどく重い足を引きずって、家路につく。
その家に、陸斗さんの姿はなく、そして聖也の姿も消えていた。
なぜか嵯峨野芽衣も参加する形で、あたしといちねえの家族会議が始まった。
いちねえは陸斗さんに謝罪して、離婚を申し込んだらしい。
気が狂ったと思ってもらっていい、自分はすでに不貞を犯していて、顔向けできない身の上だと。
慰謝料もいくらでも払うし、聖也の親権も渡す。養育費を言い値で払う。だから、離婚してくださいと。
そう、『二人そろって』お願いしたのだという。
あたしは泣きそうになった。いや、ぼろぼろと泣いた。
それを聞かされたとき、陸斗さんはいったいどんな気持ちだったんだろう。どんな顔になったんだろう。
ただ一泊して、懐かしい友達に会って帰ってきただけ。
いちねえと聖也と、あとはついでにあたしとの、変わり映えしなくも楽しい日常が再開されるはずだった。
寝耳に水なんてものじゃないと思う。そのたったの一泊の間に、運命のいたずらだなんてふざけたもののせいで、妻の心を奪われたのだ。それも女性にだ。
それに、聖也のことは? まだ物心もついてない子が、お母さんを一晩でなくすなんて、そんなひどいことが許されていいんだろうか。
それがどんなにひどいことかと、あたしなんかより目の前の並んで座る二人の女は十分に理解していて、それでもやめることができない、もう心が決まってしまっていて、動かすことも変えることもできないと泣いている。
昨晩に燃え上がった恋の時間が。あんなに愛していたはずの息子の呼び声さえ無視させて、自分のしでかしたその信じられない過ちが、決定的にいちねえを追い詰めた。
もう、以前のように聖也に愛情を向けて一番に考えてあげることができない。一緒にいてあげられない。
離婚して、親権も手放して、陸斗さんと聖也を赤の他人にしてあげることが、最後にしてあげられることなのだと。
サバサバしてて、小さなことならすぐに流して、昨日の悪いことなどすぐ忘れてしまうようないちねえは、自分のした不義理や裏切りは絶対に許せない人だったのだ。
いちねえという女性はたぶん何も変わっていない。それはそうだ。昨日の今日のことなんだから。
ただ、会うべきではなかった人に会ってしまっただけだ。そしてそれは、きっと嵯峨野芽衣にとっても同じだ。
これが恋の行きつくところだとしたら。
恋というのは、なんて呪わしいものなんだろう。
あたしは吐き気を抑えられなくて、トイレに駆け込んだ。
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