作者・花森ちと 読売新聞社賞:『にぎんょ』の感想

にぎんょ

作者 花森ちと

https://kakuyomu.jp/works/16816700426941779708


 大好きで幸せを願っていた先輩たちの家族が事故で死に、自分を呪って感傷のあおい海に浸る鴎渚白は独りのにんぎょとしてたゆたい続ける物語。


 文章の書き方については目をつむる。

 現代ファンタジー。

 あらたな人魚伝説といえるかもしれない。

 宮沢賢治の「やまなし」を参考にしていると思われ、詩的な表現を使うことで独特な世界観を生み出し、独白ではなく物語として成立している。

 グヂヤはクジラ、イラチはイワシ、リンゼンは人間、ウミユリは植物のユリのようなかたちをした深海の生きもので、ヒトデやウニと同じ棘皮動物の仲間である。


 主人公は、鴎渚白(かもめなしろ)。一人称、わたしで書かれた文体。ですます調で書かれ、自身を客観視しながら独白していく形をとっている。全体的に童話のような印象。詩的表現もなされている。

 興味を引く作品には「どきり」「びっくり」「うらぎり」の三つの「り」があるとされ、本作にも盛り込まれている。

「現在→過去→未来」の順番で書かれている。

 また、涙を誘う型でもあり、「苦しい状況→更に苦しい状況→願望→少し明るくなる→駄目になる」といった、希望をみせては持ち上げ落としている。


 女性神話とメロドラマと同じ中心起動に沿って書かれている。

 内気で臆病、怠惰で太っていて、仕草が煩わしいぶりっ子で図々しい顔立ちの主人公、鴎渚白は海の見える小さな港町に住んでいた。

 歌うことが好きだったので、中学のとき合唱部に入部し、背の高くほっそりとした色白の堀崎倫也先輩が好きになる。彼はピアノが弾けるけれど主人公は弾けないため、聞いていることしかできなかった。

 音楽の望月ちはる先生に声をかけられ、ウェーバー作曲の「火の島の歌」を発表会で歌うこととなる。ちはる先生の高校時代からの友達で音大を卒業した吉川千絵という声楽の先生を紹介され、指導を受ける。

 中学二年の夏、音楽に包まれた幸せな日々を過ごしていると、堀崎倫也先輩が同級生の西木綾実と付き合っていることを知る。のちに先輩は東京の、綾実は海外の音大へ留学し、二人は結婚。生まれた子に菜穂とつけ、笑い声と音楽が響く幸せに満ちた家庭をもつ。

 主人公は地元の音大へ行き、現在は声楽を教えている。結婚もせず子供もいない。

 十四年後――三十九のとき。

 十四歳になった菜穂が、主人公に弟子入りをする。どうして自分を選んだのか尋ねると、堀崎先輩は「君の歌は菜穂にきっといい影響を与えるからだよ」と言ってくれた。

 だが主人公は思い出す。二十五の春、どうして先輩は自分を選んでくれなかったのか。その思いを胸に「お二人の幸せを、いつまでも願っております」と海よりも大きな嘘をつく。 

 丁寧に優しく歌う菜穂の姿に、祐太郎先輩と綾実を思い出す。彼女の素質を壊してしまわないかと恐れていると、かつて千絵先生から、素質があると最後のレッスンでいわれたことを思い出す。千絵先生のようなソプラニストを夢見てきたが、本当になれたのか。

 自問する中、「私、先生の声、とっても大好きです!」と菜穂は言う。主人公は、菜穂の両親のように有名でもなかった。

「もっと練習したら、私よりも上手になるよ」「あなたは十分頑張れば、お父さんとお母さんみたいになれるのだから」

 主人公は菜穂のような女の子になりたかった。

「火の島の歌」を歌った、中二の夏を思い出す。

 先輩が綾実が好きなのがわかっていた。主人公が先輩を好きになったのは、先輩が伴奏するようになったとき、主人公の歌声を褒めてくれたから。それまでは部員のみんなから「下手くそ」と怒られていたのだ。

 先輩がコンクールの全国大会に進むと遠くにいってしまって悲しかった、けれども自分ごとのように嬉しかった。あなたに聞かせることができて幸せだった、と振り返る。

 ある残暑の頃、主人公たちが育った渚へとむかって車を走らせていた先輩たち家族は、大きなトラックとぶつかり、亡くなってしまう。親戚と偽って病院に駆けつけるも、菜穂は脳死。彼女は臓器提供意思表示カードを持っていた。 

 その後、主人公は思い出に閉じこもり、何度も思い出をくり返しながら過去を呪っていた。先輩たち家族の幸せを願いながら嫉妬し続け、そんな自己満足の自分が許せず、自分を呪っていく。

 周りの歌の巧さに辛くなって海にたゆたっていると、ウミユリの群生地を見つけ、ウミユリと話をしている内に自分が人間の鴎渚白だと思い出す。何百回と忘れては思い出すをくり返す姿に、ウミユリは「自分を呪うのは辞めなさい。そうしたら外の世界にまた出づらくなってしまうだろ?」「辛いままなら、あんたの世界にまた閉じ籠もってしまえば良い」と、いつか憧れたスプラニストのようにささやいてあおい世界に閉じ込める。独り塞ぎ込みながら思い出を忘れたにんぎょとなって、あおい海を漂い続けるのだった。


 三幕八場の構成で書かれている。

 一幕一場のはじまりは、主人公があおい世界で、友達の大きなグチャとちいさなイラチと戯れる。ときに友達はリンゼンに連れてかれてしまう。ウミユリの群生地で、一輪のウミユリが振り返る。

 二場の主人公の目的では、誰もがウミユリの元に来ると辛いことを思い出して泣くという。これまでに何度もここに来ていることを知り、泣きながら自分が、合唱部で歌を歌い、ピアノを弾く好きな男の子がいた言葉の上手く操れない鴎渚白だったと思い出す。

 二幕三場の最初の課題では、鴎渚白は内気で臆病で、太っていて図々しい顔立ちのぶりっ子だった。好きな男子がいたけれど、不釣り合いと思いながら見惚れていた。クラスメイトからクァイトオ言われても、可憐な女の子ではなかった。アイドルにいそうな顔立ちの素敵な女の子が苦手で、避けてきた。いつも怯えてばかりで媚を売る等な自分が嫌いだった。ウミユリはいつまで海に閉じこもっているつもりだい、人間なのだから外に居場所があるんだろ、いつまでも幻想にすがっていてはいけないと言われる。

 四場の重い課題では、鴎渚白は海の見える小さな港の町に住んでいた。歌うことが好きで合唱の時間が何より幸せ。なぜなら大好きな堀崎倫也先輩のピアノを聞くことができるから。ドビュッシーの曲を弾き、同学年の西木綾実とコンクールに出るのを聞いて羨ましく思いつつ、応援していた。ある日、ウェーバー作曲の「火の島の歌」を歌って舞台に立つことになる。音楽の望月ちはる先生から隣町に住む声楽の吉川千絵先生を紹介され、指導を受ける。が、ある日、先輩と西木綾実が付き合っていることを知る。

 五場の状況の再整備、転換点では、堀崎倫也先輩は東京の、西木綾実は海外の音大へ進み、二人は結婚。菜穂という子が生まれ、笑い声と音楽が響く幸せに満ちた家庭を築く。

 主人公は地元の音大へ行き、現在は声楽を教えている。未婚で子供もいない。十四歳になった菜穂が弟子入りしてくる。自分よりも素質があるのをみて、かつて自分が中学二年生だった夏の日々を思い出す。なぜ娘の指導に自分を選んだのか先輩に尋ねると、「君の歌は菜穂にきっといい影響を与えるからだよ」といわれた。

 なぜ私を選んでくれなかったのかと思いつつ、二人の幸せをいつまでも願っていると嘘をついた二十五歳の春がよぎる。

 主人公は、あの夏に生き、あの夏しか音楽を知らなかった。

 六場の最大の課題では、菜穂の指導をしながら、かつて千恵先生に素質があるといわれたことを思い出す。千恵先生のようなソプラノ歌手になりたかったけれど、果たして自分はなれたのかわからない。菜穂から「私、先生の声、とっても大好きです!」といわれながら、両親みたいに有名ではないと思いつつ、「もっと練習したら、私よりも上手になるよ」と声を開ける。自分よりうまくなるのは明らかだった。

 三幕七場の最後の課題、どんでん返しでは、中学ニ年の夏、火の島の歌」を歌って舞台に立って歌ったときのことを思い出す。

 先輩が綾実が好きなことをわかっていたし、素敵なお嫁さんになるだろうと想像し、彼が好きになったのは春から合唱部の伴奏をしてくれるようになって歌声を褒めてくれたから。全国大会まで先輩が進んだのは遠くに行ってしまったように寂しかったけれど、自分のことのように嬉しかったことなど思いを馳せながら歌い、先輩に聞かせることができて幸せだった。

 ある残暑の頃、先輩たち家族は交通事故に遭遇。二人は即死、菜穂は脳死。先輩たちの家族は自分にとって大切な宝物だったのに。

 以来、家にこもっている。

 あおい世界に、思い出に閉じこもっている。

 八場のエピローグでは、ウミユリに「全部思い出してしまったね。もうこれで何百回目かい?」と声をかけられる。心の中だと言われ、図々しくて、幸せを願ってきたのは勝手な自己満足だった、菜穂に自分の夢を背負わせ、どこまでも自分のことしか考えていないと自分を責めては呪っていく。ウミユリは、辛いままならあなたの世界に閉じこもってしまえばいいと、いつか憧れたソプラノ歌手のようにいわれ、あおい世界に閉じ込め、思い出を忘れて一人のにぎんょはたゆたい続ける。


 タイポグリセミア現象により、にんぎょと読めてしまうタイトルがつけられている。

 人魚姫の物語は、海に住む人魚が王子を求めて丘に憧れるも、思いを告げられず海へと戻っていく。本作は、人間だった主人公が先輩に思いを寄せ、やがて先輩たち家族の幸せを願い、娘の菜穂に自分の夢を追わせるも交通事故で亡くなり、宝物だった先輩たちを失って自分を呪い、何もかも忘れようとあおい世界に閉じこもり、思い出しては忘れるをくり返している。

 ゆえに、にんぎょではないからこそ、にぎんょの文字化けしたみたいなタイトルとなっているのだと推測する。

 また、文章中のいくつかの単語で最初と最後の文字以外の順番が入れ替わっても正しく読めてしまうタイポグリセミア現象を活かしていると思われる構造――人間だったときの鴎渚白を思い出し、回想の中で中学二年のあの夏の出来事をまた回想し、つらい思い出を何度もくり返している――を描いた作品になっている。

 構成もいいし、つらい思い出を、柔らかく読み聞かせられる童話の形式と、現実離れしたファンタジー要素に仕立て上げられているので非常に読みやすい。

 

「かぽかぽ」「ぽぽぽぽ」「がぼぼぼぼ」「ぽぽぽらぽぽら」といった表現が宮沢賢治のオノマトペみたいで面白い。


 主人公はあおい世界、海にいると思われる。海に潜っているけど、呼吸は出来てるのかしらん。アクアラングをつけて、あわぶくをはきだしているのかしらん。

 先輩家族がなくなって自暴自棄に塞ぎ込んだとき、「それからわたしは、ずっと家に籠もっています。あの真夏の日差しが怖くて、また牙をむいてきそうで!」「わたしはあおい世界ににいます。わたしの思い出に、閉じ籠もっています」とある。

 さらに、あの夏の発表会で歌ったとき、「舞台袖はきっと光の差す海の中だ。あの静けさは不思議な力を持っている。舞台の上はあなたのいる陸の見える岩場だ。あの緊張と高揚は、あなたが居たから」とある。

 表舞台は陸の上であり、奥の舞台袖は海の中だと表現している。

 なので、家に閉じこもっている状態を「あおい世界」と比喩し、閉じこもりながら過ぎた思い出に閉じこもっては、忘れては思い出すをくり返しているのかもしれない。

 主人公は、実際には海の中にいるのではなく、家に引きこもっては、自分は人魚でお魚たちとは友達なんだと現実逃避しているのでは、という邪推もできる気がする。

 

「あんた、また来たのかい。何度もここへ来ては泣いているじゃないか」とウミユリにいわれている。それに対して主人公は「ここに来るのは初めてなのに、『何度も』って?」と、過去の記憶をなくしているところがある。


 仮に、家に引きこもっている状態だったなら、ウミユリは主人公の母親かもしれない。忘れては思い出すをくり返す引きこもった娘に対して、心配だから声をかけているのかもしれない。

 母親でないのなら、彼女の友人、もしくは指導してくれた声楽の知恵先生かもしれない。

「そうやって自分を呪うのは辞めなさい。そうしたら外の世界にまた出づらくなってしまうだろ?」と声をかけ、外に出ようと促しはするも、「辛いままなら、あんたの世界にまた閉じ籠もってしまえば良い」と、言われてしまう。

 その艷やかな黒髪のウミユリの声は「いつか憧れたソプラノ歌手のように、真っ直ぐわたしをこの世界へ閉じ籠めました」から、母親のように厳しく指導してくれた千恵先生が、家に引きこもった主人公の様子を見に来て、声をかけては帰っていってるという邪推もできるのではと考えてしまう。


 内気で、臆病で、怠惰で、肥って、ぶりっ子。いらない口を出してしまう欠点を持っている主人公は、とにかく自分に自信がなく、考えすぎるあまりに自分が嫌いになってしまった女の子。

 子供のときから、自信がない。

 おまけに、好きな男子が入るけれど、釣り合わないし最低だから振り向いてくれないとおもってしまう。

 それでも彼の声を聞くと幸せになり、不釣り合いだと言い聞かせ、自分に幻滅するをくり返している。

 だめな所ばかりに目を向けるのではなく、なんでもいいので、一つできたことを自信にかえて、それを積み上げていくしかない。

 良いところを見つけることをくり返していけばいい。

 自分から負のスパイラルを作って、滑り台をすべり落ちるみたいに自分で不幸に浸るのをやめなければならない。


 先輩の弾いたのはドビッシーの「海」。

「音楽家になれなかったら船乗りになっていただろう」というくらい海が大好きだったドビュッシー。

 作曲された一九〇五年(四十三歳)、ドビュッシーは妻ロザリーを捨てて、銀行家の人妻エンマと駆け落ちする。妻ロザリーがピストルにより自殺未遂に終わる事件が公となり、多くの友人も離れ、世間から激しい非難を受ける。そんな失意の中で作曲され、離婚が成立する数カ月前に「海」は完成する。

 また、交響詩「海」の初版楽譜の表紙は、ドビュッシーの意向で、北斎の「神奈川沖浪裏」の一部が印刷されているため、「神奈川沖浪裏」に影響を受けて作曲されたと考えられる。

『第一楽章 海の夜明けから真昼まで』は、木管楽器と弦楽器に絡むハープのささやきは海のたゆたう様を奏で、ゆったりと自由に波の形を変化させながら遊ぶ「海の夜明け」が描かれていく。

『第二楽章 波の戯れ』では、目を覚ました波たちが活動的に元気よく戯れ、『第三楽章 風と海との対話』では、波は大きくうねりスピードを速めて通り過ぎていく風と海との対話が描かれていく。

 先輩がピアノで弾いたのは、たうたう様の第一楽章だったのではと推測する。


 先生との出会いが、主人公に光を見せたのだと思う。なのに、好きな子が同級生の他の子と付き合って、せっかく自信が積み上がってきたのにまた揺らいでしまった。しかもこれをズルズルと引きずってしまう。


「火の島の歌」とは、宮沢賢治が、C.ウェーバーのオペラ『オベロン』の「人魚の歌」に歌詞を付けた曲。


 海鳴りのとゞろく日は

 郵船もより来ぬを

 火の山の燃え熾りて

 雲の流るゝ

 海鳴りよせきたる椿のはやしに

 ひねもす百合堀り

 今日もはてぬ


 ちなみに火の島とは、伊豆大島のことである。

 宮沢賢治は一九二八年六月十二日から十四日までの三日間、大島在住の友人伊藤七雄に招かれて滞在した。

 実は、自分の妹チヱと賢治を「お見合い」させようとしていた。実際二人は、たがいに心ひかれる気持ちを抱いたが、結婚話はそれ以上進展することなく、二人はまた遠く離れ、それぞれの人生を送ることになる。

 でも、賢治が禁欲的な生涯で、ただ一度だけ本気で結婚を考えた相手という。「火の島」という歌曲には、大島の思い出が込められているらしく、賢治が自分でこの歌を唄っていた様子について、教え子の一人が「ええ、ウェーバーの曲です。これを先生は高い声で歌いました。そして歌うのも普通じゃないんですよ。ちょっとぼぉっと上気しました。大島をしのんでいるみたいで、やはりあの伊藤チヱさんを懐っていたんだと思います(笑)。ああいう上気した顔を見たことはありません」と書き残している。

 主人公が火の島を歌いながら、先輩に対していろいろなこと思っている場面が描かれているのを読むと、宮沢賢治の出来事と重なるように思えてくる。


 コミュニケーションが上手ではないのだろう。

 だけれども音大へ行き、声楽を教えるまでに自分自身を高めてきたのだから、その自負を自信にしていけばいいのに、生来の臆病は変わらないままだったのだろう。

 同じ音大でも、東京とか海外とくらべたら、自分は劣っていると思ってしまうのだろう。


「私はあの夏だけ、生きていた。私はあの夏しか、音楽を知らない」

 この表現がすごくいい。

 生きていたと、死んでいないに違いがあるように、音楽に包まれて幸せな日々を過ごしていた中二のあの夏だけしか、主人公は生きている実感はなく、音楽の情熱ももっていなかったのだ。

 二人は付き合って、いい音大に生き、結婚して幸せになっていく。

 まさに自分の人生を生きている。

 けれども、中二の夏の失恋を引きずった主人公は、生きていたくないけど、死んだように生きてしまってきたのだろう。


 先輩の娘の指導をすることになって、複雑な思いになっただろう。

 先輩と綾実は音楽界の中ではそれなりに有名になっているのではと想像する。

 少なくとも、主人公よりは幅広くコンサート等を開いて、音楽活躍をしているに違いない。

 主人公は、小さな音楽教室を開いて歌のレッスンをしているのかしらん。結婚もしていないし、子供もない。もう四十、若くない。周りからは見向きもされない。

 教え子から褒められて嬉しいけれど、あなたの両親は有名で才能があって、その子供なのだからと、主人公は菜穂に嫉妬をしているのだ。自分が欲しかったものをこの子は持っている。

 それでも、先輩たちの家族が宝物だったと後に語るように、自分にとっての生き甲斐となったのは間違いない。

 人生を振り返ったとき、楽しくてイキイキしてキラキラしていたのは中二の夏だけだった主人公にとって、もう一度生きていると思える時間を、先輩たちが与えてくれたと捉えると、いかに菜穂との時間が大切だったのかが想像できる。


 中二のときの、歌うことで先輩が自分を見てくれる、振り向いてくれるなら歌い続けるけど、彼が見ているのは綾実という関係は、まさに陸に上がったマーメードのごとく、愛する王子はお姫様に恋い焦がれる姿みたい。

 嘆きながらマーメイドは深海深く潜っていく。

 その時が来るまで、彼女は幸せな時間を過ごしたのだ。


 大好きな先輩たち、幸せを願っていた人たちは事故でなくなってしまった。素敵な歌を歌うはずだった菜穂も死んでしまった。だが臓器は他の誰かに提供され、この世のどこかで生き続けるかもしれない。自分がなりたかった菜穂の臓器を、他の人はもらっていく。彼女の代わりもできない。だったら、これからどうしたらいいのか、わからなくなってしまった。


 交流関係の少ない主人公にとって、憧れや嫉妬、幸せを願う相手がいたから生きていけた。

 そんな思いと願いをつないでいたものがぷつんと切られ、生きがいを失ってしまったのだろう。


 人間は、自意識と向き合うのを避けたがる。

 向き合うと他に自分しかいないので、どうしても自分の嫌なところやダメなところばかに見てしまい、やがて過ぎた日々の取り返しの付かない失敗に目をむけては、自分を呪うしかなくなる。

 なぜなら、自分の幸せをいくら願っても、自己を他人に置き換えることになり、他者がいない世界では、願いが呪いに転じてしまうから。


「わたしの口からは銀色のあわが零れていきます。それはまるでガラス玉のようでした」「三つのすばらしく綺麗なガラス玉は、寄り添いあってゆっくり上へと昇っていきました。それはまるで美しいイラチのようでした」

 三つのガラス玉は、先輩たち家族のことだろう。

 泡を吐くという行為はすべて、記憶を忘れていくことを描写しているのだろう。

 忘れることで、主人公は深海を漂うにんぎょとなれた。

 でもまたいつか、思い出す時が来て、また同じことをくり返し、嘆き悲しむのだろう。


 読後、タイトルを見て、なぜ最後、「にぎんょ」なのかと考えた。

 その前までは「独りのにんぎょ」と表現されている。

 人魚と素直にしないのは、純粋な人魚ではないからか、悲しみに暮れて壊れてしまって人魚となったのを表すために文字化けしたみたいな文字列になったのか。


 ボカロに「ウミユリ海底譚」がある。入水自殺をしようとしている解釈もあるとのこと。

 歌詞から、外の世界への想いはまだ持っていながら、夢を叶えることも諦めることもできず、モヤモヤとした状態のままを表しているように受け取れるところからも、本作に共通点があると、感じられる。

 そもそもウミユリとは、ヒトデやウニなどと同じ種族の一つ。

 生まれた時は海中を自由に泳ぎ回るが、成長すると岩に張り付いて生活をする。

 ウミユリの元に来ては、辛い過去を思い出すのも、過ぎた過去に後悔して動けない様と重なる。


 宮沢賢治とウミユリ海底譚と人魚姫の物語を絡めながら、内気で臆病で自分を卑下している主人公が、何度も思い出をくり返しては嫉妬し、そんな自己満足する自分が許せず自身を呪っていくという、誰もが経験したことがありそうな普遍的な姿を描いたところに本作品の良さがある。

 青春とは、取り返しのつかない過去にすがって悔やむ日々のこと。

 本作はよく描けている

 主人公に友達がいたら、独りで考え込むことなく相談できたかもしれない。打ち明けることができる人が一人でもいたら、よかったのに。


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