鳴き腐れズッ友

井桁沙凪

鳴き腐れズッ友


 好奇心は猫をも殺す、という諺がある。いかに敏捷でスマートで──と言っても、実家で猫を七匹飼ってた吾輩としては猫って割に間抜けな生き物だなぁってイメージ着いてるし、まあ七匹の内の一匹は確かに人間も時に嘆息させられちゃうほど賢かったなあそれはうん思い出したけどそれも猫分母の猫分子で換算すれば七分の一の確率だし、彼奴ら(キャッツと掛けてるわけなんだなこれ)が生粋の家猫だってことを加味してもまあ猫ってそんなにしょっちゅう死線を潜り抜けられるようなタマではないでしょう好奇心の有無を抜きにしても……と、こちらは吾輩猫多頭飼い実家育ち人間の意見。

 それでも好奇心は猫をも殺すって諺を作った昔の人は〝猫には九生ある〟って、またどっかの昔のたぶん相当に熱入った愛猫家による猫sugeeee! な眉唾です言説に乗っかって人間の行動原理にもうそりゃ普遍も普遍な好奇心の危うさを後世までキャッチーに語り継がんとし、以後、念願叶って吾輩らが生きとし生ける令和もとい風の時代まで風化せずに残っているオーメデトウゴザイマス! ってことなんだけど、吾輩はずっと〝好奇心は猫をも殺す〟諺の信憑性について引っかかってる少年だった。

 猫はそんなに凄くない。

 だから

 好奇心のせいじゃない。

 たとえ死んでるとしてもね。

 吾輩は猫島美月という……いや、ごめん言い直させて? 吾輩は猫島である。名前は……〝美月くんでしょ?〟このようにして、吾輩は持ち前の軽薄さで同じく恋愛の美味みを掠め取ろうとする女の子を引っ掛けてはなーんか勝手に本当の愛情とやらに目覚めてもらわれちゃって、これまでに何度かは恋愛の上澄みの灰汁あくにぶち当たって苦い思いさせられちゃうよーみたいな経験も無きにしも非ずなんだけど、それだって結局はそういう女の子もみーんな吾輩のためを思って吾輩から離れていってくれた。

 ──そうかそうか、美月くんの魅力はそういうとこだもんね。人のためを思ってないから、こっちも気ぃ遣わなくていいし。生まれ変わって何になってものらりくらりとやってそうなとこっていうかさ、あんまり人生を深刻に捉えてない感じが傷心の女の子にはちょうどいいんだよね、色々なことを、後腐れなく忘れるのに。

 私のことだけを想ってくれる美月くんになんて魅力ないしね──つっても、吾輩だって平常時なら強気に構えてるような傷心ウーマンにすり寄りにいって心ゆくまで甘やかしてもらった挙句に勘違い? っていうか〝美月くんがいないともうダメ!〟って思い込み信じ込みさせちゃって、それでもその時その人にとっちゃ本当だしテキトーにいなせば痛い目見るらしいことは事前調査済だからちゃんと向き合う、わけではなくてフェードアウトする。

 死期を悟った猫は人前から姿を消すってあれの感じ。もうー勘弁してくだせえ独りにしてくだせえ、って、吾輩は内心マジでへばりながら巧妙に我が存在の比重を他の何がしかとげ替えつつ関係性の天秤の上で軽くしていき……ってなるとやっぱり吾輩から離れていってるわけだね。でも、女の子にそのつもりは、事実はどうあれないのだしむしろ愛想尽かしたわフンのスタンスでいられた方が吾輩としては気楽なのだしそういうことにしていいのです。

 全神経を研ぎ澄まして躱すことさえできれば、どんなにちょいちょいと女の子を引っ掛けても痛い目見ることありません。

 だけど、気楽云々かんぬんどうとかお前の気持ちは関係ねえ事実は事実なんだから捻じ曲げるなよって憤慨する人も現れる。

 名を八島といって、女で、小中と同じ学校に通っていた。無茶苦茶チビで、カリカリに痩せた野良猫みたいに細っこかった八島は、中学校の同窓会で久々に鉢合わせた時にはぶんぶく茶釜の化身みたいな風貌に様変わりしていて、数年越しの劇的ビフォーアフターにやんわりと触れた旧友たちを「精神科で処方された薬の副作用で太った」の一言で完全に撤退させていた。

「吾輩は猫である、パクッてんでしょ? その一人称……猫島ぁ」

 もつれ気味の呂律で絡んでくる、吾輩を嫌ってた先生に好かれてたタイプの元・クラスメイトは吾輩がまだ一人称を正していないことにたまげた後で講釈ダラダラなんとか正そうとし根負けした後で自身の労力を取り戻さんとするかのように〝吾輩〟をおとしめようとしてきた。そんな中で吾輩は独り回想に浸っていたわけだ。

 国語の教科書に載っていた夏目漱石作の例のアレ、そっからの流れでいわく〝二十二の男が使うには違和感あり過ぎ〟らしい一人称へ改変するに至ったはずなんだけどそれって誰かに促されたんだったよなあ……で、居酒屋個室の長テーブルの角っこに脅迫されているみたいにして肩すぼめながら座っていた八島が口を挟んでくる。

「あ、それアタシだよ。冗談半分で吾輩を推してみたら思いのほかみんなにハマって、そっから猫島くんは周りに馴染んだんだよね。変わってる奴、ファニーな奴って。憶えてるでしょ?」

「……ああ、あれ八島さんかあ」

 とか言いつつ、吾輩は大いに憶えてました。

 カゲロウがふわふわ、惨めな生を謳歌していた夏の日だ。川の名を冠するのもおこがましいような水の流れの上に渡されたちゃちな足場に地団駄踏むようにして、脳内で奏でられるメロディーに即興のリズムを当てるのが吾輩のコスパいい娯楽だった。娯楽というか、もの思いに耽がてらよくやっていた。今でこそ、片手間に暇を潰せるスマホが手元にあるけれど、当時は確か流通していなかったし──或いは吾輩の住む地域が新テクノロジー誕生の祝福ムードにハブられていただけなのかもしれない。なにせ、故郷は田舎も田舎の辺鄙な土地だ。

 吾輩は友達のいない少年だった。だからあんまり口を利くこともなかった。世界は常に自分以外のものからなる音で溢れていた。畦道では蛙の大合唱、草木あるところからは虫の羽音、家に帰ればにゃーにゃーついでにわんわん……

 ハブられている、という意識が強かったのだ。なんにしても。どこへいても。田んぼの稲刈りの後で積み上げられた草の上に寝そべって目の前に浮かんでいるかのような星空を見上げる度に、自然の奥行きを体感しては自分の存在が不注意でちょんと付いたシミのように思えた。

 子ども一人くらいは優に呑み込んでしまえるドでかタイヤの亡骸が不穏な壁の如き恰好でうず高く積まれている中に紛れ込んで、山のが夕陽に燃されるところを細いで眺めていた。十何年経った今でもありありと瞼の奥に滲む景だ──うちの田舎では白い竜と言われたりしているクソみそに不格好なひこうき雲が涼風に流され、全ての諸悪の根源のような黒々とした山にカッカと眩しいヒーローみたいな後光で接触したけれどそれはもう本当に持病百個持ちの頑張り屋が必死こいて捻り出したビームのようで、ぼかんっぼかんと世界は爆発するんだなんて突飛な妄想もふわふわと散り散りになって辺り一帯を吞み込む夕闇に失せてしまった──どういう思いつきであんな家出をしたのだろうとか、どう穏便に我が家へ帰還したのだろうとか、そういった細かい成り行きは思い出せない。

 夕陽が少しの留保も見せずに淡々と沈んでいく景──そこで生まれた強烈な引力じみた気持ちに記憶は細部から縮まっていき、解読不能な皺まみれの形で収束していく。

( あぁ、嫌だなあ。)

 ──自分はあくまでもちっぽけで、辺りは闇でいっぱいで、それは〝夜〟と呼ばれている。いまは地球の半分が夜で、こんな冷えた気持ちはともすると朝陽に生温くされる程度のものかもしれなくて、そういうのは〝希望〟だとか〝慈悲〟だとか呼ばれているけれど、それは違う違うと下唇を嚙んで首を振った。

 それは〝無視〟だ。

 例えば世界中の人と協力して「沈むな」と叫んでも沈むんだから。「聞いて」と頼み込んでも聞かれないんだ。いつかは地球を吞み込む光で燃ゆる酷ぇ太陽が地平線に沈むところを見ている──そういう、海は広いな大きいな的な自然現象をせせこましい町のあれやこれやに煩わされて少年に目の当たりにさせたところで(またこれか。無視だ、無視)と思わせるだけだ。

 地球を貴ぶ心があればよかったんだろうな。吾輩は人間と反りが合わないくせに、いや故にと言うべきか、素寒貧な心の中では執拗なまでに人間を尊んでいた。いつ頃かまではこの世の成り立ちを〝空を飛べない人間のために大地が隆起した〟とまで思い上がっていたほどだったのだ。親戚のおっちゃんに貰ったアンモナイトの標本をしげしげと眺め回して(あ、恐竜が先客じゃん)ピコーン! 地球が誕生して四十六億年、あと五十億年で何が何であろうと消滅しますfeat:自然博物館で開催されていた宇宙展のガイドをしていた爪の綺麗なおねいさん……えー? 気骨をすっぽ抜かれるような衝撃を受けた幼少の頃の体験。まあおかげで、地球が人間のためにポンと発生したわけじゃないよってのは分かったんだけど雨風を凌ぐための住処は主である人間のために建てられるもののはずで、しかし猫島くん家は猫の方が人間より数多かったしなんなら人の子よりも扱いが丁重だったのである。

 障子破ってコード齧って炊飯器壊してあちこちに粗相して「可愛くなかったら捨ててるよ」と、さすがの愛猫家・母も憤慨していた現場に居合わせた時は(やべー)と、片方の口角だけを上げる例のいやらしい面で焦りながら誰にともなくっつーか自分自身に対してニヒルに虚勢を張っていた。

 大人に与えられた課題をこなすという点では特別出来の悪かった少年は遺伝子に組み込まれているとしか言いようない親への愛を宙ぶらりんにさせた挙句に目下もっか・絶望の断崖なんでそれこそ死に物狂いで母親のささくれ立った良心までの最短ルートを模索させんとする架空の人物──呼び名はそれぞれの家庭で違えども吾輩のところでは〝サイトウさん〟だった──その〝サイトウさん〟は子供好きのおっさんで「貰ってほしい子がいるんですけど。サイトウさんなら可愛がってあげられるでしょう?」失点が沸点を超えるとカマされる、ようは〝駄目なうちの子〟の譲渡の件でフェイクだけれども相談されるわけだ目の前で。

 サイトウさんに電話を掛ける時の目線運びや口調や間の取り方はわざとらしく……分からない、どうなんだろう、さすがに自分のお腹を痛めて産んだ子供をしつけの一環(🤷)とは言え捨てようとしていることへの罪悪感を軽減するためなのか、はたまた傍観者の役回りが馴染み過ぎている少年が何であれ人の機微に敏感でいたせいかは分からないけれど兎に角そういう言い訳の姿勢も吾輩にとっては( あぁ、嫌だなあ。)だった。

 そんな逃げ腰でいられたら、気持ちのやり場がなくなって困る。

 こちとら内心は母さんの大好きなネコちゃんを殺したいよぉとやきもきしているとこだったってのに……正しくない仕打ちを結局は〝ガチャンッ〟「明後日に引き渡しよ」と完遂させた後で「分かってるでしょ?」え、なにが。フェイクだってのが? と爛々しかける吾輩をよそに「母さんだけが悪者じゃないって」あーあーあー……絶望の断崖から落とされることに怯えて例のツラを死にそうな思いでこらえ続けていたら、僥倖ぎょうこう、ささくれ立った良心をしゅんとなだめて嘘よ嘘よ嘘よそんなに辛そうな顔しないで頂戴、と、それで万事は解決、晩ご飯には美月の大好物のカレーが目玉焼きをのっけた特別仕様で用意されちゃったりして翌日朝の通学路では近所の小泉さんとこのおばちゃんに昨日はカレーかいよかったねえ→唇引き結んだままこくり、

(こういうのって泥棒じゃねーか!?)

 うーーっと下唇が噛まれがちで潤いっぱなしだった少年は〝搾取〟の意味を後々に学んでピンとくる……パカパカパカン、マトリョーシカ式に浮かび上がる記憶の数々──当てつけのように賑やかな外も自動車の通りが稀な道路に(ばっちこいや)と寝そべり見上げた星空も太陽の無視も、パカパカパカン、引力、幼少の頃の記憶は大人の階段を上る度にこの身体の重みでひび割れていっては、どれだけ一心に正しい欠片をてようとしても大人の世界にのみ含まれる不純物を交えて再構成されるもので──〝搾取〟の学びもまたそれの一部だとすれば〝泥棒〟の方こそが事実に遠かれど真実には近い意味を有するはずなのだ。

 というのはつまり、ふんふんふーんと鼻唄交じりにお玉をくるくるっとして〝我が子に反省を促したついでに和解も成し遂げた母〟のポーズを取ろうと吾輩の寂しさやら悲しさやらを真っ当な自立へ向かうための必然的な失敗の副産物として軽んじられることなんかやクソったれな良心の肥やしに噓よ噓よ? 噓じゃねーんだよこっちの方はよ! と、泥棒された挙句いいように扱われるのがたまらなかった。

 誰か、この気持ちを真っ向から受け止めてくれまいか。

 引き続き通学路、(気持ち泥棒め。)おえーレレレと具合が悪いけどもなんと言えば休めるのかが分からなくて小学校のじゃぶ池に伝うアメンボの肢をもいでは溺死させ、呑む。呑む。世界がまだ壊れちゃわないように、うーーっと呑み込む。

 巨大なヒマワリの種然とした生き物。いや、死に物? が落ちていく。あーあーあー……もがいたって余計に息苦しくなるだけさ。諦めな。そんで開いている本閉じちゃえよ。

 思春期だからとか、もー反抗期ねえとか、そういうのは法に抵触しないだけでれっきとした泥棒だ。ゾンビ・ジェノサイドブームがのどかな田舎にも未曾有の伝染病みたいに到来した中で吾輩に友達はおらず、それはうーーっうーーっとしてる屍に同情したからじゃなくてクラスメイトの会話に滑り込むために据え置き型ゲーム機を購入する財力が家に無いからで、それ以前に度胸もコミュニケーション能力も無いからで、やり場のなくなった気持ちをみすみす泥棒されてしまったことのあがないとして文字通り昇華目的の気晴らしに小三の頃から安価またはゼニ要らずの読書をするようになる。

 スピンもとい本に付いてる紐の栞を猫どもにちょいちょいカジカジ酷い状態のものだと2cm程度しか残ってないよもおおおお、でもあんだけウン百ページ分も読んだのにお気にの文章はせいぜい二、三行ぐらいで拍子抜けだぁ、ってことも幼少の頃はどうあれ大人の現在では特になくて、これもまた自立云々のための必然的なごにょごにょごにょ……とかなんとか思うような大人になりたくはないと思っていたことは今なお思い出せる。そしてスピン。前後の文脈こそ朧げでも、そこさえハッキリしていればパカパカパカン、な小説の仕組み、記憶と引力、世界はこういった比喩の連鎖に溢れていて「もっと現実に向き合いなさい」と偉ぶりながらも吾輩の一人称による文豪チックな雰囲気に気圧けおされたかあるいはあからさまな異端に辟易したか、どちらにせよ空威張りに講釈ダラダラ体たらくに対話を日和っていた大人達は「現実はフィクションと違ってハッキリ分かりやすいものなんだから」とのたまっていたけどそれだって真っ当な指導者のポーズを取りたいがための不当な気持ち泥棒だ。

 吾輩は現実から逃れるために読書をしていたのではなく、むしろ現実と向き合うために読書をしていた。「ハッキリ分かりやすい」現実では決して表層に浮かび上がることのない気持ちは二行三行と巧妙に散りばめられた同類の引力に惹かれて、悪い状態にこそなれど悪意無き筋書きに委ねておけば多かれ少なかれ昇華され、うーーっがマシになる。

 そして、猫を殺したいという気持ちは絶対に現実で昇華させてはいけない。

 なぜなら嫌われてしまうから。

 誰かを悲しませたくないと自然に思えるためには愛されている状態が自然でないといけない。性善説とか性悪説とか、出口の無い迷路みたいな話をするつもりはないけれど、一つ、言えることは、誰しもが自分を愛する気持ちを持って生まれてくるという話で、それならば自己愛とはズバリ本能で、生きる以外を目的とする本能なぞ無いので人は愛されないと生きていけないウサギちゃんでした。でもってウサギちゃんみたいにフワフワのボディーじゃない人類は強みの知恵を絞りあの手この手で媚びを売るんだなあ みつき と考察してた時期もあったわけなんだけど、必死な気遣いが裏目裏目にばかり出て肝心なところ情が薄い、一口に言っちゃえばサイコパスにしてみれば損得勘定まるきり抜きにして他人を思いやる〝猫島〟にくんを付けてくるタイプの人当たりも人気も良いクラスメイトを見てておやおやぁ? ……あくまでも自然な行為だと言うのですね。そういや、他のクラスメイトも特に失点を気にする風でもなくカラッと先生に説教されたりしている。なんで? 

 自己愛は失われていく。それは他者による減点の仕業で、己が育つ環境を己で選択することが叶わない子供時代において自己愛の差は即ち生まれの差だと意識するようになったのは充分察しが付く顛末てんまつだろう。

(アイツら、愛されることに不安が無いから奔放やってくれちゃってんだ……!) 

 そんな気づきをよわい八にして得たのは猫が七匹も家にいたせいだ。とは言え本能は本能。いくら失われていくとしたって生命いのちある限りは切っても切れない腐れ縁のような自己愛に、特別出来の悪い少年は、うーーっと葛藤していく……

 全て自分以外の責任にしてしまえたら楽なのだ? そんな単純な話であるものか。〝世界中が敵になっても〟なんて昨今〝なにしでかせばそんなことなんだよw〟とか退屈に揶揄やゆされたりしている状況が実現してしまい得るのだ。しかも、そうなった時に自分を好きでいてくれる肝心の誰かは不在であって〝世界に二人ぼっちだ YEAH~〟だとか、ふざけた文字りしてんじゃねーぞコンチクショーと真正の一人ぼっちは不安で、うーーっとなってたまらない。

(何かを傷つけたら誰かに嫌われる。それが誰かにとっての〝好き〟だったら尚更だ。なのにどうしてお前ら引っ掻いて嚙みついて汚して踏んづけて、ぼくには血だって流させてるのに……)

 そうやって宙ぶらりん堪えて葛藤無視不安不安に組み敷かれていた憎悪を決起させちゃったのが八島だった。ガッチャンと進路が切り替えられ〝ぼく〟は〝吾輩〟になった挙句にジゴロ街道まっしぐら──そうでしたそうでした、と、ここまでがあのカゲロウがふわふわ飛んでいた夏の日にクラス一の仕切り屋の女の子と遭遇した記憶からパカパカパカンと浮かび上がった一連の回想、で、これは脱線とはまた違う。

 なんてったって在りしハブられていた日の少年からは考えつかない程の変貌ぶりは、たとえガッチャンしようとも大元は一本のレールで繋がっているのだ。

 軸は、スピンは、引力は、( あぁ、嫌だなあ。)だ。

 カゲロウに小石をぶつける遊びをしていたら、当時、吾輩と同じクラスだった八島が後ろのみちを通りかかった。ランドセルにバウンドする巾着袋の音で接近は早々に察知していたけれど、水切りを装っていればお得意の正論は喰らわないだろうと踏んでいた。

 それでも、八島は注意してきた。「なにしてるの、あぶないよ。折角すぐ死んじゃうのに可哀想がん」

「……当てようとしてんじゃないよ」

 珍しく、その時は口を利いた。他に聞く者のいない一対一の会話だったからかもしれない。もしくは、世の中を拗ねた態度を遠回しに𠮟られたことの気恥ずかしさや反発心なりがそうさせたのだろうか。

「当たったら死んじゃうがん可哀想」「ほっとけよ。こっちは可哀想と思わないからやってんの」「酷いね」「だって蚊を殺す時に可哀想とかいちいち言われたらうざったいだろ」「蚊とカゲロウは違うよ」「なにが」

「蚊は血ぃ吸ってくるけどさ、カゲロウはなにもしてこないよ」

 吾輩は黙った。八島やしまは相手を説き伏せたぜのしてやったり顔で、委員長風情の助言までしてきなすった。

「そういうことするの、遊び相手がいないからだよ。なんかふざけたり、明るくしてみたらいいのに。あたし今日、初めて猫島ねこしまくんと喋ったよ」

「吾輩は猫島ねこじまである」

 やや間を置いた後でブーーッと噴き出した八島は「なにそれ!? ふざけてる感じ?」とはしゃいで……そうだ、後日も一人で盛り上がって教室中に吾輩の不慣れなおちょけについてを言いふらしてくれちゃって吾輩は吾輩でハブられないコツもとい心得みたいなものを掴んだおかげで生きるか死ぬかのビッグウェーブに無事乗り切って〝喋ってみたら面白い奴〟の称号を獲得。以後は味を占めて吾輩呼びを定着させていった訳だ。可愛い系の顔と尊大な一人称とのギャップが生来の取っつきにくさを上手いこと帳消しにしてくれるらしく……そこからだ。女の子を引っ掛けては丁度よく遊べるようになったのは。


 忘れたなあと思っていたけれど、思い出せていないだけだった。

 で、八島が精神科医のお世話になる羽目になった原因はと言えばホストクラブ通いの果てのご破算だそうで、おやぁ? と、人間が下卑げひた詮索をしようとする時に決まって立ち昇る、あの目をしばたたかせずにはいられなくなるようなきな臭さが居酒屋の個室中を占領する。

 そんなヒキ&引きのダブルミーニングを知ってか知らずか、八島はお膳立てされた沈黙というか絶句をこれ幸いとベラベラベラッベラ悲惨な身の上話をくっちゃべる。

「なんでいっぱいお金貢がせといてさぁ、いざこっちが心身の調子崩したら知らんふりできるんだろうね? 結局のところ容姿とか? 金遣いとか? そういう上辺のところだけを褒めてやってればいいって女性客をみぃんな下に見てるんだよ、アタシは誰よりも親身になって話を聞いてあげてたのにさ」

「え、聞いてもらってたじゃなくて?」

「違うよ。だってさ、ホストなんかして良心の呵責があるはずだって思うじゃない?」

 あっちゃー。きつ。

 こいつは害悪だ、と、吾輩は素知らぬふりで聞き耳立てながら思う。客通いしていた時はお節介セラピストじみた気持ちではいなかったくせに、いざ責任を追及される立場にあるとなれば過去の自分を平然と軽んじることができるんだ……泥棒、してる。そういった連中で世の中溢れてるよ。まあ、だからこそ吾輩みたいなのはたのしい人間生活を送れてるわけなんだけど……と、吾輩を嫌ってた先生に嫌われてたタイプの元・クラスメイト──確か、花道はなみちあおいだったか──が、なにやら危なっかしげに突っかかる。

「でもホストクラブって、そもそもがそういう場じゃん? 今月の売り上げ一位になるために愛想良くしてもらってるんだなって知ってて楽しんでるんじゃないの?」

「いやいや。君しかいない、君がいないとやってけないって懇願してくんだよ? そういう台詞を、横槍? ……じゃないや何だっけ、よこしま! な動機で軽々しく人に言っちゃいけないと思うんだけど。だってホラ、こっちにも生活があるんだからさ。それに」

「生活があるのは向こうも一緒だよ。布袋被せられて連行されたなら不平の訴えようもあるかもだけど、自分の意思で足でお金を財布から出して満喫してるのなら後々どんな目に遭っても」

「精神科に通う羽目になっても黙って反省してろ、って?」

 キラーワードにまんまとほこが収められる。理解の範疇に及ばない分野の問題に突っかかれはしないのなら最初から何も口出ししなければよかったのだ。大体にして、何故そんなにもロクなもんじゃない非日常のえぐみを面白半分に啜った後は視界の外に放っときゃいいイタ客を正気に醒まそうと躍起になっている?

 二人は親友だったりした? とか誰かが茶化してくれるよりも先に、八島がなおも自分の気持ちを切り捨てて遥かにペラい皮算用の同情を病んだ心に宛てようとする。

「自分の意思でとか言われたけどさ、最初は知り合いに勧められてほとんど無理やりに連れて行かれたんだし、アタシはノリ気じゃなかったよ。なんなの? なんでそんなに責められなきゃいけないの。青ちゃんはアタシのなんなのさ」

「いや、だって……責めてるんじゃなくて」

 責めてるだろう、と思うだけで口には出さない。吾輩は下手に注意を引かないようにじっとみんなの面持ちを伏し目がちに観察するだけだ。サカリのついた雌猫もかくやのキャットファイト……くわばら、くわばら………

 あるのか否かも分からないが仮にあるとすれば闘った意義をおじゃんにする敗北宣言の代わりに、花道青は哀愁たっぷりにこうべを垂れるだけだった。脳内シュミレートはこんなところだ。(八島ちゃん、いつからそんな風になっちゃったの……)

 しかして、吾輩の推察する限りだと八島には幼少の頃からそういう気があった。味方の多い環境を作り上げられるのならば自分の気持ちを平然と軽んじる。こちらの事情を知らぬ存ぜぬの規律を逸脱せずにいることが安全に生きるための処世術だと身に沁み込ませられていて、所謂、吾輩(幼年期)を筆頭とするような「なんで宿題ってやらなきゃいけないんですか」やりたくないことをやらされてるんだから至極真っ当な疑問だろうと思うけれど大人からは得てして屁理屈だとかって面倒臭がられる劣等生とは正反対の、猫多頭飼い実家育ちにも拘らず猫ヘイターの吾輩からしてみれば優等生で、生きる覚悟が足りない憎い奴だ。

 自分の気持ちをかえりみずにプリセットの解釈で妥協できる。そういう人間は、安易な幸福を賞品とするレースに見立てた人生において、大きな〝はじめの一歩〟を持っている。

 自分がほだされていたホストをいやしい職業だともっともらしくけなし続ける八島を内心見下しているところで吾輩に白羽の矢が立つ。SNSで周知のプレイボーイっぷりに八島の更なる豹変見たさで言及してくる奴がいて、案の定、同じ──とはいかないまでも近所くらいの感覚で空いてる穴のムジナの──曰く〝あざとクズ〟に痛い目見させられたばかりの八島はフギャーッと牙を剥いてくる。

「はあ? なにそれ? ちょっと待ってね、一つ、確かめたいんだけど、破局破局って本当にそれは猫島くんがフラれてるの? もし、いざこざになるのが面倒臭いからなんて理由で事実を捻じ曲げてるのなら良くないことだし、久しぶりに会ってこんなこと言うのは気が引けるけどムカつくよ? 悪い冗談でしょ? 猫島くん、いつからそんな感じの人になっちゃったの?」

 その剣幕が物凄かったもんだから周りの同級生たちが表向きはにこやかに、というか面倒事に巻き込まれたくないからと最早〝面倒事〟そのもののような腫れ物扱いを受けている八島に温和な対応をしとこうと努めているんだけれど、その心笑ってないね? それよか嗤ってるね? 内心との乖離がエグ過ぎていっそ幽体離脱しそう……吾輩は吾輩で女子率が多くを占める同情の眼差しを疎ましく感じているのだし、見下している時は凪に似た心情なのでもそれとは明らかに種類の異なる荒波を鼻腔の奥まで立てる感情=苛立ちは八島≒目の前の状況に抱いているらしく、それってひょっとするとひょっとする感じ? 猛烈な刺激臭を発する暴露を勝手にしたのはあちらさんだとは言え寄ってたかって後ろ手に旧友を弄ぶのは如何いかがなもんなんだ精神んでるんだぞってか? ……いや。人でなしの吾輩に限って、まさか。

〝反応〟が正しい。人間。

〝反応〟が正しくない。人外。人の心が無い扱いされる。

 ここで言う〝正しい〟とは、これまでに人外扱いされてこなかった人間連中の判定によるもので、吾輩からしたら嘘泣きと呼んで正しい、生理食塩水を涙腺から捻り出してみせる芸当を見事成し遂げた天才子役が「お母さんとお父さんが死ぬところを想像しました」と答えていたいつかのTVショーを目の当たりにした時にだけど吾輩はふと考え方を変えた──出会う人出会う人の反応を(なーんだ嘘っぱちじゃないか)と斜に構えておかなければ殺意余って人様のことをりかねなかった吾輩に名も知らないあの子役はいっそ暴力的なまでの才能を見せつけることで口も容易には利かせなくする程の不信感を取り除いた──かのように思えたのだけれどじつはその時に傷が出来たのが歳月の経過に則り膿んだようになってしまったのだ。が、それはまた別のお話──これはこれで、本当なのかもしれない。

 この場に集っていない同級生の決して健全とは言えない噂話で盛り上がっている連中が卒業式の日には泣いたり肩を抱き合ったり心許ない白墨で永久友情宣言をしていたのだ。過去に吾輩はその光景を冷めた顔つきで眺めていたのだし、現に噓っぱちだとしても納得の有り様だ──ここからアンダーライン──がしかし、その時その人にとっては本当なのだ。大マジだ。……なお、吾輩は膿を溜め込んでいる身なので未だ茶化したような物言いしかできない。すまない。誰に? ってわけじゃないんだけれど。

 君が代を歌えばなんとなく厳粛な気分になるし、泣いてる奴に同情したけどそれはそいつも泣きたいような気分だったからで仮にお説教モードであれば全く異なる言葉・態度から成る反応だっただろうし、そういうのまるで天気みたいだ。不安定で時期によってコロコロ変わる、統計のおかげで絶対とはいかないまでもある程度は予想できる。今夜は気分のげんなりする曇天模様だとしても数年前の晴れを噓にする証明にはならない。雨が降ったなら降ったで雷が落ちたなら落ちたで雲一つない快晴がどれだけ噓っぽく映ろうともそれは雲一つない快晴だ。

〝あーしたてんきになーれ〟で願掛けするような少年だった。八島は吾輩が見てきた誰よりも反応の予想が上手かったのだし、それに応じて身の振り方も変えられる奴で──この状況はなんてことだろう、と思い至る。

 味方の多い環境作りに長けていた八島が、今は、在りし日の吾輩もかくやの有様でハブられている──(……そうだ。吾輩は此処へ、このために来たのだ。)

「吾輩はずっとこんな感じだよ。そもそも、吾輩のことは何も知らないでしょ」

「知ってるよ。だって──」

 相手を陥れようといきり立っている時に決まって大コケするのは何より悲劇に目が無い悪魔が吾輩の嫌がる展開を心得ているからだそうで──絶対そうとしか考えられないナンセンスな造語が二の矢三の矢を構えようとしている吾輩の方をこそ「ズッ友でしょ」と醒ましてくる。

「え、なに……?」

「だから、ズッ友じゃん。そんなことまで忘れちゃったの?」

 そう言って、大して空腹でもない哺乳類のために屠られた鶏の死骸なんかが盛り付けられた皿をどけた卓上のスペースに引っ張り出されたのは元・総務係の八島に託されていたらしい卒業アルバムで、委員会紹介の見開きページには片方の口角だけを上げる例のいやらしい面をした吾輩が最下段の座席に八島と隣同士の恰好で映っている。そうだ、学校嫌いのくせに美化活動に勤めるのはニヤニヤできていいじゃんとの不真面目極まりない志望動機で吾輩は美化委員会に所属していたんだけど、あれれ、八島もいたっけ。

 それで、かつては八島のことをお人形さんみたいだとかって殆ど人権無視するような具合で猫っ可愛がりしていた女子の面々がアルバムを覗き込んで「確かに仲は良さそうだったよね」とデタラメ言い出すので吾輩は困惑する。いや、デタラメなのか? 女子たちの悪ノリなのか、はたまた吾輩の忘却なのかが計れない。でも、同情の視線の数々に感じた疎ましさやら本来ならば喜悦を覚えるべき状況に対する苛立ちやらは窮地に追い込まれた八島に味方しようとする潜在意識から生じた感情なのかもしれないぞと今更ながらに思い巡らせてみる。

 なぜなら、吾輩がズッ友だから!

 ?

 いや。マジであり得ないだろ。

 それでも八島は頬を赤らめながら「約束したもんね」とか言ってるんだからマジで手に負えない。違うよ、吾輩はお前のことが憎いんだし、だからこそ優等生だった八島弘香が特別出来の悪かった少年と同じようにハブられだして昂ったんだ……え、それじゃあ疎ましさや苛立ちはどういう訳なんですか? いやあ、それは自分のことながらに見当づかないんだけど……

 とにかく、吾輩に友達はいないし、いらないのだ。そのように生きることでしか地に足を着けられない。今更ひっくり返されて逆立ちで歩けなんて言われても上手くイメージできることじゃないし大変そうで弱る。

 しかし、八島ズッ友問題を筆頭とする妙なカミングアウトが連発した同窓会の二か月後かな三か月後だったかな──に、歌舞伎町で居を構えるホストクラブ所属のホストくんが刺し傷二か所と目ん玉を片方くり抜かれた遺体で発見されてしまったおかげで吾輩が必死こいて構築してきた世界観は連日の事件の報道やら同窓会開催時に作成したグループラインの通知やらに問答無用でひっくり返され(大変そうでー)と弱ってるどころじゃなくなる。人生の踏ん張りどころはいつも予期せぬタイミングでやってくるものだ。下手をすれば急転直下まっ逆さまの帰還不可能だ。

 男女関係の美味みを貪ろうとする阿呆ホイホイシステムを運用して銭を儲けている連中は逆上した阿呆のどうにもならなさを心得ているらしく……いや、これはあくまで吾輩の推察でしかないけれど、無断欠勤続きだったホストくんの安否と近頃まで足繁く通い詰めていたのにとんと姿を現さなくなったイタ客の病的なまでの愛に燃え盛る瞳とを結びつけて行方不明者の発見に至ったのだろう。なんせ遺棄されていた山は吾輩の故郷でもあるS市に位置しておりそんなクソ田舎に死体があると見当づけて掘り起こしに行く気になど相当の確証が無い限りは到底……よくやったなあ、と、捜索関係者に対しても八島に対しても思う。

『あの人にアタシの生まれ育った土地で永劫眠ってもらいたかった』なんて供述がサイコパス或いはメンヘラ女の最恐の台詞で組まれた打線の四番として永劫残り続けていきそうな世界に、一体、どれほどの生きがいがあるんだろう。

 一人ぼっちで唇を引き結んで、うーーっとなる以外に踏ん張り方を持たない吾輩は甘臭く湿ったベッドにのびる女の子の身体を抱く程度でなんとか他人にもたれることを踏みとどまる。……痛み分けのためと澄ました顔で我が心に立ち入られるくらいならば独りで痛みに耐えた方がいい。そのように塗り固めていく種類の強さもある……そして多分、それこそが哀愁という悪疾あくしつの正体だろう。

(物事には良い側面と、それほど悪くない側面がある)

 五番目に部屋へ呼んだ回数の多い女の子の艶やかな黒髪の奥に鼻先をうずめながら、この世の悪の総量についてを考えていた。(物事には良い側面と、それほど悪くない側面がある)この言葉を吾輩はどこかで見聞きしたのだし度々こんな風に胡乱うろんな息遣いをせずにいられなくなる時に決まって反芻はんすうするのではそれなりに印象深い、それでも断じて呑み込めていないのだがしかし健やかな寝息を立てているNo.5ちゃんには慚無ざんなうなずかれた。

 ──人の数だけ物の見方があるんだよ。その物事自体で悪だとか善だとかは言い切れない気がする。天国も地獄も、なんていうか、その人の考える世界にあるんじゃない? うまく言えないけど……。

 ──地獄の沙汰も金次第、じゃなくて、地獄の沙汰も君次第ってこと?

 ──ああ、そうじゃない? 割とマジでさ。……そうだよ。ピカピカに磨いたベンツに乗って来た坊さんのお経のおかげで行けるいいとこなんて大していいとこじゃないだろうと思ったんだよね。八歳の時。私が神とか、いわゆる絶対のものを信じられなくなった原体験。

 ──でも、そういうのって大変じゃない? 

 とは言えず吾輩、うーーっと下唇を噛み締めている。

 賢明に()で塗り固めたのは、ひとえに「そうだよー大変だよー」と、まるでなんでもないことのように肯かれることが恐かったからだ。生来そういった識別機能が欠落している吾輩にだって(自分にとっては良いことでも相手にとっては悪いことかもしれない)……それも、相手をやり込めようという意思が全く無いとしてもそうなる場合がある。それは逆も然り。相手にとっては良いことでも自分にとっては悪いことかもしれない。

 そんな曖昧な理論で、それこそ地獄のような苦しみを味わう人間がいる世界は恐ろしいと思いませんか?

(ニャア、グリ。)

 絶対のものを信じられなくなった原体験。ママもいつか死ぬことが信じられなかった子供時代が誰しもにあったはずなのだ。〝小さい頃は神様がいて~〟まさしく。……思うに、神様を亡くした原体験を打ち明けられたなら、その誰かに向けている気持ちは愛だけだと言える。

 進化を遂げまくった脳みそで悶々と考え過ぎちゃう割には〝どうにもならない〟ことを〝どうにもならない〟こととして受け入れ、平気な顔して生きられる人間はしたたかな生き物なんだろう。負け組の線引きは不条理を呑み込める早さで決まる……お前はどっちだって、言わずもがな。

 どうしてか潤んだ瞳で神様を亡くした原体験を打ち明けてくれたNo.5ちゃんは一時の気の迷いで愛を告白している。そういうことにしたくて、吾輩はまだ吾輩に絆されていない女の子たちを5、4、3、2、1……と、繰り上げを繰り返す。その時その人にとっては本当なのかもしれないけれど、人肌欲しさに抱き合って数ヶ月やそこらで芽生えた気持ちなんぞ吾輩にしてみれば一時の気の迷いの範疇……なんせ、こちとら十数年前から、ややもすると産まれた時から一つの気持ちを抱えたままだ。

 思い出せる限りでは、あの日から。自分だけが味方でいなければならないのだと決まっていた。だからこそ敵を作ることもいとわずに、ある角度からは勇敢とも取れる無謀な姿勢で吾輩呼びを定着させることができた訳だ。

 それなのに吾輩ではなく〝ぼく〟と発声してしまったおかげで突っかかりたがり屋な花道青に電話口の向こうで突っかかられる。遠距離突っかかり。突っかかられ。言ってる場合じゃないのは花道青が『あれ、吾輩じゃないの?』と、脳内で慌てふためき中の三点リーダーをお構いなしに吹き飛ばしている居所が猫島美月の故郷でもあるS市だからで、それはつまり八島弘香が死体遺棄した山の麓に展開する町だからで『私ってば八島ちゃんが人を殺すこと分かってたんだよね』って、なにそれハアアアン?

『同窓会の時にさとそうとしたんだけど、やっぱり無駄だったみたい』

「そういう冗談って……なんかさ花道さん、頭大丈夫?」

『ショックで気が変になった訳じゃないし、そんな聞き方ってある?』

「だって人殺すの分かってたって、えーと何、事前に相談受けてたってこと? それなら予測する方が難しいでしょ。よくあるホス狂いの世迷い言にこんな猟奇的なオチが付くなんて」

『よくあるの? って、いやいやそうじゃなくて、予測じゃなくて予知だから。簡単とか難しいとかなく〝できちゃう〟もんだから』

 閉口を余儀なくされた吾輩に朧げな中学生の頃の記憶に頼れば心のシャッターをガン閉まりにしていたはずの花道青がよくもまぁそんな口達者にと告げてきたのは生まれつき自分にそなわっているらしい特殊能力についてで『穴』がどうのこうのと連呼している通話時間は吾輩に(女の子ってあらゆる言動にセクシュアル関連の緊張感が付き纏うから気の毒だな)と思い改めさせる程度で肝心の内容はと言えば殆ど右耳に入った拍子に左耳からスーッ…………なんでも『穴を覗けば成り行きが見通せる』『実を言うと死体の早期発見も自分が一役買って出ていたのだ』とか言って……いやいや、ほんとに〝……〟だ。

「……一役って、警察官になってたの」

『違う違う。不可抗力っていうか、やむを得ず? 私も本当はこういう種類の物事に関わりたくなかったんだけど、どうしてかこんなことになっちゃって』

「どうしてか」

『……? ああ、成り行きが分かるって話だよね。んー……ずっと、封印してたの。それこそ中学生の頃みんなといた時も、っていうかつい最近までそうしてたんだけど、とうとう力を頼らないと生活できないまでに追い込まれちゃって、それで、やむを得ず』

「そうなんだ」

『あのさ、こんなこと言うのも恥ずかしいくらいなんだけど、私の言ってることを疑わないでほしいんだよね』

「いや。疑うとか特にないよ」

『でも信じてもないでしょ?』

「うん正直なんでもいいかな。それより、電話してきたってことは吾輩に何か用事があるんじゃないの」

 しばしの沈黙。目の奥がジリジリとけるように痛む。

『変わらないね、猫島くん。そういう、自分には自分みたいな一本槍の姿勢に憧れたし、あの、だから言うんだよ』

 え? あの時期の軽薄を極めようと必死になっていた吾輩に対してそんな感想を抱けるものなの? と、ようやく現在の状況を相応におっかながれそうだったところで、止まる。

『八島ちゃんが人殺しちゃったのって、あの山に穴があるからなんだよ』

「…………穴?」

『うん。穴って繋がってること多いからさ』

「……ちょっと、どこまで……何を、伝えたいわけ?」

『猫島くん、今回はホストの人で済んだけど、それは別に猫島くんでもよかったことだから。あっちの方では似たものでそれなりに閉じようとさえできればいいの。人の命に絶対の価値は無いからさ、こっちの常識がほぼほぼ通用しないんだよ。だから厄介だし、まだ猫島くんでどうにかしようとしてるみたいだからさ、えーと、気をつけてね? って』

「気をつけて、でどうにかなる種類の物事なの。殺し殺されの話してるんだよね、これって。多分そうだよね」

『でもどうにかしたいって思うからさぁ、話してるんだよ』

「そうじゃないだろ絶対。ねじくれた怒りぶつけてるだけだよ」

 途端に図星で押し黙る。『やっぱり無駄だったみたい』の〝やっぱり〟は、二秒後には忘れてしまいそうな程こざっぱりとしていた。

 数年越しに繋がり直してみたら唐突にスピッちまった花道青の不穏で奇妙な口車にえて乗ってみるとすれば〝八島弘香が人を殺す〟予知を覆せはしないと知っていてもなお先日の修羅場を繰り広げたということになって、それは一口に言ってしまえば八つ当たりに相当するし吾輩にしてみれば泥棒に匹敵する悪事なのだ。

 己の真っ当な世界観で人を殺すしかない人をイジメることは。

『ねじくれたって何? 私は私なりに人間が手出しできない運命とか、そういう、あっち側のなんか凄い〝なんか〟に怒ってるんだよ』

「それってもうねじくれてるんだよ。花道さんの話よく理解してないけどね? 八島を善の道へ導くのを阻む〝なんか〟に義憤を抱いてるってことなんなら、」

『善とか悪とか関係無いんだよあっちには。閉じようとさえできればいいの!』

「関係無いんなら尚更怒る必要ないじゃんか。ましてや当人に義憤をぶつけることなんかはもういっそ筋違いな攻撃だよ。あのさ、普段は勝手にしたらいいと思ってるよ、そういうどうにもならないことに対するご意見の表明は、それこそどうにもならないくらい世の中に溢れてるし。だから同窓会の時にもなんもカットインしなかったんだ。けど、いざ自分に矛先が向けられるのは我慢ならないって話」

『猫を殺すのもどうにもならないことだったの?』

 は? ああやばい。咄嗟に脅し文句の一つでも吐こうとして──移り気のある女の子を内心で見下してばかりいる吾輩でさえグアッと涙声にひるんでしまうのだから最早こういう反応は生理的なそれだと言っても差し支えないのかもしれない。

『ねえ、聞いて? 昔、私が一人称を〝ウチ〟に変えようとした時に「似合わない」って猫島くんに止められたの。あれ、よかったと思ってさ。いま思い返しても妙な背伸びだったしさ……私の話がよく理解できてないとかそういうことじゃなくてもさ、猫島くん、ずっとキッパリしてるじゃない。それって自分に自信が無いと無理だしさ、ああ、この子は先のこととか何一つ知れないくせに凄い! って、それから猫島くんのことを目で追うようになってさ……』

 おいおい? と、途中で思わずツッコミを入れそうになる。多分それギャグだ。花道青と同じクラスになったのは中学一年生の時で、つまりは吾輩がアンタッチャブルかつ孤高な塔を確立させようと必死におちょけていた時期で〝似合わない、って、一番ドえらいの使ってる奴がなに言ってんだ〟の感想が適当じゃないの? と、現在思えるということは当時もそのつもりでいたはずだ。

 コイツ、どういうつもりで『猫を殺すのもどうにもならないことだったの?』と訊いてきたんだろう。先日の同窓会で繰り広げられた修羅場といい頭固そうで嫌だな……人外めいた能力を持っている割に人間らしい反応を取りやがる、或いは、取ろうと努めている? もしも八島に吹っ掛けた時と同じ〝つもり〟で訊いてきたことが分かりようもんなら吾輩うーーっとムシャクシャして煙草でも始めちゃうかもしんない。

『……それきり本当に、軽はずみで穴を覗くのはやめたの』

 ひとまず、花道青が特殊な能力を具えていることは信じるほかなくなる。なぜって、吾輩と花道青の初対面は中学校の教室で……グリをあの山へ置いて行ったのは小学校からの帰り道で八島に遭遇してしまって間もない頃のこと、十歳の出来事だ。

 当然、誰にも打ち明けたことなどないし、それならば花道青には知る由もないはずだ。

「それで、知ったって? だからなんだってーの。クソッ」

『猫島くんが、自覚してないとしても穴を空けちゃったんだよ、あの場所に。それで……穴は繋がってるからさ、こっちでの距離がどれだけ離れてても無駄なの。どこにでも穴は現れるから、逃げるための準備じゃなくて対峙した時の心構えをしておかないと』

「やっぱり無駄、なんでしょ。どんな展開が視えてるのか知らないけど。酷く不愉快だよ。とっとと切りたいくらい」

『……猫島くん、ねじくれた怒りをぶつけてるだけだって言ってたけど、確かに、言われてみればそれもあるなって気づいたけどさ、それだけじゃなくて私は私なりに力になろうと電話してるんだよ。くっと下唇を嚙み締めるような気持ちで、なんとかする覚悟を決めてさ』

(だからさぁ涙声になるの勘弁してくれない。)不機嫌そうに嚥下えんげする喉仏に手を当てて思う。いちいち怯んでしまうのは養殖ジゴロが板に付き過ぎているからか、はたまた女子供のそういう声が──ザァァ、ザァァ……──笹の葉の擦れる音を心像から連れて来るせいも、あるんだろう。

 予知した時点で人を殺すしかなかった八島を旧友の目が釘付けの場でこき下ろしたことと言い、花道青は〝どうにもならない〟ことを〝どうにもならない〟こととして受け入れるどころか、そんな種類の物事がこの世界に在ることに憤り、自分の能力、ひいては自分に能力が与えられたことに執拗な疑いを抱き続けている。覗いた穴の奥で繋がっていた成り行きを諦観ありきのやっつけだとしてもとりあえず変えてみようとすることで頭カッチンコッチンな気持ち※ニュアンス に折り合いをつけようと自覚はどうあれ猫殺しの秘密を投下してきて吾輩の気持ちを泥棒してやがる現状は酷く不愉快だし、本当、今すぐにでも電話を切りたいくらいなんだけどでも花道青さすが吾輩のと同じ先生に嫌われてただけあるよなと謎の感慨が障害になって黙ったっきり。ため息はいとく。

 片方の口角だけを上げてばかりいた美月少年、片や、くっと下唇を噛み締めていた、っていうか少女適齢期を超えた今でも曰くそうしている花道青……いや、吾輩もそうだ。

 平気な顔してで生きられずに、たぶらかし、ニヒルに虚勢を張っている猫島美月と、こんな状況を作り出した責任の在りを追い求めて、優しさと名付けられる悪意で他人ひとの人生をかき乱している花道青。安易な幸福を賞品とするレースに見立てた人生においては議論の余地も無くなる程お互いに負け組で、幼少の頃はさぞや屁理屈こきの生意気な子供に映っただろう。

〝世界の常識や当たり前を疑う子供は将来大物になるぞー〟みたいな風潮は悲しきかな吾輩たちが該当する時期には顕現の片鱗すら見せてくれてないし前述した通りに〝駄目な子〟扱いが順当で妥当で真っ当で──これこそが人外の人外足る所以なのかもしれないけれど──それでも、吾輩たちは自分の気持ちを周りにならえで軽んじることをしなかった。

 いつの日か、自分は自分のままで幸福になれると信じていたのだ。

 とまあ、1.これまでに関わり合いが殆ど無い 2.家庭環境も知らない 3.紆余曲折も如何いかばかり遭ったのかさえ認知していない 割に〝たち〟と一括りにしているのは花道青の立ち居振る舞いがかつての吾輩のそれとダブるからで、とりあえず間を埋めとく意図で吐いた先刻のため息に何かしら都合の良い意図を汲み取ったような花道青は吾輩にしたら稀も稀も稀な共感の芽生えを世知辛くもアッサリと踏みにじってくる。……自覚は無いのだろう。だって、そこにいる内は分かるはずもない。

『どうして、そんな強くいられるの』

 やれやれしつこい女に絡まれちまったぜハァー、みたいに取れたのかな~? ……いやまあそっちの反応の方が正しそうだと思い至る。たとえ猫殺しの秘密を投下した後で成り行きが見通せる特殊能力を信じさせられたとしても『穴』の恐ろしさ、ひいては、どうにかしたいと思わせるまでのどうにかせねばならなさに関しては両者の間で徹底的に世界観がすれ違っているはずだ……のに、吾輩は『穴』の恐ろしさを察知しているしサイズも動機も全くもってだけれどグリが置いて行かれた山とホストくんが殺害・遺棄された事件とに繋がりがあるんだとすれば手遅れになる前にそりゃーどうにかせねばならないだろうと気づけている。

 まさか、こうもすんなり受け入れられているとは夢にも思ってないらしい花道青は変にまともっぽく……吾輩は吾輩のポーズが間に受けられたことに足元が覚束なくなる程のショックを受けているってなもんなんだから笑っちゃう。で、大方これも〝分からない自分〟に向けた嘲笑なんだと捉えられるのが関の山だ。本当のとこは(ハッ、今更こんな反応を取れるものか?)と、なけなしの気力でニヒルを気取り、他人にもたれることを踏みとどまっているだけなのに……それにしても(さびしい)だなんて、それこそ人間らしく吾輩らしくない反応を取っちゃってるのはマズい状態だ。言わば、孤高の塔に土台からぐらついてしょうがない穴が空けられたような……『穴』。クソ。

 なーんか義憤に駆られたように『私は私なりに力になろうと』とか『心構えを』とか忠告してきたけど、ひょっともするとコイツこそが吾輩の許に〝こっちの常識がほぼほぼ通用しない〝なんか〟〟を引き寄せているんじゃないかといぶかる。人間らしい反応を取る花道青が意味する〝こっちの常識〟とは推察するに〝人間ならではの世界観〟で、人外歴の長い吾輩ならば一人きりでこそ太刀打ちできただろう物事を今は人並みか或いはそれ以上におっかながれてしまっているんだ、たまったもんじゃないよ。

 笹の葉が風に擦れる音をウゥウゥなる涙声で連れて来て、二度と直面したくもない心像をありありと瞼の奥に呼び起こしてくれたおかげだ……気取るのも気楽にできてないな。こんなにされるのならほっとかれたらよかったと思わざるを得ないものの愛したがり屋な女の子とギュッしてはバイッを無傷のまま繰り返してきた吾輩は誰かに対して向ける好意的な気持ち、例えば憧憬の類にはほとほと死線を潜り抜けさせられてきたのでまぁほっとくわけにもいかなかったんだろう致し方無いとそこの辺でグジグジはしない。

 吾輩の勝手な憶測でなく『憧れた』と率直に伝えてきた花道青にスタンスを崩されかかっている状況は〝穴は繋がっている〟云々の話をすぐさま吾輩に想起させる──しもい方の連想だってギュッしてはバイッのパカパカパカンで働いている──(これまでにNo.4やら5ちゃんやらの告白を躱してきたことのツケがきた? 穴から穴を挿れ替えるごとに鬱積していた暗い力が花道青に引き寄せられた『穴』から噴出……?)

 とまあ、いかがわしい比喩を使うまでもなくヤバいのは人死にが直近で起こった事実と死体の早期発見に一役買って出た張本人が〝あんたも死体になるかも〟的な忠告をしてきた現状なんであって、心構えが必要だとするならば花道青ひいては花道青が引き寄せた概念である『穴』のじ込んでくる文脈にこれ以上、猫島美月の物語を書き乱される訳にはいかないと──本当は逃げるのが一番なのだし気持ちもそちら側に向いているんだけれど……でも、ここで逃げたとてってところだ。

 心のずーっと奥に在った場所に立ち入られた後で、これまで通りに立ち居振る舞える訳もない…………こうなることを防ぐために徹底してギュッを踏みとどまりバイッに踏み切り続けていたのになぁ…(……ツケ? だって。)

 最早『穴』からは逃げられないとして、吾輩に残された選択肢は、あの時と同じようにそう多くはなかった。

 即行、吾輩は花道青に促されるまでもなく単身で故郷の田舎──もとい歌舞伎町ホスト殺人事件の遺棄現場でありまばらなマスコミ関係者の車両やらトラテープがあやし気にはためき、ものの見事に郷愁の現像化への感慨が打ち消しにされている山の中へと紺色ベース白N字のニューバランスで許可も取らずに立ち入る。

(あれ?)

 振り返る。かつて通っていた小学校と、気の向くままには身動き取れずにいた旧・住処とまでを繋ぐ道が木々の隙間から覗き……その向こうには褪せた落ち葉の降りかかる民家の屋根が遠目に見えて──花道青の実家は霊能力とは無縁の生活を営んでいるらしいが、どっこい先祖を遡ってみれば我らが地元が町未満の村だった時代にやたらめったら所構わず出没していたという曰く付きの妖怪と神通力継承に纏わる契りを結んでいたことが判明し〝これから何番目に産まれる娘っ子にはウンダラカンダラ〟とかって絵巻物が掘り出されたくらを所有する親戚の本家に現在、当の娘っ子は死体発見を筆頭とする力の行使を成し遂げた後に『意識がそっちに寄り過ぎちゃわないよう』身を置いているのだよーと説明されたけども吾輩は今、人気の無い山の中で更に人っ子一人も立ち入らないような〝あの場所〟に向かわんとしている訳で……読者の興味を引きそうな設定わんぱくテンコ盛りみたいな身の上話を不意に思い出した後では、こんな大方の人間には端折はしょられ読み飛ばされ得る展開に──まるで子供じみた調子に昔馴染の疑いを抱いてしまう。

(なんで。こんなところにいなきゃいけないんだろう?)

 誰にも邪魔されることなく自分が正しく自分になれる〝聖域〟へと近づいていくごとに足元の獣道に揺れる木の葉の影が太陽の光を千切って吞み、そうでなくとも頭上に目を向けてみれば先刻まで夕焼けに燃えていたはずの空が死体に浮き上がる痣さながらな日没の瞑色めいしょくに染まり始めている。黄昏時は短くて夜の到来は一瞬だと体感した最も古い記憶は──初めて家出した日、うず高く積まれたドでかタイヤの亡骸に紛れ込んで(なんで。こんなところにいなきゃいけないんだろう?)と、うーーっと下唇を噛み締めていた時だ。

〝それはお前が家出したからだよ〟と、そう突き放してしまうのはあまりにも酷い──自戒する──せいぜい十歳かそこらの少年が明かりの灯る我が家よりも一人ぼっちの暗がりで膝を抱える方を選んだことはいっそ宇宙消滅に値する悲劇だけれど明日も明後日もそのまた明後日も、下手をすれば五十億年先までも無視を続けるらしい太陽が少しの留保も見せずに山の端を燃すところを細い眼で眺めていた少年は、だから( あぁ、嫌だなあ。)と……いや。大人になった現在ピンとこれるように敢えて気持ちを再構成するならば( 生まれてきたくなんかなかったのにな。)と、幾個も積み重ねられたドでかタイヤの穴の中で、消魂けたたましい泣き声を上げていた。

「ウァーン。アアァ」

 こんな具合に……──グリは、よく鳴く猫だった。つと、足元だけを映す視界が霞みがかったような印象でブレたので恐らくは首から上辺りだと素人考えの目星を付けた血の巡りの滞りをどうにかしようと顔を上げてみて──辺り一帯を重苦しく包み込んだ暗闇にザワザワと山肌が粟立っていることを覚る。

(良くないところからは逃げ出さなくては)と後退ってもえたような匂いが鼻の奥を突き(あっ、もう悪魔の胃袋に吞まれているんだ。)とも、悟る。

 自分は既に、良くないところにいる──それでも、歩を進めるより、しょうがない……──ザァ、ザァ……──この独りを囃し立てるような笹の葉の擦れる音が際限無く降る〝聖域〟へと近づいていくごとに、人目に付かない場所だからこそ干渉可能な時空と時空とを隔てる膜を思っきし蹴破って、かつて同じ道を辿っていた幼少の頃の自分と重なるような、懐かしさをも超越した、いっそ追体験じみた感覚に没入する。

 もう鳴き止んだグリを抱えて、闇を分け入り進んでいた。子供の泣き声と聞き紛うような鳴き声を殆ど四六時中上げていた猫が鬱陶しくてならなくて……それでも、いくら無視されたとしても葛藤続けに堪えていた〝自分以外vs自分〟の不安が過ぎる構図を帰りしなの女の子に諭された拍子に〝なにくそー〟と殺ってしまった。

 あーあ、やっちゃった。

 ……〝聖域〟は誰も立ち入れないからこそ〝聖域〟なのだ。例えば人っ子一人見聞きする者がいない場所で何かが起こったとしても、それはじゃあとすることもできる。『森で木が倒れたとしても観測者が無ければ音は立たない』 これは大人の頃に教わったピンとくる例え話だけど哲学に手を出していなかった頃の美月少年は、しかし知覚が旨の小難しい理論を誰に教わるまでもなく我が物にしていた。

 とうとう〝聖域〟に辿り着く……或いは帰り着く(?)そこは思索も吹き飛ぶような笹の葉の擦れる音と陽光が始終遮られがちなこともあって滅多に人の寄り付かない、少年にとっては自分が正しく自分になれる──人目に付かない場所でないと思いの丈を表明できない人間はいて、それの原因は常に人外扱いされることによる萎縮の顕れが主であって、いっそ開き直り奇想天外な嫌がらせに邁進せんとする鬼畜の道を選べれば……いや、たとえタラレバだとしても〝よかったのかもしれない〟と述べられる時点で最早その思考が鬼畜由縁のモノでないと証明するいわれはなくなる。なぜって物質的なり世俗的なり──〝海外留学できてたら〟だとか〝もっと早く所帯を持ててれば〟だとか──そもそもの選択肢が浮上するための前提条件として当人の意向以外の何がしかが必要となってくるタラレバと違って、鬼畜の道は〝選べれば〟と思った時点で、いな、思えた時点で既に鬼畜だ──とは言え人目に付かない〝聖域〟でニヨニヨと片方だけと言わず破顔しつつ猫の死体を抱いた少年は傍目には随分なソレと映っただろう……ま、だから誰もいなかったのだが。

 人真似の生活に馴染んでいたためだろう。その時も(あぁ、自分以外に誰もいない)と、ほうけた叔父のような速度で気づき……冷凍枕に似た感触の毛皮に爪を喰い込ませた後で〝えいやっ〟と、思いの丈を表明してみた。

「「もう大丈夫だ!」」

 ──ザァ、ザァ、ザァァ……。

 応答らしいそれを返してきたのは勿論、その時も風に擦れる笹の葉の音のみだったけれど、あの一瞬、或いは数舜限りはこの独りを囃し立てる意味合いではなくて、ハブられてばかりな少年の長らく待ち侘びた祝福が今後も際限無く降り続くことを報せる……ガッチャンの合図に応じる通知のような

〝〝ブルル〟〟

 不意な振動を伝える手に抱かれたグリは、言うなれば〝疑い〟そのものだった。  ──可愛くなかったら捨ててるよ。(ネコちゃんを殺してはいけない。なぜなら可愛くて素敵だ、から)──…ああ、やっぱり駄目ですかぁ。 ──ボール最後にぶっつけられた奴が片すってノリぐらい分かんねえの? ──ハハ。分かんないんだもんね? ──…………ンーンンッンーンー……──鼻唄うたってましたけど。なんか良いことでもあったワケ? 

 ──サイトウさん? サイトウさん? 

   ゥアーン  

 すりすり。うざったい。クソ。しね。しね。死ね。

             ヤーァ ナアア  ニャアーーン

 ──そっちの方で貰ってくれます? 家ではもう、たくさんなので。

  ウルルン ゥアーオ   ミャーン   グルグル……  ゥアアッ  ナアアー  ン!    

ニャー  ウウー…………  アァン ニャオォ  フルルゥ アンミャンッ  

   ナァーン ヤアァァ  ニャア!  クャーァァ カカカッ ナァ  ウォーーウ ォウ


 家出しなければと思い立ったのは、葛藤にケリを付けたかったから。何かしら単調な日々を劇的に変える出来事が訪れて来るのを呆けたように待つばかりじゃ、それこそ待ちぼーけになると悟った……というよりも、楽な方の選択肢だった〝堪える〟ことに、とうとう限界が来そうだった。

 きっと、あの家出は自分なりの譲歩だったのだ。幾度も幾度も実在しない〝サイトウさん〟経由で存在を否定されてきたけれど、その都度その都度ちゃんと心の芯じみた部分を打ちのめされてきたけれど、もしも、気配をくらました息子の行方を猫たちの夕飯時も構わずに探し出しに来てくれたなら今までのこと全部うーーっと吞み込んだまま、これからも頑張って堪え続けてあげると──まあしかし、それが充分に呆けたままであったことを、キッチンの灯りを受けた輪郭のその穴のような影を勝手口の網戸に落としていた猫の姿を遠目に見とめた瞬間に、ハタと思い知らされた。

 何十歩かの間に黄昏時から一変した長ーい夜の道を大っぴらに開かれた玄関からの灯りがどうにも温かく照らしていて(その時にも、似たような気配があった。)少年は息が詰まるぐらいに怒っていたんだけれど猫みたいに夜目が利く訳じゃなかったので冷ややかに光を見据え濡れた袖を振って悲しみの余韻を隠滅しながら、……ゆっくり、歩いていった。

 ぐん、と、運命の生垣から顔を覗かせると、玄関の灯りの下の三和土たたきで黒い長靴が艶やかに光を跳ね返し「あんた」と──丁度のタイミングで奥の廊下を通りかかった母親に呼びかけられた。

「もうっ。ようやくっけたよ。外は暗いじゃないの、どこ行ってたのさ」

 せかせか詰め寄って来る母親は、長靴の他に出されてあったズックに足を入れて──それよりも踏んづけて、ぼーっと立ち尽くしている息子の手を取り家の中へと引っ張り込んだのだ。

「探しててくれた?」

 閉め切った玄関の戸を上下に施錠した母親の振り向きざま上目遣いに問うてみると、ほんの少しの躊躇うような間の後で「そうよ。山とか、あとは畑とか……」と、例のわざとらしい面で普段使いされない長靴が靴棚の奥の方へと押しやられそうになったので──猫缶臭いエプロンに頬を擦りながらもツルッとした感触を片手の指でしっかと捉えた少年は「なにしてるのさ」などという制止にも構わず、じっ……と、裏っ返しにしたゴム長の底を、つぶさに見た。

 一欠片の土くれもっけらんなかった。

 もう普段の様子からは離れつつあった少年はバツの悪さを隠し切れていない母親の眼差しを勇敢にも……いや。無謀にも、真っ向から受け止めた。

「後で。探しに行こうと思ってたの。だって、お腹空かせてるじゃない」

「なんにも思ってないよ。遠くまで遊びに行っちゃって、ごめんね」

 そうやって音無しに、口元をムチャムチャぺろぺろしつつ登場したグリのまあるいお目目と少年の眼との対比は〝なんか〟に没入を余儀無くされている側にしたら先々の展開を知っているにしたって息が詰まるぐらいに不穏で──大人になった今ならば(なんだあ。)と、虚勢の養分となる笑いに変換できる悲傷な出来事も幼少の頃にはね除けて然るべき敵でしかない。なんせ、その時にはもう、呑み込むことはできなくなっていた。

 どれだけ愛を求めても愛を与えてくれない世界に、人真似を続ける程の価値は無い。大丈夫。関係ない。

(勝ち得るんだ。)

 ──ウァーン、アアァ…

(いい形で生まれた彼奴らが、今後、どうしても得られない幸福を…………)

  ── ウアァ アッ   アッゥ   アァア!……

(いや、勝ち得るでもないよ。だって、このレースからは降りているんだ。そっか、そういうの

 ──ウアァアアァア ッアア ァァア!  ァー

なんて言うんだろう?)

      グキ、チジュぶるる ッ

           ………………   ……… ………………  ……

(ウィニングランさ。もう一人勝ち、っていうか、誰とも競い合う状態にないんだよ、その人生。 そっか。ところでさぁ、あんた誰? お前。え?)

 真っ当な世界観に組み敷かれて、挙句に泥棒されたのがトリガーなったんだろ。分かるのよ、お前だもん。望んでた成り行きとは違っても結局ケリを付けてから起こった事だったし、それまでに吞み込んできた気持ちを受け止めてもらえなくても構わないから表明してやろう、って……〝共感を求めなくなったコミュニケーションの土台は憎悪だ〟ということを新生の魂に刻み込むために、お前はグリを殺したのかもしれない。あのさ、しょうがないと思うんだよ。嫌なことを嫌と表明できる環境に居なくたって、嫌なもんは嫌だもん。

 だけど、もう少し別の方法があったんじゃないか? って……ほんとごめんな。お前は思うことになっている。

 悪魔はいる。

 ソイツは悲劇に目が無くて(これでもう、自分は自分のままで幸福になれる)と、涙交じりの有頂天でいる吾輩の……〝ぼく〟の嫌がる展開を、避けることは叶わない。

 ──ザァ、ザァァ……

 神経を温和に逆撫でしてくるような笹の葉の擦れる音が耳に障る聖域で、ぼーっとしている時だけは自分でいられた。息ができた。だからこそ、呑み込まずにぶつけた憎悪によって死なせたグリに相応しい場所は此処だと、頭ではなく心で察して撓垂しなだれる竹に寄っかかりながら……眺めた。

 最初の方は、くすくす。丁寧にブラッシングされるのがお好きなグリの灰みがかった長毛が風に逆立つところを、湧き立つような気持ちでクラックラと、それらしい思い出をめつすがめつ回顧しつつ、なおも気持ちが丈夫でいられることを幾度も幾度も確認したうえで──饐えたような匂いが鼻の奥を突き──上体がまた、毛玉を吐きもどす猫のように〝ブルッ〟〝ブルル〟と震えた。

「  (こんなことは、したくなかった。)

(しなければ、もっとマシな結末があったのに)(グリは何も悪くなかったのに)勿論、そんなような意味合いでなく(こうする以外にやり様は無かった)と確認したうえで──おえーレレレと嗚咽し、しゃくりあげながら粘粘ねばねばの液体をもどしていった。

 ──ザァァ、ザァァ、ザァァ、ザァァ……

 何一つ間違ったことはしていないんだと確認したうえで、すべてが間違っているんだと悟る。 そんなのは生まれてこない方がよかった命で、少年だって( 生まれてきたくなんかなかったのにな。)と、気持ちは合致していて    ………それでも、物語は続いたのだ。知っている。こちとら、そのことを自分の物語として読み進めてきた。…〝どうにもならない〟ことだった。しょうがないんだ。

 なのに、お前は( あぁ、嫌だなあ。)の気持ちも(こんなことは、したくなかった。)の気持ちも、軽んじることをしなかった。だからもう、これ以上は無いぐらい悪い状態の只中で例のいやらしい面をささやかな反抗期のしるしみたいに──まだまだ饐えたような匂いの奥で浮かべるしかない。

 そうして、悪魔は見出される。自分が嫌がる展開を自分以上に心得ている、何より悲劇に目が無い……目が、無い…見出して、だけど〝どうにもならない〟類のなんかの思い通りになんてなりたくはないのでソイツとの対決を絶対に負けてなるものかと逃げる。

 グリの死体をほっぽり出して、悪魔の気配を全身の肌が粟立つ程に感じて、ハァァ、ハァァ、熱い息を小間切れに吐き出して立ち向かわず逃げる。そんなのは笹の葉が風に擦れる音をガッチャンの合図に応じる通知だと疑わなかった先刻の姿からは考えつかないぐらいに弱っちく──いきり立つ吾輩を大コケさせたかったのだとすれば既に思い通りの展開だとも言い表せるだろうけれど、それでも──もしも逃げ切ることが叶わないんだとしても必死に、必死に逃げて、逃げた。 よく諺にも云われるように『逃げるが勝ち』を生き長らえることで体現した吾輩にすれば悪魔との対決なんぞ在りし日の展開を辿れば済むはずだったのでも

 ──ザァァ、ザァァ、ザァァ……

 ……目の奥が、ジリジリと灼けるように痛む。口角だ何だどころではない。口元はに歪み、目は据わることなく悪寒が止まない。

 ──ウゥ、ウゥ、  ザァァ ………… アゥゥ ザァァ  ウゥ……

 〝聖域〟もとい〝あざとクズ〟が埋められた山の只中で在りし日の展開を辿るなんて筋書きは、最早、誰それが捩じ込んできた文脈によって作:猫島美月※鋭意執筆中 の物語を書き乱されてしまったおかげで……いっそ、悪意にさえ変換できる『やっぱり無駄』な思案となって〝ブルル〟しまう。

〝ブルル〟

 つと。先程から断続中の振動の在り処を左ポケットに探り当てた時──とても近くに気配があって〝17:58〟と表示された液晶画面へと縋るように焦点を当てると〝分からず屋〟と嘲け笑うようなタイミングで視界に飛び込んできた通知は全て花道青を差出人とするメッセージで

<ねえ、猫島くん>

 ああやばい。  全身の肌が粟立っている。心に到達してくるよりも先に組み敷かなければならないのに止まってしまう<ないって思いたいんだけどさ>いや……それはこっちの台詞だし小間切れに吐き出してくるのは…………止めだ。此処より奥には、立ち入るな!

<穴、みつかった?>

 ─ガクン

 先程の比じゃないぐらい視界に映る景の全てがブレたので何事かと惑う視線を逃がす先々に『穴』がある。

 暗い。すべてを呑み込む。暗い、形の無い恐い『穴』。

「くハっ」

 叫び声すらままならない。膝から下の力が抜ける。そうか。さっきブレたのはそういう訳か、か、考えてる場合じゃない、『穴』は、遊ぶように追い込むように、先に、先に、現れる。現れてくる。そこに、現れている。あぁ終わりだ。   うぐ。

 そして思い出すは過去のこと──不穏な壁の如き恰好でうず高く積まれたドでかタイヤの穴の中で膝を抱え…泣き声は上げてない。大丈夫。此処には自分しかいないのだから。これまで通りの自分を取り戻せばいい……まずは、好きな曲を脳内で再生する(デンデンデンデンデンデンデンデンデンデンデンデン)そうこうしている間にも『穴』は現れるし気骨をくずおられそうでしょうがなく──(Hello darkness)──……殆ど表層に浮かび上がってこないような洋楽の歌詞が時空を超越した誰それの作為によってか巧妙に『KIMOCHI』の端々へと散りばめられる。

my old friendぼくの古い友達。

I've come to talkまた君と話をしに with you again来てしまったよ。

 あぁ駄目だあ立てない。『穴』からは逃げられないんだってことは分かったんだけど分からず屋だし誰よりも何よりも分かっている〝誰からも観測されない出来事は〟とすることもできるんだから『穴』にも勝ち越し可能のはずだと気の持ち様さえを変えようとする……こんなこと、誰かも言っていたな。

 ──天国も地獄も、なんていうか、その人の考える世界にあるんじゃない?

(このままだと良くない終わりだ。)っと、普通に悟ってしまう。(それってでも、最終的に行き着く先は何処になるんだ?) 花道青との通話中『穴って繋がってること多いからさ』との一言に抱かれた疑問が今…………例えば自分なりの意思によって選択しているつもりでも、猫島美月の物語で言い表すところの悪魔的存在──どんな選択肢も自分への疑いに帰着すると読み、それが外れることなんかは考えつかない〝なんか〟だの『穴』だの……それぞれの世界観で変わる表現はどうあれ、そういう類のそれらは人が人である限りは切っても切れない〝どうにもならない〟を何処へ逃げようとも連れて来るのだ。 …十数年越しに舞い戻ってきた絶望の断崖から帰還せんとする命からがらの焦燥感に記憶をごった返しにされる──やっぱり、自分が嫌がる展開を自分以上に心得ているらしい──相も変わらずに慌てふためき中の脳内を占領してきたのはゴリラ。

 いつぞやのTVショーで日本全国のお茶の間に放映されていた……確か、雌のローランドゴリラのココってヤツ。わ、名前まで憶えちゃってる。手話を介して人間とコミュニケーションを取れるココは〝死って何?〟と尋ねられた際、確か、こんなことを答えていた。

〝 苦労のない 穴に さようなら 〟

(それは、いいものだな)と、無暗やたらに死を恐れがちな幼少の頃に感じたのだけど──『穴』が迫ってくる。形は無いように映っていたのが段々と身に覚えある輪郭を、ザワザワ、ザワザワ……境目が捉えづらい闇を有しながら、よくよく見れば、というか目が離せないので思い知らされることにこの鼓動に沿って形作りつつある──リアルな闇と対峙した今ならば、いっそ笑え…もしない。恐い。

 ゴリラには想像力、それよりも創造する力が無いがために苦労も無くて済んでいるだけだ。思いがけず霊長類を批判したようだけれど……とどのつまり、これまで通りに立ち居振る舞えはしない吾輩の──独りで嗚咽していた少年の……〝ぼく〟の行き着く先が何処かなんて

 ──ウァーン。アアァ

(なあ、グリ。)

  逃げた少年の形を取って、悪魔は──『穴』に帰ってくる。

(悪かったと、思ってる。ただ、……いや。これこそが、お前にとっちゃ悪事なんだな。)

 こんな終わり方で閉じることは、きっと、ずっと昔に決まっていた。(もっと前に終わっていればよかった)──穴の中で、お前は消魂しい泣き声を上げる……(あぁ、ほんとにな。嫌んなっちゃうよな、ぜんぶ。)

 そんなことをするのも許されないだろうと、吾輩は声一つ上げないまま──終わる間際の数舜、本当は表明したくて……だけど、しない方を選んでしまったことに対しても、同じように思う。

(……「だから、関係無いっ!」

 ──ザァァ、ザァァ、ザァァ……!

 耳が抜けたようになる。夜の暗闇が辺り一帯を包み込んだ竹藪に、吾輩と、後もう一人。二三か月前の同窓会ぶりで懐かしくも目新しくもない立ち姿が──夜目が利かないので、あれ本当に花道青か? と、元々そんなような眼を更に細めていると──肩にかかるぐらいの髪先をぴょんぴょこと外ハネさせている女の子が、パッと振り返る。

 頑固そうな印象を与える〝へ〟の字の口元に、こちらをハナッ垂れに責め立ててくるような、哀しげのくせして、いやに強情そうな瞳。

「来ない選択肢もあったんだよ」

〝聖域〟を土台に確立させていた塔を崩されてしまったことに、動揺も刹那、これから展開し得る筋書きを早くも悟った吾輩を見ながら──在りし日の自分をそこに見たか……いや。はたまた憧憬を向けてくる女の子に在りし日の自分を、もとい向こうの『穴』に吾輩の弱さのせいで立ち向かえず逃げ去った自分を見ているからか──物語の結末に相応しい諦観をたたえた眼差しで、フィクションじみた物語を生きる女の子はまたも一方的に捩じ込んだ文脈によって今度は猫島美月の物語を終わらせまいと『穴』に立ち向かっている。

「…いや……猫島くん。結局さ、自分で選んでることなんて、何一つ無いのかもしれないね。ホストの人が死ぬことは決まってたんだし、八島ちゃんが殺すこともそうだし……私だって、結局、ぜったい来ちゃうもん。だって、終わってほしくないからさ。このまま猫島くんの物語が終わったら、私、負けても負け切れないよ。……だからさ、そのまま、逃げながら生きてってよ」

『穴』は生き物の心臓のように蠢き、今にも花道青の鼓動を吞み込まんとしている。ジリジリ、ジリジリ……逡巡するようににじり寄っている。    ……あの暗闇にポンと視界を持っていきそう  な   …  、 引力が。

 無様に尻餅をいた吾輩の前に立ちはだかる花道青の肉体にひずみが 、──いつの日にか瞳孔をこじ開けてきた宇宙図鑑の見開きページを殆どまんま映したような─強烈が過ぎる引力によって黒いしわ然とひずんだ空間が ── 『穴』から噴出してきた暗い力が花道青の物語の先で展開し得る筋書きを有耶無耶にしかかっている。吾輩の物語を終わらせることよりも〝聖域〟を〝聖域〟のままにしておく方を大事にしたいんだろうか?

 まったく。みんな、こぞって愛を語る。騙っているから、今は花道青に怒りの矛先が向いているだけだ……成り行きを見通せる人間に〝逃げながら生きていく〟ことを望まれた吾輩は、実際、我が心に立ち入ってきた彼女が猫島美月の物語を退場するように望んでいる。し、言うなれば二人の気持ちは合致しているわけだ。

 しかし、そもそも此処へ来たのは何のためだったか?

 これまで通りに立ち居振る舞えはしないと〝あざとクズ〟が殺されことを機に悟ったからではなかったか? 

 ふと考えつく。これまでに吾輩が逃げられたのはNO.5、4、321並びに現時点で暗い力に吞まれかけている花道青が〝くあるべし〟と逃がしてくれるからだ ……予言者曰く〝終わる以外に無かった〟穴の狢くんと、むしろ続かせる以外に無いような吾輩との差異は何なのかとジリジリ遠ざかりゆく背中に空っぽの手を差し向けたところで──哀愁にてられた女の子の誰かからの言葉が──(おいおい)と、膝から下の力を奮い起こす。

 立ち上がったままで逃げようとしない吾輩に『穴』の向こうの少年は目に見える程に動揺し……それに応じたような一ツ一ツのすべての皺が闇の深奥へと彼女を引き寄せる爪になって架かり〝それによって猫島美月の物語は続きました ちゃんちゃん〟 なんて、筋書きを起こそうとしているんだろうが……そうはさせない。

 吾輩は『穴』に手を伸ばす。スッと目を細めて、指先が、震えている中に触れる。

(いくな!)

 吾輩に身を委ねてくる女の子を大事そうに引き寄せる自分を(お前の方こそが間違っている。)と責めるように『穴』の中がカッカと熱くなる。そうかもしれない。ただ、まだ子供のお前よりももう少し先、まだまだ分からず屋な大人のお前だって(この世に絶対の正しさは無い)ということが分かっているのだ。

 今までのこと全部、ひっくるめて何者かの作為なんだとしても『穴』だの悪魔だのが混沌と此処に在る今は吾輩だって時空を超越しているソイツと同じ舞台上にいるってことでいい──現実に再び足を踏み入れることになるなどとは考えもつかなかった〝聖域〟で、独り、身動き取れずにいる少年に──人真似すること、ひいては〝みんな〟に紛れる方を選んだ今の自分には、伝えられる。

(お前は独りのままで生きていけるつもりなのかもしれないけど、)

 果たして、間違いを正せることが生者の特権なれば……ドでかタイヤの穴の中で消魂しい泣き声を上げていた少年に執拗な程、抱かれ続けた気持ちなどは酷かろうが今度こそ突き放してやるべきなのだ。


 猫島美月。




 人は 独りでは生きていけないよ。


 

 ──バチーーーーンッ!

 何かをギリギリで繋ぎ止めていた何かが破けたような衝撃波が肺腑を震わせる。大きな空洞の如く裂けた『穴』の向こうに惨めな恰好をした子供がいる。

(酷いよ。)

 お前は怒る。黒い瞳で、世界を睨みつけている。

(酷い。酷いよ酷い酷い酷い酷い。)

 その気持ちを死力を尽くして乱打する。その合間合間で覚られる……お前にはまだ、そんなことが気になるらしい。そっちの方が酷いよ。お前の心が優しいからでは絶対になくて、お前が生まれながらの負け組だから(じゃあ、グリは何のために死んだんだ。)って、そんなことを気にしている。でも、吾輩は吾輩で誰一人お前の〝疑い〟を真っ向から受け止めることをしてこなかったんだもんなと同情してるし……「「もう大丈夫だ!」」と、一度ならず二度までも出した回答に──おえーレレレと間違いを悟らされた吾輩自身の言葉でしか今更お前は呑み込めないのだろうし、何の因果か、はたまた悪意か、在りし日の覚悟をまた決めざるを得なくなる。

 そうしたら、お前の方でも真っ向から受け止めるんだろうか?  それは、そうなんだろう。小学校からの帰り道でこれ見よがしに拗ねる男の子を見て見ぬフリしなかった女の子の言葉に、だからこそ、お前は自分の生きがいすらをも委ねてしまったんだ。──慣れない同調をむずがるような『穴』の深奥で、そう多くはないはずの分岐の先を責める少年は〝聖域〟で起きた事の語り部となり得そうな花道青の物語を閉じるまでに兎に角わざとらしい間を譲歩するのでも………グリが死んだのは、お前のせいであっても、お前のためではないよ。ましてやグリのためでも勿論ない。人間的な感情を敢えて廃した言葉を選ぶならば、

 お前は間違っていたんだ。

 それ、違うぞ。( あぁ、嫌だなあ。)とか(こんなことは、したくなかった。)とか、誰もが大なり小なり抱える気持ち全部を無視したうえで、この世界、ひいては猫島美月が創造されたこと……お前が、この世に生まれてきてしまったこと自体が間違いなんだって、そんなのは当たり前のことで──吾輩が本当に正さなければならないのは、むしろ、そういった〝どうにもならない〟ことへの解釈の方。

 お前がグリを殺して、ようやく吞み込めた……いや。未だに吞み込み切れずにいる、この命への解釈の方だ。

 自分自身の力では〝どうにもならない〟ことに地獄のような苦しみを味わわされている、生まれてこない方がよかった、お前。お前の間違った解釈は〝どうにもならない〟を真っ向から受け止められずに逃げて逃げて、逃げて、逃げてきた人間の言葉で正してやろう。介錯、してやろう。……解釈を。ハハ。

 こんな風に冗談言って笑う吾輩を、お前は絶対に(死ね)って、そんな風に憎悪するんだろう。でもな……思うに、吾輩に人外判定を下してきた人間連中が現実を「フィクションと違ってハッキリ分かりやすいものなんだから」と、のたまっていたのは〝疑い〟を抱くことをしなかったからだ。……いや。でなければ〝疑い〟を抱かなかったことにだけだ──……物語でも何でも、それを観測する者が無ければとすることもできる、って……多分、そここそが分岐なのだ。

 生きるか。死ぬか。

 続くか。終わるかの。 ……吾輩と同じ……とまではいかないからこそ閉じられた穴の狢のホストの人──猫島くん。猫島くん? 生きてって。──そうかそうか、美月くんの魅力はそういうとこだもんね。──そのまま、逃げながら生きてってよ。

 吾輩に憧憬の類を向けてきた女の子は『穴』を……下い方の連想ではなく、いや、それも勿論あるにはあるのだけれど──〝あなたしかいない〟〝あなたがいないとやってけない〟なんて、ニヒルを気取る吾輩にしてみれば一時の気の迷いでしかないのでも、その時その人にとっては本当の気持ちが空けられた痕の『穴』を抱えていた。みんな、恐がっていたはずだ。大なり小なり。例えば猫を殺したいだとか、それこそ好きな人と縁が切れたとかでもいい……そんな状況を作り出した責任の在り処を追い求めれば追い求める程に──時空を超越した誰それの作為なのか悪意によるものか──兎に角、責任を追い求めた果てに辿り着く……いや。帰り着くのは、『穴』だの悪魔だのが連れて来る〝自分への疑い〟だと決まっていて──あんまり人生を深刻に捉えてない感じが傷心の女の子にはちょうどいいんだよね、色々なことを、後腐れなく忘れるのに──現れる時には絶対に現れてくる『穴』に手を差し込みつつ哀愁に中てられた女の子の誰かからの言葉が、また思い出される。

 と、吾輩は花道青の肩を強く掴み──(間違ってるよお!)お前は半分べそをかく──ありったけの力を籠めて引き寄せ続ける。(そんなことしたってしょうがない。)そうだよ。だから嫌んなるんだ。 

 生まれながらの負け組にとっては〝分からない〟まみれの現実が、うーーっ、となる以外に生き長らえる方法を持てない自分の嫌さと直面したことがない人間にとってそうならないのは、

 人の世の全てが 解釈だからだ。

 どうして生まれてきたのかは分からない。というか意味なんて無いとして打ちのめされたりだとか熱烈に怒り狂ったりだとかするのは嫌んなるから、みんな、各々に都合の良い解釈をして──そのようにふち取られた規律を逸脱せずにいることが安全に生きるための処世術なのになと、あの時、八島弘香はカゲロウに小石をぶつける男の子の気持ちなど知る由もないままに諭してきたんだ。

「蚊は血ぃ吸ってくるけどさ、カゲロウはなにもしてこないよ」

 ──なんて。どこかで聞き齧ったような口ぶりで、……〝害を為してくる生き物は殺してもいい〟と解釈できるようなことを、母さんの大好きなネコちゃんを殺したいよぉとやきもきしちゃうようなつくりの男の子に諭してきやがった。 そのことが、誰にも何にも無視されてきた〝ぼく〟にとってはムカついて……けど、うれしかったのだ。

 だからって十数年間も〝吾輩〟呼びを続けてきたのは酷いが過ぎる(死ね)あの後でも変わらずニヒルを気取っていけるつもりだったんだろ〝聖域〟で起きた事を語らないまま〝ぼく〟を大事に、大事にしていくつもりで……どうせ、いたんだろ。


 誰にもたれることをしないまま、生きていけるつもりだったんだ。

 たとえ、人は独りでは生きていけないんだとしても。


『穴』の向こうの少年は(……死ね)人外のくせして〝みんな〟に紛れる方を選んだ──生きるか死ぬかの分岐の先で逃げずにいる吾輩に憎悪をぶつける……覚悟が足りていなければ、きっと、此処で終わるはずの物語だった。

 でも──

「もう大丈夫だ」

 誰の手にも触れられないような塔の天辺に胡坐あぐらかいて誰彼彼もを見下してきた……かつては今、こちら側に引き寄せられている花道青とダブるように生まれてきたことの意味を、ないしは地獄のような苦しみを作り出した責任の在り処を追い求めてきた〝ぼく〟は、ヘラヘラと虚勢を張って冗談言って笑う新生の自分を許さないのだろうけど──猫島美月が『穴』に閉じられることは、絶対にない。

 これは吾輩の介錯で

 人の世の全ては解釈だ。

 だから天国も地獄も。そもそも善いも悪いも。本当は、どこにもなく。なんにもなく。ただただ間違った命を無理にも与えられた貴様は無実なる両手で何一つとして善いものを生み出さない災いを生み、せめて、その悪に絶望してしまいたかった。そして絶望した。絶望したんだ。ただ……絶望だけで死ねるほど、人は希望だけでは生きていない。

 そのことを──人間になりたかった悪魔。お前はグジグジとゴネずに認めて許せ。

 自分のことを許してはくれない何かが一つでも存在する世界は人間みんな誰しもにとって恐ろしく……そして、きっと誰しもが一つぐらいの何かに許されていない。そういう時が来る。人生にはそういう時が予期せぬタイミングで来る。逃がしてはくれない。決して、逃げ切らせてはくれない。それまでのどんな行いだって関係無しに一度きりの何だろうがそれ相応の、もしくは偶々の掛け違いのために最悪の結末へと人生の筋書きをかき乱す報いが、何かの形を取って連れられて来る。それは誰しもの許へ絶対に、絶対に来る。吾輩の物語に捩じ込まれた文脈のための『穴』が如何程かは分からないけれど大なり小なり。絶対に。

 きっと、誰にだって。……とは言え、(臆するな)

 こうなった時には、胸を張らなければならない。

(臆するな)は即ち〝遠慮するな〟で、もしも、に対峙したら勇敢な……いや。ある角度からは、自分だけが味方でいる者の心情の謂れが分からない者からは勇敢とも取れる無謀な、…いや。そういう言い訳の姿勢を廃してしまえるなら──

 報いを恐れた虚勢も、人目を欺くポーズも通用しなくなったら──そのまま恐れの内に呑まれるか、あの時の気持ちを突き放せるかで、人々の物語は続いていくに値するかどうか決まるのだ。そして──絶対を亡くした今なら──それを決めるのは(死ね) ヒリヒリと痛むような闇に包み込まれながら……惨めな生を終わらせるつもりの少年と対峙している。(その手をはなせ)と怒り泣いている。惨め。手の平に吸い付くような肌の感触を今は唯一の形あるよすがとしている吾輩にとって、心のずーっと奥に在った吾が人生の土台に立ち入ってきた花道青の肩は〝聖域〟に一人ぼっちでいた時の気持ちよりも手放せはしないものになっているのに。

 ──ウァーン。アアァ

(いくなよぉ)

 よく分かる。さびしさがある。ごめんと感じてる。だけど、認めてほしいのは、猫島美月が今日まで生きてこられたのは、何も……──どうにも堪えられない夜があって、人肌欲しさに抱き合ってしまって、そのくせ愛を受け止められず躱してきたのは──そのように苛立ち、哀しんでいたからだ。

 ──アァ、アァン

 子供の泣き声にも甲高い猫の鳴き声にもは通づるようで……確認していた。を通して〝他人を愛する覚悟が自分には足りていない〟と、ふと──絶対を亡くしたばかりなのに愛を騙れる女の子たちを見下しながら   ……今度こそ。かつて取り除かれた痕に溜まった膿を出し切れる──相手の姿勢が信じられない気持ちは、お互いに、ずっと抱えていた。

「猫島くん──」

 ──分からず屋な女の子を闇から引き離す。信じられない、というような顔で見てくるもんで、あんまりの無情に笑ってしまう。こういうのも分岐だ。人の世を笑える素養が、有るか無いか。

 NO.5、4、321並びに花道青……今までに出会った女の子たちが吾輩のポーズをまさしく強いように解釈してきたのは、確かに確実な誤解ではあるのだけれど──誤解は誰しもが心の深奥に抱いている恐れから生まれるのかもしれなくて、そうなると、人が独りになるのは誰それの作為でも悪意でもない

 ただ──人と人との関係性に切っても切れないひずみで──人は皆、をどうにかしようと付け入るように心情を吐露したり、いつくしむように居場所を打ち明けたりする。

(そんなことしたってしょうがない。)だけどそれが、お前の──貴様の、あなた様のの……生まれた世界での  切っても切れない営みだ。

「──私のことはいいから いきなよ…」

 背後から──聞き覚えのある気持ちに胸が苦しくなる。息が詰まる。山の端を燃す夕陽から、ぢりぢりと爆ぜる光に小さな輪郭を眩しく……ドコ。ドコ、ドコ。ドコ……巾着袋を朱色のランドセルに弾ませつつ何がなんだか満足そうに、軽やかなスピードで遠ざかりゆく女の子にも──同じようなことを、思った。


 ただ、希望ではない。


 ──グリ! グリ! ……──母親の悲しそうな呼び掛けに、生きていたくなんかなくなった。 ……『穴』を空けたさ。よく分からないままグリを埋めて、地球へ還してやろうとしたよ。だって、此処は良くないところ  ……

   ……………… いや。

    ほっぽり出した、のかもしれないけど。

『自覚してないとしても』なんて、そんなのは彼女の……、彼女たちの希望なんだ。必死に人真似を続けてきたからこそ、嫌んなるほど人が強かだと分かってる。自分だけが味方でいるからこそ為せる行いに〝慈悲深い〟だとか、ましてや〝優しい〟だなんて評価を下しちゃえる人たちは、愛されなかった過去を持ってないんだろうか? 誰にも気持ちを表明することが許されない(死ね)……ついぞ( あぁ、嫌だなあ。)と、どこにも責任を追い求めようがない傷を──〝自分への疑い〟を、抱いたことがないのか。


 でなければ、 (そんなことまで忘れちゃう  ──ったの?── 」 ……)

 ──……穴の中から、空を見ていた。瞑色が染み渡った空。牛乳のあぶくがパチンと割れた跡みたいな星が、小踊りするように現れ、よく分からない単位のスゴい時間を超えた光は星が消滅する間の刹那の瞬きなんだと知っていた、から (みんな、なんで美しいと言えるんだろう)と、たぶん一人だけが不思議でいた。

(だって、こわくないか?

 いやじゃない?

      こわくはない? だって…)…なんにもない、ってことだ。べつに。


 あなたが、そこにいることも。

 あなたが、そこにいなきゃいけないことも。


 ない。


 人は訳も分からずに生まれて、訳も分からないまま空の星になってしまわれて、一体、誰の何を信じればよいのか、みんな、誰かに愛される形を取るようにと済ませて……それでも、そのそれが辛く、苦しく感じられるつくりの子は、たたかう。

 自分のままで幸福になるのなら、  その自分は〝みんな〟が求める型の、どれもに嵌まれないいびつな形をしているみたいだ、と、一陣の風のような不安が、本当にすぐさま、その小さな体に必死の思いで頑張って留めてきた余裕を情け無く攫ってしまったら………それでも、いつかやって来るはずの幸福を信じていたければ対決するしかない。

   諦められないんだ。 ハハ? それをしたら死ぬと思ったりして……『穴』が繋がってるんだとして、まだまだ饐えたような匂いの奥で──〝駄目な子〟扱いしてくるくせに肝心なところは何も教えてくれない母親に……嫌そうに「いやらしい面」だと…──ささやかな反抗期の印みたいな笑みを浮かべるしかなかった少年は自己に悪魔を見出して、ソイツは、絶望だけで人が死ぬと(だって、んだ)ずっと…………穴の中で信じていた。

 ──宇宙には〝ブラックホール〟という、巨きな穴があります。

 爪の綺麗なおねいさん。爪を綺麗にしていて立派ですね。いつか死んでしまうこと当たり前みたいにして、いまは胸を張れてるのだから、えらいよね。

 トン、トン。 シャッ! トン、トン、トン……晩ご飯をつくっている、お母さん。ぼくはダイニングの机に片一方の肘をつきながらなんとなく、しわくちゃな若草色のエプロンに手を伸ばし ぴっ! と。結び目を、ばらん、とさせたらどうだろうかと、しょっちゅう、ドキドキして………今になってみて考えれば、一度ぐらい、やっとけばよかったなとも思う。

 生まれてきたことの意味を、 自分の気持ちを顧みず、正しく遊びたい。独りは、胸が押しつぶされそうだ。

 でもグリは死んでしまったんだ。

 ぼくが死なせた。

    今ははや懐かしい諦観が湛えられた眼差しを、振り返って受け止めてやる。「どう(な しんで。) て」あくさ。これは確かに 死ぬるべき悪…饐えたような匂いがするだろう

だけど一度ひとたびこちら側に意識を寄せれば青草の匂いが鼻腔を嬲ってくることに気が付いただろう

── 空にはエラい風が 、 いつの日か虹を喰い荒らしてきたかのような…少年の止まりを嗤うような凶険 その橙色とうしょくに延ばされた光に 、 いわし雲が、ポラポラ透ける

  ブワァァァーーーー ッと、     息を吐くことも、とうとう忘れてしまうような  それは、涼風が空に行き亘っているから 流れていく。流れる ずーーっ と流れていく 広い、 とおい 夕空を見上げた  ぼくは  あぶない気持ちになる。

(この気持ちは あぶない) と、わかる。

   なあ 、 


    それだけで (いいよ)ってことには、なってくれないだろうか?


べつに、 泣き落とし ではない。そりゃあぁそうさ。  ウァーン。アアァ  ……ウゥウゥ とか 、泣いてる暇なんぞ無いから この甘ったれのミンツが コロコロ、転がる………… 



           (

                    、      )

     あの時──今と同じく空っぽの手が 風に打たれ、ひやりと(ない)を報せ、 あなたは  そして泣いた

 あなたを生んだ誰それの目が無いところで諦めた。


               穴が。

 こわくて、光を見上げた。

 星を、その時から〝かわいいヤツだな〟とか、思える自分になれた。

   ザ    ァァ、ザァァ……!  いやらしい笑みの刻み込まれた口元が──耳が、抜けたようになる──風に乾き ヒリヒリと痛む。込み上げる嗚咽を有耶無耶にする、竹藪の騒音……アァ…  ブブッ  ブ  ジ 、虫の羽音や、地面に着けた手のひらの下でダマの土くれが解ける、湿った感触、踏ん張った両の足の靴底でひしげ 。 。夜の外気に生温く 。されゆく熱い吐息を、 。 。鼻腔を嬲るように立ち昇る青草の匂いを

 あなたは、感じる。

(……


 !


 そして、逃げだす。

 絶交したかった世界との接続の発火が小さな体を走らせる。自分が自分のものではないかのよう 。 。な(…八島弘香) 。奄々えんえんと吐き出される気息に──ドロドロだったさなぎの中身を、 ……指の腹から伝わってきた熱を思う。

   組成が、 つくり変わる。

 人の細胞は確か、七年ぐらいで作り変わって  なんとも…あっけない事実  ──なんて、あの頃は思えなかったろう。

 いいことばかりではない。

 ……

 人と、本当に話したい。それは、あの感動が忘れられないから──誰しもが恐れを抱いているとして、裏を返せば知っているということだ。

    此処まで来た あなたは、他人ひとよりも知らなかったんだろう。

 大丈夫。

  組み敷かれても泥棒されても、笑われたことが光っていて   暗がりからだと光が温かいように思えたり ね、大丈夫。

 あの人に知られなかった。

 それは、逃げたから。

逃げて 逃げて逃げて、賢明に。懸命だった。

        ──  。 結び目は   遠く





 それはだめなんだ。

 ずっと昔に、分かってた。



気持ちを受け止めてもらえなくても、笑われたことが光っていた。


  ─吾輩は猫島である。


くだらねーっ こんなもののために自分が自分のままで幸福になることを諦めるだなんてさ「猫島くん一体なんで笑ってるの」ハッハッハァそんなのって笑っちゃうだろ? 

分からず屋の手を握る。

       それ。

   「  ……

────   「なにするの」

  ─  …   いいこと。   ハハ  」

生きることは逃げることだとすれば、人生とはなんてさびしい営みなんだろう。

 でも、0ではない。 良くも悪くも、さ。

   ──そんなに辛そうな顔  しないで ──

あの人のことを許さないと  は生きている限り続くから。

 あなたの悪は治らないだろう。

 だからもう光に臆してはいけない。

 どうせ治らないのなら、敢えて痛み続けることもないさ。

   ……酷いね。

「あ猫島くんこれあんまり良くないかもしんないわ」


 ア。

ウ、ウゥグウ痛い……痛過ぎ 、フフッ ゥ 、ウッ  ンブウゥ …    め、とれ てェら…………いたい! よッ、 ォモう止めてくれよこんなん


     * * *


のたうちまわる、彼を見て。 あぁ……私はまた間違ったのだと思うんです。


     * * *


「猫島くんっ 、ごめん、ごめんんね私もっとそういう風に振る舞わないといけないのに  ごめんね…」   …── 数舜だとわかった…黒い髪を天蓋のようにして、 こっちを覗き込む花道青の両目からポロポロとキラキラと濡れて落っことしてへんに光るソレは涙だろうけどもほうけた頭だとどうにも、確信が持ち辛いのは吾輩いったい。痛イ ふふ、うがぁマジで右目ん玉の辺りが濡れてる感じがあるし 。 突然だったのにちゃんと痛いのは、さ、 痛みのことを考えていたからだろぅなあ…………そう。

     そうだ。

──血液と涙の成分はおんなしだもんなこれどっちがどっち…でもどっちにせすぐには乾かないから頽れてすぐだぁ数舜だっとかピコーン! してるよりも先にざ

「待って待って ぃ こわい……これ、どうす」

 マヤ歴の予言を信じた子供みたく─よろめきながらも起きた猫島美月が愚かにも差し伸べようとする手にグジグジとしがみつく女の子、に……どうしよう。

 まだ、死んではいけない。

 終わってはいけない、気がする。

「怪我、 してるよお。いたい、痛いね?」

「痛いよ。…… 「もーやめよ?」でも これが正しいから、いいんだよ」

 まったく好きでもない女の子がよくしゃべり それで気が立つとは吾輩らしく(大概コイツも可愛そうだ 己にたまわった能力と気持ちとの折り合いが、ぐじゃぐじゃで苦しそう)それはそれとして同情があるっていうのもまた(………「どうしたらいいのかなんてわかんないよ」……このようにして、言葉を持たない葛藤が他人ひとの言葉を押し出して それが自分の気持ちにならないようにと頑張ってきた、それは自分の命に誠実な生き方だ、けど…「それさ」



恥ずかしいな。

  ああこんな気持ちだったのかア、あの時なんて返したろう?

 「 ──なんでもいいなんてことないよね」

 友達を望まなくなって随分と経った、 まわりのハダに移らう痛みでドウしてかでもなく人目のことで→→de関係に近いもんは友達だったのがそのため で、あなたは友達が要る。

 そういう体系が 結局は身に沁みてる?

連中は友達をずっと友達のままいないと周知のうえで集い アルバムを見に来た  ─よかった。あこまではできてた。ガ 距離が重要だと予感していたのに、どこで間違えたんだろう

──いつからそんな感じの人になっちゃった、なんて聞くからだハゲ坊主ゥ誰でも知っていたことなんじゃっじゃないか

 いや。あんまり分かんないけどさ。

「一朝一夕だよ 殆ど」

「  こわいんだけど。すごいぐらぐら…猫島くん頑張って」

「  じゃあ黙って聞いていて」フゥフゥ右目ん奥が熱い。死にたい。やめたい 止めて。でも…これも押し出されているのだろう。だから闇雲にうごいている。間に合わないのかもしれない。でも頑張ってって言われたな、

     月面のように欠けた右目んタマ通した処に居る子に、ちゃんと。●言えなかったことを言わないと──

「ほんとごめんな。  」

     (……)あぁどうにもできない。

    ギュッと手をされるのだけどそこでようやくハッとしだす。此処にいるのは生身の人間で、突飛な設定で多少なり強引に展開が運べていてもは何一つ大仰じゃないんだ。

 ──「ごめんんね」って、そこを言っていたのかなこの子は。

 だいぶと恥ずかしかったろうなぁ。まあでもそうか、人は自分の都合良いように何がしかを解釈する生き物ですね。


あなたも。  ──易しいの引き寄せ 悪を……ずぅっと考えるだけしていただけ(… 、)だったよ   ─ 、恥ずかしくてカッカカッカ燃え中ん体で此処は、連れてゆく─…とか言って(白々しい)調子良いぜ すこぶる 。 …   、 ……ゲェエエェゥェボホォ「ぉわっ  ゥ いやッ 、!」

 上に凸半ばからの放物線だったか、兎に角 もどして グ もどした中身が、おどれを好いてくれとる女の子に──どぅろぉん、と  、 とてもいやしい感じで降りかかる。「ンゥゥウ」「フンゥ」

 こんなのが嫌だ。みっともないし、余すところねぇ全気力がドボドボド出ていっちゃうんで先行きがチラとも見通せず、後悔っても……ゔやぇぇ過ぎる状況なんじゃ選択に自分の意思が無い。あれはそういう成り行きだったんだと折り合いをつけるので済ませてしまうけれど

「ウグゥ、嫌とか咄嗟に出ちゃってごめん、がんばってぇ猫島くん」

 ここは、こたえないといけないぞ。

● ● ●●●● ●─本当に訳が分かったことが一度だって無い みんながおそろしいのは分かんないからだ。で、分かってもらおうとするのが恥ずかしいのは愛してないせい、本当は誰も他人を自分以上に愛することなど叶わないから全ての営みがさびしい、…自分でいけんと分かってて これはだめだと分かっていて愛をほしがるなんて恥ずかしい──、─……けれど  けれど   

 ──間違いがこわいか。もう一歩、先を違えればすごい暗いところで、今、これだけの力じゃもう戻ってこれないとおもう。ぐらぐら、ぐらぐら、もうずっと引力が働いて。踏ん張っているのかよろめいているのかもう…だったらただ痛い方にいってみようか? 自分の意思が触れられないところにもたれて何かなるかな●●じゃあ考え続けて、いよう● ● にもたらされる暗さがおっかなけりゃ目をつむるか それで片目のミならず両目いかれちゃうかもなああ分かんないけど 、  わかんないんだがりな……なんでこんなところにいるんだ。

 (  、)   あれ……?   なんでこんなところに  来た、んだっけ。    ──生きてる温度のぬるい手──この子は逃げろと言っていたよ●促されたんではない自分の意思だ。●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●一貫性のある印を見つけろ🤷👋💦👏💞🤷😅😃🤚✊🤫🤬🤫😕💞🤗😏😶😏


😏


      悪魔が痛みをもたらしてきたんだとしたら、その痛みにもたれるのはソイツの筋書きに引っ掛けられるということ=か!? パカパカパカン──じっさい今こうして痛い目に遭ってんのも ってなんだ、これコケにされてるの……ヒッ ウおそろしい話は止せ 、 …目がいたい。痛い目が  目か…目目めめ…(いくな) それは。

──            グルヤーン 、

 ──何か、しね。しなないけんのさわがは─「遊び相手がいないからだよ」ッちアイツマジなんなんだくそ、分かってるからみたいなスタンスとってへんに胸を焦がす…ぐらぐらぐら* * *

                * * * 『意識がそっちに寄り過ぎちゃわないよう』……産毛をこそばゆく触れあわせて泣かれていた時間は夜ばかりだった──(後腐れなく 忘れられるつもりなのか) 想っていた(……っケ!)。●シーツの皺を寄せてた爪が物語ってた事は、 ッ、 クションッ!!!!

          ──フシッ

 ─けら、と、笑っていたっけ、そういえば。 結局スキが生まれるくしゃみで今この子は笑った……へんな話だ、哀しくもない

 かなしくないぞ人生は😏 ボーイ? 😏

 ──傷心の女の子にはちょうどいいんだよね

  いいことないってのごめんそういうことだったのおかあさん、──けれど  けれど悪い子ではなかった。

 ─── ウァーン。 ……アアァァーン!

   動いていました。たとえ、何かの尊厳を奪う……ごめんなさい。でも、 踏みにじっていかないと

 ──そのまま頽れるのはあなたの命にだった  分かっていました、 これも……べつに。誰かに教わってはないよと言えるようでなきゃ駄目だ! ! !!

 あなたもちゃんと人間なんだ。

 だから傷ついたり光のある方に焦がれたりしないといけなくて。……そうして約束事をした、ひとりきりの憎しみや共鳴のかなしみに手を差し伸べたくっても(いくな)は良くない言葉なのなら 、思っッ切りつき放せ!……─なんで──「頑張って」なの?

 それで● もう    おしまいにしてもほんとに いい?   「大丈夫よ。」(この期に及んで天上より悪態吐きたくて仕方が無いが  ‥人間だったので。、

 ──思いっ切り両の足を踏ん張る──「がんばって)」) ● 、 痛い、よ……‥もおおおお(なんで!! )●自分だけが😏  …こんな目に遭わなきゃいけないんだろう。) なんて、もう思えなくなってもいいよ。

 それは己が決めることでしょ。

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