【命題】それは生きるに値する
@Ainsworth1450
【命題】未知の状況でも意外と人間は冷静である
ざざーん、ざざーんと規則正しく響き続ける音。いつまでも聞こえるそれを目覚まし代わりに、俺はふわりと目蓋を上げる。
閉じた視界の黒から転じて、目蓋を開けた先は白かった。それにしても眠い。酷く眠い。へばりつくような眠気は、せっかく開いた視界をまた閉じてしまう。
再びの黒。しかし、それを再びだとするならば、きっとこれも再びになるのだろう。視覚に行き場を失った意識は、今度は聴覚に集まっていく。
ざーん、ざざーん、と規則正しく響き続ける音。…音?ざざーん?
この奇妙な音は、わりと最初から聞こえていた気がする。眠気の所為だろうか、それを疑問に思うことすらなかった。にしても、いったい何の音だろうか。ざざーん、といえば、やはり波音か?
「よいしょっと…」
がばり、と上体を起こした。軽く掛け声一つ、意識は急速に覚醒していく。とりあえず周りを見渡してみる。しかし、目の前の光景はぼやけて、輪郭を捕らえない。
長い間目を閉じていた所為だろう。視界は、モザイクでもかかったみたいに不明瞭だ。しかし、それにしても白いような…。
噛み締めるように、大きなまばたきを一回二リ、カシャリとカメラのシャッターを切っている感覚。なんとなくもう一回やってみる。カシャリ。合計三回。
ぼけた視界が少しずつ、目の前に広がる景色にピントを合わせていく。そうして、明瞭になった視覚が捉えた光景は、
「………え?」
白い、世界だった。
「なんじゃこりゃ…」
白い。そうとしか形容せざるを得ないほどに、その世界は途方もなく白かった。
どこまでも広がっている白い砂浜に、これまたどこまでも広がっている乳白色の海。何よりおかしいのは、淡く光を放つ真っ白な空だ。一面の曇り空?それにしてはあまりにも白すぎるし、そもそも雲の輪郭すら見えない。
右向けば白、左見れば白。上を仰げば白で下に俯いても白。地面が白ければ空も白いので、天地の境目も曖昧。まるで、空と地面が一つになったみたいだ。
「いったいどこなんだ、ここは…?」
そもそも、ここは地球上なのだろうか。まずその時点で疑わしい。
こんな、どの風景を切り取っても白、真珠色、卯の花色、乳白色パールホワイトスノーホワイト(ようするに全部白じゃねぇか)しか見えない、色彩という概念が限りなく排斥されたゲシュタルトホワイトワールドが、果たして我らの住む地球上に存在していただろうか。
「よいしょっと…」
とりあえず立ち上がってみる。足に力を入れて、視線を倍以上に高くする。
ぱたぱたと、服のあちらこちらに着いた砂をはたいて落とす。そうした後に、改めて周りを見渡してみた。
しかし、真っ白な世界というのはやはり寂しい。今すぐ手首を噛み切って、この白紙のキャンバスのような世界に彩りを足してやりたくなる。
「………なんちゃって」
いったい俺は何を考えているのか。行為の代償は俺の命だ。うむ、命を粗末にしてはいけない。なんだかそんな気がする。
「はぁ…」
ため息一つ。しかしそれは当然といえば当然、酸素を取り入れる以上の成果を出さない。俺は改めて、現状を考えてみることにする。
ここがいったい、どこなのか。
異世界なのかもしれない。ファンタジーで、ロマンがあるだろう。
それとも単に俺の浅学が、地球上の果ての果てに、こんな秘境があるということを知らないだけなのかもしれない。
ただの夢、という可能性もある。夢と意識しながら見る夢というのはなんとも不思議な感覚だが。それにもし夢だとするのならば、もう少し楽しい夢を見せてほしいものだ。
色んな可能性を浮かべて、けれどそれだけ。可能性、なんて言い方も相応しくないのかもしれない。こんなのはただの想像だ。根拠も何も存在しない。
それにしても俺は、この状況をそこまで深刻には思っていないようだ。危機的な息苦しさはなく、むしろ、重荷をようやく下ろしたような解放感があった。
いや、より正確に言うならば、解放感ではないか。
無価値。無意味。虚無。空白。そういうものに似た感情が、今の俺の心をすっぽりと包んでいる。ひどく不機嫌な時に、ひどくつまらない映画を、強制的に見せられているような気分。なにを見ようが、それらは全て”くだらない“という感想に終わる。
なぜだろうか。
なぜ俺は、そんな感情を得ているのか。
考えてみる。しかし、思い出せるものはない。
まったく、思い出せない。
「にしても、どうするものか…」
なんの気もなし。どうせ、なんとかしようとする気概も無いくせに、そんな言葉が不意に出た。とりあえずそう言っておけばいいだろう、みたいな気分で。
そのとき、
「まあ、いきなりこんなところに来たら、困惑するのも仕方がないというものさ」
俺の独り言に、予想外な返答が背後から聞こえてきた。高く、よく通るソプラノボイスだ。
咄嗟に俺は、声のする方向へと視線を振る。するとそこには、ただでさえ白い世界に、さらに真っ白な衣を纏った少女がいた。
「ようこそ、いらっしゃいませ♪ボクはキミを歓迎するよ」
そう言ってにこりと笑う。その少女もまた、周りの風景と同じように、現実離れした容姿を持っていた。
小学生くらいだろうか。身長は俺の胸ほどしかない、なんとも可愛らしいサイズ。そんな小柄に、プラチナを鋳熔かしたような銀髪がさらりと腰まで伸びている。
肌は病的なまでに白く。しかし、微笑ましい笑顔を彩るその瞳は、白が咲き誇るこの世界に反して、アクアマリンのような爽やかな空色を宿していた。
纏っている白い衣。もっと詳しく言うならば、サマードレスと言うべきか。ふわりと風が流れるたびに、スカートの裾がゆらりと揺れる。
可憐と言うべきか?否、もはやそんな領域ではない。少女の持つそれら全てが、統一して人外の美しさを醸し出していた。
「お前は…誰だ?」
目の前の少女は、その可憐な容姿に似合わず、不敵に頬を釣り上げる。
「ボクの名前、か…」
含みたっぷりにそう言って、
「なに、名乗るほどの者ではない」
「変わった名前だな」
「そ、そういうことじゃない!」
「ナノルホドノ=モノジャナイさん。お前は一体何者なんだ?」
「だ、だから違うって!」
「ナノモノさん、早く教えてよ」
「変な略称を付けるな!!」
とまぁ、これくらいにしておこうか。
「ごめん、調子に乗った」
「ホントだよ。ボクのことを、ただの超絶可愛い女の子と思って馬鹿にしているなぁ?」
自己評価高いな。
「違うのか?て言いづらくなるような修飾を付けるのはやめろ」
「なっ!?どこからどう見ても超絶可愛い美少女でしょうが!!ほら、見て!」
抗議の声。それと共にくるりくるりと回りだす。それがまあ勢いよく動くもんだから、着ている白装束は乱れ、果てには短いスカートが一瞬めくれて―――
「!?」
肌色だった。いや、透明だったのだろうか?
「どう?可愛いでしょ!賛美の言葉プリーズ!」
「えーっと…ご馳走様でした?」
「え?ご馳走?何が?」
いかん。本心が漏れた。あまりにも驚愕だったのだ。
俺は急ぎ慌てて言葉をつくる。
「まあ、そうだな。うん、可愛い。可愛いよ」
「そ、そうかい?い、いや。当然だとも!…えへへ……」
あれだけ己の可愛さを誇っていたというのに、目の前の少女は照れくさいかのように身をよじらせ、顔いっぱいにはにかむ。その姿はまるきり幼い子供のよう。いやまあ、見た目がどう見ても少女のそれなのだから、子供のように見えるのは当然とも言えるのだが。
「ごほん」
わざとらしく咳払い。言葉一つで雰囲気が切り替わる。純朴な笑顔は消え失せ、代わりにあるのはあやしげな笑み。
「少し真面目に話をしようか。さきほどキミは、ボクが何者かを聞いたね?」
「ああ、うん。お前はいったい何者なんだ?」
「自分は何者か、ふふ。なんとも哲学的な質問だなぁ。でもまあ、そういうことを問いているわけではないんだろう?なら、初対面の者同士ということで、まずは名前を明かそうか」
少女はこちらに向き直す。
「キミの到来を、誰よりも嘆き悲しみ涙する者として、こう名乗ろう」
よく通るソプラノ調の声が、流麗に、高らかに、一つの音を現す。
「ティアードロップ。それが、今のボクの名前だ」
“良い響きだろう?” 目の前の少女、いや、ティアードロップはそう言った。
ティアードロップ。涙の雫。名は体を表すというが、どうだろうか。
「キミの名前は?」
「え?」
「いやいや、ボクが名乗ったんだ。今度はキミの番だろう?」
「ああ、そうか」
当然と言えば当然。俺は、自らに名付けられたそれを言葉にする。
「俺は…」
はずだった。
「………?」
そこまで考えて、ようやく気付いた。どうして今の今まで、気付かなかったのか。
「ん?どうしたんだい?」
不審そうに、ティア―ドロップは言葉を寄越す。それに対して俺は、あいまいな返事しか返すことができない。
忘れていたのだろう。どうして忘れていたのか?それはきっと、自分が忘れていることすら忘れていたのだ。数秒前までの自分にとって、それを忘れていることがデフォルトだったのだ。
おそらく、目の前の少女に聞かれなければ、気付くことすらなかったのだろう。俺の中の、無価値と、無意味と、虚無と空白は、それさえも“どうでもいい”としてしまった。
まあ、要するに、
「俺の名前は…なんだ?」
俺は、自分の名前を思い出せなかった。
いや。
名前だけではない。
俺の記憶が。俺の、存在したはずの過去が。今に至るまで、多く積み重ねられていたであろう経験が。
俺を構成していたもの全て。何から何に至るまで、すっぽりと。俺は思い出せなくなっていた。
「俺はいったい…何者なんだ?」
ぼそりと漏れた一言。それはこの空間で、特に響くことはなく、虚しい呟きとなって霧散していく。
思えば、なるほど。
無価値。無意味。虚無。空白。それは、俺から見える全てのことを指しているわけではないのだ。
きっと。それらをもっとも現しているのは、紛れもなく俺自身というわけだ。
* * *
「記憶喪失、か。それは困ったね。大いに困った」
ティアードロップは腕を組み、目を伏せて、うーむと可愛らしく唸る。
にしても、記憶喪失か。
それは決して、聞き慣れない言葉ではないと思う。と思ったが、よく考えたらそれは小説や漫画の設定でのみの話で、こうして身近に感じるのは今までなかった。
社会的な常識程度ならば覚えている。だが、個人的なエピソードとなると、これがとんと分からない。親の声も、顔も。自分は何が好きで、何が嫌いだったのかも。
「しかしそうなると、この情報は、記憶喪失のキミにとっては大いに驚きを生むものになるのだろうね」
「ん?この情報って?いったいなんのことだ。というか、ここはどこなんだ?」
「言っていいの?きっと、驚くと思うよ?」
少女は、なんとも楽しそうに、悪戯をする子供のように、ニヤニヤと愉快な笑みを浮かべる。
「驚くって?いったい何が?」
俺はわけも分からず、ただ疑問することしかできない。
「ボクが何者であるか、と先ほど質問したね?」
「ああ、そうだな」
「他人との違いを特徴とするならば、ここにいることこそがボクの特徴さ」
弄ぶような言葉の数々は、いつまでたっても核心をつかない。理解ではなく不明。不理解は不愉快を導く。未知というものは、興味をそそられる一方で、同時に不安を抱かせる。
「あんまり驚かないでくれよ?」
* * *
このときの俺は、いったい何を考えていたのだったか。いや、何も考えていなかった気がする。
ただ俺は、自分の無気力に任せて、たとえどんな回答が来たとしても、驚くようなことはないだろうと高を括っていた。
いやまあ、実につまらない言い方をするならば、こういう前振りをしている時点で、俺はこの返答に驚いてしまうということを暗に示しているわけだが。
だからここは、ある種の様式美として。もうすぐ知らされる驚愕の真実のために、あえて道化を演じてやったのだ、ということにしておこう。
前振り終わり。以下結論。
* * *
「ここは、自殺した人間がやってくる場所だぜ?」
瞬間、周りが無音になったのを錯覚した。意識は、ティアードロップの言葉に全て引き寄せられる。
それはまるで、当然とでも言うかのようであった。
物体が、重力にしたがって上から下に落ちていくように、春に桜が花を咲かせるように、太陽が東から昇って西へ沈むように。
それが全世界共通、絶対不変の常識とでも言いたげに、そんなことを言ったものだから、
「え?」
驚きの声を上げることはしなかったものの、代わりになんとも間抜けな声が漏れた。
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