絵描きと少女

@Gin0000

第1話絵描きと少女

「花盛りという題名のこの一枚の肖像画。世界的に有名な画家、KENさんが名を馳せる足掛かりになった作品として有名ですよね。世界中で高い評価を得ているこの作品、専門家の目にはどう映りますか?」

 

司会の女性タレントの透き通った高い声がフロアに響く。


「そうですね、一見制服を着た少女が群青の空を背景に佇んでいるだけの絵なんですが、少女の表情は真顔にも関わらずどこか儚げで、でも言い知れぬ決意を感じるような、そんな表情に見えます。作者のKENさんはこの写真のモデルが誰か明かしていませんし、誰がモデルなのかという謎は年々深まるばかりですね。」


「なるほど、それではここで一度CMに入ります。」


時は遡り、十五年前。


男、立花は東京の喧騒の中、孤独に絵を売っていた。

 

路上にブルーシートを敷き、その上に自分の作品を並べ、簡素な作りの値札をその前に置く。ただそれだけを施された惨めな露店を前に立花は座っていた。


立花の絵を買う者は数少なく、今までに購入していった人数は僅か十人前後だった。


毎日のように絵を描いては露店に並べ、そしてそれが誰にも買われない日々が淡々と続いていた。


しかし、誰にも買われないからといって、誰も来ないわけではなかった。


毎日二〜五人ほど、立花の絵の前で止まる者がいた。


その中には、立花の絵を馬鹿にする者も多かった。

 ある者は、

「なんだこの絵は、色も形も変じゃないか。普通の絵じゃ売れないから無理矢理個性を出そうとしているんだろ?愚かで浅はかな考えだな。」

と言い、立花の作品に唾を吐きかけた。


ある者は写真を撮りそれをネットにあげ馬鹿にし、ある者は近くでコソコソと連れと馬鹿にした。


同情する者も多かった。


ある者は温かい飲み物を、ある者は金を。


立花は長年に渡るこの経験で一つ気付いたことがあった。

それは人は皆、何かを見下していないと満足に息も出来ないということだ。


同情と嘲笑は違う。それは立花も分かっていた。しかしその二つの本質は何も変わらないのである。他人を下に、己を上に見積もる。その時点で何も変わらないのだ。手を差し伸べようが、蹴落とそうが、己の方が上という愉悦に浸り、己に酔いしれている時点で同類である。


皆、様々な形で自分より下の者を見つけ、安堵しているのだ。


立花に話しかけずに前を通り過ぎる者たちも皆、そうである。


皆、立花に一度は目線を向ける。そして何事もなかったかのように去る。


しかし、向けられるその目線は、道端に捨てられた仔猫に向けるかのような、哀れみの目線だった。


まるで夢を追い続けることは惨めだ、社会に出ずに絵を売り続けるのは悪だ。そう訴えかけてくるような目線だ。


夢を追い続けるだけで、人と対等ですら無くなる。

立花はそんな社会が嫌いだった。


立花の絵は社会に拒絶され続けた、常人なら心がへし折れていてもおかしくない程に。

 

だが、立花は違った。

立花は自身の才能を疑わなかった。

ーいつか必ず、俺の才能を世間に分からせてやるー

この想いだけを胸に、今日までやってきた。


そして今日も、いつも通りの一日が終わろうとしていた。


撤収の時間が近付き始めた為、立花は帰宅の準備を始めた。


その時だった。

「兄さん…だよね?」

懐かしい声で後ろからそう聞こえた。


立花は恐る恐る後ろを向いた。

すると、そこには十年前に絶縁した弟の優太の姿があった。


立花が言葉を無くしていると、優太は続けて


「まだこんなことしてるの?」

 と、言った。


上等なスーツに身を包んだ優太は、立花の絵に目を落としながら困惑の表情を浮かべている。


「久しぶりだな、優太。こんなこと…か、そういうお前は今何をしてるんだ?」

立花は驚きで凝り固まっていた唇を動かした。


「イラストレーターをしてるよ。ほら、あそこにあるVTuberの広告も僕が描いたやつ。」

優太は立花の斜め後ろのビルを指差した。


立花は振り返ってその広告を見た。

その絵柄は立花もネットでよく見る有名絵師のものだった。


「あの絵師、優太だったのか。優太の絵、俺もネットでよく見かけるよ。」


「そうなんだね、ありがとう兄さん。」

優太は、はにかんで笑った。

少しの沈黙の後、優太は続けて、


「兄さん、すごく言いずらいんだけど…もう路上で絵を売るのは辞めないか?兄さんが高校を辞めて、家を出てからもう十年経つ。もう諦めたっていいじゃないか。僕はこの邂逅に凄く意味を感じてるよ。僕、二年前にイラストレーターの事務所を立ち上げたんだ。最近はすこぶる順調で売れ行きも抜群さ。まぁ詰まるところ、何が言いたいかってっていうと…兄さん、うちで働かないか?これを機に真っ当に生きて欲しいんだ。そして少し経ったら一緒に父さん達に謝りに行こうよ。」と、気まずそうに言った。


「優太、お前の気持ちは嬉しいがその提案は全て受け入れられない。俺は俺の才能を認めない耄碌した親に謝る気はないし、お前みたいに妥協してイラストレーターになる気もない。」

立花は即答した。


「僕は妥協なんてしてないよ、この仕事に誇りを持ってる。」


「妥協してるさ。優太、夢はどうした。ニューヨーク近代美術館でゴッホの星月夜を前に俺と誓ったあの夢は。捨ててしまったのか?ゴッホのような偉大な画家になると二人で誓ったじゃないか。」


「そんな昔の話、忘れたよ。今はゴッホのようになりたいだなんて思ってない。」

優太は誤魔化すように言った。


「退屈な人間になったな。優太。」


「僕が退屈?どこが?」

そう言った優太の顔には少しの焦りが見えた。


「お前はそうやって、十年間自分を押し殺して生きてきたのか?確かにお前は世間一般では凄いさ、事務所の社長で売れっ子イラストレーターだ。だけどな、お前は所詮ネット民の傀儡に過ぎない。自分の描きたいものを押し殺し、人々に求められる絵だけを描いている。至極退屈でつまらない。何もイラストレーターという仕事が退屈だと言ってるわけじゃないさ、描きたいものを描かずに、現状に満足してるフリをしているお前自身が退屈だと言っているんだ。分かるか?」立花は吐き捨てるようにそう言った。


「兄さんには全てお見通しか…そうだよ、僕は妥協した。ゴッホのような画家になるという夢を捨て、目の前の地位と金に飛びついた。今でも、ゴッホの絵画のような、情緒的で切ない風景画や、肖像画を描きたいさ!でも、それじゃ食っていけないんだ。僕にはゴッホのような才能はなかった。それが現実なんだ。」


「俺は優太と違って自分の才能を信じている。そして俺は自分の生きる道に筋を通して生きたい。だから、妥協はしない。じゃあ俺はもう帰るから。またな、優太。」

立花がそう言い残し、立ち去ろうとすると優太が立花の腕を掴んだ。


「なんだ。」


「兄さんの絵、全部僕が買うよ。」


「別に構わんが、高く付くぞ。」


立花がそう言うと、優太は鞄から二つの茶封筒を出した。


「ここに二百万ある。これでそのバッグごと買う。」


「わかった、でもこの作品だけは売れないな。」

そう言った立花の手には一枚の風景画があった。


「まぁなんでもいいけどさ、とりあえず兄さん、この二百万で人生をやり直してくれ。就活する間の生活費くらいにはなるはずだ。」


立花は何も言わずに優太から封筒を受け取り、その場を立ち去った。


立花は手に美術用具と二つの茶封筒、そして布を被った一枚の風景画を持ち、交差する人混みの中帰路を辿った。


息が詰まりそうなほど敷き詰められたビルの間を、早足で歩く。降り始めた粉雪は、街灯の光に照らされて白く光っていた。


 吐き出す息は白く変貌し、肌をつんざくような寒風は立花の四肢の先の感覚を奪った。

 

しばらく歩き、いつもの通りへと出た立花は、今日という日の終わりを実感していた。


ビル街から少ししか離れていないにも関わらず、人の気配が少ないこの通りの右手には、小さな砂場とブランコがあるだけの公園があり、左手には八階建ての廃ビルがある。


ここから三分ほど歩いた場所に立花の家はある為、立花はいつもこの道を通る時一日の終わりを実感するのであった。


立花は何気なく廃ビルの方に目をやった。

そして目に入ったのは鍵の開いた外階段だった。


立花は一人で考える時間が欲しかった。

否、考えなどしなくてもこの時既に立花の決断は終わっていたのかもしれない。


気が付けば立花の足は、外階段の入口を踏んでいた。


螺旋状に渦巻いている階段を一歩ずつ、噛み締めるように登っていく。長年放置されていたであろう階段は、頼りない音を出している。立花はそんな階段を二分程登り、屋上へと着いた。


屋上の地面を踏んだ瞬間、立花の顔の横を寒風が通り抜ける。

身体とスウェットの隙間に風が入り込み、冷気が身体全体を抱くかのように伝わる。


立花はゆっくりとした足取りで、屋上を囲むように建てられている柵へと近付き、下を見た。

手に持っていた荷物を床に置き、柵に手をかける。


錆びた柵は脆く、今にも外れてしまいそうな雰囲気を醸し出しているが、立花にとってそんなことはどうでも良かった。


柵を飛び越え、柵の向こう側に立つ。

立花は再度下を見た。不思議と恐怖は抱かなかった。


その時だった。

「おじさん、そんなとこいたら危ないよ。」

後ろから透き通った声でそう聞こえた。


立花は慌てて後ろを振り向いた。

そこに居たのは、一人の女子高生だった。


大きな目に形のいい鼻、血色のいい唇。

艶のある長い黒髪に透き通るような肌。

雪の精霊のような彼女は、雪の中で鼻先を赤くして立っている。


「あぁ、余りに景色がいいもんだからつい柵を乗り越えてしまったよ。」


「ここからはビルしか見えないのに?変なの。」

立花の咄嗟の言い訳に、彼女は怪訝そうな顔をしている。


途端に彼女は立花の方に近付き、柵に手をかけた。

軽い身のこなしで柵を飛び越え、柵の外側に立つ。


「ねぇおじさん、さっき死のうとしてたでしょ。」


彼女の問いに立花は何も答えなかった。


「今私がここから飛び降りるって言ったら、おじさんは止める?」


「からかいなら辞めろ、本当に落ちるぞ。」


立花は忠告した。


「からかいじゃないって言ったら?私は本気だよ。」


「本気なら止めないさ。」


「どうして?」


「止めるのはエゴだからだ。俺は死ぬという決断に至るまでの葛藤と苦悩の多さを知っている。君が悩み、葛藤し続けて得た結論を、君の苦労の何たるやも知らない俺が頭ごなしに否定するのは、エゴ以外の何でもないだろう。だから俺は止めない。」


「意外と良いこというじゃん。」


彼女がこちらを向く。艶やかな髪は風に揺られている。


「エゴを押し付けられ続けた人生だったからな、自分がされて嫌なことは他人にしない。人生の基本だろ。」


「なーんか、私おじさんに興味湧いてきたかも。どんな人生を送ってきたのか凄く気になる。」


そう言った彼女は再度柵を乗り越え、立花の隣に立った。


「俺の話を聞いて何になる。」


「別に何にもならないよ、ただ私のこのどうしようもない好奇心が消化されるだけ。もしおじさんが教えてくれたら、私がどうして死のうと思ったのか教えてあげる。」


「分かった、交換条件だな。正直、俺も少しきみに興味が湧いた。」

 

そう言った立花は、ポツポツと語り始めた。

確かめるように、言い聞かせるように。


立花の絵への目覚めは、小学四年生の頃に始まる。


小学四年生の冬休み、立花は両親の結婚記念日に旅行でアメリカへ行った。


立花の父は大手企業に勤めるエリートであったが、仕事の収入の三分の一近くを絵画に費やすほど、大の絵画好きでもあった。


その影響もあり、立花一家がアメリカに着いて最初に向かったのはニューヨーク近代美術館だった。


その頃の立花は、絵に興味などなく、父が何故これほどまでに絵画に傾倒するのか不思議に思っていた。


勿論、ニューヨーク近代美術館も立花にとっては退屈な場所でしかなく、当時の立花は早くその場から離れたいと思っていた。それは優太も同じだったようで、二人でくだらない話をしながら時間を潰していた。


そんな中、立花と優太は他の絵より格段に人が集まっている絵を見つけた。好奇心を駆られた立花達は両親の元を離れ、その絵を見に行った。


そこにあったのは、ゴッホの星月夜だった。


それを見た立花は心が震えた。今まで感じたことの無い気持ちの昂りを感じた。心の底から美しいと、そう思った。


そして同時に、こんな絵を描けるようになりたいと思った。


立花がそんな想いに耽っていると、隣に居た優太が立花に声を掛けた。


「お兄ちゃん、僕、決めたよ。」


「何を?」


「将来の夢!」


「何になるの?」


「僕、ゴッホになる!!」


立花は思わず吹き出した。


「いい夢だと思うけど、ゴッホにはなれないよ。」

立花は笑いながらそう言った。


優太は少し不機嫌そうな顔をしたが、すぐに表情を変えた。

そして、「じゃあゴッホのような絵を描ける画家になる!」

と、言い直した。


心中では、立花も優太と思っていることは同じだったが、なんだか気恥しい気持ちがあって言い淀んでいた。しかし、立花はなんの躊躇いもなく自身の夢を語る優太の姿を見て、気持ちが変わった。


「俺も、ゴッホのような画家になる。」

立花は優太の目を真っ直ぐ見てそう言った。


優太は少し驚いた表情をしたが、立花の言葉を聞いてすぐに、

「じゃあライバルだね、お兄ちゃん。」

と言い、笑った。


二人はその後も星月夜を眺め続けた、両親が自分達を探しにくるまで、目に焼き付けるようにずっと眺め続けた。


そして、その日を境に立花と優太も父と同様、絵に傾倒した。

毎日のようにデッサンをし、お互いに切磋琢磨しながら創作活動に励んだ。時には父の部屋から絵画のレプリカを持ち出し、それを模写したりもした。その日々は今まで熱中するものがなかった立花にとって、とても楽しく、素晴らしい日々だった。


しかし立花は絵を描き続ける日々の中で、言い知れぬ疎外感を感じていた。なぜなら、立花の描いた絵は両親に不評だったからだ。そしてそれとは対照的に、優太の描く絵は両親に好評だった。


立花は幼いながらに自身の美しいと思う風景や物を、自身の美しいと思う色で描いていた。立花の描く林檎は紫色であったし、水の色は黄色く、空の色は緑だった。傍から見れば異端極まりないが、それが立花にとっての美しさであり描きたいものだったのだ。しかし、その感性は誰にも受け入れられることはなかった。


そんなどうしようもない疎外感を抱えながらも、時は無情に過ぎ、立花は中学一年生になった。中学に上がると、今までの教科に美術が加えられる。立花は家だけでなく学校でも絵に触れられることを嬉しく思っていた。


そして訪れた初回の美術の授業。立花の心は密かに踊っていた。何故なら、今まで全てを独学でやってきた立花にとって、人に教わるというのはこれが初めてだったからだ。


中年の女教師が黒板の前に立ち、慣れた口調で号令をかける。号令が終わり、クラスが静まり返った頃、女教師が授業の説明を始めた。


「えーこれから三年間、あなた達の美術の担当をする和泉と申します。よろしくお願いします。えー早速なんですが、今回の授業ではデッサンをして貰います。あなた達の画力も知りたいですし、何より絵を描く楽しさに触れてもらいたいのです。なので詳しい授業の説明はまた今度にして今回はぶどうをデッサンしていきましょう。そして今回の授業で描いたぶどうを次の授業で色付けして貰います。」


和泉はそこまで話すと、各テーブルにぶどうを一房ずつ配り始めた。


そして皆、各々のスケッチブックを取り出しデッサンを始めた。


立花も鉛筆を走らせ、丁寧に丁寧に書き進めていった。

デッサンに慣れていた立花は、他のクラスメイトより早くにデッサンを終え、暇を持て余した。


そこに、教室内を巡回していた和泉がやってきた。

「進んでますか?」

と言いながら、立花のスケッチブックに目を通す。


「凄く上手です。私がここ数年で見てきたデッサンの中で、一番出来のいいデッサンと言ってもいいです。立花くん、才能ありますよ。」

和泉は立花のスケッチブックに目を落としたままそう言った。


立花は初めて自身の絵を人に褒められた。素直に嬉しかった。

今までの疎外感を打ち消すかのような幸福感に立花は包まれた。


そしてその日、立花は自身の絵に少しばかりの自信を得ることが出来た。


次の週、二回目の美術の時間がやってきた。

 

「今日は色付けの時間です。各々、好きなように色を塗ってみてくださいね。」

 

和泉が黒板の前でそう指示を出すと、皆、一斉に作業に取り掛かった。


立花も絵の具を取りだし、パレットに色を溶かしてゆく。

立花が美しいと思う色を次々と混ぜ、色を塗る。


立花にとって、ぶどうが一番美しく見える色は紫ではなかった。立花は、立花の思う綺麗な色で、立花の中の最高のぶどうを描きあげた。


丁度その時、和泉が立花のもとに来た。

和泉は前と同じように立花の絵に目を通し、こう言った。


「ふざけてるの?」


「ふざけてません。」


「じゃあなんなのこの変な色は、せっかくの良いデッサンが台無しじゃない。」


「変な色?ぶどうはこの色が一番綺麗に見えるんです。先生言いましたよね?好きなように色を塗ってくれと、僕はそれに従ったまでです。」


立花達の言い合いに反応して、教室内がざわめき始める。

ヒソヒソと話す声が、立花の耳に入る。


「見てよあの絵、気持ちの悪い色。」

「変なの。」

「個性出そうと無理しすぎ。」


立花の耳に入る言葉はどれも否定的なものだった。

立花は絶望した。自分の感性が間違っていると、そう言われた気がした。疎外感と羞恥心に支配された立花は、とにかくその場から離れたい一心で、教室を飛び出した。


そしてそれから三年間、立花が美術の授業に出席することは無かった。


中学三年の二学期、立花は進路に迷っていた。

立花は勉強が出来た為、三者面談ではいつも地元屈指の進学校を推されていたが、立花はそんなところには行きたくなかった。立花は地元の進学校ではなく、電車で二時間かかる所にある美術科のある学校に通いたいと思っていたのだ。しかし、真面目で勉強に口うるさい両親の前では中々言い出せず、二の足を踏んでいた。


立花は美術の授業は嫌いであったが、美術自体は好きだった。

そして自身の才能を信じていた。両親や他人が自身の絵を評価しないのは凡庸故だと、そう思っていた。だからこそ美術科がある高校に進学し、自身の技術と才能に磨きをかけ、世間的な評価を得て、馬鹿にしてきた人達を見返してやりたかった。


立花は意を決して両親に相談することにした。

とある日の夕食時、立花は切り出した。

 

「父さん、母さん、聞いて欲しいことがあるんだ。」


「なんだ?言ってみろ。」

父が返した。


「実は、行きたい高校があって、この高校の美術科なんだけど……」

立花は高校のパンフレットを見せながら言った。


「ダメだ。ここに行くなら学費は出さん。」

父はそう言うと空になった食器を持って台所へと消えた。


「で、でもっ!本当に絵が好きなんだ!これが俺のやりたいことなんだよ!」

立花は必死に抗議した。すると隣で傍観していた母が口を開いた。


「無理よ、あなたには才能がないもの。そこに行ったって馬鹿を見るだけよ。諦めなさい。」


立花の味方は誰もいなかった。結局、立花は両親の決定に逆らえず、高校受験を終えた。


立花は高校に入ってからも絵を描き続けた。両親に才能がないと言われようが、周りに馬鹿にされようが立花は描き続けた。そして描いた作品のほとんどをコンクールに出していた。しかし、現実は無情で立花の作品が大賞に選ばれることはなかった。


高校二年生の夏、立花は美大のオープンキャンパスに行った。五美大と呼ばれる大学の全てに足を運んだ。立花はそこで見た光景に感動した。伸び伸びと創作活動をする生徒、レベルの高い教師、立花は心からここで学びたいと思った。


しかし、そこに通うにしても両親の了承がいる。

立花は再び両親を説得することに決めた。


次の週の日曜日、立花は両親をリビングに呼んだ。


外ではセミが叫ぶように鳴き、真夏の日差しがカーテン越しに肌を刺す。


「父さん、母さん。俺、本気で絵を学びたいんだ。だから、大学は美大を受けたい。」


「ダメだ。」


「真剣なんだ!一度しかない大学生活で自分の好きなことを学びたいんだ、お願いだよ!」

今度の立花は引き下がらなかった。 


「お前の塾代にいくら掛けたと思ってる。ふざけるな!」

父の叫び声が部屋に木霊する。


「母さんも何か言ってやってくれ」


「そうね、あなたには無理だわ。優太のようにコンクールで受賞したりしてる訳でもないし、とてもじゃないけどあなたに画家は無理よ。」

 

母は小馬鹿にした口調でそう言った。


「なんであんたらはそんなことばかり言うんだ……いつもいつもいつも!無理だ、諦めろって!子供の夢を全否定するのが親のやることか?!優太は美術科のある高校に入れるんだろ?!この前聞いたよ!なんで俺はダメなんだ!教えてくれよ!」

我慢の限界だった立花は、今までの鬱憤を全て吐き出した。

それを聞いた両親は、面食らった様子で固まっていた。


「もういい!あんたらなんて嫌いだ!俺は高校を辞める!あんた達とは絶縁させて貰うからな!」

 

立花はそれだけ言うと、急いで部屋に行き、家出の準備をした。立花は財布と最低限の服、そしてありったけの美術用具を抱えて家を出た。


立花が向かった先は、祖父の家だった。最寄り駅から三回の乗り換えを経て、立花は祖父の家に着いた。


立花の突然の訪問に祖父は驚いた様子だったが、事情を聞くと、快く家に入れてくれた。そして温かいお茶を入れてくれた。


「そんなことがあったのか、大変じゃったのう。それで、お前さんはこれからどうするんじゃ?」

 

立花から事情を聞いた祖父がそう問いかけた。


「東京に行くつもりだよ。もうあの両親のところには二度と帰らない。」


「そうか……じゃが東京に行って何をするんじゃ?」


「絵を売って生活するよ。いずれ必ず売れてみせる。」


「お前さんが考えて決めたことじゃ、ワシは応援するぞ。」


「ありがとうおじいちゃん。」


立花はその日を祖父の家で過ごし、次の日東京へと旅立った。


そしてその日から、立花の路上での長い長い下積みが始まった。絵の売上は無いに等しく、立花は祖父からの仕送りとバイトで生活した。


そんな生活を九年と半年ほど続けた頃、立花の耳に祖父の訃報が入った。唯一の立花の応援者がこの世から去ったのだ。

立花は悲しみに暮れた。その上、祖父からの仕送りも無くなり、立花の生活は更に困窮した。

 

そして疲れきった立花に現実を押し付けるかのように現れた優太。全てが立花を絶望させる要因だった。


優太と出会った後の帰り道、立花は廃ビルを見て死にたいと思ってしまった。そしてその瞬間から立花は希死念慮に支配され、今に至る。


さっきまで吹き荒れていた風はピタリと止み、語り終えた立花と彼女の間には、重い空気だけが漂っている。


「俺はずっと自分の才能を信じてきた。小学四年のあの時から、自分はゴッホになり得ると思ってここまでやってきたんだ。でも今まで一度も結果は出なかった。俺は家を出た時、有名な画家になれなかったら死ぬつもりで家を出たんだ。そして十年たった今、心のどこかで諦めがついた気がする。」


「そう……でも私はおじさんの生き様は凄く素敵だと思う。人に否定され続けてもひたむきに頑張るおじさんは、きっと誰よりも輝いてたはずよ。」


「ありがとう。なんだか救われた気がするよ。」


「そういえば、おじさん名前なんていうの?私は斎藤凛花って言うの。」


「立花だ。」


「立花ね、まぁでもおじさん呼びでいっか!」


そう言った凛花は上品に笑った。


「じゃあ、次は私の番ね!」

凛花はそう言って大きく伸びをした。

そして大きな声で、強がるように、ゆっくりと語り始めた。


凛花の初体験の相手は実父だった。

凛花は中学一年の頃から、毎晩のように父親に犯されていた。

幼く力も弱い凛花は父親に抵抗することも出来なかった。


凛花の父は昔は凄く優しい父だった。休みの日は遊びに連れていってくれたし、授業参観や行事も休んだことがなかった。

そんな優しい父が豹変したのは、凛花の母が交通事故で亡くなった後からだ。母を溺愛していた父は、精神を壊し鬱病にかかった。そんな中、父は徐々に凛花に亡き妻の面影を重ね始め、遂には凛花を犯すに至った。初めは凛花も嫌がっていたが、暴言を吐かれ、殴られながら犯される内に、それが普通になってしまった。


凛花を犯す時の父の口癖は、「お前はあいつに似てる顔だけが長所だ、だから話すな。」だった。父は普段の生活でも「お前は見た目だけが取り柄だ」などと凛花を罵った。

その行動は凛花の自尊心を大きく削った。


凛花は誰にも助けを求めなかった。助けを求めることは簡単であったが、凛花は自分が可哀想な子だと思われるのが嫌だった。それと同時に父が悪者になってしまうのも嫌だった。

凛花は壊れた父は嫌いだったが、昔の優しい父は好きだった。いつかは、あの頃の父に戻ってほしいという願いもあり、凛花は助けを求めなかった。


中学の三年間、凛花は優等生であった。先生からの信頼も厚く、成績は優秀、クラスメイトからの信頼もあった。凛花は自分の汚れた部分を隠すかのように、優等生として振舞っていた。


高校に入ってからも、凛花は優等生を演じ続けた。

優等生を演じている間は、普通の女の子で居れる気がした。


そんな凛花に想いを寄せる男も多かった。毎月のように告白されては振り、告白されては振り、を繰り返していた。


凛花は好きという感情が分からなかった。凛花は人を好きになったことがなかったし、カップルの営みの何が楽しいのか分からなかった。だから告白してくる男達を振っていた。


しかし、凛花は振り続ける日々の中で少しの好奇心が湧いた。

ー付き合ってみたら意外と楽しいのかもしれないーと。

凛花は次告白してきた人と付き合うと決めた。


そしてその翌月、凛花は同じクラスの田中から告白された。

田中は野球部で真面目そうな好青年であった。

凛花は田中と初デートの日を決め、デートをすることに決めた。


訪れたデートの日、凛花は田中と合流し、水族館に行った。

沢山の魚を田中と見て、ご飯を食べ、夜は映画を見た。

田中は心底楽しそうにしていたが、凛花はそうではなかった。


デート中の凛花の脳内は自身への嫌悪一色だった。凛花は普通の幸せを享受している自分が気持ち悪くて仕方がなかった。一人の清廉潔白な女性として扱われるのが至極嫌だった。


デートの次の日に、凛花は田中に別れを告げた。

そして凛花は自分からクラスの不良の樋口に告白した。


樋口はその告白を快諾した。樋口はその日凛花を自身の家に招いた。そして乱暴に犯した。


「お前って見た目だけが取り柄だよな、それに今が全盛期って感じするよ。」

犯している最中にそう言った樋口はどこか凛花の父と似ていた。


凛花は樋口と居ると心地が良かった。凛花は樋口が自分の存在意義を最大限引き出してくれている気がしていた。凛花は学校で被っている偽の清廉潔白の皮を剥がして、真の純潔の欠片もないような自分を扱ってくれる樋口が好きだった。


樋口の奴隷と化した凛花は樋口の言うことならなんでも聞いた。金の無心をされても笑顔で応えた。


当然、凛花の家にお金などなく、バイトもしていなかった為、凛花は身を売った。ネットで知り合った人と性行為をし、お金を貰う。いわゆるパパ活というものをして金を稼いだ。世間一般ではタブー視されている行動だ。しかし、凛花はこの行動になんの躊躇いもなかった。どちらかというと気分が良かった。何故なら、自身の身体に美貌に、高額の金額がつく様は自身の存在を肯定してくれているようであったからだ。そしてパパ活で稼いだお金は全て樋口に渡していた。


ある日、いつものように放課後樋口の家に向かうと、玄関先に見知らぬ靴が置いてあった。恐る恐る樋口の部屋に向かうとそこには見知らぬ女がいた。


凛花は勢いよく部屋の扉を開け、樋口に聞いた。

 

「その女誰?」


「あーこいつは俺の新しい彼女だよ。お前はもう用無しだから別れよ。」


凛花は頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。


「やだ、やだよ!なんで?!」

 

凛花は取り乱した。自身の存在を肯定してくれる存在が消えてしまうことに対する恐怖が凛花を支配した。


「あー、お前はもう飽きた。それにお前の全盛期は終わったんだよ。美貌も肉体も全盛は終わりだ。お前にはなんの価値もないんだよ、分かったらさっさと帰れよ。」

 

樋口は突き放すようにそう言った。

その横では新しい彼女が笑っている。


凛花は絶望した。途端に世界は色褪せ、自身の存在意義が無くなったように感じた。


凛花は絶望の中、樋口の家を後にし、帰路を辿った。


冬特有の乾いた寒風が凛花の肌を刺す、降り始めた粉雪は凛花の冷えた心と、身体の温度差を縮めた。


凛花はしばらく歩き、家へと着いた。

いつものように鍵を開け、自宅に入る。


何も言わずに靴を脱ぎ、廊下を歩く。

リビングのドアノブに手をかけドアを開けたその時、凛花の鼻に糞尿の臭いが届いた。


目線をそちらに向けると、そこには父の首吊り死体があった。

首吊り死体の横には倒れた椅子があり、死体の下には糞尿の水溜まりが出来ている。見慣れぬ光景と強い臭いに思わず嗚咽を漏らす。


凛花は部屋から出て、深呼吸をした。

警察を呼ぶか迷ったが、呼ばないことにした。凛花にとって父親の死はどうでもよかったのだ。

そして凛花はそのまま自宅から出て、廃ビルへと向かった。


そこまで語り終えると、凛花は口を開いた。


「私ね、ずっと父さんに支配されてたんだと思う。父さんが生きてる限り、私は死ぬことすら許されなかった。でも今は父さんが居ないから、私は自由に死を選ぶことが出来る。」


「散々な人生だな、でもきみの父親が死んだなら、君を縛るものはなくなったわけだ。今度こそ、自由に生きるって言う選択肢はないのか?」

 

立花は疑問を投げかけた。


「ううん、ダメなの。おじさん、突然だけど花って綺麗だと思わない?」


「ああ思う、人間なら誰しも。」


「そうよね、私もそう思う。じゃあ花ってどんな瞬間が一番綺麗だと思う?私はね、満開の時に散る花が一番綺麗だと思うの。種子から始まり、厳しい自然の中を逞しく生きて、全盛期を迎える。でもその後に待ち構えるのはゆっくりと朽ちて死ぬという運命だけ。その運命が花の一生に泥を塗る。花の存在意義は美しさにあるの、衰えて醜くなった花に存在意義なんてない。だから花は美しく強いまま死ぬのが良い。摘まれたり踏まれたり、色んな方法で花は死にゆく。でも私は満開ならどんな死に方でも美しいと思うの。そして、それは人間も同じ。存在意義が美しさしかない人間は全盛期に死ぬしかないの。私は四葉のクローバーのしおりのように、揚羽蝶の標本のように、美しいままみんなの最期の記憶に残りたい。」

凛花は遠くを見つめてそう言った。


「俺はそうは思わないな。俺は人間も花も、散り際が一番綺麗だと思う。衰え、病に侵されながらも懸命に生きようとするその様が美しいんだ。」


「おじさんはそう考えるんだね。素敵だと思うよ。私は、おじさんは衰えて、病に侵される歳まで生きるべきだと思う。それが美しいと思うのなら。」


「有名な画家になれなかった時点で、俺は死ぬ以外にないんだ。だからそんな歳までは生きれないな。」


「まだ分からないじゃない、もしかしたらこれから人気出るかもよ?」


「いや、無いな。どうやら俺には才能がないらしい。」

 

立花はそう言うと、少し自虐気味に笑った。


「そこに置いてある絵はおじさんの描いた絵?」


「そうだ、それは東京に来て初めて描いた絵で、少し思い入れがあるんだ。」


「そうなんだ。見てみてもいい?」


「構わんよ。」


立花が言い終わると同時に、凛花はその絵画にかかっていた布を取った。


中から出てきたのは、風景画だった。


「この絵凄く素敵だと思う。お世辞とかじゃなくて、本当に私はこの絵好きだな。物の色は元の色とは違うけど、私にはこの色で書かれた物達が凄く活き活きして見える。一つ一つの主張が強いけど、全体で見た時のまとまり感はしっかりとあるし、なんて言うんだろう…上手く言えないけど何処を見ても退屈しない絵だよ。私こんな絵見るの初めて。」


その風景画を見た凛花は目を輝かせて言った。そして、


「おじさん才能あるよ。絶対売れるよ。ゴッホだって死んだ後に評価されたんだよ、十年なんて短いよ。おじさんなら、あと少し続けたら絶対栄光を手に入れることが出来る。私が保証する。ここで死ぬには勿体ないよ。」と捲し立てるように言った。


 

立花の絵をここまで絶賛する人は初めてだった。

立花は生まれて初めて人に認められた気がした。

途端に立花は目頭が熱くなるのを感じ、咄嗟に顔を背けた。


「本当に、そう思うか?」


「うん。思う、だからもう少し頑張ってみようよ。」


「ありがとう。あと少しだけ、本当に少しだけ頑張ってみるよ。」


長い沈黙の後、立花はそう言った。


「うん。それがいいよ。」

凛花はそう言って立花の頭を撫でた。


「なぁ、最後に君をスケッチさせてくれないか?」


「いいよ。」


立花の願いを凛花は快諾した。


立花は床に置いていた美術用具を取りだし、スケッチを始めた。群青の夜空を背景に、凛花をスケッチしていく。


下書きが終わり、立花は色を塗り始めた。

立花は今まで、物をそのままの色でスケッチすることはなかった。立花にとって元の色は美しい色ではなかったから。

でも、今回は違った。立花にとって、凛花はそのままが一番綺麗だった。立花は凛花を見たままの色でスケッチした。


「終わったよ。」


 立花が絵を凛花に見せながら言った。


「凄く綺麗……まるで写真みたい。」


「喜んでくれて何より。」


「あ、でもこの右下のサイン書き直したほうがいいよ。」


「なぜだ?」


「おじさんはこれからゴッホ並に人気になるんだから、日本語で健じゃダメだよ。英語でKENにしないとね。」


「それもそうだな。」

そう言った立花と凛花は顔を見合せて少し笑った。


二人は笑い終わると、一緒に美術用具を片付けた。


「おじさん、もう帰りなよ。そろそろ時間だよ。」


凛花が言った。


「そうだな、そろそろ帰るとするか。じゃあ、またな」


「うん。じゃあね。」


凛花は大きく手を振り、立花を見送った。


立花は頼りない音を出す外階段を今度は慎重におり、道を歩く、立花は遠くから聞こえた破裂音と、野次馬の集まる声に想いを馳せながら帰路を辿った。



























 


 


 



 




















 





























 




























 


















































 






























 

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絵描きと少女 @Gin0000

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