第七章 誰も信じるな

『マスターズ警部の単純な信条』

 さやかは秋津が机に放り出した付箋を手に取り、そこに書かれた意味不明な文面を眺めていた。

 ――マスターズ警部…って誰?

 

 翔子がアレルギー症状をぶり返したので、彼女に対する質問は少し時間を空けなければならず、仕方なくさやかと秋津は先に問題となっていた新聞部部室を調べる事にした。

 室内は数日前とほとんど変化していなかったが、秋津は直ぐにスタンドライトに張られた付箋を見つけた。

「あ…なによこれ」

 そこに書かれたメモを読み取った秋津は一言不満そうにそう言ってから、PCの電源を入れた。素早くログイン画面に何かを入力している。付箋に書かれた文面から、彼女は何かヒントを得たようだった。

「オーケー」入力を終えたのか、リターンキーを押す音に続いて、画面が切り替わった。

「コレでとりあえずログインはできたわ」

「ほんとですか?」

 さやかは椅子の後ろに回りこんで秋津の肩越しにCRTを覗き込んだ。

 さやかにとってあまりなじみの無い画面だったが、それほど他のOSと変わりないデスクトップ画面が表示されていた。秋津はマウスを取り、メニューからシステム、アプリケーションなどの項目をチェックしていた。

 文字だけのウィンドウが開かれ>masters:と表示された後に、カーソルが点滅していた。秋津がキーを叩いて何かを打ち込むと、大量に半角の英数、記号がスクロールする。さやかには全く分からないそれらの羅列をみて、秋津が言った。

「これ、制限ユーザーね…ヒント用につくったユーザーってことなのかなぁ…」

 さやかは説明されても、あまりよく分からなかったが、何となく与えられる情報も制限されているということは分かった。

「それで…どこまでの事がわかるのでしょう?」

「そうね…ざっと今さっき新しいファイルとか調べてみたけど…特に作成された文書なんてのもないし…あ、そうだ」

 言いながら、秋津はメーラーを立ち上げた。

「メールを見れば、何か分かるかもしれない」

「あ、そうですね」

 立ち上がったメーラーの受信トレイに新着メール一通。マウスカーソルが移動して、太字をクリックする。表示されたメールのサブジェクトは[FW:ミーティング]。転送…つぶやきながら秋津はそのメールを開いた。


          *


『明日のミーティングで、あなた好みの素敵な一人の少女に出会うでしょう。彼女は悩みを抱えています。力になってあげてください』


          *


 さやか達は顔を見合わせて首を傾げた。

「何?」

「何でしょう?」

「あ、そうだ送信者は…」

 さやかは送信元を見た。

 Sender:Fox

 ――狐?

 秋津が肩を小さく揚げるようにしたので、さやかは頭を後ろに下げた。秋津は考えるときいつもそうするように腕を組むと椅子を回してさやかの方を振り返った。

「とりあえず…これ」秋津は親指で、後ろのディスプレイを示す「送信者の名前はともかくとして、このメールは転送でしょ?」

「ああ、そうでしたね…」

「という事は…この文面は、Foxって人が受け取ったメール。つまり、Fox宛てのメッセージってことだよね…」

「あ、はい…」

 ――でも、それって何?

 さやかはもう一度ディスプレイを見、その文面を読んだ。

 ――ミーティング、って、新聞部…の?

「先輩、このミーティングっていうのはやっぱり、あのときの事ですよね?」

「多分ね、あのミーティングに呼ばれてた誰か…というかさ…」秋津はもう一度ディスプレイを振り返る。

「このPCの持ち主なんじゃない?」

「持ち主って…」

「やっぱり居たんじゃないかなもう一人、新聞部…部員」そういって秋津はマウスに手を置く。

「新聞部、部員って…」

 秋津はメーラーを調べている。さやかは気付かないうちに秋津がやっていたように腕を組んで考え込んでいた。

 ――なんだろ…新聞部部員に来たメール。でも、その部員はミーティングには来なかった…今だって、あれ、でも、メモは残されていた。

 そこで気付いたようにさやかは窓の方を見た。近づいて閉じられたブラインドの角度を変える。

「無い…」

 そこに秋津の張っていたテープはきれいに剥がされていた。

 ――メッセージは受け取り…さっきのメモ…ヒントを残した。だとするとさっきのメールも、ヒント…? でも、メール…あのメールは転送されたもの、元々はこの部屋の持ち主当てに送られたもので、例のミーティングについて…あれ?

 何かが引っかかった。誰かに宛てたメール、そのメール内容の文体はまるで、ミーティングの内容。それを予言しているような何か。

 ――そうだ、私のブログの予言と同じ?

「先輩…これ、予言…」

「この…素敵な一人の少女…あなたの事じゃないかな?」

「えっ!?」

「きっと、その彼…よれよれのシャツに眼鏡って出で立ちなんじゃない?」

 ――じゃあ、新聞部の部員が居て…その人も私と同じように? でも、なんで?

「なんか…」振り向いた秋津は不敵な笑みを浮かべていた。

「なーんとなく、分かった気がする…」

「何が…ですか?」

「何がっていうと、ちょっと説明しにくいけど…あと、なぜか? っていうのも良く分からないけど…」カチッと、そこでワンクリック。

「これ、その新聞部部員からのSOS的なものかもしれないよ?」

「SOSですか?」

「たぶん…」秋津は手のひらを上に向け、人差し指を軽く曲げ伸ばすようにして、さやかを招く。

「なんですか?」

 人差し指でそのままディスプレイを指差す。それは問題のメールに対する返信メールの作成画面だった。

「返事…してみよう、とりあえず」

「え? でも…なんて書くんですか?」

「そうね…」言って、秋津は軽くキーを叩いた。さやかは書かれた文を見て、眉を顰めた。


『あなた好みの素敵な少女より。

 きっとあなたと同じ事で悩んでいます。少なくともミーティング前、あなたにメールを送ったのは私ではありません。もし、私を信用して話をしてくれるなら、このアドレスに返信をお願いします』


 秋津は文面の最後に、一つメールアドレスを付け足すと

「こんなとこでどう?」と確認を取るようにさやかの方を見た。

「どう…といわれても…」とにかく返信して、相手の出方を待つほか方法が無いということは解っていたので曖昧な調子で「いいんじゃ、ないでしょうか…」とだけ答えた。

 じゃ、と言って秋津は送信ボタンを押した。

「返信は私が使ってるメールに来るはずだから、また着たら連絡するわ…」

「はい、あの…先輩?」

「何?」秋津はもう用事は終わったとばかり、メーラーを閉じ、メニューからログアウトを選択していた。

「その、少し説明してもらえませんか?」

「えっとね…」画面が切り替わったので、秋津は電源を切った。

「まあ、返信が来ないとはっきりした事は言えないけど…」椅子から立ち上がって、さやかの背中を押すようにする。

「増えたのは容疑者じゃなくて、被害者なのかも?」

「はい?」

 秋津はさやかの背中を両手でゆっくりと押して、机をまわり、扉の前に来た。

「戻りましょう?」

「あの…先輩?」

「多分、この件は今回の事にあまり関係が無いかもしれない」

「え?」

「もちろん、無関係とは言えない、メールの差出人が犯人である可能性はゼロとはいえない…」

「じゃあ、なんで? あの」

 秋津は扉を開けると手をさやかの手を引いて廊下に出た。

「牧野さん…そろそろいいんじゃない? 見るものは見たし、早く次にいきましょう?」

 そう言うと、秋津はドアを閉めた。気のせいか、さやかには秋津が楽しんでいるように見えた。さやかは少し納得がいかなかったが、既に時間も経ち、翔子に話を聞かなければと思ったので秋津に従って廊下に出た。

 ――あ、そうだ…。

 廊下に出た途端、さやかは以前のように不可解だった秋津の行動についての質問を思いついた。

「あの、先輩?」

「何?」

「何で…ログインのパスワードとアカウントが分かったんですか?」

「ああ、アレ?うん」秋津はそこで微笑んだ。

「X-F○LESって知ってる?」

「え? あ、えっと…名前だけなら…海外ドラマでしたっけ?」

「うん、その中で、有名なパスワードって言うのがあるのよ」

「そうなんですか…メモには、その、それに関する何かが書かれていたんですか?」

「いいえ」

「え? じゃあ…」

「まあ、普通分からないと思うわ…あそこに書かれてたのは憶えてる?」

「えっと…マスターズ警部の…信条…でしたっけ?」

 言いながら、さやかは文字だけのウィンドウの中にmastersという名前が書いてあったのを思い出した。

 ―じゃあ、アカウント名はmastersだったのか…で、そのパスワードは?

 訊ねるように首を傾げると、秋津はおどけた様な表情で眉を上げた。

「マスターズ警部って言うのはね…ある推理小説に出てくる警部の名前なの…シリーズ中、その人物についてこんな風に書いてあるの…『マスターズ警部の単純な信条は全ての人を疑うという事だった』ってね…」

「へぇ…それって…なんだか悲しいですね。誰も信じるなってことでしょ? あれ…先輩?どうしたんですか?」

 秋津は妙な表情をしていた、目を大きく開いて、驚いたような、それでいて何か期待を孕んだようなその表情。やがて口元をキュッと横に広げ、次の瞬間声をだしてフフッと笑った。

「そう、まさにそう…」

「なにがですか?」

 秋津は目を細めたまま首を左右に振ると言った。

「杉村さん、今回の事件…もしかするとこれは相当に暗示的な単語かもしれないよ」

「え? あの…一体なにがですか?」

 そこで、秋津は右手の人差し指を口の前にだし、静かに! というジェスチャと同じポーズでこう言った。

「誰も…信じるな」


            *


「やあ、どうだった?」

 保健室前に帰ってくると、廊下の壁に背を預けるようにして大場が待っていた。

「まあ、ぼちぼちです」

 秋津は片手を上げて曖昧に答えた。

「そう…」

「そちらは、どうですか?」言って秋津はあごで保健室の扉を示すようにした。

「まあ、そろそろいいんじゃない?」応えて、大場は両手のひらを見せ、降参するようなポーズで「僕はダメっぽいけどね…」と付け加えた。

 秋津は、ええ。とそれに応えさやかの方を振り向くと

「じゃあ、行こっか…」と扉の方に向かった。

「失礼します」

 ゆっくりと開く引き戸、さやかは秋津の後ろから保健室の中を覗き込んだ。直ぐ見える範囲に、先生の机があったが、そこには誰も居なかった。

「先生はさっき出て行ったけど…大丈夫じゃない?」

「そうですか…そのほうが都合がいいですね…じゃあ」秋津は振り返らずに応え、そのまま扉を開くと中に入って行った。さやかも後に続いた。

 保健室は入り口から真直ぐ窓側に机があり、そこから左に体重計などの器具が並んでいた。さらに左奥の方はカーテンで区切られ、二つベッドが並んでいる。窓からの光で、手前のベッドに半身を起こした人物の影が見えた。

 別にこそこそする必要は無かったが、ふたりは足音を忍ばせるようにゆっくりとそこに近づいた。直前で二人とも少し立ち止まる。カーテンの向こう、少女の陰がわずかに動いた。

「誰?」

 秋津はゆっくりとカーテンを開き、声を掛けた。

「牧野さん?」

「誰?」

「改めて、はじめまして…私は」そういって大きくカーテンを広げ、さやかを招き入れる。

「杉村さんの友達で、秋津史子っていうの…」

「…」

 牧野翔子は無言で、二人を見つめ返した、その瞳は若干の警戒の色を映している。

「あの…牧野さん? コレ…」

 さやかは携帯電話を翔子に見せる。

「…ソレ…ちょっと!」

 翔子は勢い良く手を伸ばした。が、秋津がその前に立ち、遮った。

「何すんのよ、返してよそれ! あたしの携帯!」

「返すわ…」静かに秋津が答えた。その語調に一瞬虚を突かれたように、翔子は戸惑いの表情で固まっていた。何か言い返そうと口を開いていたが、そのまま、口を閉じ、うつむいて布団の上に重ねた両手に目を落とした。そうして一転、翔子はしおらしい声で言った。

「何で、そんなことするの?」

 秋津はさやかから携帯電話を受け取ると、翔子のほうに差し出した。

「あなたに、いろいろと聞きたいことがあるの…」

 秋津の声に、翔子はゆっくりと顔を上げた。

 翔子の不安げな顔に、秋津は微笑みかけた。

「いつ、これを無くしたの?」

「あなたたち…じゃないの? これを…杉村さん?」

 翔子はさやかの方を見た。さやかは首を横に振った。

「あのね、牧野さん」

 言いながら、さやかは牧野翔子は犯人ではないと、ほぼ直感的にそう思った。彼女の行動は疑わしく、聞きたいことは山ほどあった。が、きっと彼女の言うことは真実だろう。そう、なぜか根拠もなく彼女の顔を見てそう思った。

「お願い…あなたに、協力してほしいことがあるの」

 さやかは、まとめていた事柄を順に翔子に説明した。翔子は最後まで何も言い返さず、ただ俯いて受け取った携帯電話を握り締めていた。説明が終わると、三人とも暫く黙り込んでいた。翔子は顔を上げなかった。

「あの…」

 沈黙を破って口を切ったのは秋津だった。

「というわけで、いろいろと質問したいことがあるの」

 翔子は顔を上げない。少し語調を和らげて秋津は続ける。

「それでね、最初の疑問なんだけれど。あなたは、どうして窓から入ってきたの?」

 翔子の手が、その指先が小さく動いた。しかし、答えない。

「言いにくいのかな…それじゃ…」秋津は翔子の手元、携帯電話を見つめた。

「直子さんへのメッセージはあなたが出したの?」

 その問いにわずかに顔を上げ、翔子は自身の携帯電話を開いた。少しの間、アプリをチェックしているのか手を動かしている。暫くして、翔子は首を横に振った。

「じゃあ…」秋津は軽くさやかの方に目配せして言った。

「…夏樹先生の写真を、杉村さんに送ったのは、あなた?」

 その言葉に、翔子は予想外に反応した。すばやく顔を上げ、驚愕を浮かべた瞳で、秋津とさやかを交互に見た。

「それ…」

 暫くして、翔子はポツリと言った。

「知ってるの? 写真のこと…」再び俯く翔子。

「ええ…」

 翔子はここで大きく溜息を吐いた。

「見たんでしょ? 私の携帯…」

「いいえ」

 二、三度深く息を吸う。俯いて頬に垂れ下がっていた髪を両手で掻き揚げ、睨みつけるように目を細め秋津の方を見た。

「何が知りたいの?」

 少女の声は、さやかの知っているようないつもの調子に戻り、その表情からは何か吹っ切れたような雰囲気が感じられた。

「というか…じゃあ、さっきの質問と、まあ近いわけだけど…」

 そんな翔子に対して、秋津も平常どおりの語調に戻して問う。

「あなたと、夏樹先生とは何か関係があるの?」

「関係が…あるも何も…」そこで翔子はフンと鼻を鳴らすとこういった。

「いまさら何? その質問…写真見たんなら分かるでしょ?あたし達、付き合ってんのよ!」

『えっ!』

 さやか達は同時に驚きの声を上げ、顔を見合わせた。

 ――付き合っている!?

 頭の上に疑問符を浮かべたような表情のまま、二人は固まっていた。さやかは必死に翔子の言ったことを理解しようと努めた。

 写真を見ればわかると翔子は言った。が、しかし、さやか達が問題にしている写真というのは、夏樹と直子の二人が写ったものだった。その二人の関係を指して、付き合っているという答えは分かるのだが、今、翔子は自分が夏樹と付き合っている。そう言ったのだ。

 ――写真を見れば分かるって…!?

 まさか…

 その表情から、さやかの内心を読み取ったかのように秋津はうなずいた。彼女も既に、ある結論を導いていたようだった。ゆっくりと翔子のほうを振り返ると、秋津は静かにこういった。

「その写真、念のため見せてくれる?」

 翔子は怪訝な顔をした。

「なによ! どうせさっき勝手に見てたんじゃないの!?」

 慌ててさやかは説明した。

「ううん、見てないわ…写真というのはその、さっき言ったでしょ?私のところにメールが着て…」言いながらも、さやかはどう説明するのが良いのか? と考えをめぐらせていた。

――その写真と、翔子の言っている写真のことは違う。でも、それを勘違いしている彼女は今重要なことを話そうとしているに違いない。ここは正直に話すべきだろうか? それとも、少しはぐらかすようにして、話を聞きだすべきなのか?

 助けを求めるように秋津の方を見た。秋津がその意を汲んだかのように続ける。

「ほんとに見てないの…だから、さっきも聞いたでしょ? 鍋島さんへの連絡があなたの携帯から送られているみたいだけど…知らないかって…」

「知らないわよ! 私は送ってない…けど…」

 言い返そうとした翔子だったが、最後は少し声が小さくなった。

「だれかが…送ってるの」そういって、自身の携帯のディスプレイを見た。

 秋津は黙って翔子のもとに近づいた。

「…見ても…いい?」

 今度はおとなしく、翔子は秋津にアプリ画面を見せた。そこには確かに直子が見せたものと同じ文面で送信済みの内容が表示されていた。秋津はやさしく少女の肩に手を置いた。

「いつ、携帯が無くなったの?」

「…放課後、直ぐ。なくなってたことに気付いたの」

 牧野翔子は素直に答えた、続けて彼女はポケットに手を突っ込み、一枚の紙を取り出した。

「これ…」

 秋津は紙切れを受け取った。それは秋津が受け取った紙片と同じペンで書かれたような文字が並んでいた。


『放課後、会議室で待っています。夏樹先生の事でお話ししたい事があります。会議室の鍵を開ける必要はありません、窓が開いていますからそこから入ってきてください。携帯電話はそのときにお返しします』


「こんな事されるの初めてよ…」幾分低いトーンで翔子は話し始めた。

「あたし、よく携帯を鞄のポケットの所に入れてるの…今日は5限目の休み時間にも見てないから、何時なくなったかは正確にはわからないんだけど…六限が終わって鞄を見てみたら、いつも携帯を入れているサイドポケットにこの紙が入ってて…」

 秋津は見終わった紙切れを翔子に返した。

「じゃあ、あなたこの紙の指示どおり会議室に…?」

「うん」頷いて小さく両肩を上げる。「先生の事も書いてあったし、その文字を見て、女子だと思ったから…そりゃあ、変だと思ったし、警戒しなかったわけじゃないわ…だからアイツ、残ってた前田に頼んどいたのよ…」

「頼んだって?」

「もし、四時ごろまであたしが教室に戻ってこなかったら、会議室の窓の外まで来て欲しいって…危ない目に遭いそうになったら、助けてもらうために…時間は、話をするのならそれくらいはかかると思ったし、何かあったとしても、10分くらいなら何とかなると思って」

 秋津は振り返ってさやかを見た。さやかは頷いてそれに答える。

 ――なるほど…だから、前田君にそれを頼んだのか。それにしても…。

「度胸があるというかなんと言うか…」秋津はさやかの思ったことを代弁するように言った。

「しかし…」秋津は困惑の表情で言葉を止める。その表情からさやかと同じところで引っかかっている様だった。

 ――牧野さんは、会議室に居た…。

 今の話から、牧野翔子は会議室に呼ばれ、窓からそこに入った。そういうことになるのだが、それは先程推理した内容とは異なる結果だった。

 自身の携帯ディスプレイと、背を向けた秋津を交互に見つめるようにしている翔子。最初感じたように、さやかは彼女が嘘をついているようには見えなかった。もちろん彼女が主張する事は嘘かもしれないが、今の説明により、前田をそこに呼んだ理由など、その行動の不審は徐々に解き明かされつつあるようだった。主張のとおり彼女も『呼び出された』のだと考えれば、やはり巻き込まれた側の人間と考えられる。が、しかし…。

「あの…」秋津は振り返って牧野に問う。

「何?」

「えっと…あなたはそれで、会議室に入ったの?」

「そうよ…」

「そう。ちょっと、その時のことを話してくれる? たとえば、誰か居なかったの? そこに」

 翔子は目を逸らすように首を傾けて、また小さく息を漏らす。

「なんか、取調べみたいね…」

「まあ、そうかもね…」悪びれず秋津は答えた。そんな秋津に視線を戻さず翔子は答えた。

「面倒な事にかわりはなかったから、最初はちょっと見て、誰も居なかったら直ぐに教室に戻ろうとは思ってたわ…でも、窓から中を見て、直ぐコレ…この携帯が机の上にあるのが見えたの。それで、誰も居なさそうだったから直ぐに窓から中に入った。一応周りとかも確認して…パーテーションの裏に誰か隠れてるのかもなって最初思ったけど…」

「誰も居なかったのね?」

 翔子は首肯した。

「おまけに、携帯も無かった…」

「え? どういうこと?」

「それが、置いてあったのは贋物だったの…同じカバー掛けてある贋物…あるでしょ? ショップなんかで、見本のアレ」

「ああ…ふぅん。じゃあ、そこで携帯を取り戻す事はできなかったのね…そっか…で、あなたはそれが分かってその後どうしたの?」

 翔子は少し顔を上げて秋津を見ると、片手で垂れてきた髪を後ろに払い、溜息を吐くと答えた。

「少しだけ机の周りを調べたけど、その贋物以外何も無かったから…帰ろうと…」

 そこで言葉を止め、何かを思い出すとき皆そうするように、視線をやや斜め上に向けた。

「してたんだけど…」

「だけど?」先を促すように秋津が問い返す。

「音がしたの…」

「音?」

「鍵…会議室の鍵、南京錠の、鍵の音…」

 さやかはその光景を想像した。

 窓から出ようとする翔子の背中、鍵の音がしてその肩が震える。振り返り見る、音の出所、会議室の扉。

「それで…牧野さんはどうしたの?」さやかは思わず問いかけていた。突然会話に参加してきたことに少し驚いたように翔子はさやかの方を見た。

「えっと…それで…」さやかと秋津、二人の顔を交互に見る。「誰か入ってくると思ったの…多分、呼び出した本人だと思った。だから、そのまま暫く待ってたの。でも、誰も入ってこなかった」

 ――それは、直子ちゃんだ。

 その時南京錠を開錠したのはそれまでの情報から鍋島直子に違いない。

 さやかは考えた。

 彼女も携帯のメッセージで――それは盗まれた翔子の携帯から送信されたもの――扉を開けるように指示されていた。それを指示したのが犯人だとしたら、それは一体何の為だろうか? 二人を、直子と翔子を引き合わせようとしたのだろうか?

 ――だとしたら、それは不発だ。

 犯人の目論見はともかく、彼女らはそこで出遭うことはなかったのだ。直子は部屋には入らず、開錠はしたものの、留め金に錠を掛けたまま職員室に引き返したのだった。

 ――そうだ…その後…。

「で、そのあと…牧野さん、扉を開けたの?」

 というか、開いたの? とさやかは心の中で問う。

 翔子は二回ほど、素早く瞬きを見せると答えた。

「少し待ってたけど…誰も入ってこなかったからね…なんだろうと思って…」

「開いたのね?」

 確認する秋津に翔子は軽く数回頷いた。

 秋津は翔子から目を逸らし、腕を組んだ。

 それまでに得られた情報、といっても直子の証言のみのことだったが、扉はそのままでは内側からは開かないはずだった。開錠されたとはいえ、留め金はそのままだったのだ。

 そのことから秋津は、翔子は会議室ではなく隣の進路相談室から通路に現れたのだと推理していたのだ。しかし彼女の証言が本当だとすれば、その考えは改めざるを得ない。

 暫しの沈黙、考えている事は一緒なのだろう、そう思いながらさやかは秋津の横顔を見つめ、そして彼女が次の質問を、どう言葉を切り出すのか待っていた。

「どうしたの?」

 逆に問い返してきたのは翔子のほうだった。

「いや…」秋津はそれに対し意外にも直ぐに答えた。

「その後、扉を出たあなたは通路を抜けて廊下へ…私たち、一度会ってるわね」確認するように秋津は翔子の顔を見る。

「ああ、えっと、そうだったかな…」翔子は思いだすようなような素振りで上を向く。

「あなた、扉から出た後…なんで鍵を閉めたの?」

 翔子は上を向いたままだったが、小さく「あ…」という表情で口をあけた。ゆっくりと視線を秋津に戻す。

「それは…」口ごもる。どうしたのか?と、秋津が覗き込むと、翔子は上目遣いに視線を返した。

「あのさ…」

「何?」秋津は小さく首を傾ける。

「会議室で…見つけたんじゃないわよね?」訝るように翔子は秋津の方を睨んだ。

「何を?」秋津も怪訝そうに眉を寄せ、問い返す。

 翔子は溜息を吐くと投げやりに言った。

「写真よ…さっき言った。見たんでしょ?」

「え? ああ、えっと、写真は見た…けど…会議室って?」

 ――何を、言ってるんだろう?

 振り返る秋津と顔を見合わせる。さやかも内容の見えてこない会話に気付かず顔を顰めていた。

 翔子は再び大きく溜息を吐くと、ポケットに手を入れ、今度は写真を取り出し、秋津に向かって差し出した。

「言いたく、なかったけど…変な話だから…」


           *


「どうだった?」

 保健室から出ると、同じ場所で大場が待っていた。

「まあ、わるくないです」

 言葉とは裏腹に秋津は渋い表情で答えた。

「そう…」

「色々聞けはしましたから…もう一度話を整理しましょう」

 そう言って会議室へ戻る秋津の後ろにさやかも続いた。大場がどうしたの? とさやかを見た。さやかは無言で肩を竦めると、瞳を、先を行く秋津の背中に向けた。

「…」

 会議室に戻るやいなや、秋津はパイプ椅子の上に立って部屋の天井を調べた。

「多分…ここね…」

 言ってその場所をさやかに示す。さやかも同様にパイプ椅子に乗って、その場所を見た。

 天井の中央部分、蛍光灯に挟まれた真中の部分に、小さく穴が開いている。普通はそこにはできないはずのごく小さな穴。それは画鋲か何かで天井に何かを留めていた痕跡に見えた。

「なんだい?」後に続いた長身の大場はそのまま天井を見上げて言った。それには答えず秋津は言った。

「ここから、留めたピンに糸をかけて、戸口につなげば…彼女の言った通りの事ができるわね」

「はい…でも…」

 さやかは直前に聞いた翔子の話を思い返していた。


『あたしが…その扉を開けたとき…ああ、扉は普通に開いたけど、開いた瞬間に音がしたの。今度は部屋の内側から、部屋の中心の天井部分から。ほんの小さな音、もちろん直ぐに後ろを振り返ったの…そしたら、天井から小さな紙切れが、沢山。ひらひらと舞って落ちてくるのが見えて…何枚あったかとかは憶えてない。でも、直ぐには拾えないくらい…沢山。もしかしたら10枚くらいだったかもしれない。その時は一体何が起こったのかわからなかったから、とにかく戻ってその写真を一枚拾って確認してみたの。それが…コレ』


 そういって見せられた写真は今、さやかの手元にある。カップルの写真。

 写っているのは翔子とカウンセラーの夏樹隆文だった。

「…」

 

 肩を並べた二人の笑顔、片手にピースサイン。最初さやかが問題にしていた直子の写っていた写真とそっくりそのまま同じだった。翔子自身付き合っていると言った。それはこの写真を見れば明らかだと…さやかもそのことは納得できた。その写真は二人の親密さを表している。しかし、今ここにもう一つ、別の人物と同様に写っている夏樹の写真がある。それはどういうことを表しているのだろうか?

 さやかの頭脳がシンプルな発想を拒絶していた。単純に考えると、それは嫌な単語に結びつく。無理矢理に頭を切り替え、続いて翔子から聞いた事実を回想する。


 自嘲気味に微笑を浮かべ、翔子は次の様にその時のことを話してくれた。


『悪戯をされた事実に驚くより、その場に散らばった写真の事をどうしようという事でとにかく焦っちゃって。だから、会議室前の廊下を誰かが歩く音が聞こえたような気がしただけで、どうしようかと思って…で、その時思いついたことが、扉から外へ出て、そこにあった南京錠で戸口を締め切ることだった…入ってきた窓は開いてたから。直ぐに窓から入りなおして写真を回収すれば良い。そう考えたの…とにかくだれも入り口から入る事がないように、そう思って…けど今考えると、犯人は鍵を持って会議室の扉を開けたわけでしょ? だからあまり意味無かったのかもしれないけど…』


 先にざっと説明はしていたが、翔子は会議室の鍵を開錠したのは自身をそこに呼び出した犯人だと思っているようだった。それは、翔子同様にそこに指示を受けて呼び出された直子だったのだが…いいや、そんな事はどうでもいい。さやかは回想を続けた。


『それで、通路から出てくるとき、あなた(秋津を指して)を見た。焦ってたからあまりよく憶えてないけど…とにかく、あたしは直ぐに窓の所に外から回り込んでみた。そしたら…窓が』


 窓が閉まっていた。と、彼女は言った。

 時間は四時より少し前。まだ前田が見張り役としてその場所に来ていない頃の事だ。


「彼女は…」秋津が徐に口を切る。

「閉まっていた窓を見て、それまで開いていた窓から誰かが侵入したに違いないと思った…そう言ってたわね」

「はい…」

 二人だけの会話に首を傾げる大場に、さやかは翔子から聞いた話を説明する。

「なるほど…そうか、確かに、その状況ならそう考えるだろうね…で、どうだったんだろうね実際の所…中に」ここに、とばかり大場は人差し指で床を指す。「誰か居たのかな?」

「さあ…」秋津は首を横に振る。

「えっと、その後のことですけど、直ぐに前田君がその場にやってきたようなので、彼女は彼にそこを見張っているよう指示を出して、もう一度入り口の方に引き返してきたんです。多分、犯人が入り口から鍵を開けて入った可能性も考慮したんでしょう」片手を頬に添える「牧野さんが中に居たとき入り口の扉を開錠したのは鍋島さんだけど、牧野さんにとっては鍵を開けた人が自分を呼び出した犯人だと思ったわけだから…でも、自分の携帯で彼女が呼び出されていた事は知る由もなく…」

 呟くようにそう言って頬に手を添えたまま秋津はさやかの方を向いた。さやかはその時のことを想像しながら「そうですね…」と軽く相槌を打った。

「そういえば、甲斐って子も彼女からの連絡で呼び出されていたのよね」

 念を押すようにそう言った秋津にさやかは今度はぎこちなく「はい…」と頷いた。

 翔子の携帯の履歴から、直子と同じように甲斐もその翔子の携帯から送信されたメッセージで呼び出されていた事がわかっていた。


『放課後、進路資料室に来て…話があるの。ちょっと遅れても四時迄には行くから』


 甲斐は自主的にそこに向かったのではなかったのだ。盗まれた牧野の携帯で呼び出されてそこに居た、同様にさやかもそこに呼び出された。

 ――何のために、引き合わされたんだろう…?

 犯人によって引き合わされた二人。

 会議室に呼び出された翔子と直子…そして、進路指導室に呼び出された甲斐とさやか。同じように引き合わされたといっても、そこに類似点は見出せなかった。しかし、犯人には何か目的があってのことに違いない。

 ――この中の誰かが、犯人でなければ…。

 そう考えて溜息を吐く。

 三人のうち、一人は親友、そしてもう一人は先の会話から、嘘を言っているとは思えない。そしてもう一人だが。

 ――怪しいといえば、怪しい。けど…。

 残るは…その時も、そして質問のときも、ほとんど会話を交わす事のなかった少年。

 さやかの心境は複雑を通り越してもう何がなんだか分からなかった。もし、少年が犯人だとして、それが何を意味するのか、そして目的は? さやかは軽く頭を振る。考えられない靄を払い落とす。もう一つ、翔子の携帯に残っていた履歴の事を考慮に入れて、別のことを考える。それは甲斐に対する通話履歴だった。


 16:17 通話 甲斐由斗 14秒


 翔子の携帯には、甲斐に対しての通話履歴が残っていた。翔子の携帯を使った、おそらく犯人から甲斐への短い通話の履歴。時刻は甲斐が、持ち場を離れる少し前のことだった。

 ――彼は、その連絡を受けて、持ち場を離れたのだろうか?

 

「牧野さんの話から、四時十分ごろ、丁度杉村さんが進路資料室から出てきた後、合流した私たちの前で彼女が取った不審な行動や、何かを知っていたような口ぶりの理由。そして、持ち場を離れた甲斐君の行動も何となく分かってきたけれど…」

 秋津は念を押すようにさやかを見る。さやかはそれに応えるともなく視線を返した。

 閉まっていた入り口を見て『しってるわ!』と叫んだ翔子。それは当然だ、自分が閉めたのだから。そこで、彼女はどう考えただろうか?やはり開いていた窓から誰かが侵入して内側から窓に鍵を掛けたと考えるのが妥当だろう。さやかは牧野の思考をトレースして、会議室中の侵入者の存在を彼女が確信していたことに納得した。

「その写真だけど…」そういって、不意に秋津はさやかに手を差し出した。

「はい…」

 さやかが写真を渡すと、改めて秋津はその写真を観察していた。4~5センチ四方の印刷紙に刷られた細長い写真はそれなりに解像度が高く、写真専用紙のようで小さいがなかなかきれいにプリントされていた。

「さっき見せてもらった写真と…」写真を見つめたまま秋津が言う。

「…」

「似てるわね…」

「…」

 無言でさやかは頷いた。

「…あの時、牧野さん、直子ちゃんに…」

「牧野さんは、鍋島さんの事も知っていたような事を口走ってたわね…今考えると、彼女がのこのこと会議室へ向かった理由は、相手が誰だか予想していて、比較的安心してたっていうのがあるのかもしれないけど…」

 何? と写真を見ていない大場が眉を上げた。まあ、そのことはあまり関係無いかしら。そう言って秋津は肩を竦める。

「…そうなの?」大場はそれほど気にしない風に言った「ふーん、そうか…まあ、確かに聞いた感じで大体みんなの動きはわかったかもしれないね?」

「そう」

 ――なるのかな?

 確かに、コレで現場に居た全員から、必要な情報はほぼ聞く事ができたようだった。

 そのなかでも翔子の話から


 ・ 翔子は携帯を盗まれ、手紙で会議室へ呼び出された(窓から侵入)。

 ・ 翔子の携帯で甲斐と直子がそれぞれ進路資料室、会議室へと呼び出されていた。

 ・ 翔子は自衛のため、前田を窓の外へ呼び出していた。

 補足:甲斐が持ち場を離れる直前、盗まれた携帯から甲斐に通話した形跡有り。


 という情報が新たに得られた。

「そう…ですね」

 さやかは大場の方を見て頷いた。

「あ…」と、突然大場が思いついたように言った。

「あのさ、最後の所、彼女はなんて言ってたの?」

「はい?」秋津が問い返す。

「猫…猫が出たところ…」

「あー」言いかけて、さやかはその部分の話を聞いた時の翔子の様子を思い出していた。

「別に意識を失ったわけじゃないし、ちゃんと憶えていたみたいですよ…猫が入るのは彼女も見たって、それに…窓はずっと見てたって…」さやかの代わりに、秋津が大場に答えた。

「誰かが、出てきたり?」

「は、なかったそうです」

 さやかは二人の会話を聞いていなかった、その時思い出していたのはそれを話したときの牧野翔子の振る舞いと、印象的な台詞だった。

『アレルギーだし、面と向かうと…ダメなんだけど』

 彼女は話す前、一度身震いをした。抱くようにしたその腕には鳥肌が浮いていた。続けて一瞬顔を背けると、最初話し始めたときと同じ自嘲的な笑みを浮かべてこう言った。


『…あたし、ネコって嫌いじゃないのよね。変な話だけど、ぬいぐるみだったらなーっていつも思うの。ぬいぐるみのネコ、好きなんだよね…』


 その台詞に、さやかは妙な親近感が湧いたのを憶えている。

 さやかは動物の猫はもちろん嫌いじゃない。が、それとはまた違って、ネコのぬいぐるみが昔から好きだったのだ。なぜだろう?本物よりも、デフォルメされたそれを好きになる。生きていないぬいぐるみに対する愛着。共通点が少ないと思っていた少女だったが同じく感じることがあったという事実を知ったときの感情。それはなんだか不思議な感覚だった。


「そういえば、シロだっけ…どこいったんだろ?」

 大場がきょろきょろとあたりを見回す。

「そういえば…居ませんね…」秋津は背後を振り返り、少し開いた窓から外を見た。

「外に…出たんでしょうか?」

 大場は秋津の視線の先へ向かい、窓枠に手をかけると直ぐ下の辺りを見回した。

「いないなぁ…」

 直ぐ後ろからさやかも窓の外を眺めると、その先に見知った人物の姿が見えた。その人物もさやかに気付いたのか片手を揚げて合図してきた。

「おっ…何やってんの? さやか?」

 グラウンドのトラックより、やや校舎寄りの位置からクラブのジャージ姿の加奈子が手を振りながらゆっくりと近づいてきた。

「加奈子ちゃん…部活?」

「うん」一度トラックを見て「もう一走りしたらやめようかって思ってるとこ…」振り返りそう言った表情には余裕があった。汗も殆どかいていない。

「それより何してんの?」窓から首を出している大場を一瞥すると、怪訝な表情で彼女は再びさやかに同じ質問をした。

「えっと…」

 さやかは横の大場を見、指示を仰ぐように秋津の方を振り返る。秋津はさあ…という風に右手のひらを上に向けるようにして、軽く髪を揺らすと、ゆっくりと窓際に近づいてきた。それにあわせて大場が脇に寄る。

「はじめまして…だね」秋津はさやかの後ろから加奈子に挨拶した。

「わたし、杉村さんの友人の秋津です」

 突然の自己紹介だったが、あまり戸惑いは見せず加奈子も応えた。

「はい…どうも、ああ、私もさやかの友人の相田って言います」

「よろしく相田さん…えっとね、なんていうか、さっきちょっとした事件があってね…」

「事件?」その単語に、再び眉を顰め加奈子が問い返す。

「ええ」

「あの…それって、もしかしてさやか、前田になんかされた?」

 加奈子の言葉に三人は直ぐに反応した。秋津は表情が変わり、さやかは後ろの大場と顔を見合わせた。

「!? あなた、何か知ってるの?」秋津が問い返す。

「知ってるっていうか、見ただけなんですけどね」

「何を?」

「この窓の前に、さっき前田がいましたよね?」

「あなた見てたの?」

 加奈子はそこで片手を腰に当て、そちら側の足に重心を移した。

「いや、さっきさ。そこの窓から誰か入ったでしょ?」

「見たのね?」秋津は少し乗り出し気味に窓枠に手を掛ける。

「牧野さんが窓から入るのを?」

「それは…良く見てなかったから分からないけど…」加奈子は首を傾げる。

「…いや、違う。その後、窓の外に来たのが牧野さんでしょ?アレ多分そうだったと思うんだけどな…」

「えっ?」秋津の隣に居たさやかは反射的に声を漏らし、秋津の横顔を見た。秋津は顔を顰め問う。

「それって…何時頃のことかわかる?」

「え、何ですか?なんか、取調べみたいに…」突然の真剣な問いに加奈子は苦笑する。

「えっと…さっき休憩したときに見たから多分、四時…より少し前くらいかな。その後すぐ、前田が来て、なんかしばらく窓のそばにいたから…」

 あの派手な頭は直ぐに分かったと加奈子は付け加えた。

 ――それって…もしかして、犯人なんじゃ…。

 加奈子が見たものというのは、翔子が扉から会議室を出て鍵を閉め、窓に外から回りこむ直前のことのようだった。

 そのとき、窓は開いているはずだった。誰かがその開いていた窓から会議室に侵入し、窓の鍵を閉めた。彼女の話からそう考えるとすればそれは犯人に違いない。覚えていた時間も、その後に前田が来ているのを見たというのもあわせてそれはほぼ間違いない。

「犯人かな?」そう言った大場を見つめ、さやかはつぶやいた。

「多分…」

 そんなさやかの様子を見て、軽く両肩を挙げながら首を振ると加奈子は言った。

「で、さやか…事件ってさ。何があったのか、私には教えてもらえるのかな?」

「えっと…」

 さやかが戸惑っているうちに

「ええ、別にいいけど、少し長くなるかもしれないわよ。説明とか…あ、でも杉村さんに許可を取らないと説明できないこともあるけど…」

 言うと、秋津はさやかの方を見た。

「そうなのさやか?」

「あの…」

 さやかは無言で上目遣いに加奈子を見つめ返し、どうしようかと迷っていた。別に話してはいけないことは無かったが、直子と翔子、二人の写真のこともあって判断に悩んだ。

「えっと…」

 まだ、言うべきでもない気はする。が、はぐらかすような言葉を思いつかない。

 ――いつもこうだ。

 咄嗟の判断が出来ないだけでなく、回避する機転が働かない。

 薄弱な対応しか取れない。

 ――どうしてなんだろうわたし。

 ダメだ、そう思って俯きそうになったそのとき。

「ま、いいや…あんたは無事だったんでしょ? また今度、都合のいいとき教えて…」

「え?」

 加奈子のことだから、はっきりしろと強く訊かれると思っていたさやかは、つい驚いた声を出していた。加奈子は軽く微笑むと「ね?」といった。

「…うん」

「じゃあ、」加奈子は踵を返しかけ秋津の方を見た。

「なんか分からないですけど…さやかをよろしくお願いします」

「うん、わかった」秋津は頷いて見せた。

「じゃあねさやか…」

 そう言って加奈子は片手を挙げると、トラックの方へ走っていった。

「…」

 暫く無言でその後ろ姿を見送っていた秋津だったが、掛け声のように「さて…」と言うと、窓から少し離れ、後ろに居た二人を振り返ってこう言った。

「なんか、素敵な展開ね…」

「…」

 さやかはどう応えていいかわからず、ただ「…ですか?」と問い返した。まだ、加奈子の対応に釈然としないものを感じる。

 ――わたし、変かな…

 多少疲れているのは確かだった。連日のことでいつも以上に考えすぎる傾向がある。悩みも、問題以上に膨れ上がる。

 より、ネガティブになる。

 見上げるように秋津を見る。

 秋津は無言の微笑でそれに答え。続けて大場を一瞥すると、ホワイトボードに向かいペンを取って書き込み始めた。

「いろいろ…得られた情報があったけれど…」キュッと音をたて、最後の句点を書き終えたペンを置く。

「また、新たに疑問点が出てきたのよねぇ…まあ、細かい人間関係のことはともかくとして、話から浮上してきた疑問はこんな風にまとめられると思うんだけど…」

 そう言って示されたホワイトボードには問いかけるように次の三つの項目が書かれている。


 ・鍋島さんが開錠した会議室扉の南京錠を掛け金から外し、扉を開くようにしたのは誰か?

 ・牧野さんの携帯から連絡をメッセージを送り、また甲斐君と通話した人物は誰か?

 ・相田さんが目撃した窓から会議室に入った人物は、一体誰か?


「謎の人物…」

 秋津はゆっくりと首を回し二人の様子を伺った。

「何となくだけど…私はこの三つの謎にかかわっているのは同一人物だと思うんだけど、どう思う?」

 さやかはゆっくりと頷く。

 その人物は、おそらく犯人である可能性が高い…そして、その人物は、会議室前の通路、そして窓から侵入した後、会議室から忽然と姿を消した。

 ――携帯と、猫を戸棚に閉じ込めて。

 大場が左手を挙げて発言する。

「あのさ…」直ぐに上げた手を首の後ろに回す。

「今のところ分かっている事件の関係者以外に、もう一人容疑者が居る可能性も?」

 秋津は小さく両肩を挙げる。

「その…可能性が出てきた…とは言えると思います」

 大場は同じジェスチャで秋津の真似をすると、独り言のように

「誰かが四時より少し前から…この、会議室の中に居た」とつぶやいた。そのつぶやきの後、暫くの沈黙…三人とも各々にその時の状況を考えていた。が、やがて大場が再び口を開いた。

「ところで、秋津さん? その三つの問いかけはただ書いてみただけなの?」会議室の入り口を顎で示してから、言葉を続ける。

「ここの扉、最初に鍋島さんが鍵をあけたとき…つまり牧野さんが中に居て、戸口で鍵を開ける音を聞いたとき…何故開いたのか…って事に関して、君は何か考えてはいるんでしょ?」

 振り向いた大場は秋津に向かって不敵に微笑んだ。秋津は閉じた唇の端を少し上げ、大げさに目を逸らすと小さく首を振ってこう言った。

「そりゃ…まあ、情報としては色々揃いましたからね…あの…」と、呼びかけて言葉を切った秋津は、反対に今度は大場の真似をするように顎で窓を示すと「ちょっと、先輩…手伝ってくれますか?」と大場を見た。

「なんだい?」

 秋津はもう一度窓を見る。

「ちょっとこの窓から外へ出てくれませんか?」

「…いいけど…」

 首を傾げながら、大場は窓へ近づき窓枠に手をかけると軽くそれを跨いで外へ出た。

「で…」

 外から窓をのぞきこむようにして、小さく広げた両手をひらつかせる大場に対し、秋津は言った。

「ちょっと、隣の…進路相談室の窓…調べてもらえません?」

「ん? ああ、いいよ」

 さやかは素早く窓に近寄って首を出し、その様子を伺った。大場は隣の部屋の窓際に移動し、サッシに手を掛け横に引いた。抵抗なく、スライドする。

「あ…」

「開いた!?」

 小さく叫んで、さやかは振り向いた。

 曖昧な表情でわずかに首を傾け、秋津は窓の外へ向かって大場に言う。

「じゃあ、先輩、窓から中に入って…扉を開けてくれませんか?」

「オーケー」

 窓から大場が侵入し、隣の部屋に着地の足音が聞こえた。秋津はさやかの肩に手を触れ、通路を指差した。二人が入り口に向かうと、閉まっていた進路相談室の扉の内側で、カチャリと開錠の音が聞こえ、開き戸のかげから大場が顔を出した。

「先輩!?」

 さやかは説明を求めるように二人の顔を交互に見た。大場は相変わらず状況を楽しんでいるような表情を浮かべている。秋津は小さく眉を上げると、扉に手を掛けた。

「牧野さんの意見を信用するなら、多分、鍋島さん。彼女の錠に関する証言が嘘ってことになると考える。でも鍋島さんが嘘を言う必要があったのかしら? 自分が開けた鍵の話だから、いくらなんでもそれはおかしい…と、私は思う。そうすると、次に疑うべくは進路資料室に居たあなたたち…でも、そんな筈は無い…とすると、やっぱり妥当なところはこの部屋に誰かが居たと考えること」

「でも…」咄嗟にさやかは反論する。

 秋津は当初、翔子がこの部屋に窓から侵入したと推理していた。けれどもそれは翔子の話を聞く前の話であって、今はこの部屋の窓が開いているということは考えもしなかったのだ。

「さっき…先輩は、夏樹先生はただ戸締りして帰るところだったって…中には誰も居なかったって言ってましたよね?」

「ええ…きっとそう」

「じゃあ、何で今窓が開いてるんですか? やっぱり先生は何か…」さやかの発言の途中で秋津は首を横に振った。

「違うん…ですか?」

 ――しかし、じゃあ何故?

 秋津は『夏樹は利用されている』と言った。秋津が手を掛けた扉、大場が少し脇に寄ったので隙間から部屋の中が見えた。本棚とデスク。あと、相談者の椅子…他は何も無い。誰かが隠れている事に気付かずに戸締りをしたなどとは思えない。

「ちょっと考えてみて? そもそも今日は、先生のカウンセリングはお休みでしょ?」

「え?」言われて直ぐ扉のチラシを確認する。

「あ、はい…」

「学校に、それ以外の用事で出てたのは分かるし…この部屋にくることもあるかもしれない。忘れ物があったのかもしれないけど…普通、金曜はあの時間にここに来る事はないんじゃないかなぁ?」

「…そう? でしょうか? えっと、それは…どういう意味です?」

 秋津は頭を振る。

「…もちろん、推測…さっきから推測の話ばかり…」軽く苦笑い。そして、扉に掛けた手を引いて、中に入るようさやかを促す。軽く背中を押されて入室する。

 入った部屋の中は隙間から見た以上の広がりはなかった、調査対象としては本棚と机のみである。本棚には左隣の部屋に並んでいる物と同様の進路資料がきっちりと並んでいるのみ。机には、少しのファイルが立ててある他はすっきりとしたもので、作業する部分は何もなく空いており、省スペースのデスクトップも端に追いやられている。

「パソコン…ありますね…ん?」

 調べるのかなと、秋津の方を振り向こうとした直前、さやかはその机の上にある妙な物に気が付いた。

「何でしょう…?」

 確認する前に、素早く近寄った秋津が手に取っていた。それは、50センチほどの金属の棒だった。ステンレス製らしい中空のそれは見た目より軽い物のようだった。

「何かしらね?」両手のひらの上に載せて、残る二人に示す。

「凶器…かな」大場が口を斜めにする。

「いや…こいつか、ロックは」

「え?」

 秋津は片手でその棒切れを持ち、パシパシともう片方の手に打ちつけながら、端にあるパソコンを見た。

「とりあえずチェックする?」

 電源を入れる。立ち上がったのはよく見るwindowsのOS画面。

 ユーザー名はNATSUKI

 直ぐにパスワード入力欄が表示される。

「あ~今度のパスワードはわからないな…」秋津は直ぐにログオフする。

「でもまぁ…やっぱりここに誰か居たんだと思うわ」

 さやかはその瞳から秋津の言った言葉の意味を読み取ろうとする。

「窓から入って…ですよね」

 問いかけるようにつぶやいた言葉に秋津は頷き同意する。窓から入った…その意味を考える。普通にアクセスできない。つまり扉は閉まっていたのだ。牧野翔子が窓から会議室には入ったときと同じ。

 ――同じ?

 翔子はそこに呼ばれて入った。指定された会議室の窓は開いていた。それは、指定した人物、おそらく犯人が空けておいたものだと考えられる。だが、この進路相談室の場合、それをあけておく事ができるのは。夏樹を置いて他に居ない。

 ――やっぱり、先生が関係者だとしか…!?

 そこでさやかは閃いた。一番の容疑者候補は誰だったか? その彼女こそどうやって呼び出されたのか? それを思いつく。

 ――他の関係者も同様に、全てに操りがあった。

 秋津を見ると、そういうこと…とでも言うように頷いている。

 秋津の、その瞳を見つめ返す。束の間のアイコンタクトの後、秋津は口を開く。

「履歴って消せるわよね」

「そう、ですよね」

 思えば、携帯に残っている履歴は翔子の自演を匂わせる材料であるとともに、犯人からのヒントでもある。ヒントと言えど、それは全てを明かしているわけではない。直子と甲斐に対する履歴は残されていたが、他の人物に宛てた連絡の履歴の全てが残されているとは限らないのだ。

「牧野さんの話を聞いて、彼女を疑うよりは自分の推理を修正しようと直ぐにおもったんだけど…」説明口調に戻って秋津は言った。

「次に浮かび上がった疑問に、やっぱりこの部屋の窓が開いていた筈だって思ったの…そこにあの、牧野さんの写真を見てさ…」

 さやかはそれに続ける。

「牧野さんと夏樹先生の接点を見つけた…」

「うん…多分、彼女の携帯には先生が登録されている筈でしょ」

「はい」

 今、夏樹の携帯を調べる事ができたら、おそらく彼の携帯には翔子の携帯からのメッセージがあるはずだ。そうさやかは想像した。内容はおそらく


『進路相談室の窓を開けておいて』と頼む内容。いや『鍵を置いておいて…』の方が妥当か…


「多分、あなたが見た夏樹先生は彼女の携帯からの指示で、窓を開けた後の先生だったんじゃないかな…」

「さっき先輩が言ったのは、そのために、先生はわざわざ放課後ここに来たって事ですね」


「なんか」大場が頭の後ろに腕を組んでにやけていた。

「かなり面白いことになっているみたいだね」

「はい…」秋津は不敵な笑顔でそれに答え、じゃあ、戻りましょう。と、さやかの背中を押して部屋から出た。

「先輩は窓から…」

「はいは~い」

 別ルートから会議室に合流した一同は再びホワイトボードの前に立っていた。


「…さっきの先輩の質問に答えていませんでしたね」秋津はホワイトボード前のテーブル端に腰を乗せる。

「鍋島さんが最初に会議室の鍵を開けた後のことです。留め金にかかったままだった南京錠を外し、留め金も外す事ができたのはおそらく、隣の進路相談室に窓から侵入した誰かの仕業だと、私は考えています」

 片手のひらを上に向け、秋津は隣部屋の方を差して続ける。

「なぜ開いていたのか? それはともかくとして、隣部屋の窓が開いていた以上、誰かがそこに居た可能性は高いと思います」

「なるほど…」大場は組んだ手の右手を上げて顎をさすっていた。

「そうだね…それで、そこに居た彼、あるいは彼女が、開錠されたあとも会議室扉に掛かっていた錠を外して、内側から開くようにした…うん、それはそうかもしれない…」顎をさすっていた手を止める。

「さっき言ったけど、話を聞いた関係者以外に犯人が居ると考えて、牧野さんと鍋島さん、そして杉村さんと甲斐くんをその周りに呼び寄せて何かやろうっていうのなら、あの部屋に潜む事はとても都合が良さそうだね」

「まあ、」秋津が大場の先回りをするように言った。

「一番近くで、その、監視とでも言うのかな…自分が仕組んだ状況を追うことには…都合のいい場所だったかもしれません。でも、今考えて思ったんですけど…最初の部分、鍋島さんと牧野さんが出会わなかった事は犯人にとってイレギュラーって事になるのかもしれませんね…」

「例外…ですか!?」思わず、さやかは問い返した。

 当時、状況に翻弄されるままだったさやかはにとって、犯人にとって予想外な事が起きたとは思いもよらないことだった。が、直ぐに考えて納得した。なぜならその計画の大部分は携帯での連絡に相手が従うかどうかに依存しており、例外があっても少しもおかしくは無いのだ。そう考えると、計画をコントロールする為に犯人が進路相談室に侵入し、そこからの監視を行う必要はあったのかもしれない。

 ――いや、だけど…。

 最前、思いついたことが頭をよぎった。それは隣室への侵入方法。未だ推測に過ぎないことだったのだが、それにしたところで、夏樹の行動如何でどう変わるか分からないことだった。

 事件の計画性、そのものが曖昧に感じられ。連日続いた予言の件から考えても、分かりやすい関連性や計画性は見えて来なかった。それどころか前日までの事件を振り返ると、皮肉なことに予言に倣って起こる事件だったにもかかわらず、ある種のファジーさが共通しているようにも思えてくる。

 たとえば、新聞部の件は予言としては的中しなかった。

 その予言はある出会いを示していたので、的中しないことで逆に人がひとり消えたような結果になってしまったのだが、それは仕組まれた不可思議なのか、それとも偶然なのか?

 予言に従わないことが狙いだったのか、それとも計画外の事なのか。

 ――そして、こんどは…どうなのだろう?

 今度の件は事件に写真が絡んでいるという予言はされていたものの、直面した事件についてはほのめかす程度で具体的なことは何も分からなかったのだ。写真の事にしても似たような写真が二つもあることは書かれておらず、また苦手な人物という記述が誰を指しているのかも分からない。

 また、その後の出来事中に密室や人間消失というイメージを抱いた人物というのはおそらく証言から牧野翔子ただ一人であるとともに、その状況を理解しているのはさやか達のように能動的に事件に参加し、調査したものだけなのだ。

 ――もし、わたしたちがこのことを考えないでいたら、このことは事件になったのだろうか? そもそも、前回のように、事件…それも犯人らしき人物が予定した状況は実現されたのだろうか?

「じゃあ、犯人の予定通りには行かなかったってことですよね?」

「どうかな。一部は、そうなのかも」

 そのあたりのことはいまだよく分からない。と秋津は言った。

「でも、そこが核心なんじゃないですか?」

「…そうね」

 ――トン…カラン

 とそのとき部屋の入り口で音がした。

「まあ、ぴったり」

 そう、おどけた調子で言ったのはいつの間にか戸口に移動していた大場だった。今はパーテーションを少しずらして、扉後ろのレール前に居る。見ると、入り口の扉を閉じたところのようで、大場は扉ではなく、開いたスペースのレール部分を見ている。

「あの…何してるんですか?」

「いや、」言いかけて大場は秋津に視線を移す。

「さっき言ったロックってコレのこと?」

「…そうです、ぴったりみたいですね」

「なんですか?」

 さやかは近寄って大場の指差す引き戸のレール部分を見た。そこには隣部屋にあった金属のパイプがすっぽりと嵌っていた。大場は閉じた扉の窓枠部分に手をかけてひいてみせる。きっちりと嵌ったパイプに支えて扉はビクともしない。

 さやかは思わず秋津を振り返る。

「あの時、外側から開けようとしてその扉が開かなかったときあったでしょう?」

 そのときには秋津とさやか、直子、翔子、それに甲斐の五人が通路側に居て、そのうち二人が扉を引いたがビクともしなかった。さやかはその様子を覚えている。その後、秋津も手をかけて確認したそうだったが、扉は開かなかったという。

「そこ、内側からは鍵を閉める機構が何もないでしょ?だから、そのとき部屋の中に誰か居たかどうかは別として、何かで扉を押さえてないと、あんなふうにぴったり扉が閉まって動かない。なんてことは無いんじゃないかって思ってたから…それに、例えばそれをレール部分に立てかけてから外に出た場合、扉をぴったりと閉じたときに丁度倒れてつっぱり棒みたいになって扉が閉まるでしょ?」

「…長さは丁度いいみたいだよ」

 棒を取り上げて大場は扉を開いた。

「そうですか…」

 それを見て秋津はひとりで納得したように頷く。しかし、さやかは秋津の様子を不思議に思うだけだった。

 ――もし説明のように内側からロックして外に出る方法で密室を作ったのだとしても、一時的にしかそれは利用できないはず。なぜなら最終的にそれは部屋に残っていなかったのだから。それに、状況的にはそれは牧野さんにしかできないはずだけれど…。

 根拠は無かったが、さやかは彼女は犯人ではないと考えていた。

 逆に考えてもそこで密室を作る意味も思いつかない。

 秋津はいつの間にか手に取ったイレーサーでホワイトボードの文字を消し始めていた。最後の文字を消し終わると彼女は両手を組み合わせ、そのまま裏返すようにして伸びをする。

 続けて「さて」と腕を解いた秋津はポケットに入っていたものを取り出した。ジャラジャラと音を立てて、後の二人に見せるようにそれを手のひらに弄ぶ。

 二つの南京錠。

 いま、片方の錠には鍵が刺さっている。それはシンク下の扉を施錠していたものだった。

 もう一方はこの会議室の錠である。二つは良く似ていたが、メーカー名を見ると明らかに別の物のようだった。一方は百円ショップで手に入るものであり。鍵の方に、どの部屋を施錠するのかを示したプレートなどが付けられていない。

 ――そういえば、鍵のことについては何も考えていなかったな。

 扉の鍵がこの事件で重要であることは確かだったが、今のところ持ち主の移り変わりや、開錠できた人物についてはある程度明らかになっているので、特に問題にしてはいなかった。

 最初に扉を開錠したのは、直子であり、その後も数回職員室を行き来したとはいえ、基本的には彼女が鍵を管理していたことになる。が、しかし錠自体は別であり、開錠されたそれをもう一度掛け金に取り付けたのは翔子であり、再び開かれたそれを最後に預かっていたのは甲斐由斗である。また、少年がそれを閉めたとき、鍵を持っていたのは直子である。

 それらは元からあったこの部屋の錠であり。最後に出てきた錠はおそらく犯人が持ち込んだものなのだろう。

 猫と携帯電話を閉じ込める。それだけに使われた南京錠。

 全く不可解なその行動。

 ――でも、なんであんなことしたんだろう?

「じゃあ…まだ用事が少しあるけど…」

 連想から始まり、いつしかその想像に悩み始めた頃だった。秋津がさやかに向かって何か言った。

「はい?」何を言われたのか分からなかったさやかは聞き返した。

「だから、証言。最後の証言を聞きに行きましょうか」

「えっ?」

 突然の秋津の発言にさやかは戸惑いの声をあげた。

「最後の…証言?誰からです?」

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