第30話 水惟の憂鬱
蒼士と結婚すると、水惟の生活は一変した。
まず、蒼士が暮らしていたタワーマンションに水惟が引っ越した。水惟にとってはそれだけでも大きな環境の変化だった。
「再来週、出版社の謝恩パーティーがあるんだけど水惟も出席してもらえる?」
「うん。」
月に何度か深山家にパーティーの招待があり、蒼士が出席する場合には水惟も妻として同伴した。
「深山さん、ご結婚おめでとうございます。」
「ありがとうございます。」
親子ほど歳の違うゲストたちに祝福され、蒼士がお礼を言う。
「おきれいでお若い奥様ですね。」
「いえそんな…ありがとうございます。」
水惟もぎこちなくはあるが愛想よく応える努力をした。
「へーじゃあ奥様は深端のデザイナーさんなんですか?良いですねー!次期社長夫人なら良い環境で好きなようにデザインやり放題じゃないですか。」
「え…っと…」
パーティーの席では酒が入っていることもあり、不躾なことを言うゲストも少なくなかった。
「妻は優秀なデザイナーなので、私の力は必要ないみたいですよ。」
水惟が答えに困ると、蒼士が品の良い笑顔でフォローした。
「また変なこと言っちゃったかも…」
「そんなことないって。そのうち慣れるよ。」
パーティーから帰ると水惟はいつも反省し、蒼士が慰めた。
「あれ?水惟…髪黒くしたんだ?」
ある土曜、美容院に出かけた水惟が茶色だった髪を黒くして帰ってきた。
「この前のパーティーで深山のお嫁さんなのに髪の色が品がないって言われちゃったから。黒の方が少し大人っぽく見えるし、これはこれで似合うでしょ?」
水惟は笑って言った。
「うん、似合ってるけど…いいの?うちの親は別にそんなこと気にしないと思うけど。」
蒼士の両親は水惟の素直なところをとても気に入っている。
「うん。受け応えが苦手な分、見た目くらいはちゃんとしたいから。」
「今日の食事会、退屈だったよな。」
深山家関連の会食の帰り道、水惟と手を繋いで歩きながら気遣うように蒼士が言った。
結婚以来、パーティーと同じくらい会食の機会も増えていた。相手によっては話題が政治や経済の話で、水惟は相槌を打つくらいしかできないこともあった。
「ううん!話は難しかったけど勉強になったし、料理がすっごく美味しかったし。」
水惟は笑顔で答えた。
「あ、でも盛り付けが芸術的すぎてどう食べたらいいかわからない料理があったね。」
「ああ、あの店ってたまにああいう料理があって、偉そうな顔で難しい話をしてたおじさんが慌てるところが見られておもしろいよ。」
蒼士も笑って言った。
「私、パーティーも会食もまだまだ苦手だけど…帰りにこうやって蒼士とおしゃべりできるから好き…」
パーティーや会食へは車で行くことが多いが、水惟の希望で時々歩いて帰るようにしている。
水惟は繋いだ手にそっと力を込めた。蒼士も応えるようにきゅっと力を入れた。
***
「このラフ、イマイチだね。今日中にやり直して。」
クリエイティブのフロアで水惟の先輩デザイナーの
「えっと…具体的な修正箇所の指示ってありますか?」
水惟の質問に、乾の目が一瞬苛立ちを見せる。
「そのくらい自分で考えなさいよ。洸さんが抜けた穴を埋めなきゃいけないってわかってる?私は洸さんみたいに甘やかす気ないから。」
「はい。すみません。」
水惟は戻されたラフを手に、席に戻った。
———はぁ…
昼休み、水惟は会社近くのカフェにいた。
社内の食堂やカフェは注目を集めてしまうようになり、昼休みを過ごすには居心地が悪くなっていた。
この日はあまり食欲もなく、水惟はサラダだけを食べていた。
「あ、水惟。隣いい?」
そう声をかけてきたのは氷見だった。
「乾と揉めてたみたいだけど大丈夫?」
「…あぁ、揉めてたってほどじゃないので…」
「洸さんが水惟のこと甘やかしてたわけじゃないんだけど、乾って洸さんの信者みたいなところがあるから…洸さんに可愛がられてた水惟のことがずっと羨ましかったんだと思うの。」
「…そうだったんですか…。」
水惟は洸のことが懐かしく思えた。
「もしも乾とトラブルになりそうだったら言ってね。」
「はい。」
「ところで…髪黒くしたり、結婚してから結構イメチェンしたね。結婚生活は順調?」
「えーっと…さすがにパーティーとかが多くてついていくのがやっとって感じですけど、結婚生活自体は楽しいです。」
「深山くんと一緒にいられるから?」
水惟は頬を赤くして、飲み物をゴクっと飲んだ。氷見はクスッと笑った。
「幸せならいいんだけど、頑張りすぎて無理しないようにね。」
———ピコンッ
【今日何時に終わりそう?】
蒼士からLIMEが届いた。
【19:30くらいかな?】
ペンギンのスタンプをつけて返信する。
【エントランスで待ってるから一緒に帰ろう】
水惟は蒼士のメッセージで疲れが癒やされた気がしていた。
「ごめん、お待たせ!思ったより遅くなっちゃった。」
水惟が小走りにエントランスを出ると、蒼士が笑顔で迎えた。水惟も嬉しそうに笑顔で応える。
「おつかれ。何かあった?」
「うん、修正のOKがなかなか出なくて。」
「そっか。今日はご飯食べて帰ろうか。」
「わーい」
「あ、見て、あの人が深山さんの—」
二人を見て噂をする声が耳に入る。
「………」
水惟の表情が微かに強ばる。
「別に悪いことしてるわけじゃないんだし、もう結婚したんだから堂々としてればいいんだよ。」
「うん…」
わかってはいても、しばらく続きそうな社員の好奇の目は水惟を憂鬱にさせた。
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