第五話 「やり直し」
「本当に見たのか?」
「本当だって」
「見間違いじゃないのか?」
「うるさいなぁ、だから本当に見たんだって、夜ノ森冬花を」
大学からの帰り道で、僕は秋本かなでに何度も問いかけた。幼なじみを疑う気持ちはないが、どうしても信じがたい。
「そんなに気になるなら直接会いに行けばいいんじゃないの?」
「いや、それはそうなんだけど…」
秋本の言う通り、直接会いに行けばこの気持ちは晴れるのかもしれない。少なからず僕の人格の一部を作り上げた人物であり、現状の体たらくっぷりの原因は彼女である。でも、そんな理由で会いに行けるものか。夜ノ森さんにとってはとんだ迷惑だろう。相手は僕のことを知らないんだぞ。
「第一、何を話したらいいのか…」
「色々あるじゃない、めっちゃ好きです☆的な」
「お前もそれ言うのか!?」
「………あの見た目で見間違いなんてする筈ないじゃない。君も分かるでしょ」
「…まあ、な」
見た目。その人を認識するためには欠かすことのできない要素。活動休止前の記憶にある夜ノ森冬花の姿は誰の目にも留まるものだろう。月の光を照らしたような白の長髪、夜空を見つめる漆黒の眼。ピアノを弾くときに見せたどの感情にも似つかない表情は僕を魅了した。
憧れでもありトラウマでもある存在。
そんな相手とやり取りするなど、緊張して仕方がない。いい年(20)の大学二年生になっている人間が、人付き合いもできずろくに行動も起こせやしない。夏川の言っていたことが少し分かった気がした。
「そういや、大学内のどこで夜ノ森さんを見たんだよ?お前、なんか話したのか?」
「…ピアノ」
「え?」
「ピアノを弾いていたよ。『月光』の第三楽章を、誰もいない文化棟の音楽室で。私はその演奏を目の前で聞いていた」
夜ノ森冬花の『月光』。何回聞いたかすら覚えていない。あの演奏は僕の心を幾度となく震えさせた。
「でも、彼女はピアノを辞めたんじゃ…」
「公に活動休止を発表しただけだろう、個人的に弾いていてもおかしくはないよ。あれは夜ノ森冬花の音色そのものだ、嘘偽り無く…ね…っ」
秋本の肩が急に震え出した。彼女は右手でそれを押さえようとする。
「おい、どうしたんだ!?」
倒れそうになった彼女の肩を、僕はすぐに掴んだ。
「…たぶん、怖いんだよ」
「怖い?」
息を整えながら秋本は続ける。
「あの演奏、思い出すだけで身体の震えが止まらないんだ。恐怖に近いなにかに飲み込まれるような感じだ」
僕が小さい頃に味わった経験と似ている。あの秋本でさえ圧倒されるものなのか。彼女のピアノを聞いて音楽の道を諦めたという人間は大勢いるという話を聞く。
「…でも、私は君みたいにはならないよ、朝野春人」
姿勢を戻しながら秋本は俺の目をまっすぐに見て言う。少し瞳は潤んでいた。
「僕、みたいに?」
「もちろん、私も夜ノ森冬花に憧れている。あんな音楽を奏でたいと何度思ったか分からない。でも…、それでも、私はどんな演奏を聞かされようと、自分のヴァイオリンの音色を信じているよ。決して、折れない。負けたくない」
「………」
僕は、僕は本当に弱い。圧倒的なピアノを聞かされようと秋本は音楽を諦めていない。僕は、音楽だけでなく何もかも諦めてしまった。人との関わり。小さい頃に思い描いていたであろう将来の夢。全てを。
「まぁ、まず打楽器と弦楽器の時点で比較にならないさ」
皮肉たっぷりに秋本は言い放った。
「強いな、秋本は」
「君が弱すぎるんだよ。君がヴァイオリンを辞めるって言ったとき、私がどんな思いしたか…っ」
秋本からそんな言葉を聞くとは思わなかった。確かに練習を共にしていたが、技術も才能も秋本の方が格段に上だったはずだ。僕のこと、興味ないと思ってたけど…。
「…ごめんな」
「今更、謝るなよ」
「…秋本。僕、夜ノ森さんと、夜ノ森さんの音楽と向き合うよ。そして伝える。この気持ちを。誰とも知らない僕の思いを受け取ってくれるかは分からないけどね」
「…そ、まあ、頑張ってくれ」
秋本はポンと僕の背中を叩いてくれた。
今まで全てを諦めてきたけど。取り返しもつかないかもしれないけど。一応当分の目標は定まった。
「全部、やり直しだ」
今はただ、これしかない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます