第40話 僕はハンカチをもらったから

『ハンカチをひろってもらったから』



 乃木外虎太郎のぎそとこたろうは最後にそう言った。


 どうして六条飾りくじょうかざりのストーカーなんてやったんだと尋ねたのだ。別に聞く必要などなかったのだけれども、興味がまさった。調べても、乃木外と六条飾の接点だけがわからなかったから。


 詳しくは聞けなかった。だけど、その言葉からは不思議と情景が浮かんで見えた。



「ハンカチなんて持ち歩くキャラかよ」



 僕はつぶやいて、思わず笑う。


 人を好きになるきっかけなんてものは些細ささいなもので、ハンカチを拾ってもらっただけでも、声をかけられただけでも、笑いかけてもらっただけでも、すれ違っただけでも、恋に落ちるときは落ちるものだ。


 だからって、ストーカーしていいわけじゃないけれど。


 僕は、電柱に肩をあずけて、ずるずると道路にへたり込んだ。みなが寝静まった夜深く、頭の上で明かりがチカチカと点滅てんめつする。


 乃木外の拘束こうそくを解いてから、僕はその場を去った。カバンの中にある着替えを出して女装をといて、駅まで走っていく。なんとか終電には間に合った。


 帰り道、周囲の人の視線を受けて、僕は自分の惨状さんじょうに気づく。電車の窓に反射する僕の顔はひどいものだった。そういえば、乃木外にぼこぼこに殴られた。今までアドレナリンか何かでごまかされていたが、気づくと急に痛みが襲ってくる。


 同時に疲労で体がずっしりと重くなった。運動量としてはそれほどでもなかったはずなのだけれど、緊張度が桁違けたちがいだったからだろう。駅を降りてから潜伏先に向かうまでに、僕は力尽きてしまった。



「もっと、楽な方法もあったかもね」



 薄れる意識の中で反省会が始まる。そもそも乃木外にあそこまで詳しく指示を与える必要はなかったかもしれない。ただ脅すだけでも効果はあった。


 けれども、再犯率を下げたかった。ただ脅すだけだったならば、乃木外が次にやることを考えなくてはならない。彼が考えたらろくなことにならないだろう。すると、また六条飾のストーカーを始めるかもしれない。


 それならば、彼に考える余地を与えない。次に彼のやることをすべて指定してやるのがベストだと考えた。


 それにしても大仰おおげさな嘘をついたものだ。闇金お抱えの弁護士が捕まったなど。そんな裏の社会の住人に、僕ごときただの高校生がかなうはずがない。警察にも役所にもコネクションがあるだろうし、僕がリークしたところで簡単にもみ消されただろう。


 あの一瞬、乃木外が信じる理屈りくつがほしかった。そうして僕に恐怖を覚えてほしかった。そうすれば、彼の思考を誘導できる。県外に追いやれる。もしかすると、その後に嘘がバレるかもしれないが、僕への恐怖は消えやしない。



「それでも戻ってきたら、



 僕はひとちる。視界には地面。くらくらして立ち上がれない。もう目の前なのだけれども、きっかり電池切れ。人間というのはここまで体力を使いきれるのだと逆に驚く。今日は、ここで夜を明かそうか。死にはしないだろう。



きみ、大丈夫?」



 もう眠ってしまおうかと思った、そのとき、声がかかった。さすがに目立ったか。こんな時間に散歩する人などいないだろうから、警察だろうか。補導されると面倒だな。


 だけど、その声には聞き覚えがあった。というより、毎日聞いている。けれども、自分に向けて発せられたことがなかったのでにわかには信じられなかったのだ。


 顔をあげる。すると、そこには女神、いや、六条飾がいた。



「ひどいケガだけど、救急車呼ぶ?」


「い、いえ、大丈夫です」



 焦って、どもりつつも僕は返答する。そうだ、一人いた。こんな深夜に徘徊はいかいしている女子高生。祐太郎のストーカー帰りの彼女が、ここを通るのは自然なことだった。



「そう。なら、いいけど。こんなところで寝ていてはだめよ」


「あ、はい。ちょっと、休んでいただけ、なんで。もう、帰ります」



 僕は残りの力を振り絞って立ち上がった。六条飾に僕なんかの心配をさせるわけにはいかない。


 僕ができるかぎり虚勢を張った笑みを浮かべると、六条飾は首をかくんと傾げてから、すっと手を僕の顔に寄せた。


 

「せめて血くらいはいた方がいいよ」



 手元にはハンカチ。六条飾は、僕の頬の血を乱暴にぬぐってから、はい、とそのハンカチを僕に渡した。



「おさえておいた方がいいわよ」


「あの、でも、これ」


「血がついちゃったからもういらない。あげるね」



 そう言って、六条飾はきびすを返した。おそらくもう僕のことは忘れてしまっている。振り返ることはない。そういう女だ。


 祐太郎への愛にすべてをそそぐ女。けれど、その一方で六条飾はとてもやさしい。まるで、ただの少女のように痛みに共感する心も持ち合わせている。一見、矛盾する狂気きょうき常気じょうき。その矛盾を、六条飾りは平然と共存させる。


 そこが、途方もなく素敵なのだ。


 だから、この疲労感も、苦労も、痛みも、罪悪感も、彼女のためなのだと思えば、すべてがむくわれる。


 僕はもらったハンカチを鼻に押し当てて、思いっきり匂いをいだ。六条家で使っている柔軟剤の匂い。それに混ざって香る甘い匂いは、六条飾のもの。


 乃木外、おまえはハンカチを拾ってもらったかもしれないが、


 六条飾の香りを嗅ぎながら、僕は心の中で、僕たちの世界から退場したストーカー変態くそ野郎に対して、そんなしょうもないマウントをとった。

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