おいしいパスタ屋さんのある街

RAN

おいしいパスタ屋さんのある街

 私がこのお店を訪れたのは、学校内でおいしいパスタを出しているお店があると噂になっていたからでした。

 あの時の緊張感は、今でも覚えています。

 店構えはとても趣きのある、年季を感じるものでしたから。

 高校生の私は、そういうお店には入ったことがなかったのです。

 取手を押して扉を開けたら、カランカランとベルが軽やかに鳴りました。

 それだけでも、すでに私の知っているお店とは違いました。

「いらっしゃいませ」

 中に足を踏み入れた途端、穏やかな男性の声が私へかけられました。

 それが、店主であるあなたでした。

 声をかけられて、そのままふらふらとあなたの目の前のカウンターの椅子に私は座りました。

 私が座ると、近くに立てかけてあったメニューを素早く手に取って、私の前に置いてくれました。

 きっと私が、こういうお店に初めて来たことをすぐに察して、作法も何も知らないだろうと気遣ってくれたのでしょう。

 しかし、渡されたメニューを開いてみると、私はそこでもどうしたら良いのか途方に暮れてしまいました。

 メニューにある料理のどれも魅力的すぎて、どれを頼んだら良いのかわからなくなってしまったのです。

 とにかくパスタを食べようと思っていたのですが、パスタがこのように奥深い世界だとは知りませんでした。

 パスタの種類はわかりませんでしたが、私のようにわからない人も多いのか、きちんとパスタの形状や味付け、具材などの説明がメニューの周りにされていたので、どういうものかは知ることができました。

 トマトソース、クリームソース、バジルソース……味付けだけでもたくさんありました。

 私はメニュー表を見ながら固まってしまっていましたが、あまり悩んでもいられません。

 いつまでもいたら、お店にも迷惑だし、何より自分が恥ずかしすぎます。

 その思いが私をさらに焦らせて、何も考えられなくなりそうになっていたところでした。

「今日のおすすめは、ナポリタンですよ」

 また優しい声が聞こえてきました。

 私が驚いて声のした方を見ると、カウンターの奥にいたあなたが笑いかけてくれていました。

「あ、あの、じゃあ……ナポリタン……お願いします……」

 私は、すすめられたものをそのまま頼むことしかできません。

 でも、あの時はあなたの勧めに従って良かったと思いました。

 おかげで、一生忘れられない味に出会えました。

 他にお客さんもいなかったので、あなたはすぐに料理に取り掛かりました。

 あの料理を待つ間の時間も、とてもわくわくしていました。

 野菜を手際よく切る音、パスタを鍋でゆでる音、ソースと具材をフライパンで炒める音。

 静かな空間だったので、それら全てが私の耳に届いて、料理への期待がどんどん膨らんでいきました。

 お腹も減っていたので、それもさらに気分を高揚させていました。

「お待たせしました」

 期待値が最高に高まったところで、目の前に白い湯気をたてた皿が置かれました。

 こういう表現が適切なのか私にはわかりませんが、目の前に出てきたナポリタンは、光り輝いているように見えました。

 パスタの隅々にまでケチャップの赤い色が行き渡り、具もひとつひとつが生き生きとして踊りだしそうに感じました。

 私は、恐る恐る用意されたフォークを手に取り、パスタの中に差し込みました。

 くるりとフォークにパスタを巻き付け、口元へ運びます。

 口に近づくと、その熱気が肌に触れて一瞬怯みましたが、覚悟を決めて口を開けて中に入れました。

 熱い。

 口の中で空気を転がし、熱を何とか逃がしながらパスタを噛みしめます。

 小麦粉からくるパスタの甘味と、ケチャップの酸味、食材の触感、全てが合わさっていきました。

 何とか口にあるものを飲み込んで、口はまだ熱を持った状態だが、あの味を私の舌が求めていました。

 先ほどと変わらぬ量の多量の湯気がのぼっていくナポリタンは、まだ熱を持っていることを見せていました。

 きっと口に入れたら、また空気を送りながら口の中を転がすことになる。それがわかりました。

 しかしそれでもナポリタンを食したいと思うほどの、強烈な味の記憶が私の手を動かしていました。

 そして気づいたら、目の前のお皿の上は何もない状態になっていました。

 コップにある水を飲み干し、ごちそうさまでした、と流れるように手を合わせていました。

「ありがとうございます」

 あなたは、笑顔でそう声をかけてくれました。

 途端に私は恥ずかしくなって、目をそらしてしまってしまいました。

 申し訳なかったと思います。

 食べ終わったので、私はそのまま立ち上がって会計に向かいました。

 あなたはそのままレジの所へ来て、私が食べたものの値段を告げてくれました。

 その声も、とても穏やかだったのを覚えています。

 そのおかげで、何とか落ち着いてお財布からお金を出せました。

 支払いを終えて、店から出る時も扉を開けてお見送りまでしてくださいました。

 「ありがとうございます」と言うあなたの声が、店を出た後の私の耳にいつまでも残っていました。

 その日帰った後、家族に店の話をしました。

 学校に行った次の日には友達にもしました。

 皆あなたのお店のことを知っていましたので、良かったねと笑顔で聞いてくれてました。

 そうして話していたら、いつまでもお店のことが頭から離れなくて、また食べたくなりました。

 そうして、私は何回もお店に通っていました。

 あなたはいつも声をかけてくれたので、きっといつも来ていることも知っていたでしょう。

 私はそれが嬉しくて、行く理由の一つになっていました。

 ですが、結局それを直接言うことはできませんでした。

 若い私は、お店の人と直接お話するのをなぜか気恥ずかしく感じてしまっていたんです。

 そして、ただ「ごちそうさま」だけを言う日々だけが過ぎていきました。

 私は、あなたのお店に行かなくなりました。

 大学の進学のために、引っ越さなければならなくなったからです。

 引っ越しの日まで、名残惜しくてあなたの店に行っていました。

 最後こそ、あなたに何か言えれば良かったのですが、結局私は何も言えませんでした。

 突然来なくなった私を、あなたはどう思ったでしょう。

 何も言えなかった私ですから、どう思われていようと何も言えないのですが、とても気がかりでした。

 おいしくなかったから、何か気に入らなかったから行かなくなった、と思われるのだけがどうしても嫌でした。

 それから数年、学生生活を過ごしながら、様々な出来事を乗り越えながらも、たまにこのお店のことを思い出します。

 ナポリタンを食べると、初めて食べたナポリタンの味を思い出しました。

 今でも、あの時食べたナポリタンが、私の人生の中で一番だったと言えます。

 思い出しながら、時間が経っていけば、忘れていくことも増えていきます。

 しかし、この思いは決して忘れることができず、そのまま私の心にわだかまりとして残り続けました。

 そうして今、私はやっと筆を取ることにしました。

 今まで重かった腰をなぜ今更上げることになったかと言いますと、私があなたのいる街へまた戻ることになったからです。

 いきなり行って私の思いを語るには、あまりにも長すぎると思いましたし、やっぱり直接あなたに会ったら、恥ずかしくなって言えなくなる気もしました。

 まずは手紙を書いて、自分の勇気を奮い起こそうと思います。

 そして、どうか変わらずお店があることも願って、その確認のためにも手紙を送らせていただきました。

 もうあなたは私のことなど忘れているかもしれませんが、こういう思いを持った者がいることを知っていただけたら嬉しいです。

 近々、喫茶店の近くにあるマンションに引っ越す予定です。

 また、通いたいと思います。

 あなたに、会いに行けるのがとても楽しみです。

 ナポリタンが、まだあるといいのですが。

 それでは、マスターもどうかお元気で。


 ある昼下がりのこと。

 店内にいるお客さんも少なく静かな中、喫茶店の初老のマスターは、手紙を読んでいた。

 こんな手紙をもらうのは、初めてだった。

 いつも通ってくれる常連のお客さん、おいしいと言ってくれるお客さんはありがたいことにたくさんいて、そのおかげで楽しく店を続けてられていると思っていた。

 言葉がなくとも、きれいに料理を食べ切ってくれることで、満足してくれたのだなとも思っていた。

 言葉があるなしは、関係がなかった。

 人がこの空間にいてくれることが、マスターは嬉しくもあり、やりがいとなっていたのだ。

 だが、言葉少ないお客さんが、このように思っているなどということは全く考えていなかった。

 ここまで書いてくれるほどのものを自分が与えられていたかと思うと、気恥ずかしく感じるところもあったが、嬉しかった。

 この手紙の主のことはよく覚えている。

 本当に、毎日通ってくれていたから。

 若い、しかも学生の女性が一人で来ることは珍しかったのもある。

 来なくなったのも、若い人は色々な選択肢があるし、環境の変化も受けやすい。

 そういうものだと思って、特に気にしていなかった。

 あれから、新しいお客さんもまた来てくれていたから、それに流されていた。

 しかし、この手紙をもらって、記憶が鮮明によみがえってきた。

 顔も思い出せた。

 数年たって、彼女は変わっているだろうか。

 来た時にわかるだろうか。

 このような手紙をもらったのだから、きちんと彼女と話したい。

 マスターはそう思っていた。

 その時。

 扉のベルが、カランコロンと音を立てた。

 マスターは、扉へ目線を向ける。

「いらっしゃいませ」

 人の姿を見つけて、笑顔で声をかけた。

「お久しぶりですね」

 そう声をかけられた女性の表情は、緊張からみるみる笑顔に変わっていった。

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