一人百物語

うみのまぐろ

第一夜 白い手

これは、私が幼いころ、実際に体験した話だ。


私は、母の実家である、祖母の家によく預けられていた。その家は平屋で、大きな庭があり、通りに面している間口以外の土地を石垣に囲まれた、わりと広く、そして古い家であった。その石垣は、窓よりも高い位置にあり、床に寝転がっていても、その石の部分を見ることができるものであった。


私がその恐怖体験をしたのは、いつもと変わらない、暑い夏の日のことであった。私はその日も祖母の家に預けられ、その近辺でできた友達と遊んで祖母の家に帰ると、珍しく祖母が外出していて不在だった。手持ち無沙汰で麦茶を飲んだりお菓子を食べたりしていた私は、そのうちにうとうとと、窓の近くの畳で眠り始めてしまった。ミーン、ミーン、とセミが鳴き、真夏の光が表を照らす、薄暗い家の中である。


どれくらい時間が経っただろう。ひどい寝苦しさを感じで、私はぼんやりと目を覚ました。寝苦しさで目を覚ましたわりには、夏の暑い日であったはずなのに、なんだか部屋の温度はひどく肌寒く感じられ、外で鳴いていたセミの声も、しんと静まり返って何の音も聞こえなかった。私はあまりの寒さにタオルケットでも探そうと身を起そうとした。けれども私の体はまるで私のものではないかのように指一つ動かず、すぐさま私は、ああ、これは金縛りにあっているのだ。と理解した。ただ眼球だけは動いたので、私はなんとか体を動かそうともがきながら、なんとか打開策はないものかと、部屋の中を見回してみた。


すると、ふと。窓の外の石垣で、ゆらゆらと何かが揺れたのだ。薄暗い家の中と、眩しいくらいに日の当たった隣家の中間を隔てる石垣のあたりでゆらゆらと揺れるそれが気になって目を凝らした次の瞬間、私ははっと息を飲んだ。


そこに揺れているのは、二本の白い手であった。白い手は、手首から上の部分こそ人間の手の形状をしていたが、腕の部分はくにゃくにゃとまるで海の中の海藻のように曲がって揺れており、おおよそ生きている人のものではないことを悟った。


すると、その手はまるで私が見ているのを認識したかのように、するすると私の方へ伸びてきて、開け放たれた窓から家の中に入ってくると、にゅう、と私の首元へ伸び、ひんやりとした指先が触れた。次の瞬間、私はものすごい力で首を絞められ、叫び声にならない叫びをあげた。必死にもがこうとする体は、金縛りで指一つ動かない。声は出せず、物音一つしない。家の中には誰もいない。恐怖と苦しさからパニックになろうとしていたけれど、首の圧迫感からだんだんと私の意識は遠のいていって、そうしてついに気を失った。


**********


どれくらい時がたっただろう。突然私の意識は覚醒して、はっとして飛び起きると、やはり薄暗い部屋の中に、ぽつねんと私は一人座っていた。だだ、部屋の中はうだるように暑く、ひどい脂汗をかいていた。はっとしてあの手の伸びてきた石垣の方を見ると、まるであの体験が夢であったかのように、もうそこには白い手はなく、ただ、ミーン、ミーン、と遠くの方で、セミの鳴き声が響いていた。



**********


それから私は、後でやってきた母に、あの石垣には何かあるのか、と恐る恐る尋ねてみた。母は怪訝な顔をして、『あそこには何もない』と言った。しかし、しばらくの間うーんと考え込んで、首をかしげながらこう答えた。


『小さいころ、昼寝をしていたらあの石垣から白い手がにゅう、と伸びてきて、首を絞められたことがある。あそこには幽霊が出るかもしれない』と。

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