異常

――手のひらサイズの石だった。


振りかぶって猿のコメカミに石を叩きつける。猿は「ギャッ!?」と叫んで桃也から離れていった。



すぐさま銃を手に取り、猿に構える。氷華と同じ構え方。躊躇することなく桃也は引き金を引いた――。


「馬鹿――!!」


――が、外れた。見様見真似の付焼刃つけやきばの撃ち方じゃあ当たらない。爆音を鳴らして銃弾は猿の横を飛んでいった。


「っっ……!!??」


自分で撃った。初めて撃った。なのに桃也は怯んだ。思っていたよりも大きな音。脳がシェイクされたかのようだ。


猿は怯むことがない。当たらないと分かっていたかのように。すぐさま桃也に襲いかかってきた。


動きは止まる。次はない。今度は逃げられない。鋼のような鉤爪が桃也を捉える。向かってくる爪に思わず目を瞑ってしまった――。






「――しゃがんで!!」


大きな声。反射的に体を縮める。



すぐ後に聞こえてきたのは――銃声だった。桃也と違って外すことは無い。猿の脚に命中している。


地面に崩れ落ちた。脚に空いた穴から血がドロドロと流れる。


「――ふぅ」


氷華が桃也の元に歩み寄る。どうやらしゃがんだ時に腰が抜けてしまったようだ。立ち上がることができていない。


「あなた……思ったよりもすごいね」

「褒めるよりも……先に手を貸してくれない?」

「……締まらない人だね」



手を貸してもらい、立ち上がる。なんか産まれたての小鹿のように足腰が震えている。


「よく反撃したね。普通なら動けないよ」

「たまたまだよ」

「そのたまたまを命の危機がある場面で拾えたのがすごいんだよ」

「ふぅん……女の子がタマタマとか言っちゃダメだよ」

「……うるさい」


銃身で桃也の頭を小突いた。震える足腰では、その程度の衝撃も支えられない。また地面に腰から落ちてしまった。


「なにすんだよ」

「なんて言うんだっけ……セクハラ?だっけ」

「言ったのはそっちだろ」

「言ってない。同音異義語ってやつだから」

「じゃあ言ってるじゃん」



……。2人は同時に吹き出した。ずっと無愛想な顔をしていた氷華だったが、初めて笑顔になる。


「ははは……あなた面白いね」

「そうか?」

じゃない」

「それ言われて喜ぶのは中学生だけだぞ」

「じゃあ普通だね」

「俺の心は中学生だ」


吹き出しそうなのを我慢しながら、氷華は桃也に手を貸した。



立ち上がる時、桃也は木に隠れている小猿の姿を見た。体毛は綺麗な白色。山駆けと同じ色をしている。


「あれ子供か?」

「ん……そうだね」


山駆けは小猿に語りかけるように「キィキィ」と消えるような鳴き声で何かを伝えていた。親の言葉を小猿は寂しそうな顔で聞く。


猿にも感情はある。小猿は父親である山駆けを悲しそうな目で見つめながら、山の中へと消えていった。


「殺さなくてもいいのか?」

「子に罪はない。わざわざ死ぬ必要もないよ」

「そうか」




人が走ってくる音がする。銃声を聞きつけた村人が来ているのだろう。


「――あ、ヤバい」

「ん?あぁ、猿がまだ生きてたか」

「そう……だけど。はやく殺してあげないと」


氷華が銃口を猿に向ける。トドメをさすつもりだ。別に止めるつもりはない。自分も猿に殺されかかっていた。止める理由がない。


だがひとつの言葉が気になった。「はやく殺してあげないと」という言葉。なぜ早く殺さないといけないのか。苦しませないためか。それともまだ危ないのか。だが氷華は焦っているようにも見えた――。




「――氷華!猿を見つけたのか!」


銃声に駆けつけた村の猟師たちだ。手を振って走ってくる。氷華は残念そうな、青ざめたような顔でゆっくりと銃を下ろした。


に生かした状態じゃないか!よくやった!!」


猟師は氷華の頭をワシャワシャと撫でた。嬉しそう――じゃない。怯えたような、どこか悲しんでいるような表情だ。



「桃也くんも初めてなのに頑張ったな!」

「頑張ったって……俺は何もしてませんよ」

「謙遜するな。よくやったよ」

「……ありがとうございます」


肩をポンと叩かれた。猟師はまるで父親のような優しさを感じる。思わず安心感が生まれてしまった。



「――さて。じゃあを始めようか」


儀式。単語くらいは聞いたことがある。テレビの番組でもそういうのは見た。しかしなんだ。儀式をするなんて初めて聞いた。


不思議だった。これから何が始まるのか分からない。なぜか氷華は耳を押えて目を瞑っている。なにかを見ないようにするために。かのように。






――猟師が猿の腕を撃った。


痛みにもがく音。爪を地面に食い込ませ、聞いてて気分の悪くなるような、金切り声が山中に反響した。


「――!?」


猿は痛みで暴れている。木の葉を舞い散らせ、土をかきあげて。



猟師は猿の――腹部を撃った。


致命傷にはならなかったようだ。血は出ているようだが、息は全然ある。


痛みだ。猿の脳内を支配しているのは痛みである。痛みに慣れていない野生の猿は、泣きながら痛みに悶えていた。



猟師は猿の――片腕を切り落とした。


生きたままだ。背中から取り出したマチェットで片腕をストンと切り落とす。


もちろん血は出た。毛皮で見えなかった直の皮膚。奥にあるピンク色の筋肉が露出している。紐のような神経も見えた。


もちろん痛みに悶えている。喉が潰れたような声わ出していた。猿はまな板の上の鯉のように跳ね回っている。そんな猿を無慈悲に踏みつけて固定した。



当たり前かのように。猟師は淡々と猿を痛めつける。そこからは単純作業だった。


両足を切り落とす。

体の皮を剥がす。

歯を折る。

腕を折る。

舌を切り落とす。

目を抉り出す。


段々と猿の声は小さくなっていく。小さくなっても不快感は変わらない。むしろ小さくなる度に強くなっていく。


氷華はフルフルと辛そうな顔で震えている。耳を塞いでいても猿の声が聞こえてくるのだ。脳裏に焼き付いて反復し続ける。水色の目から涙がポロリと流れた。



そんな姿を。そんな声を。桃也は静かに見つめていた。







声は止んだ。猿の姿は――もはや原型がない。単なる肉塊だ。


猟師はやりきったような、爽やかな表情で額の汗を拭った。自分の手で猿を痛めつけた。それなのに一切の後悔を見せない。



変わらず氷華は震えて泣いている。声が止んだ今でも音が耳の中で流れていた。


「――氷華はまだ慣れないか。情けない……猟虎の妹だろ?もっとしゃんとしろ」


呆れたように氷華に言い放つ。耳を塞いでいるので聞こえてはいない。



「それに比べて……アンタは珍しいな。普通最初は戸惑うはずなのに」

「……戸惑ってはいる。なんのためにこんなことを?こんな……可哀想なこと」


猟師は少し黙ったあと、背筋が凍るようなおぞましい笑みを浮かべた。







『――神への供物は激しい感情である』







――桃也の耳は確かに聞いた。何度も脳内で反復する。何度も心の中で響き渡る。なんの意味だ。どういう意味だ。考えても桃也には分からない。


その言葉の意味。それが分かるのは、もう少し後になってからだった。

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