ただ無意識の制裁

きっかけの日

思い返せば、物心ついた頃から母は父にいじめられていた。


夕飯の味が気に入らないからと目の前で捨てられ、殴られた。

風呂に10分も入っていたからと、髪の毛を掴んで引きずられた。

浮気に勘付いた母が、きゅっと口を結んだだけで平手打ちをされた。


父の目的は自分の気に入った正しい生活を送ることではない。

とにかく因縁をつけて、母を痛めつけることだった。


母はとにかく私を守ろうと必死だったのだろう。

殴られ眠れずボロボロになりながら、か細い声でも私の前では気丈であろうとしていた。


父は母にだけ目を向けていて、娘である私には無関心だった。

私は父のことを憎み軽蔑していたものの、やはり力で叶わない相手に向かっていく気などは起きなかった。



その日は突然やってきた。


前日は夜中、トイレに起きて部屋に戻ろうとしたとき。

母がキッチンで声を殺して泣いていた。

泣きながら皿を洗っていた。


母は毎日父に罵倒され、殴られ、そのために時間を取られていた。

父が寝た後も終わらなかった家事を済ませるため、1人起きていたのだ。


そうだったんだ、初めて知った。


部屋に戻ってベッドに入ると、頭は冴えてしまったが目をつむった。

目を閉じていても天井が見えるほど、眠気はなくなっていた。


そのまま、寝たのか寝ていないのかわからないまま朝を迎えた。



リビングに向かうと、父は1人で朝食をとっていた。

母の姿が見えないということは、トイレ掃除でもしているのだろう。


母はいつも私の朝食を用意して、キッチンに置いている。

いつものようにキッチンへ向かうと、シンクの横にはフレンチトーストがあった。


ふと、今ならできるかもしれないと思った。


平和ボケした朝だった。

まるで普通の家庭のように、窓から太陽の光が差し込んでいる。

父は食パンをかじりながら、スマホに夢中だ。


母にとっては地獄なのに、そんなのだめだろう。


私は他より細くて小さい包丁を手に取ると、背中側に隠すようにした。

じっと父の姿を見つめる。


今だ。

今なら。


この瞬間、父のことが特別憎かったわけではない。

気持ちとしてはいつも通りだった。


私はただ横を通るだけかのように、父に近づくと包丁を差し出した。

父は視線だけ動かして私を見たが、きっと何が何やらわかっていないだろう。


父の視界の外を、私の手の包丁は軌道に乗って向かっていく。


包丁を握った瞬間、何度も頭を駆け巡ったシミュレーション。

父の首にきれいに浮いた筋、そこに包丁は呆気なく刺さった。


「あ、ごめ…」


ほとんど無意識に私はそう言った。


父は口を開けてこちらを見ていたが、息を漏らしながら椅子から滑り落ちていった。


スマホが落ちた。ただそれだけ。

父の首から噴き出した血が、私の履いたばかりの靴下を汚した。


足の指にまとわりつく熱で、真っ白だった頭は現実に引き戻された。

顔を上げると、そこには母が立っていた。


「あ…」


適当に束ねられた髪、外して握られているゴム手袋。

やっぱり掃除してくれていたんだ。


「ごめんなさい…」

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